その2.
合気道を習い始めて半年が過ぎた。
ずっと会社の帰りに通っていたのだけれど、ふと土曜日の昼間に出かけてみようかと思い立った。私が受けているのは一応、一週間に1回のコースなのだけれど、あまり厳しくコース管理をしているわけではなく、その時々に教えてくれるので、別の日に行っても良い感じなのだ。
何が違うというわけでもない。ただ昼間明るい時に出かけたというだけで、新鮮な感じがしたし、土曜日は確実に剛先生も出ていらっしゃるようで、丹念に教えていただいて、すごく満足できた。これだったら、土曜日に通うのもありかも、そんな気分で駅への帰り道を歩き出した時だった。ふいに、同じクラスにいたらしい女性が後ろから声をかけてきた。年は、私と同じくらいか? もしかしたら私の方が少し年上かもしれない。色の白い、おしとやかな感じの女性だった。
「あの…」
とその人は後ろから追いついて来たようだった。
「すみません。私、さっき道場でご一緒だった、ツチヤと言います。駅までですか?」
私はちょっとびっくりしながらも、「ええ、駅までです」と答えた。
ツチヤさんは、まだ10月だというのにピンクのブラウスに白いモヘヤのセーターを着込んでいた。道場では胴衣を着ていたからわからなかったし、あまり周りの人を見ていたわけでもないから、声をかけられなかったら、一緒に習っていたということはわからなかったかもしれない。
「良かったわ。同じような年頃の女性の方がいらして…」
とツチヤさんは言った。
「はあ」
と、私はあいまいな返事をした。
「私はもう15年も通っているんですよ」
と言うので、私はびっくりして
「え? でも、あの道場は去年始まったのではないんですか?」
と言った。
「ああ、あそこはね、東郷先生のご自宅だから…。以前はね、都内で教えていらしたんです。剛さんもそこにずっと通っていらしていたんです。大先生がお年を召して、都内通いも大変になられたのね、きっと」
とツチヤさんは言った。「剛さん」という言い方に引っかかった。
「その間に、剛さん、結婚なさってね。もう、私のことも、忘れてしまったんだわ」
その言い方が何か、私を不快にさせた。何が言いたいのだろう。私の心の中で警戒心が生まれ、ちょっといやだなと思った。
「あらぁ。もう終わったことなの。ホホホ。誰でも、そういう…なんというのかしら、華やいだ思い出をお持ちでしょ?」
そう言った時、私とツチヤさんと目が合った。何でもないことなのに、私はなんだかぞっとしてしまった。そして、早くこの人と別れて歩きたくて、駅への足取りが気持ち速くなってしまったようだった。
「あら、ずいぶんお急ぎになるのね? 何かご用時でもおありになるの?」
「いえ…」
あまり感じ悪く接したくはない。これからも、また道場で会うこともあるだろうから、そこは適当にあしらいたい、そんな気持ちだった。
「土曜日にはお見かけしなかったけれど、初めての方ではないようね?」
なんなんだろう。この人は? 私のことをそんなによく見ていたのだろうか? なんかそういうことが、やけに気持ち悪く思えた。
「え、ええ」と答え、(今までは火曜日に通っていました…)、と心の中で思ったけれど、それを言うのを留める力が働いた。
「今まではいつ、通っていらしていたんですか?」
とツチヤさんがぐいぐい質問してきたので、
「あ、あの…、会社勤めをしているものですから…、会社の帰りに時間がある時に通っていたんです」
とぼかした。
「そう」
ツチヤさんの物足りなそうな返事…。なんかいやな感じが胸に渦巻いていたけれど、駅の屋根が見えてきたので、そこに気持ちを集中して歩いた。
「ヒラタさんは、どちらまで?」
とツチヤさんが聞いてきた。(え?)と思った。私はまだ自分の名前を言っていなかった。(え?)とまた思った。いったいどうやって私の名前を知ったのだろうか? 胴衣に名前が書いてあるわけでもなし、学生でもあるまいし持ち物にも特に何か名前を書いてあるわけでもないし…?
「私は、東京方面です」と、ツチヤさんが先に言ったので、とっさに私は「あら、反対方向だわ」と答えた。反対で良かったと思った。同じ方向に電車に乗らなくていい。なんだかそのことですごくほっとした。
「どうですか? そこのカフェでお話ししません?」
ツチヤさんが私の目をのぞいてきた。私は(ひ!)と心の中で思った。
「あ、あの残念ですけれど、母に買い物をたのまれていて…、ちょっと…」
と私ははぐらかして、その日はホームで別れた。それでまたさらにほっとした。
土曜日にも通おうと思っていたけれど…、ま、火曜日だけでもいいか、と私は思い直していた。なんだか、このツチヤさんという人と会うことを思うと、どんよりとした気持ちになったのだ。




