メアリーの部屋
その場所は酷く白かった。
何もかもが白に覆われているような部屋。
あるのは入院服、コップ、コインにスマートフォン。
ひとかけらのチョコに、大きなベッド。
部屋の隅に設置されたカメラとあと一つ。
それが部屋の中に見えるもののすべてだった。
部屋のものすべてが白に染められ、濃淡の微かな違いはあるもののそれでも大多数から見ればそれは白といえるようなものだろう。
そんな部屋の中、動くものがあった。
部屋の物自体はすべて白く見えたが、それだけは例外的に他の色が見えた。
それは物ではなく、少女だった。
白い病院服を身にまとい、しかし、彼女もやはり後姿だけでは白いマネキンのように見えてしまうのだろう。
白髪。
それは染色したというにはあまりにも自然に見えた。
それこそ彼女の髪はこの色でしかありえないとでもいうような。
そんな、白。
しかし、そんな彼女でも唯一白以外の色に見える部位があった。
眼だけは鮮やかな青を持ち、白一色の部屋の中でひどく際立って見えるものになっていた。
だが、そんな青い瞳はスマートフォンが震えると不安定に揺れ、まるでそれを見たくないとでもいうかのようにおびえた様子を見せた。
少女の白魚を思わせる白い指がスマートフォンの角をとらえ、放し、そして恐る恐るといったように画面をのぞき込んだ。
そのスマートフォンも画面以外はすべてが白で埋め尽くされていたが、画面は例外的に黒く、そこに文字が映し出された。
「メアリー、色とは何だい?」
その質問に、彼女はスマートフォンを使わずに返答する。
その声は妙に機械的で、何度も同じ言葉を繰り返し言っていたことを思わせるような滑らかさだった。
彼女が口を閉じると、またスマートフォンが震えた。
そこにはやはり文字が映し出されており、
「メアリー、光の特性とはどのようなものかな?」
という文言。
少女はまたも科白のような言葉を発する。
その後も、そのやり取りは続いた。
「メアリー、眼球の構造はわかるかい?」
「メアリー、網膜の仕組みは?」
「メアリー、赤い、黄色いという言葉はどのように使われる?」
フランクで、優し気なそのメッセージは、しかし彼女にとっては酷く恐怖心を煽られるようで、彼女は慎重に言葉を紡ぎ続けた。
眼というものの持つ機能、光の特性とそれを利用したもの。
それらのメッセージはまるで色という概念を理解できているかと執拗に問うようなものばかりだった。
メッセージはそこに欠片の間違いもないかと確認するように繰り返された。
そのようなやり取りが何十回と行われた後、少し間をおいてメッセージが表示された。
「メアリー、君の望むものは何だい?」
少女はそこで初めて声を詰まらせた。
それでも慌てて、なにかしらの言葉を言おうと口を開き、閉じ、迷うかのような間をあけて彼女は言った。
「……この部屋から出てみたい」
そうして。
そうして、メッセージの主である僕は。
「メアリー、その望みを叶えよう」
画面越しに見える彼女の瞳を見つめ。
震える指でそのメッセージを送った。
※
その少女は送られてきたメッセージを見てこれまでにないほどの笑みを見せた。
それは、その部屋を出ることができるということがこれ以上ないほどの幸せだと思っているかのようだった。
少し待っていてくれという言葉通り部屋の扉の前で待っていると微かな音を立て、扉が開いた。
すぐさま扉に駆け寄り、少女はゆっくりと部屋とどこかを繋ぐ境界を踏み越えた。
部屋を出るという念願を果たした少女は嬉しそうに笑みを浮かべたが、しかしすぐにその笑みは薄らいだ。
部屋の外は長い廊下になっていた。
そこは少女のいた部屋と同じく白一色で構成された場所だった。
そして、その廊下はずっと同じ感覚で違う部屋へと続いていた。
規則正しくわずかな狂いもないほどに並べられた部屋。
狂気すら感じさせるようなその部屋の並びは彼女に不安をもたらす。
しかし、それ以上に彼女の恐怖心を刺激するものがあった。
それは――。
「メアリー」
少女は後ろを振り返る。
そこには黒いスーツ姿の男性がいた。
黒髪に黒目。
少女とは対照的に黒のみで構成されたかのような男性がそこには立っていた。
「メアリー、こっちだよ」
少女を安心させるような笑みを浮かべた男性は彼女の手を取って長い廊下を歩きだした。
コツリ、コツリと男性の足音が響く。
彼女の体は震えていた。
部屋から出ることのできた喜び。
部屋の外の異常への恐怖。
そして、手を引く男性への警戒とわずかな期待。
それらがないまぜになって彼女の身を震わせていた。
「メアリー、赤いという言葉はどのように使われる?」
唐突に男性は問いを発した。
あまりにも穏やかに問われたそれに少女は困惑したが、反射的に口は動いていた。
「リンゴのように赤い。紅い紅い夕暮れ」
「そう、その通りだ。リンゴのように赤く、夕暮れもまた紅い。そして――」
男性は足を止めた。
今までとは違た様子の少し大き目の扉。
それを開いた男性はどうぞ、とでもいうかのように掌で部屋を指し示した。
少女はゆっくりとその部屋に入った。
その光景を少女は言葉に表すことができなかった。
四角い大きな部屋に、ぶちまけられた色。
点々と壁に跳ねるその色を彼女は、確かに知っているはずだ。
「――血のように赤い」
男性はどこか感情を押し殺すかのように呟いた。
「……これが、赤」
少女も思わずつぶやいた。
嗚呼、これが赤というものなのか。
彼女の体が歓喜に震える。
「メアリー、そうだ。これが赤というものだよ」
男性はスーツのポケットに手を入れ、何かを取り出した。
メアリーの目にはそれが鈍色と言われるものに見えた。
「メアリー、これをみてごらん」
鈍色のそれは、光に反射して彼女の瞳を映し出した。
少し濁って映ったそれを彼女は青だと認識した。
彼女の笑みはますます深まった。
「すごい!これが色なのね!白と黒以外の色!」
「メアリー、そうだ。赤と青と鈍色。……驚いたかい?」
「ええ、とても!素晴らしいわ!」
「……そうか」
男性はそっと少女の肩に手を置いた。
男性と向かい合った少女はその笑みを男性へとむけた。
「次はどんな色を見せてくれるの?緑?黄色?それとも……」
ぞぶり、と。
少女の首に鈍色が突き立った。
赤が、溢れる。
少女はすぐに事切れた。
ナイフが、床に落ちる。
突然の凶行を成した男性は痛ましそうな表情のまま、彼女の体を抱き上げ部屋を出た。
向かったのは隣の部屋。
数えきれないほどのカプセルが並んでいるそこに男性は足を踏み入れた。
コツリ、コツリと何かを探すかのように歩き回っていた男性は一つのカプセルの前で足を止めた。
そうしてからカプセルの中に少女を入れ、その場を立ち去る。
規則正しく並んだカプセルの中。
そこは少女と全く同じ顔立ちをした体がいくつも収められていた。
※
端末が、震える。
どこまでも白い廊下に出た男性は端末を片手にしばし躊躇った後、
「……はい」
耳に端末を宛がう。
「私だ。実験の具合はどうだね?」
「第一段階の知識の蓄積は順調に。しかし、第二段階の方は……」
「いまだ難航している、か」
「加えて、実験の素体も不足、他の研究員も長期の実験から精神面に問題が出てきています。このままでは実験中止にせざるを得ないかと……」
「それはこちらで判断する」
恐る恐る行った進言をにべもなく断わられ、男性はこぶしを握り締める。
「しかし、我々にも限界が」
「それを考慮できる状態ではないことは君も重々承知しているはずだろう。私とて……」
このようなことはしたくない、と電話越しの声は疲れを感じさせる声でつぶやいた。
「我々はもう決断を行った。もう後には引けん」
「そう、ですね」
「……我々は縋るしかないのだ。例え、不可能だとわかっていたとしても」
「不可能という言葉は我々研究者には存在しませんよ」
「……そうか、頼もしいことだ」
呆れたように、また元気づけるかのようにどちらともなく苦笑がこぼれた。
「素体の不足に関してはこちらでなんとかしよう。実験の成功を願っている」
「ありがとうございます。……あの、最後に一つだけよろしいでしょうか」
「何だね」
厳格そうな声に男性は躊躇いの後、告げる。
「……他の実験の進捗はどうですか?」
「…………」
何かを迷うような間が空く。
電話の相手が何も言わぬことに焦った男性は謝罪を口にしようとする、直前。
「……すまないが、それに関しては私もわからない。が、芳しくないことは確かだろう」
順調ならば私の耳にも届くはずだ、と苦々しげな声が聞こえる。
「そうですか……、わかりました」
「うむ、ではまた折を見て連絡する」
「はい、では失礼します」
その声を最後に電話は切れた。
男性は深いため息とともに廊下の壁に身を預ける。
「実験……か」
呆、とうつろな目が宙をさまよう。
「これは、私が理想としていた人を救う実験だ。それは間違いない」
幼いころの夢をかなえた男性。
決して安くはない努力を続け、憧れの職に就いた喜びは今でも覚えている。
だが、
「それでも、この実験の代償は大きすぎる……」
共に働く研究者たち。
日に日にやつれていく彼らを見ることは男性にとっても非常につらいことだった。
いつの間にか膝から力が抜けていき、壁に背を引きずりながら彼は廊下に座り込む。
頭を抱え、目を閉じて彼は祈るように言い聞かせるようにつぶやく。
「これは世界を、全人類を救うための実験だ。思考の上でしかありえなかったものを現実に落とし込むことができれば、きっと世界は救われる」
こうしている今もなお、世界を襲う脅威。
それを彼は嫌というほど知っていた。
人という種だけを滅ぼそうとしているかのような悪意。
怨嗟と憎悪で塗り固められたそれを目にした時の恐怖は今でも、心の隅を蝕み続けている。
「決して人類は滅びるわけにはいかない。そのために私は全てを賭けたんだ。……そうだ、全ては」
どこまでも白い、純白の檻。
その中に狂気に満ちた彼の言葉は静かに響き渡った。
「全ては、ラプラスの悪魔のために」