その1.
怖い話を書こうと思って書き出したのですが、とんでもない方向に行ってしまいました。
ジャンルは何なのか? わかりません。
よろしくお願いします。
四月から合気道を習い始めた。
身体を動かすことがそんなに得意ではなかったので、自分がそんなものを習い始めるなんて、思ってもいなかった。
だけど、ある日テレビを見ていて、ふとスイッチが入ったのだ。
そのテレビ番組だって、特に見たくて見ていたわけではない。家に帰って来ると、なんとなくテレビのスイッチを入れるのが習慣になっていて、そのまま寝るまでなんとなくテレビをつけっぱなしにしておくことが多い。
その日、たまたま女性タレントが合気道を習得するというバラエティー番組が流れていて、なんとはなしに見ていて、なんだか、急に「これだわ!」と思ったのだ。
その時、「あら、イクミ、どうしたの?」 と母が聞いた。
「え?」 と私が返すと、「これだわ! って、何?」と母に言われ、「え? あたし、そんなこと言ってた?」とびっくりした。まったく無意識に、思ったことをそのまま口にしていたらしい。母はきょとんと私を見つめた。
「あ、ああ。あたし、合気道を習ってみようかと思って」
と私が言うと、「へえ、いいんじゃない?」と母が言い、そう、いいわきっと、と思えた。
次の日、新聞の折り込みチラシの中に入っていたという、合気道の道場のチラシを母が私に差し出した。
「ほら、いいのがあったわよ」
その道場は、家の隣駅にあるようだった。職場の方から見ると家から一駅手前だ。だから帰宅途中に寄ることができる。体験チケットというのがついていて、最初の3回分はそのチラシを持って行けば無料で受けられるとのこと。思い立ったが吉日ってこれだわと思い、さっそく見学に出かけてみた。
その道場は駅から20分ほど歩いた住宅街の中にあった。けっこう大きなお屋敷の一角にプレハブの道場ができていて、畳が敷き詰めてある。まだ開いたばかりらしく、畳も新しく、骨格はちゃちだったけれど、中はきれいだった。
先生はもう70歳になるというおじいさんだった。でも、背筋をぴっと伸ばしていると50歳代後半くらいにしか見えない。1回体験してみて、自分に合っていると感じて、すぐに入会してしまった。
数ヶ月通ってみて、私が一番気に入ったのは、その大先生の息子さんだった。彼はサラリーマンをしているということだったけれど、時間がある時には指導補助のような形で時々直接指導をしてくれる。東郷剛という名前なので、なんとなく周りの人にならって、老先生のことは東郷先生とか大先生と呼び、息子さんのことは剛先生と呼ぶようになった。
物静かで意志が強そうな感じ。時々ふっと笑顔を見せてくれることがあって、厳しい顔とそのくしゃっとした笑顔のギャップがたまらない。会って指導を受けるたびに、なんかときめいてきちゃって、会うことが大きな楽しみになっていった。
結婚指輪をしているから、つきあうとか、そういうことはできそうもないけれど…。
私にも5年前までは彼氏がいたのだ。でも、最初からときめく瞬間なんかなかった。なんか特に特徴もないような目立たない静かな人で、私の会社のある雑居ビルの他の会社の人だった。何回かエレベータなどで一緒になることがあったりして、見かけたことのある人だったけれど、何とも思っていなかった。
ある日、帰りにエレベータで一緒になった時、たまたま二人きりになり、「飲みに行きませんか?」とストレートに誘われて…。そういうことを言いそうもない人だったから、この時もそのギャップに一瞬だけぎゅっと心をつかまれてしまった。いい人そうだったし、他に付き合っていた人もいなかったから、一緒に飲みに行って、何回か飲みに行ったのだけれど…、どちらかというと、私がいろいろ計画して引っ張って行かなければならない感じで、だんだん面倒くさくなってきてしまい、疎遠になってしまって、そのうちぷっつりと連絡もしなくなってしまったのだ。
今は見かけることもなくなったので、会社を辞めてしまったのか? 会社自体が引っ越ししてしまったのかもしれない。メアドと電話番号は残っている。ときどき、ふと思い出すことはあったけれど、またよりを戻そうという気にもなれず、そのまま数年が過ぎてしまったのだ。
私には兄がいるけれど、彼は所帯を持ち、今は九州で暮らしている。父は私が中学生の時に急逝し、今は母と2人暮らし。母はうるさくあれこれ言う人ではないし、家事のほとんどはやってくれるし、家は居心地が良くお気楽な毎日だった。ふと、これで彼氏でもいたらいいかもね、と思うこともあったけれど、四十歳を前にして、新たにつきあいを始めることに面倒くささも感じていた。
特に何かが足りないと感じていたわけでもなかったけれど、合気道を始めてからは体調も良く、気分も良く、適当なときめきもあり、気持ちが少し高揚していて、会社勤めにもメリハリが出てきているような気がしていた。




