7-2
おざなりと言って過言でない出来栄えの釣り竿の糸を湖に垂らす。エサは適当な極小サイズの実に魔力を付与したものだ。ここの魚たちは魚を食べる者もいるが、主に魔力を食べる者が多いらしい。プランクトンを食べているようなものだそうで。この竿とエサではあまり大きなサイズの魚は期待ができないが、手軽といえば手軽だ。
普段、風に吹かれて水面に落ちた葉などの魔力を見つけて集まるような連中が集まるんじゃないかと言ったのは、ここの湖の主たる人魚だった。仲間を売るようなことをしていいのかと問えば、魚だって魚を食べるでしょうと言われた。そもそも意思疎通できるような個体は疑似餌に釣られるようなことはないとも。
「そんなにバカみたいな魔力を垂れ流していては、いつまで経っても魚など寄り付かんぞ。もっと抑えろ」
「そう言ったって難しいんだっつの」
エサも釣り竿も簡単なものだが、難しいのは何よりも自分の魔力を抑えることだった。外部に漏れている俺の魔力は、曰く視力を重用しない生物からすれば化け物がその存在を誇示しながら闊歩しているようなものなのだそうだ。おどろおどろしい化け物が居るとわかっているのに近付く小動物は居ないだろうと。
「私を食べるとは言い出さないわよね? 人間だものね?」
言われた手順で魔力を自分の中に押しとどめ周りに知られないように隠す努力しつつ、先ほどから何度か同じような質問を繰り返してくる人魚に「ないですよ」と答える。さっきは、湖のすべての生物を献上しろとか言い出さないわよね? と聞かれた。どんな簒奪者だと思われているんだ、俺たちは。というか……。
「オッサン、この人魚さんになんかしたの?」
「人聞きの悪いことを言うな。彼女には何度か鱗や涙をいただいたことがある程度だ」
「鱗を一気に数百枚と剥ぎ落としたり、涙を手に入れるのに種類がどうだとか言い出して、ひどい嫌がらせをしたりは程度と言われるようなこと?」
「うわあ」
最低だ、このオッサン。水面に透けて見える青にも銀にも見える鱗は、今見えている限りでは欠けている様子は見られない。これから数百枚奪って行ったって、もうそれは強盗というか、暴行犯というか。人間のいう凶悪犯罪者だろう。
「よくそれで出てこようと思ったな、あんた……」
「逃げ隠れすると水中まで探しに来たり、魔法で実力行使しようとするから被害が少ないうちに出て来るようにしているのよ」
「うわあ」
研究のために必要だったのだと、特に必死な様子もなく弁明するオッサン。さっきの嘘を吐く必要がないというのはそういうことか。どんな猟奇的な研究者だ。魔女っていうか、魔王だろ。
「毎度治してやっているだろう」
「そういう問題じゃないんじゃねえかな」
「あら……あなた魔女の弟子にしては話がわかるわね」
わかるの基準がおかしいと思う。人間ならば九割くらいは俺と同じ見解を示すと思うのだが。
可哀想な思考の人魚には苦笑いだけ返しておいて、深呼吸して魔力を整える。少しずつ力を内に内に向かわせれば、体を包んでいた力が弱くなる感覚があった。
「ふむ、なかなか上出来ではないかね。時間がかかるのは減点だから、及第点といったところか。その状態を、今後常に保つようにしなさい」
「今後? 今だけじゃなく?」
「常に魔力垂れ流しだとどんなエサも近付いてこないだろう。きみのためだ、努力したまえ」
そういう言い方をされると、せざるをえない。
今までと違って地に足を付いている感覚は悪くはないが、常に腹筋に力を入れているようで少し疲れる。そのうち慣れていくんだろうか。慣れるしかないのだろうが。
そのまま魚がエサに食いつくのを待つ。ここは鳥の声なんかも聞こえる。のどかだなあと思う。面子は、魔女と人魚と他称化け物だが。
「しかし、人魚と魔女っていうとおとぎ話を思い出すなあ」
「おとぎ話?」
「人間の王子様に惚れた人魚が、声を対価に人間の体を手に入れる話」
最後は恋敵わず泡になるんだったか。思い出はないので感慨もないが、覚えている程度には俺の前の生に関係があったのだろうか。記憶を探りつつ答えれば、魔女と人魚は目を瞬いた。
「はじめて聞くわ、そんな話」
「きみの居たところでは有名な話だったのか?」
「わりと世界的にポピュラーな童話だったと思うけど」
某有名なアニメーションにもなっているしなあ。ただ、この人魚とあの人魚姫を重ねることは難しい。まずこんなところでは王子様にも会えないだろうし、魔女に物理的に害されているので頼るとは思えない。いや、その実力だけは身をもって知っているから、逆に頼る可能性もあるのか?
「ふうん。人の世には疎いから、知らなかったわ」
「人魚っていうと、結構逸話が多いけどな」
「そうなの? そんなに人に知られているの?」
「私の知ってるのは、そのおとぎ話とか、あとは人魚の肉を食べると不老不死になれるとか……」
言葉を途中で切ったのは、隣に居る男の興味の綱を目いっぱい引いてしまったと気付いたからだった。視線と、正した姿勢から魔女の好奇心に火をつけてしまったことを察する。
南無と手を合わせたいが、さすがに状況を瞬時に察し、涙目でこちらを睨みつけた人魚と目が合えば、無視はできなかった。やっぱり食べる気なの!? と悲鳴を上げられればより一層。
「そ、そんな力はないわよ!?」
「試したことが?」
「ない……けど」
「試してみないとわからないのではないかね?」
「いやいやいや、オッサン。元からあんたも私も不老不死みたいなもんだろ。必要ないし試せないだろ」
「バカ言うな。初めての実験を自身に試す間抜けがいるか。元より寿命の長い生物はモルモットには向かんだろう」
マッドな発言を悪びれもせずに言い放つオッサンに、人魚は徐々に顔を青くしていく。鱗がセーフかはわからないが、肉を取るのは完全にアウトだろう。たとえ治したとしても、それは贖罪にはなり得ない。
必死で、どう止めれば諦めてくれるかと頭を回転させているときだった。
とぷんと竿が重さに引かれた。
「あっ!」
声を上げると同時に勢いよく引き揚げる。垂らした疑似餌には、魚がついていた。
「見ろオッサン、釣れたぞ!」
注意を引こうとわざとらしくバカみたいにはしゃいでみせると、オッサンは魚を見て、俺を見て、おかしそうに笑った。
「そんなに必死にならずとも、冗談だ。西湖の主とはこれからもうまくやっていきたいと思っているからな」
まったく冗談には聞こえなかったのだが。同じことを思ったのか、はたまた全く別のことを思いだしたのか、人魚の方からは「うまく……?」という心底の疑問が音に漏れた声が聞こえた。