こうして彼女は奪われた。
彼女は何度も目の前のストローに吸い付き、カップの中身がなくなるまでじっと黙り込んでいた。
やがて、ずずっとカップの中身が無くなった音がした。中身が氷だけになったカップを恨みがましく睨みつけていた彼女はしかし、覚悟を決めると、ゆっくりと口を開いた。
「今日は寒いね」
「ああ。うん」
彼は彼女に頷いた。駅で会った時から、普段とは異なる緊張感を漂わせていた彼女は、今日は一度も彼の目を見てくれない。二人で向き合って座る距離も、普段よりも遠い位置をとっているように見える。
暦の上では冬が通り過ぎたとはいえ、街中に吹く風は日陰に入れば冷えたものになる。駅ビルの中の喫茶店は空調が効いているとはいえ、外を歩くならば上着が必要だろう。
「今日はね、話があるの」
彼女は彼を見ないまま、ゆっくりと言葉を選びながら、口を開く。
「なんだい?」
「私たちさ、付き合って、何カ月になるっけ?」
彼は首をひねって、逡巡する。
「ええと、半年くらいかな」
「八カ月だよ」
唇をなめて、彼女が訂正する。クリスマスの前に彼女から提案されて、二人は付き合い始めた。初めてのデートはクリスマスのイベントで華やかな街中だった。今年は雪が降らなかったが、夕方からのイルミネーションを二人で見て回り、プレゼントを渡し合う、という、高校生らしい付き合いだった。
「あのね」
彼女は空になったカップを弄りながら、ちらりと彼を見た。
今日初めて、僕の顔を見たな。そんなことを彼は思った。
「別れてほしいんだ」
ああ。彼は嘆息しつつ、やっぱりな、と思った。自分のことはよくわかっている。顔はよくて三枚目。運動神経も悪い。頭だって人並み、以下だろう。そんな自分に恋人ができた。そんな日からいつか、こんな日が来ると思っていた。
自分のことをちらちら見てくる彼女から目をそらす。泣きそうだったからだ。
「嫌いになったってわけじゃないんだけど」
早口に言ってくる彼女が慌てたように手を振っている。
「うん。…わかった」
唾を飲み込みながら、彼は絞り出すように答えた。みっともない、そう思う。だけど、ここでさらにみっともない姿を見せることは、なけなしの彼のプライドが許さなかったのだ。
「あ」
彼女は顔をしかめて答える彼を見て、何か言いかけていた言葉を飲み込んだ。
「そ、そう。うん」
二人はその後、しばらく黙って見つめあった。
どちらからともなく立ち上がると、駅の構内へ二人で並んで歩く。
高校生のカップルが、付き合って別れる。世間にはありきたりな風景だろう。彼女が改札前で立ち止まる。
その時までは。
「嫌いになったわけじゃないって」
黙っていた彼が、絞り出すように彼女に尋ねた。
「え、ああ、うん」
「他に好きな人ができたの?」
「うん、ううん。そんなんじゃないよ」
彼女は躊躇ったように答える。彼と別れることに、理由なんかない。実は付き合ったことにも意味がないように。彼女はただ、クリスマスシーズンに恋人がいてほしかっただけなのだ。勿論そんなことは、彼も気が付いていたのかもしれないが。
「僕のことは、好きでしたか?」
「え、ああ、うん」
彼女は頷くことにも躊躇った。彼はそんな彼女を見て、悲しげに笑顔を浮かべた。
「それじゃあ」
彼が、す、と彼女に手伸ばした。最後に握手をしたいのかな?彼女はそんなことを思ったという。
「僕のことを好きになってくれた貴女だけは、貰っていくね?」
言葉の意味が分からずに動きを止めた彼女の胸の前で、彼は掌を開き、何かを摑むかのように空を握りしめ、手を引いた。
その瞬間、彼女は自身の胸の真ん中から、何かが抜き取られた感覚を覚えた。彼が彼女の中から何かを摑み引きずり出し、握りしめたその掌の中に奪っていったのだ。そう感じたその時には、彼は彼女に背を向けて、歩き出していた。
握りしめたその手を自身の胸に当て、足早に歩いて去る彼を数瞬見ていた彼女は、唐突に強い疲労感に襲われた。立っていられない程の脱力感から、その場に膝から崩れ落ちた。
改札を通り過ぎる人々が、そんな彼女を見て、迷惑そうに大げさに避けていく。
彼女は駅員が近づいてきてくれるまで、そのままの姿勢で動くことができなかったという。