その4.
「さ、今日はカフェで何か飲んで行きましょう。ね?」
とたたみかけるようにツチヤさんは言った。私はまるでヘビににらまれたカエルになった心境だった。
「まあまあ、私、ヘビなんて、そんな怖い女じゃあなくってよ」
続けてそう言われて、私はまたぎょっとして、身体が固まってしまった。
「私も剛さんには思いを寄せて、寄せて、寄せてきたの。だからわかります。あの方はまっすぐでとても強い方よ。本当なら私がすべてお世話をして、ずっと守ってあげたかったのですけれどね。彼はそれを望まなかったの。彼は自分より弱い、きれいな、美しい物を望んでいたの」
駅へ向かいながら、ツチヤさんが勝手に話し出した。
「そうやって、思って、思って、思っている気持ちって、いったいどうやって押さえたらいいかご存じ?」
ツチヤさんが、ふっと私の手をつかんだので、私は思わず足を止めてしまった。
「おわかりにならないわよね。そんなこと…」
そう言ってわらった彼女の目が怖かった。そこにはぞっとするほどの冷たい光がこめられていた。
「なぜ、人はわからないのかしら。私ほど慈愛に富んだ人間はいないというのに。なぜ人は私を避けようとするのかしら。私に安らかな場所さえ与えてくれれば、私はいつだって、惜しみなくあなたのことを思い、あなたのためにだけにこの命を捧げることもできるというのに…」
「あなた?」
「あら? あなたという呼び方じゃあ不服?」
「い、いえ…」
「あなたには何かが足りていないのね。何かを欲している。まるで何かを飲み込みたいというように。それは意外に強い、強い力よ」
「え?」
私の足は止まり、ツチヤさんと一緒に歩いて行くのを身体全体が拒んでいた。
ツチヤさんはそんな私の気持ちにはお構いなしに、細い白い両手を私の両手に重ねて来た。私の左手は彼女の右手に取られ、私の右手は彼女の左手に取られた。彼女の手はひんやりと冷たくて、ぴったり肌にくっついてくる。まるで彼女の身体が私の一部と融合してしまうような、そんな錯覚に捕らわれた。
ふいに、彼女が抱きついて来た。
「何もこわいことなんかないわ。さあ、力を抜いてみて。剛さんを恋しいという思いを持ったら、それを正直に全身で感じるのよ。勇気がおありなら、打ち明けてみてもいいと思うの。そうすることで、あなた自身、大きく変わり、新しい一歩を踏み出すきっかっけをつかむこともできると思うの」
彼女のほほが私のほほにぴったりくっついてきた。それはやはりひんやりとしていて、きめが細かく、肌というよりはスライムでできた何かのようだった。
私はまるで魔法にかかってしまったように動けなくなった。
「いい、今剛さんが守っている人は、トモカさん。トモカさんと言ってみて」
「トモカさん」
言いたくないのに、口が動いた。
「トモカさんは毎日剛さんの帰りを、剛さんのお家で待っているの。彼のためにご飯を作り、お家をきれいにして、用意して…、そして…、しかも剛さんにそっくりのすばらしい男の子が二人もいて…。何もかも独り占め。そんなぜいたくなこと、幸せなことが一人の人だけのものになっていいのかしら?」
私は固まったまま、汗をかいていた。
「ね、いいのかしら?」
ツチヤさんの手にさらに力が込められているのがわかった。私はまるで誘導されるように
「いえ、いけないと思います」
と答えてしまった。
「そう。いけないわね。今度トモカさんの顔がはっきりわかる何かをお持ちするわ。そうすれば、トモカさんの存在をイメージできるわ。写真がいいかしら」
ツチヤさんはやっと力をほどいて、駅へ歩き出した。一緒にカフェになんて寄りたくない。できれば、着いて行きたくない心境だった。
「いいわよ。今日は許してあげます」
と、ツチヤさんが振り返って、こちらを見た。ゾゾゾ~っと寒気が走った。
「そのかわり、来週の土曜日は絶対にいらしてね。絶対よ」
そう言うと、ツチヤさんは足早に駅に向かって行った。
一緒のホームに立つのさえいやだったので、私はしばらくそこに立ち尽くしてしまった。
「あら、イクミどうしたの?」
家に帰って居間を通ろうとしたら、母が私の顔を見てそう言った。
「え? どうしたって?」
「なんだか、顔色がおかしいわよ、あなた」
「そう?」
「そうよ。ちょっと来てごらん」
母が私を引き寄せて、おでこを触った。
「う~ん、なんなのかしら。熱があるとかそういうわけでもなさそうね」
それから次の土曜日までの一週間、私の憂鬱はどんどん積もるようになり、火曜日には道場に行く気が起こらなかった。そして、金曜日の夜には憂鬱で憂鬱でしょうがなくなった。ツチヤさんの「絶対よ」という言葉が耳の奥に残っていた。その言葉が自分の身体を蝕んでくる、そんな気分だった。食欲も気持ち落ち、会社でもなんだかどんよりした気分になってしまう。
そして、土曜日の朝、起きることができなくなった。
「どうしたのイクミ?」
と母が心配して見に来てくれた。




