その10.
ツチヤさんは私の後ろの方、なんだか遠くの方を見ているような、恍惚としたような表情だった。
「もう、あの時点であなたは負けたのよ。剛さんへの気持ちが本当だったら、私と一緒に動けたはずなのに…。人って弱いのね。私は何よりも強いんです。それはあの人を思う気持ちが本ものだからなの。そうでなくてはあの人を守ることはできませんから。私は人を超えた存在なの。それは前から気づいていたけれど…。人はなかなかそれをわかろうとはしない。ほんと、どうしてなのかしら。ときどき私はどうしようもなく腹が立つわ。クズのような人ならともかく、剛さんのようなできた方でもわからないんですからね」
とツチヤさんは言い捨てると、駅へと歩いて行ってしまった。
もう、関わるのはやめよう、ときっぱり思えた。今まで腹が立っていた気持ちが急にバカらしくなってきてしまった。
数カ月の間、あんな頭のおかしい人に惑わされていたなんて、ほんと、バカみたい。
そして、またノー天気な自分に戻れたことを確信していた。
1年後の夏、夕刊の地方版に小さい記事を見つけた。
『16日午後8時30分頃、JR○○駅近くで乗用車が歩道に乗り上げ、歩いていた人をはねた。車は倉庫の壁に激突して止った。警視庁○○署によると、××市の化粧品販売員、土屋小百合さん(42)が頭を強く打ち、死亡が確認された。車を運転していたのは合気道師範 東郷守孝(71)。激突による重症で入院中。回復を待って事情聴取が行われる予定』
あの道場のあった駅だ。名前からしても、まちがいなく、あのツチヤさんだわ、と思い、なぜ大先生が車で? と思い、気になったのでネットで検索してみた。でもそれ以上のことはわからなかった。
急に剛先生に会ってみたくなった。でも、そんな話を聞くわけにもいかないだろう。道場の近くに行ってみようか…。まあ、それもやめておいた方がいいだろう。
何故なのか? 私は教室に通っていた時の、高揚した気持ちを思い出し、何かまた習い始めたいという気になってきていた。
「あら? イクミ、また何か始めるの?」
と母が聞く。何も相談したわけでもないのに…。
「これどう?」
と母は「ボクササイズ」のチラシをひらりと私の前に置いた。
「そうね、いいかもね」
そうやってまた軽い気持ちで何か始めようと思っている今がうれしかった。
ボクササイズは、今まで通っていた合気道の道場、東郷家のある駅よりさらに2駅東京寄りだった。私はまた会社帰りの火曜日に通い始めた。
習い始めて半年が経ったある日。
同じ方向に帰るタカハシさんという女生となんとなく一緒に電車に乗ることが多く、彼女はあの合気道の道場があった○○駅で降りるので、なんだか不思議な縁を感じていた。
ジムから駅へ向かいながら、私はふと
「○○駅で、あたし、前に合気道を習っていたんです」
と言ってみた。
「あら? 東郷さんの道場へ?」
と、タカハシさんは目をキラキラさせて聞いてきた。
「はい」
「そう」
なんだか、その「そう」という返事の裏に何か隠されているような感じがして、もっと話してみたくなってきた。
「夏に…、交通事故がありましたよね」
「そうそう。身近であんなことがあるなんて、思いもしなかったわ」
「身近?」




