その9.
「で、あなたが起きて来たら、あの騒ぎ…。あたし、頭に何か当たって脳震盪起こしてソファに倒れているところに、警察がやってきて、わけがわからなかったわよ」
「そうなの。あたしが警察に電話したの」
そこまで話して、少し気が軽くなったような気がした。そうやって母から話を聞いていると、ツチヤさんに対する怒りがわいてきた。
「なんで! ただ2回会っただけだっていうのに! そんなわけのわからないことで、人のことを苦しめようとするのかしら!」
そう言うと、もっと腹が立ってきた。
「まったく、世の中、わけのわからない人がいるわね!」
母が同意して、もっとツチヤさんが許せなくなってきた。
「もう、頭来た! あたし、今度、道場に行ってくる! ツチヤさんに会って直接文句を言ってくる!」
と言った。
「やめて! イクミ! 行かなくていいわよ。もう、やめよう。そんな変な人に関わっていても損するだけだよ」
「だけど…」
と母の方を見ると…
「お母さん!」
と思わず言った。母が母に見えたのだ。
「何?」
母がキョトンとして、私を見つめ、後ろから来る人達が押し寄せてきていたので、人の流れを止めることになってしまった。
「おい!」
ぶつかってしまったおじさんがいて、「すみません」なんて謝りながら、私はなんだかうれしくなって、母の手を取って、流れの外に出た。
母の髪型は母の髪型だった。母の手の感触は母の手の感触だった。
それから一週間。会社の自分の部署の人達も、皆、昔から知っているその人の顔になり、まるで夢から覚めたようで、嘘のようだった。私はその変化がうれしくて、ついついニコニコしてしまったり、感極まってしまうため、「どうしたの?」なんて、ときどき聞かれ、またそれがうれしかったりした。
なんか、ちゃんと仕事しなくちゃ、って気持ちにもなって、だんだんまた元の感じが戻ってきて、がんばらなくちゃ、と思えてきていた。
土曜日。母は止めたけれど、私は道場に行くことに決めた。
道場には退会の届も出していなかったし、休みを取る知らせも何もしていない。辞めるなら辞めるでちゃんとしておいた方がいいような気がした。ツチヤさんにも、文句を言ってやりたい。
この一週間、調子が良かったのですごく強気になってきていた。
朝、出かける時、
「ね、イクミ、大丈夫? 本当に行くの?」
と母が言った。この数か月間、ツチヤさんだった母が、すっかり元の母に見える。そのことだけでも、すごくうれしくて、私はさらに強気になり
「行く!」
と宣言して、道場に向かった。
その日、ツチヤさんも剛先生もいらした。私は、退会の手続きだけを済ませると、見学させてもらうことにした。そして、ツチヤさんの帰りを待つことにした。
ツチヤさんは、なんだか私を避けたいような感じだった。だけど私は道場の出口で待っていて、ツチヤさんが歩き出すと、追いついて
「すみません」
と声をかけた。
ツチヤさんはそれを振り払うように
「ごめんなさい。私、今日は急いているんですよ」
と苦笑いをした。なんだかビクビクしているように見え、私の中で意地悪い気持ちがふくらんできていた。
「今日、お話したいんです」
と言うと
「申し訳ないですけど、そういう時間はありません」
とツチヤさんが答えた。
「あの…」と追いすがる私。するとツチヤさんが立ち止まりこちらを向いた。
「困ります。あなた、自分が何をしているのか、おわかりになって?」
と怒ったような顔をしている。私の胆はどんどん据わって来ていて、引きさがる気は微塵もなかった。今、ツチヤさんと私は向かい合って立っていた。
「わかりました。では剛先生とお話することにします」
と私がきっぱり言って道場の方に戻るそぶりを見せると、ツチヤさんが私の手を後ろから掴んだ。あの、ひんやりしたツチヤさんの手の感触だった。
「何? 剛さんに話をなさるって、何のこと?」
「ツチヤさんがトモカさんに妬みの感情をお持ちだから、気をつけたほうがいい、って。それだけ言ってきます」
「やめて!!」
物を切り裂くような甲高い大きな声だったので、周りを歩いていた人達までがこちらを見た。
「あんなドロドロした気持ちで、道場に通うことができるなんて…、ツチヤさん、どうかしていらっしゃるわ」
と私が言うと。
「よけいなお世話よ!」
とツチヤさんは、私の手をさらに強く握ってきた。そして、私に技をかけようとしているようだった。
「よけいなこと、なさらない方がいいと思うわ。身体の方が大事でしょ?」
私はまずいと思い、手をふりほどいた。とたんに、このツチヤさんという人がまた怖くなってきてしまった。
「フフフ。おわかりになったようね。私はあなたのような凡人とは違うんです」
とツチヤさんが勝ち誇ったように言った。
「あの日、トモカさんの写真を持ってお宅にうかがったのよ。あなたの剛さんへの気持ちが本当だと、私、勘違いしてしまったようね」




