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自分で移動できる範囲が広がって、一人で食材を探し歩くことが増えた。
ここに来て何日が経っただろうか。日記をつける習慣もなければカレンダーもないのでどのくらい経ったかわからないが、三か月くらいは経っているんじゃないだろうか。限りのわからない時間を持ったとき、生物は時間を数えるのをやめるのかな。オッサンがどのくらい生きているかあまり覚えていないと言った気持ちが、わかってきた気がする。
そんなことを言うと、五世紀くらい生きている魔女は「まだ生後三か月程度なのに、何を悟ったようなことを語っているのだね。恥ずかしいぞ」とか言うのだろうけれど。
ちなみにそんな自称五百才くらいのオッサンは、現在料理にハマっている。自分は食べられないくせに、面白がって作っているのだ。俺も別に料理などできる方ではないが、見よう見まねでの料理はお世辞にもうまいとは言えない。舐める程度の味見ならばできるから、そのうち……二、三年後くらいにはうまくなっているんじゃないだろうか。
今日はそんなオッサンを置いて西の湖まで向かう。殊の外普通な人魚は、時々怯えられるけれど、そこそこ仲の良い友人になった。
まあ、女子同士だからな。口に出したら負けな気がして言ったことはないが、そのおかげで警戒が緩い気がする。
先日約束したので、今日は素潜りをする予定になっている。素潜りして、魚を捕まえるのだ。魔力の疑似餌に集まる魚の種類は限られているから、別の味を求めて、である。
ちゃんと魔力で水着を纏う練習はしたし、固定化の薬も持った。空気を集めて酸素ボンベにする練習もした。風呂でさせられた。
余談だが、水着はビキニにスカートタイプの可愛いものだ。水圧は魔術でカバーできるし、なにせ現在俺は美女なのだ。容姿を活かした格好をしなくてどうするというのだ。自分で見られないのが心から残念である。姿見で見たけど。
「人魚ー」
まあ、心の保養は人魚ですればいい。彼女の容姿は眼福ものなのだから。いつもは布を胸に巻いたような姿だから、揃いの水着でも用意してしまおうかと考えていた俺は、まったくあたりの気配に気を配っていなかった。元よりそんな用心をしたことなどなかったが。
頭上から何かが降ってきたと気付いたのは、衝撃が襲い掛かる直前だった。
迫る危機に反応したのは、防衛本能だった。俺の反射神経も捨てたものではないし、これまで師匠たる魔女に魔力くらいは自由に動かせるようになっておけと散々、鬱陶しいくらいに言い聞かせられた甲斐もあった。
「っ!」
魔力を自分の体の前に、盾を張るように展開する。目の前ではじけるような音が響き、影は壁に当たって飛んでいった。あの時のオッサンと同じだ。ただ違うのは、その飛んで行った影が身をくるりと反転させて地面に降り立ったことだった。そして、そこから更に姿を消す。
人が突然消える方法には心当たりがあり、魔力感知の重要さに関しては耳に胼胝ができるほどに言い躾けられている。すぐにそれが移動の魔法だと察して、球状の盾を展開した。虹色が光に反射して輝く。
この球体は、盾にもなれば移動手段にもなる最強のシャボン玉だ。強度は俺の魔力の分だけ硬い。つまり、俺以上の魔力を持つ者でなければ破れない。実際は、魔力の扱いのうまい魔術師にならば破られる可能性もあるらしいが、そんな奴はそうそう居らんだろうとオッサンは言っていた。
俺の反応速度の方がわずかに勝り、再度の攻撃が球体に向けてされる。見れば、影が実際に姿かたちを現し物理攻撃を仕掛けてきていた。
よって、球体の周りを水で包むことにした。そいつが離れるよりも先に魔術で水を集め、圧力の魔法で固定する。俺のシャボン玉を中核として、全方向をカバーする形の水の球は、オッサンに見られればきっとまた、無駄遣いだと言われるだろう。
かけている水圧は、水深何メートルくらいのものになるだろうか。結構な圧力がかかっているはずだ。シャボンの中の俺にはまったく負荷はかからないが。
さて、俺のことを攻撃してきた仮定敵を見ると、そいつは黒く、存在感の薄い、人の形をしたものだった。魔法の気配がしたから間違いなく魔物だ。酸素の必要なタイプのようで、水にもがいている。頑張って泳いでいるけれど、俺に到達はできない。
しかし、思ったより冷静に対応ができたので少し考えるが……どう考えてもこれは、オッサンの差し金だろう。
証拠に、言いつけ通り常に抑えている魔力が抑えきれていないのにオッサンが現れない。あの魔女ならば離れた場所に居ても、俺の魔力を感じ取れるはずだ。前に別行動したとき疲れたからと魔力を抑えるのをサボっていたときはばれたし。
そして、湖のほとりだというのに人魚が顔をのぞかせることさえない。さらには水辺では水を、火山付近では火の魔術を使うのが効果的だと教えられたのは先日のことで、水の魔術をメインに練習させられているのは少し前からだ。生活に便利だからと理由をつけていたが、このためだったか。
「ん?」
思考に気を取られていると、それが何か目的を持って動いていることに気付いた。何をするつもりかと見ていれば、ある地点に到達した瞬間、そいつが消えた。そうして次の瞬間には水の外の、木陰に現れていた。
「……影でも、移動できんのかね?」
移動の魔法といって、それでは魔女の空間移動魔法の下位互換ではないか。このまま倒してしまっても構わんのだろうか。影でも水に包まれれば息はできないし圧力には負けていた。加圧の魔法をかけるためそれに魔力を向ける。
「お、おお!?」
が、それを発動する前に、自分の足が沈んだ感覚に驚いた。足元には影。もちろん俺のものだ。それに、本体の足が取り込まれている。このまま影に沈められる。さっと、次の相手の攻撃方法を察して空間移動の魔法を展開しようとするも、前には進めない。足が取られているからだ。
あれ、あれ? やばくないか?
前の生のゲームや漫画などの、あちらの世界では役に立たなかっただろう知識でこれから起こりうることは想像がつくが、思ったよりも対処ができなくて焦る。待て、どうして魔力盾で覆われているのに相手の魔法攻撃を受けているんだ? 俺は球状に盾を展開していたはず――いや、嘘だ。
俺の盾は半ドーム状。正確には体の全方向をカバーするような球の盾を張っていなかったのだ。
だからその無駄遣いの塊のような魔力の使い方をするのはやめろと言ったのだよ。頭の中でオッサンの声が聞こえる。勝手な想像だが、実際に言われそうで頭にきて、集中して体の線に巡らせるように魔力の盾を張った。直後、影から足がはじき出される。
方法はこれで合っていたようだ。次に相手は影の中にいなければ魔法を使えないと仮定する。ならば有用なのは、光の魔術。
俺の虹色には白が含まれている。赤が火の魔術、青が水の魔術で、白は光の魔術だ。本で読んだだけでオッサンに指導されたわけでもなければ実際の魔術が発動しているところを見たことさえないので、うまくいくかはわからないが。
ここでいう光の魔術は、ゲームなどで聞く白魔法的な、回復系や浄化系の魔術ではない。純粋に、光を操る魔術だ。回復系のものは別に魔術も魔法もある。浄化系は知らん。
魔力を媒介に集光、そして照らすようにそいつに向け、影がなくなったところで空間移動魔法を使って木の葉も届かないところで太陽光に晒してやる。そして逃げられなくなったところを。
「それまでだ」
と、意気込んだのを空振りさせるように声が掛かった。企みは割れているので、俺は驚くこともない。
「オッサン。そいつは知り合い?」
「正解だ。なかなかどうして、やるじゃあないかね小童」
「褒めていただいてどうも、クソ師匠?」
「合格点には程遠いがね、落第弟子」
やはりオッサンの差し金だったし、俺が気付いていることにも気づいていたようだ。
突然現れた師匠なるオッサンに軽口を返しつつ、相手へ向けようとしていた魔法をおさめる。ただし盾は持続させたままだ。体のラインに沿わせると、虹色は気にならなくなった。
なんと文句を言ったものか。
「おい深層の魔女! こいつ、戦闘経験はないんじゃなかったのかよ!」
そう思っていたのは俺だけではなかったらしい。オッサンに向けて、少年の声がかかる。音の発信源は、木陰の方からだ。そしてこの場でその場所にいる者は一人しかいない。
「戦闘の経験はない。魔術も本に書いてある物や教えたものをそっくりそのまま使っているだけのお粗末なものだったろう」
「てめぇに使ってやろうか」
「それでも、その化け物みたいな魔力で使われたら大惨事だったろうが!」
「だからそうなる前に止めたろう」
俺の思っていたよりもはるかに、相手は危機を感じていたらしかった。結構自分の方が押され気味だったつもりだったから驚いたが、客観的にはそこそこやりあえていたらしい。とはいえ、技術はオッサン曰く拙く、言われ慣れた化け物魔力があっての「そこそこ」だったようだが。
「で、その魔物はどこの誰なんだよ?」
魔物の少年の怒りを涼しい顔で受け流しているオッサンに尋ねる。先ほどまで影と一体化したような姿かたちだったが、ずんずんと影から出てきた今は人間に似た風貌をしている。服も髪も真っ黒であれば、印象は黒という感じだが。オッサンと違い魔物でも足があるが、その足は自身の影と一体化し一続きになっているように見える。オッサンはそもそも影もないしな。魔女と言うより、風貌はおばけっぽい。
「これは影の魔物だ。影に沈んで移動をしたり、相手の影を乗っ取って操ったりする魔法が使えるのだ」
「へえ、不便な魔物だな」
そういうの、異能物の漫画やゲームでありそうだけれど。実際制約があるってあまり便利なものではないように思える。足を取られた俺の言えたことじゃないかもしれないが。
「不便だと思うのは、お前が規格外の魔女の弟子だからだ。普通、俺ほどの魔法を使う魔物なんてなかなか居ないんだよ」
俺の前までやってきた影は、不満そうにこちらを睨みつける。そういえば、いつだったか魔物は一個体につきだいたい一つの魔法しか使えないと聞いたか。種族に依ってその系統さえ決まるそうだから、弱い魔物から見ればスゴイのか?
便利な魔女を知っている身としてはどうにも腑に落ちないながら、謝って挨拶をしておく。余計なことを言って不快にさせても仕方がないしな。
「これは北の洞窟に住む魔物でな。きみの戦闘訓練に使えると思って連れてきたのだ」
「聞いてないんだけど……」
「言っては不意打ちにならんだろう。ある程度私の言ったことを覚えていたようで、安心したぞ」
今のは少し師匠っぽいけれど、他所に居る魔物を使えるとか連れて来るとか、いよいよこの男は魔王なのではないかなと思う。でなくとも傍若無人。暴君がごとき資質を持つ魔女だ。
嫌そうな顔をしながらも影の魔物が逆らっていないのは、人魚と似たような理由があるのだろうか。
「きみは身の危機に遭った方が必死になれるのだろう」
「必要に迫られてもいないのに、なんで必死にならないといけないんだよ」
「以前、どこに出しても最強を謳われるような弟子にする、と約束したではないかね」
それは一方的に言われただけで、約束した話ではなかったと思ったのだが。オッサンの中では既に決定してしまったことらしい。
必要ないと言ってもいいのだが、仮にもものを教わっている身だし、何よりも俺が不要とすると無理やり連れて来られたこの影の魔物が可哀想だろう。
そんなわけで、俺はこの影の魔物と戦闘訓練をすることになった。