10
「名前か」
自宅ソファでない足を組んで座り顎に手を当てたオッサンは、その発想はなかったとばかりに、ふむと頷いた。
最初は人間が居るなどとは気づかなかったらしく、途中からしか盗み聞きをしていなかったというオッサンに、彼と話すことになった経緯を説明したのだ。
なんで気付かなかったのかといえば、魔力もほとんど持たないような人間の存在など、気にしてもいないのに察せるものかと言われた。「きみは羽虫が部屋に入った瞬間を知覚できるか?」とも。酷いたとえである。
しかして俺は彼との会話内容をおおまかにだがすべて伝えたわけだが、上がった問題はそれだった。一番最後に話したからかもしれない。
「魔物には名前はないんだよな?」
「いや? そんなことはないぞ。固有名詞を持つ者も少なくない」
「え、そうなの?」
魔女も人魚も影も種族名をそのまま呼んでいたから、名前なんてないのだと思っていた。
「固有名を持つ知恵のある種族が仲間同士で居る場合だな。必要だから作る。人間と同じだろう? あとは、人間と契約……如何に関わらず人と関わった者は名を持ちやすい。人が呼びやすい記号を付けるからだろうな」
「あんたは名前あんの?」
「ない」
言葉の端々に人と関わったことがあるかのような様子が見えるのだが、即答だった。嘘ではないだろう。動揺のかけらも見られないからというのもあるが、さすがに一年生活をともにすれば感覚でわかる。
「前の世界では人間と関わっていたこともあるが、相手が賢明な魔術師だったのだ。契約をしたことはないし、魔女と呼ばれていたよ」
「はあ」
ということは、俺がはじめての契約者なのか。それ以前に二重契約ができるのかとか、破棄はあるのかとか、言葉に付随する疑問はいくつかあるが、今となってはどうでもいいことか。俺は既に契約しているし、オッサンはこの俺以外話し相手もいない家に住んでいるのだから。
「兎も角も、きみの名だ。どうするのだね?」
「どうもこうも」
自分の名前を自分で決めるっていうのもなあ。
無駄にかっこいい名前を付けるのも恥ずかしいし、だからといって適当に決めることもできない。思い出があればとっかかりがあったかもしれないが、記憶だけでは難しい。
「オッサン、なんかいい名前ない?」
真剣に自分の名前を考えるというのも妙な気分でオッサンに振る。このオッサンならば無駄にしゃれた、ちゃんとした名前を付けてくれそうなので、半分投げる気で。
「私が決めていいのかね?」
案の定、案は出ているらしい。悩むそぶりをみせない魔女は一旦驚いたふりをしてから、ではと咳払いした。
「リリアレイン」
「……何か意味があんの?」
長い名前だが、どこかで切れるのだろうか。リリ・アレイン? リリア・レイン? 雨と訳されないことから、レインが英語と同じ意味を持たないことはわかる。ここの雨の発音はレインではないし。
しかし、女の子のような名前は遠慮したいところなんだが。いや、外国語の名前で女子っぽいも何もわからないけれど。
「リリアは、私の前に居た世界である時期に落ちた流星のことを言う。良くも悪くも世界をひっくり返した災厄にして恩恵。レインは幸と不幸とを運んでくるといわれる不定形の魔物の名だ。ただ、実在は確認できておらず居ないもののたとえともされるがな」
「私は居るんだけど」
「想像上の生物みたいなナリをして偉そうなことを言うな」
めちゃくちゃ言うなこいつ。
にしても、意味の籠りすぎたような名前だと思う。日本語に直すとどうなるんだ。
とはいえ真っ先に出てきた名前だ。俺の説明を聞いている間に考えていたのか、ぱっと思いついたのかはわからないが、この一年俺を弟子として過ごした魔女が俺に相応しい名だと思って付けたものなのだろう。
「じゃあそれでいいや」
変に渋っていくつも候補を挙げられても決められないので、第一候補で決定にする。リリアレイン。実在する不思議存在のような俺の名前だ。
「きみ、面倒くさくなってないか? 人間は名前にこだわるのだろう?」
「アンタが意味を込めて付けたものに決定したのに、なんの不満があんだよ」
「きみが素直なことに不満があるのだ」
「てめぇ」
もう一度水を掛けてやろうかと拳を握ったが、部屋の中なので思いとどまる。素直じゃなくても文句を言って、素直でも不満があるとはどういうことか。「きみは可愛くないところが可愛いのだ」と意味のわからないことをいうオッサンは、ない足のあたりを蹴っておいた。相変わらず魔力の砂の気配がサラサラ動く。
相談も終わったし、夕飯も食べた。そろそろ風呂にでも入るかと立ち上がったが、続かないオッサンに足を進められなかった。なんだと首だけで振り向けば、魔女は腕を組んでこちらを見上げている。期待したような目は、あまりいい予感をさせない。
なんだよ、と問う前にオッサンは言った。
「私にも名を寄越せ」
人間と居るものは云々は、前振りだったらしい。察していたからこそいい予感がしなかったのだろう。
ネーミングセンスなんてないし、意味で名前を作るには俺には思い出が足らない。生後一歳に何を求めているのだ。
面倒くさいと顔に書いて見せるが、引き下がるようなオッサンではない。総じてとは言わないが、オッサンなんてそんなもんなのだろうか。世間一般のオッサンとこの魔女を一緒にするのは抵抗があるが。禁じ得ないため息を落とす。
まったくもって面倒なこって。
「名前ねえ」
岸に肘を掛けて、人魚はあまり興味なさそうに呟く。あの後、オッサンにはいろいろと説明したが、帰宅後の話なので人魚は何も知らない。恋だのなんだのではないことだけはきちんとその場で弁解しておいたが。
なので、湖に来た今日かいつまんで昨日の話をしたのだが、人魚の方はオッサンと比べて薄い反応だった。
帰省から戻ってきた影の方は、そもそも名前というものへの認識があまりないようだ。おおまかな説明をしてやると理解しきれていない相槌が返ってきた。
「存在は知っているけれど、生憎と私は持ってないものね」
「はあ。人魚って他に居ねぇの?」
ちなみに魔女は、同じ魔女と呼ばれる種族は居れど群れない性質だそうで、基本名前は必要としないらしい。どこそこの魔女、だとかで事足りるそうだ。
なんでも、ひとところに同じ魔女が集まると息苦しいらしい。空気中の魔力の消費が激しく酸欠になるとかなんとか。
「海の方には群れている人魚も居ると聞くけれど」
「聞くって、会ったりしないのかよ?」
「私は淡水魚なのよ。塩っ辛くてあんなところ行けないわ」
世知辛い種族事情だった。人魚にも淡水魚と海水魚が居るのかとか、海の人魚は群れで暮らしているのに淡水人魚は群れないのかとか、気になることはいくつかあったが、人魚の機嫌があまり良くなさそうなので黙っておくことにする。帰ってオッサンに聞いてみよう。
「で、そっちは理解できたのか?」
「いやあ」
影に振れば誤魔化すように笑顔が返ってくる。種族名だと同じ種族の者と呼び分けられないところまでは理解できたが、いまいち自分にあてはめられないのだという。
「俺らの種は全が個で個が全みたいなところがあるからな。正確には『影』っていう種族名でもないし」
「そうなのか?」
「影の魔法を使う魔物ってだけで、魔女や人魚みたいな名前はないんだよ」
「というか、たいていの魔物の名前は人間の付けたものなのよ」
それはオッサンに聞いた。
ホオウもゲリラも人間の付けた種族名だ。本来種族名などなく、火を吐く魔法の使える鳥魔物や硬化魔法の使える魔物だという。つまり奴らは便宜上ホオウやゲリラという名前を持っているだけ。人間と意思疎通のできる知能を持つものではないから、自分たちがそんな名前で呼ばれていることも知らないだろうとも言われた。
ちなみに魔女や人魚のルーツは人間が先に言いだしたか魔物が先に言いだしたか不明だそうだ。
「そういうこと。弱い魔物はそうして人間に発見され種族名をつけられるけれど、影のように人に見られない魔物は種族名もつけられずに存在してきたということでしょうね」
「なるほど」
人間にはない考え方だなあと感心していると、話が終わったのを見計らっていたのだろう。影が手を挙げた。発言があるときに手を挙げるのはどこの文化で培ったのだろう。
「なあ魔女の弟子。お前が俺に名前をつけてくれよ」
期待を潜ませた目は見覚えがあって、なんとなく察していたけれど。にまりと笑って詰め寄ってくる影に、体を仰け反らせる。黒々としているからやけに圧力があるので、あまり寄らないで欲しい。相手が人魚ならばいいけれど、俺は野郎に詰め寄られて喜ぶ性癖など持っていないのだ。厳密に言うと影に性別はないそうだが。
「あら、それいいわね。私も欲しいわ」
「ええ……」
あからさまに悪ノリをする人魚は、笑顔に迫力があるだけで純粋な影と違い、悪い顔をする。俺が嫌がっているのをわかって言っているのだ。
「んなこと言われても、思いつかねぇよ。お前らふたりで決め合えばいいだろ?」
「愛しい私たちの毒蜜。あなたから欲しいのよ」
「魔女にも与えたんだろ? アイツばっかり、ずるいじゃねーか」
きっと、魔力のことも含めて二人は言っているのだろう。あれ以降こいつらに魔力を分け与えることは禁止されたけれど、それは全面的にオッサンの心の狭量が原因であって俺のせいではないはずだ。
それでも、そう言われると悪い気がしてくるのは国民性だろうか。種族性かもしれない。
しばらく唸りながら考えて、決まったのは日も暮れる頃だった。
「じゃあ、またな」
あまり動いていないのに嫌に疲れてしまったと立ち上がりながら手を挙げれば、二人はそれに言葉を返さず期待を込めた目だけを返して来た。それが何を意味するのかわからないほどに鈍いつもりはない。気恥ずかしさはあるが、照れる方が恥ずかしいので、おとなしく言葉を続ける。
「セーラ、カゲロウ」
呼ばれた名に、二人は満足そうにうなずいた。
わかりやすく好意を向けてくれていることについては、照れもするけれど純粋に嬉しいと思う。種族が違おうとも友情があるのは、素晴らしいことだと思う。
そんならしくもないことを考えるのは、与えた名を呼ばれ笑ってくれた二人を見て、帰ってあのオッサンを、魔女を――カロン、と呼んでやろうかと考えてしまったからだった。