医療、床屋外科、施療院
「ダンジョンを作る前に、中世ヨーロッパの医療技術について学びませんか?」
とクーラが言った。
俺が頷くと、マリが続けて言った。
「医療レベルが分かれば、トラップの攻撃力をギリギリまで高めることができるわよ」
「つまり、効率良く時間稼ぎができるわけか」
というわけで、俺たちは医療について学ぶことにした。
「中世ヨーロッパの医学は、ローマ時代と比べて非常に低いレベルでした。そして、当時のイスラム世界とも、かなりの差がありました」
「なぜ、古代ローマの医学知識が断絶してしまったのか? それは学術書がラテン語で書かれていたからよ。中世ヨーロッパには、ラテン語の読み書きができる人が極端に少なかったの」
「なるほど」
「逆に言うと、ラテン語が読めれば、古代ローマの様々な知識――高度なロスト・テクノロジー――に、アクセスできたのよ。ちなみに、古代ローマの書物を保持し、ラテン語の読み書きができた集団が、教会よ。さらに言うと、教会に属していないのにも関わらず――古代ローマの知識にアクセスできた人物、そしてその技術を使用した人物が、魔術師と呼ばれたわ」
「ラテン語が読めれば、チート的な知識が手に入るから」
「その通りよ」
「基本的には、聖職者も魔術師も、古代ローマの英知の使用者だったのです。ですから所属する組織が違うだけで、根本的には同族なのですよ」
そう言って、クーラは切れ長の瞳を細めた。
その横でマリが根性の悪い笑みをした。
俺が首をかしげながら頭をかいていると、マリはゲス顔でこう言った。
「さて。以上をふまえて、まずはドイツとイギリスの医療について述べるわよ」
俺とクーラは頷いた。
「床屋外科――という言葉があるのだけれど。これは、中世ヨーロッパの医療レベルが低いことを小バカにするときに、よく使われる言葉なのだけれども。実際に医療レベルが低いから、小バカにすることに対してとやかく言うつもりはないけど。でも、床屋がどういう職業なのかについては、誤解があるから説明するわね」
「ああ、手短に頼むよ」
俺は苦笑いで言った。
するとマリは、にたあっと笑い、そして言った。
「今晩、お医者さんゴッコ的なプレイをして欲しいわ」
「は?」
「それが手短に説明するための条件よ」
そう言って、マリは誇らしげに胸を張った。
その横でクーラが目を細め、そして微笑んだ。
了解。
俺は、とりあえずマリの条件を呑むことにした。
ここで突っかかると面倒なことになる。そのことを俺とクーラは知っているから、何を要求しているのかはよく分からんが、とにかく頷くことにした。
するとマリはひどく物足りないって感じの顔をした。
で、抱き寄せるとすぐに機嫌を直した。
俺とクーラはやわらかく微笑んで、彼女の話に耳を傾けた。
マリは満ち足りた笑みで言った。
「そもそも床屋という職業は、人の体に刃物をあてる職業よ」
「ああ、そう言えばそうだ」
「それにプラスして、中世ヨーロッパの床屋は『床屋外科』と呼ばれる以前から――すなわち外科手術を行う前から――散髪のさいに簡単な整体術も施していたの。それにドイツ圏のスパ (温泉・冷泉)では、療養にきた人たちにマッサージ、腫れ物の除去、浣腸、蛭吸いまで行っていたわ。で、そのような伝統もあって、床屋が医療の一角を占めていると言われたのよ」
「なるほど。そもそも俺たちの知る床屋と、中世ヨーロッパの床屋では、仕事の範囲が違ったわけだ」
俺とクーラは頷いた。
マリは微笑み、続けてこう言った。
「さて。それはさておき、中世の医療の中心は、なんといっても『修道院』よ。修道士たちが薬草を栽培して、人々に医療を与えてきたのよ。ちなみに当時の主な医療従事者は以下の通りだわ」
■――・――・――・――・――
中世ヨーロッパにおける主な医療従事者
修道士
薬草による医療行為、外科手術
お祈り (プラセボ効果が高いと推測される)
薬草売り
販売だけでなく、診断・調合もおこなう
床屋
抜歯、腫れ物の除去、浣腸、蛭吸い、マッサージなどをおこなう
■――・――・――・――・――
「ところが、中世盛期 (1000~1300年)に、聖職者が血に触れることを禁止する動きがでてきたの」
「ちょうど教会権力が強くなった時代だな」
「そう。それで修道院の医者は、薬の調合による対症療法だけしかできなくなったのよ。で、治癒は神の意思とされていたの」
「それがいわゆる中世ヨーロッパの医療か」
「そういうイメージが浸透してると思うわよ」
マリはそう言って、根性の悪い笑みをした。
そして言った。
「それで聖職者が血に触れることを禁止する動きから、修道士が外科系の治療をできなくなったのだけれども。そのことによって、世俗の外科が生まれたのよ。彼らは、最初は修道士の指示を受けて治療を行ったわ。そして、やがて独自に医療行為をするようになったのよ」
「そのなかに床屋も含まれていた」
「その通り。で、当時の外科の仕事は、事故や戦闘による傷に対して、切断・切除をすることと、止血を行うくらいなの。だから、刃物を扱う者として床屋が外科を行うことも多かったのよ」
「ああ、それで床屋外科になったのか」
俺は、ぽんと手を叩いた。
マリとクーラが穏やかな笑みをした。
「ちなみに――。床屋と外科の職人ギルドは、当初は別々だったのよ。でも、床屋が外科の領域をちょくちょく侵したから、争いがよくおこったの。だからイングランドでは、16世紀に床屋と外科のギルドを合併して『床屋外科ギルド』にしたのよ」
「それで床屋外科という言葉が生まれたわけだ」
「その通り」
マリは満ち足りた笑みをした。
そして。しばらくするとクーラが説明をはじめた。
「次はパリ、フランスの話です。13世紀のパリには、多くの施療院がありました」
「施療院?」
「hospital――病院のことですね。この医療施設には『神の家』や『神の館』といった名前が付けられていました。そして、パリの施療院の会則には『キリスト自身のごとく病人を迎えること……ひとりひとりの病人を一家の主のごとく世話すること』と定めていました」
「ずいぶんと近代的だな」
「ええ。そして施療院は、世話を必要とするすべての人を受け入れました。『貧しい巡礼にとっては病院』『老人にとっては養老院』『婦人にとっては産院』『貧困学生にとっては学生寮』だったのです。入院を断られるのは、狩猟用の鳥や犬を連れた人くらいだそうですよ」
「すげえ福祉施設だ」
暗黒時代のイメージとはまるで違う。
「ちなみに職員は、修道士・修道女・司祭・用務員です。この施療院では、修道生活をおこなう場所や食堂さえも、また病人の看護もはっきり男女に分けられていました」
「それは教会……クーラの過ごした修道院と同じだな」
「その通りです」
「というより、職員を見れば修道院そのものだよな」
「ええ。もともとは修道院だった施設が、次第に医療に特化したのでしょうね」
「なるほどな」
「食事は質量ともに『充分であるべき』とされていました。しかし、肉は週に3回しか食べることができませんでした」
そこらへんは運営費との兼ね合い、いわゆる理想と現実なのだろう。
「さて。その医療行為ですが――。病人は入院するとまず体を洗われました。彼らの衣類は熱湯消毒や洗濯をされました。そして衣類は、持ち主が退院時にきちんとしたものを着られるように修繕されたのです」
そう言ってクーラはメモを差しだした。
そこには、施療院のことがまとめられていた。
■――・――・――・――・――
13世紀パリの施療院について
・入院患者は1つのベッドに2・3人
重病人と産婦は1人で1ベッドを使用した (破格の待遇である)。
・入院患者は自分専用の深皿・スプーン・コップ・ブドウ酒壷を使っていた
この時代には2人で1つの深皿を使用するのが一般的だった。
・清潔さを保つために注意が払われた
修道女が毎朝、洗面の世話をし、その間に用務員が病室の掃除をした。
回復期の病人は風呂に入った。
シーツ・下着は頻繁に取り替えられた。
そのことで毎年500~700のシーツがボロ切れになった。
・食糧調達は施療院が所有する農地から行われた
さらに寄附依頼係が毎朝市場へ寄附をもらいにいった。
・病人が欲しがるものはすべて与えるように規則で決められていた
ただし健康によくないものや、入手できないものを除く。
・祝日には病室は花で飾られ、美しい布団がかけられた
そしてベッドの周りは壁掛けで装われていた。
・病状が良くなると、病人は最低7日間の体力回復につとめた
それが終わると院長から治癒証明書をもらって退院した。
■――・――・――・――・――
「ちなみに、診療代は病人の財産によって決められました。つまり、富裕な人からは高額の報酬をもらい、貧しい人には鶏・チーズ・卵などを請求したのです」
「とても13世紀とは思えないな」
「はい。さらに言うと、パリの施療院では医者は無報酬でした」
「すごいな。というより、まるでイメージと違う」
俺が興奮して言うと、クーラは寂しげに目を伏せた。
そしてマリが言った。
「このパリの施療院は、たしかにとても近代的なのだけど。でも、黒死病には勝てなかったのよ」
「黒死病」
「1347年10月……14世紀に起こる、ペストを主とした (チフスや天然痘なども含まれる)疫病の大流行よ」
ちなみにパリの人口は、1200年は11万人、1300年は22万8千人、1400年は28万人である。
「パリの人口密度は、いつの時代も21世紀の東京よりも高かった。だからこのときも、パリの人々はひどく密集して暮らしてたのよ」
「そのことが、多くの黒死病犠牲者を出すことになったのか」
「大都市では人口の50%が命を落とした――という推測があるわよ」
「で、そのことで施療院が機能不全となったのか」
「そして医療技術がいっそう後退することになったのよ」
俺は、うーんと唸ったまま深くソファーに沈み込んだ。
するとマリが俺の胸に頬を寄せた。
そして上目遣いでこう言った。
「あなた神でしょう? ちょうどいい機会だから今ココで断言しなさいよ」
「ん?」
「俺の創った世界に、黒死病のような大量死はない――って、それくらい言い切ってよ」
俺は泣き笑いの顔をして、マリとクーラの肩を抱き寄せた。
そして、しばらくすると大きく頷いたのだった。
――・――・――・――・――・――・――
■神になって知り得た事実■
中世ヨーロッパの医療について知った。
……ちなみにアダマヒアでは、モンスター討伐の盛んなザヴィレッジが13世紀のパリ、すなわち施療院レベルの医療施設を持つ。王国と穂村はイギリスやドイツの医療レベルに近いようだ。




