その8.
私は病院から出なくちゃ、とだんだん強く思うようになっていた。
会社に自分で電話できるようにもなり、上司と直接話すこともできて、とりあえずは長期休暇の扱いにしてもらっていることもわかり、仕事を辞めるにしても続けるにしても、ちゃんとしなくちゃな、と思うようになっていた。
会いに来てくれる母は、相変わらずツチヤさんに見えたし、駒田先生は剛先生だった。だけどそんなことどうでもいいことのような気がした。人と人の区別はつけられるようになってきていたし、同じように見えても動揺しないようにすればいい。
だって、その他のことはだいたい落ち着いていて、ただ、人の区別があいまいになることがある、ということだけが問題なのだ。話の筋だって通して話すことができるし、自分の今の状態だってちゃんと把握している。
いったい、この識別異常? はなんなのだろう。それについては駒田先生もわからず、
「混乱を抑える薬を飲み続けていて下さい」
ということで、数週間後に退院できることになった。
退院した次の日、会社にあいさつに行った。ドキドキした。案の定、会社の人は、自分の部署の女性はツチヤさん、男性は剛先生に見えてしまう。でも、そうだろうなと想定できていたからあわてることはなかった。きっと働き始めれば、違いがわかってくるし、今まで付き合って来ていた人なのだから、ちょっと間違えることはあるかもしれないけど、なんとかやって行けるような気がしていた。
会社の人にも優しく迎え入れてもらえたようで、なんだか希望がわいてきていた。
私は結局、3カ月近く入院していて、病院で年を越してしまったのだ。
その休日、また兄が家族を連れて九州から出て来てくれて、義姉のスミカさん、ミノル、サイカとも久しぶりに会って、皆でしゃぶしゃぶを食べに行った。
兄の家族は兄の家族にしか見えなかった。それでなんだかすごくホッとすることができた。
「正月に会えなかったからな」と兄は言い、皆の私に対する優しい気遣いを感じることができた。
「良かったな、元の仕事に戻れて」
と兄が言った。私はうんうんとうなずいた。声を出そうとすると泣きそうになってしまう。家族のありがたみをしみじみと感じた。
年度が変わった。
なんとか続けて働けるという自信もわいてきていて、母がツチヤさんに見えることにも、会社の人がツチヤさん、剛先生に見えてしまうことにも慣れ、気にならなくなってきていた。
桜が咲き始めた。なんだか気分も華やいできて、またほかに何かを始めようという気持ちになってきていた。
そんな私の気持ちを察したのか母が
「ね、イクミ、お花見に行こうよ」
と誘ってくれた。
「そうだね」
と私は答え、その日曜日に千鳥ヶ淵まで出かけた。
天気が良くて、お花見日和。ものすごい人出だった。二人で離れてしまいそうになる。母が、ふと私の手を取って
「ここよ」
と言った。その手の感触がツチヤさんそのもので、入院する一週間前にツチヤさんが私の手をとって来た、あの瞬間がよみがえり、私はたじろいでしまった。手を振り払いたい気持ちを必死でこらえた。
「まだ、あたしのことが、ツチヤさんに見えるのね」
と母が言った。そのことについては、母とちゃんと話をしていない。ツチヤさんに見える母にそのことを言う気がしなかったのだ。でも主治医や兄から話をきいているのだろう。
「あの日ね」と母が話し出した。
「ツチヤさんって人から何度か電話が入ったのよ」
人ごみの中で話していると、母の顔をまっすぐに見なくてすむ。だから私もすんなり話ができるような気がした。
「だけど、なんでツチヤさんは家の電話番号まで知っていたのかしら」
「さあ?」
「で、ツチヤさんはなんて言っていたの?」
「イクミに会いたいからって、そちらにうかがいます、って言うから、あたしはもちろん断ったわ。あなた、会いたくないって言っていたしね」
「なんなのかしら」
「あなたに会って、ちゃんと話さなければいけないことがあると言うのよ。だから、要件を言ってもらえば、あたしが伝えます、って言ってもね、直接会って話さなければならないって言うのよ」
「こわい」
「家の住所もわかるから、うかがいますって…」
「こわ~~い」
「だから、お断りしますって何度も言ってね、イクミは体調を崩して寝込んでいますからって言ったのよ。それなのに来たの。家まで」
「ええっ?」
「中には入れないわよ。インターホンで断ったの。あまりにしつこいしね、あたしも気味が悪くなってきたのよ…」
「なんか変わった人だったのよ、あの人…」
「怒っていたみたいよ。中に入れなかったから。『私が善意で来ていることがわからないんですか?』とか言って…、ですごい低い声でね『いいんですね? そんなことなさると、ずっと後悔なさることになりますよ』って言い捨てて、やっと帰ったみたいだったわ」
そこまでの話を聞いていたら、なんだかまたツチヤさんのあの、なんともいやな感じを思い出してきて、ぞっとすると同時に、腹も立って来ていた。




