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その7.

 目を閉じてみる。確かに母の声だ。だけど目を開けて見ると、ツチヤさんにしか見えない。だって、髪型もツチヤさんみたいだ。ストレートの髪を後ろで1本にまとめている。母はセミロングで髪を染め、パーマをかけているはずだ。だけど…、洋服は? 確かに母が着ていたもののような気がする。なぜ? なぜこんなわけがわからない状態なのだろうか。私は悲しくて悲しくて、ただ泣き、鼻をすすった。

「だいぶ落ち着いてきましたが、まだ混乱が完全には治まっていません。どうやら感情の整理がつかないようですね」

 と駒田先生が言った。

 母と名乗るツチヤさんが帰ってから、私は考えた。いくらツチヤさんが変な人だと言ったって、ここまで手の込んだことができるわけがない。それに…、先生の話などを考え併せると…、

 どうも私は女性が全員ツチヤさんに見えてしまい、男性が剛先生に見えてしまう、という病気のようだった。

 いったい、なんなんだ? この病気は?

 私は母が持って来てくれたミルクティーのペットボトルを見つめた。この銘柄のミルクティーが好きなことを知っているのだから、あの人は母なのだ。

 私はもう、母には会えないのだろうか?

 いや? あのツチヤさんを母と認識できるようになればいいのではなかろうか? よくわからなかったけれど、それがいいような気がした。


 病院での数週間が過ぎた。私はカギのかかった部屋を出ることが許され、普通の病室に移った。もう縛られることはなくなり、普通のベッドに眠ることができるようになった。食事は他の人と食堂で取るようになった。

 それでわかったのだけれど、女性全員がツチヤさんに見えるわけではなく、男性全員が剛先生に見えるわけでもなかった。私に直接話しかけ、世話をやいてくれるような看護師さんはそう見えるようなのだ。

 だから数人の人はまったく区別がつかない。皆、名札をつけていてくれるので、助かった。入院患者の人は、それぞれ違った顔に見える、が、何か自分のほうから話しかけてくるような人、私に好意? を抱いてくれているような人はツチヤさんに見えてしまう。

 患者さんは名札をつけていないので、困った。だけど、だんだん微妙な違いがわかるようになってきた。まず洋服が違うし…、声も違う。その違いがわかってくると、名前を区別できるようになってきた。


 それから数日後、母と兄が面会に来てくれた。母は1日おきには会いに来てくれていたので、相変わらず顔と髪型体系などはツチヤさんに見えるのだけれど、だんだんツチヤさんではなく、母なのだということがわかってきていた。

 兄はわざわざ九州から私に会いに来てくれたのだ。ありがたかった。

 それに、兄は間違いなく兄だった。

 私は兄の顔を見たとたんに、泣き崩れてしまった。

「おい、どうしたんだよ? イクミ」

 と兄が言った。

「ありがとう。遠いところ、会いに来てくれて」

 そこまでやっと言うと、また悲しくて泣いてしまった。

 兄はしゅんとして

「だ、大丈夫だよ。ずっと会っていなかったし…、な」

 なんだかその「な」という言葉の中に、兄の優しさがこめられているようで、また泣いてしまったのだけれど、途中でちょっと持ち直し、兄と目が合ったら自然に笑いがもどってきた。

「ミノルとサイカは元気?」

 と甥、姪の名前を口にすると、また涙があふれた。

「ああ元気だよ。ミノルはもう大学を卒業する。サイカは高校に行っている」

 ツチヤさんの顔をした母が、私たち二人を見ていた。なんだかすごく変な感じだった。

「何があったんだ?」

 と兄が言い、もしかしたら、兄なら私の話を信じてくれるのではないか、そんな気もしたけれど、母がツチヤさんに見えると、どうしても母を信じ切ることができないような気になり、ここで話すことは無理だな、と感じた。

 その私の気持ちを察したのか? 兄が

「母さん、悪いけどイクミと二人で話したいから、ちょっと外に出てくれる?」

 と言った。

 母はちょっと哀しそうな顔をしたので、かわいそうだなという気持ちがわいたのだけれど、でも、ツチやさんに見える以上、そう簡単にこの人を信じることはできない。

 母は「わかったわ」と席を外してくれ、私はかなり落ち着いて、たんたんと事の顛末を話すことができた。でも、話しているとまったくバカらしい、作り話のような気がしてきてしまう。

 大したことではないのに、こんなに錯乱してしまった自分は、本当にどうかしていると思えてきてしまう。

 兄は話を聞き終わると、

「なんだか不思議な話だな」

 とポツリと言った。

「私にもよくわからないの。だけど、自分ではどうにもできないわ」

「まあ、今の状態に慣れていくしかないよ。だって…、ずっとここに居て暮らすこともできないだろう」

「仕事に戻れるかしら…」

「さあな。今の仕事に戻れるかどうかはわからないけれど…、新しい仕事を見つけることはできるんじゃないかな」

 と言い、兄は私の頭をポンポンと軽くたたいた。

「とにかく、落ち着いて、ゆっくり元に戻れよ」

 兄に言われると、また涙があふれてきた。

「オレには、イクミはイクミにしか見えない。良かったよ。会いに来て」

 それから母が戻って来て、二人は帰って行った。九州からのお土産の私の好きな「うまかもん」というおまんじゅうがうれしかった。

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