6・王女と魔王
エアリアクスは、国の第三王女だった。
王家における重要度はそれほど高くない。けれど両親は皆平等に子どもらを愛しており、きょうだい仲も、いいとは言い難いけれど悪くもないものだった。
王女という立場を持つエアリは、立場にあった行動を取り、立場を考えた立ち居振る舞いをし、立場を基準に言葉を発して十数年を生きてきた。この先も一生そうして生きるのだと思っていたし、結婚さえも立場を優先してするのだと思っていた。
そんな国に従順な少女の転機はとある昼下がりだった。いつものように王女としての教育を受けていた日。王宮からもいつも通り出ていなかったある日。
王女は魔王に攫われた。
ダンスレッスン室から図書室に移動する途中の裏庭に面した中庭で、あらもう花が咲いているわと身を半分屋根から外に出したところで、突然何者かに手を引かれたのだ。
それは闇から現れた。どこよりも警護の堅いはずの王宮の中庭に、何のモーションもなしに空間を跨ぐようにして現れ、エアリの手を掴んだのだ。
その手つきは乱暴なものではない。むしろエスコートするように軽く引かれたせいで、エアリは自ら歩を進めてしまったほどだ。手には手袋をはめており、何事かと見上げた先には年齢のわからない人間によく似た顔。はじめエアリはどこの紳士が現れたのかとさえ思ったほどだ。
ほどなくしてその第一印象が解かれたのは、自分と歩いていたメイドが悲鳴を上げたのが理由だ。きゃああと声をあげた彼女の視線を辿れば見るのは自らの足元。そして、紳士の足元だ。
ただ足元と言っても彼の足元にはなにもなかった。人間ならばあるはずの脚が、ひざ下あたりから消えていたのだ。
それに驚くよりも先に、そっと腰に手を回される。優しくエスコートする仕草は手慣れていて、またもエアリは自然に彼の誘導する方向へ歩いてしまった。
「さて。あまり久しくないようだが、人間。こちらの姫君は……この魔王が預かる。今回は各国の姫君をコレクションしようと思うので、せいぜい大きな声で他国に忠告してくれたまえ」
そうして一方的な宣言が頭上で為されるのを聞き終えたのち、そのまま手を引かれ――気付けば知らないところに居た。
ぽかんとしているうちに済まされてしまった犯行の手際はあまりにもスマート。攫われたというのに悲鳴一つ上げられなかった王女は連れて来られた部屋で、ぽつりとつぶやいた。
「ここは、どこ……?」
「おや。魔王に誘拐されたというのに、ずいぶんと冷静なお嬢さんだ。騒がしくされても困るので、助かることだが……まあ、そういう人選ということか」
あたりを見回せば、エアリ自身の部屋と同程度の広さの部屋の中にはしっかりとカーペットが敷かれ、天蓋までは付いていないもののベッドもある。ソファとローテーブルも設置してあって、シンプルではあるがとても攫ってきた者を置いておく場所には見えない。
「初めまして、オースグラットの姫君。私のことはご存知かね? 状況は、把握できているか?」
「……あなたは魔王、ですか。私は、魔王に囚われた?」
「なかなか肝が据わっている。それに聡明なようで。混乱はしているようだが、その通りだ。ここは貴女の牢になる」
しかし、魔王はそうは思っていないようで、この場所を牢屋だと説明した。
「出入口は御覧の通りないし、ここではきみたちは魔術を使えないので脱出は考えないことだ。食事は一日三度そのテーブルに転移する。風呂とトイレはこちらの部屋だ。少々手狭だが、我慢してくれたまえ」
更に先ほど現れた紳士のイメージそのままに、さくさくと部屋の説明をし始めた。食事と風呂などの案内をする様は、とても魔王とは思えない。普通の牢番だって、こんなに丁寧な説明などしないだろう。その奇妙さにエアリは混乱する。そして場違いに思った。城の牢だって、こんなに豪華ではないのですが。
出入り口がなく、窓が高い位置に出入りできないくらいの大きさで設置されているところくらいしか、この部屋に牢屋らしいところはない。その窓にしたって、日の光が入るように設置されていて部屋を明るく演出している。
そんなエアリの脳内で展開される無自覚のツッコミなど気にも留めないように、魔王は一通り部屋の説明をし終えると「何か質問は?」と更に不可解なことを言ってのけた。
どこの世界に、攫ってきた姫に部屋の使い方を説明し、最後に質問時間を設ける魔王が居よう。
エアリの知る魔王は、おとぎ話の中の悪者というにはもう少し近い昔の悪者だった。
なにせ以前現れたのが約二十年前。つまり、エアリの生まれる数年前に魔王は数度目の復活をしているのだ。
魔王の起こした悪事は概ね、勇者教育でされるのと同じようなものを聞いていた。人々の負の感情を集めるために人間を襲う魔物だと。ただ、これまで人攫いをし、牢を作り監禁したという例はなかったことを思いだし、エアリは少し緊張した。
これが、人間から恐れを集めるというのならば、自分はこれから何をされるのだろうかと。
毎日箱入りのお姫様では想像もできない恐ろしい経験をさせられるのかもしれない。たとえば、魔物をこの部屋に入れて死の恐怖を味わわせたり、もっとなれば、殺されたり。
魔王があまり人を直接殺さないという話は聞いていようとも、伝承は確実ではない。そしてたとえ事実でも例外はある。目の前の人間とは違う存在に、自分の想像で途端そら恐ろしくなって、小さく震える。
しかし魔王はエアリから返答がないことを、ただ質問がないということだと考えたようで「ならばよろしい」と言った。
何がよろしいのかという話だが、それを口に出すことは到底できず、エアリはただただ沈黙を貫いていた。生殺与奪権を目の前の魔物に握られている力ない人間の少女の行動としては概ね正しいであろう。
「何かあれば、壁にかかっている電話……通信用の魔術具を取って声をかけるといい。それでは」
言うなり魔王は王宮内に現れたときのようにその場から闇に溶けるように姿を消した。その場にはエアリが一人、取り残される。
何一つ危害を加えられなかった姫は、あたりをもう一度見回す。部屋だ。紛うことなく普通の部屋だ。簡易なゲストルームとして使用できそうなほどに。
状況が脳内でまとまらない中、ふわふわとした思考で立ち上がって部屋の中を歩き回る。
風呂とトイレだと言われた小部屋を覗き込むと、トイレと風呂場は別にあった。風呂にはバスタブがあり、洗い場には三種類の小瓶が置かれていた。メイドに全身の洗浄を任せていたので自身で使用したことはないが、城にあるのと同じようなシャンプーだのボディソープだのといったものだ。
更に頭上に疑問符が浮かぶ中部屋に戻りソファに座ると、非常に座り心地のいい椅子。理解できずに立ち上がってベッドに手を付けば、城の自室にあるよりも手触りがいいのではないかというようなシーツが敷かれていて、体をうずめればベッド自体もふかふかだった。
「な、なんなのよ……?」
理解できない状況。寝心地の良すぎるベッド。混乱に混乱を重ね思考することさえ放棄したくなったエアリはそのまま、意識さえ手放してしまったのだった。
そうして目が覚めるのはその夜で、暗くなってきた部屋で意識を覚醒する前に部屋の魔術具の明かりが光を灯して、この状況で眠ってしまった自分にエアリは顔を覆うことになる。
事態が変わったのは、その五日後。
我ながら図太い、とエアリが自身への評価に自重気味に笑って毎日転移魔法に依って用意される食事を食べつつ、寧ろ一周回って稽古と神経を使う社交に費やす毎日から離れられていることに感謝し始めた頃だった。
誘拐五日目のエアリは、初日よりは状況を把握できていた。把握も何も、今与えられている待遇がすべてだ。魔王は一国の王女を誘拐し、ゲストルームに丁重に幽閉している。これまで入浴や着替えなど生活のすべてにメイドがついていた王女からすると、完璧に不自由ない待遇とは言い難いが、城に居た時はその時で時間的暇などなかったため雑に総合してみれば不自由ない生活といえよう。
あれから魔王が来たのは一度だけ。二日目の朝、再度眠りから目が覚めたところに一度通信用の魔術具でアポを取ってから現れた。第一声は「体調はどうだね? 風邪などひいてはいないようだが」だった。
しかも、わざわざ来たのは具合を窺うためではなく、クローゼットを部屋に設置しに来たのだから更にわけがわからなかった。部屋の隅にちいさなクローゼットを置くと、中の洋服を好きに使えと言われた。現在エアリは室内を、パジャマと三種類の動きやすいワンピースを着まわして過ごしている。
そんなこともあっての五日後。もはや魔王にエアリ自身を害する気はないだろうと思い始めた頃。
部屋の外から聞こえた小さな話し声に、エアリは反応した。天井近くにある窓の外から、人の話し声が聞こえたのだ。それもふたつの。
一つの声は魔王のものだろう。ところどころしか聞こえず内容は聞き取れないが、男性の声と丁寧な話し口調。
そしてもう一つは、女性の声だった。鈴の鳴るような可愛らしい声だが、些か語調は荒い気がする。
魔王とその仲間だろうか。もしかすると、外のこと――自分の居なくなった後の国の話などをしているかもしれない。
そう思うと居てもたってもいられず、王宮に居た頃ならば間違ってもしなかっただろう、テーブルを窓辺に引き寄せ、その上に立って窓に近づき、耳を澄ませた。どうやら声は、下ではなく上から聞こえてきているようだ。
「誰がここまでやれって言った!? これだから多趣味凝り性は!」
「きみが心身を壊されないよう丁重にもてなせと言ったんじゃないかね!」
「手厚くもてなしすぎだわ! つか私が前帰ってきたの一週間前だぞ!? 一週間でホテルを作るな!」
「作れと言ったり作るなと言ったり、わがまま放題か小僧!」
相手の女性の声に釣られてか、魔王の声も徐々に大きくなり語調も荒くなる。その様子が、攫われ、ここで説明を受ける際に見た紳士的な魔王と結びつかなくてエアリは驚く。まるで言い争っている風だが、二つの声同士に敵意は見られない。寧ろ親しさが垣間見える会話だ。
内容自体は、理解できないがこの誘拐についての話をしているのだろう。しかも、誘拐は魔王ではなくもう一つの声の女性主体で行われているように聞こえた。
魔王と、それに指示をする女性? 魔王の話は多々聞けど、それに配下の魔物のことは伝われど、魔王と対等な女の魔物の話は聞いたことがない。新しくできた仲間だということか。魔王は今回、前の復活時とは違うことをしようとしている?
憶測が頭の中をめぐる中、先ほどまでの言い争いは既に止んで、声が微かにしか聞こえなくなった。通常の声量に戻れば会話の内容は聞き取れなくなる。
「……次の姫は……様子見を……に本命を……」
「きみが……続ける……わけには……」
途切れ途切れに声が聞こえるが、内容が気になって身を乗り出す。窓に手を掛けて体を寄せれば、ぎりぎり外が見えるようになった。
まさか、話を聞くために外を見ることになるとは思っていなかったエアリは目を瞬く。
そこは深い森の中だった。周りには鬱蒼と木々が生い茂っているが、自分の居る建物の周りは広く開けている。そして、視界に大きく映るのは、城とは違う建物だ。
城よりは大きくないけれど、木でできたような初めて目にするタイプの建物。あれが、魔王の城? 予想図さえない魔王城を初めて目にした王女エアリは目にその様子を焼き付ける。
そういえば、どの伝承にも勇者が魔王城まで行ったという話はなかった。魔王の城のある場所は、どの国の人間も知っている。エアリの過ごすオースグラットの国にも接している、魔の森。山ではなく切り立った崖の頂上にある広い森だ。そこは瘴気が充満していて、普通の人間では入ることすらできない。
人類の誰も目にしたことがない魔王城を見ていると、不意に視界の下の方に影が映った。それが魔王だとは、魔王が突然どこにでも現れることを知ったエアリにはすぐにわかった。これまで建物の上に居たのだろうことは声でわかっているので、下に降りたのだろうという理由も。
五日ぶりに見る魔王に視線を移したエアリだったが、その隣に魔王と同じように現れた姿に目を瞠った。
声から、女性が魔王と居るのはわかっていた。それが魔王の親しい相手だということも、話の様子から。
ただそれが、エアリも知った相手であるなんて、想像もしていなかった。
城の公式行事に招待したこともあるし、直接挨拶したこともある。声でわからなかったのは、普段の彼女からは想像もできない口調で、語調だったからだろう。
それでも見間違えるはずはなかった。その美しく妖しい姿を。
誰もが羨むような光に透けるはちみつ色の髪、白く細い手足。黒の服。
「砂丘の魔女様……!?」
思わず声が漏れ出ると同時、聞こえたのか――間違いなく聞こえたのだろう、はちみつ色の髪が靡いて振り返り、同じ色の目と目が合った。




