9.妨害する雨と硝子
猛烈な雨だった。
大粒の土砂降りは短時間で白砂の運動場に大きな水溜まりを幾つも作っている。それに
一見水が溜まっていない場所でも、砂はたっぷりと水を吸い、水溶き粘土のような状態になっている。
気を抜くと足を取られ転倒する中を、四人は全速力で渡り廊下まで走る。巫女姫の霊気により雷の直撃からは免れているので、思い切って最短路を走った。
体育館とホームルーム棟を繋ぐ渡り廊下は、他の通路とは異なり途中で出入り口を設けてある。
強風に煽られながら、紫は貴史が開けた通路への入り口から中へと入った。
「ひっでえ雨っ!」
最初に中へ入った貴史は、最後の伊織を招き入れると素早く戸を閉めた。雨避けに被っていたタオルを頭から外し、ぎゅうっと絞る。
悟もそれに習う。二人のタオルから板張りの床面に、滴がぽたぽたと落ちた。
「やれやれ。ここまで来るのがこんなに大変って事は、この先どうなるのやら」伊織が、微妙に人の悪い顔付で口の端を釣り上げる。
「行ってみなきゃあ、分からん」
濡れタオルをベルトに無理矢理引っ掛けると、紫は歩き出した。
一際強い風雨が、通路の窓を叩く。横薙ぎの風は刃となり、古い形の窓硝子を突き破った。
大量の硝子の破片が雨と共に四人に降り注ぐ。
「ぐぎゃあっ!!」
妙な叫び声を上げその場に蹲ろうとした悟の腕を咄嗟に掴み、紫はホームルーム棟の方へと走り出した。
貴史と伊織も彼に続く。
窓硝子は次々と割れ、彼等の行く手を阻もうと雨混じりの烈風が渡り廊下を吹き荒れる。
細長く割れた破片が数個、紫達に向かって飛んで来る。腕を翳し雨を避けていた紫は、気付いて悟を抱え脇へ転がる。
彼等のすぐ後ろを走っていた貴史は、伊織を突き飛ばすと、自身は身体を反転させ反対側の窓へと退いた。
その時。
窓の外に一人の少年の姿を見付けた。少年は白いワイシャツに青葉のカラーのブルーグレーのタイを付けている。
風雨にも髪が乱れた様子も無く、少年はじっとこちらを見据えている。
「なにあいつ……」
貴史が呟いた刹那。
割れた窓硝子から稲妻が数条、彼等に向かって走り込んで来た。
「あぶないっ!!」
窓際に突っ立っていた貴史を伊織が引き倒す。それと同時に、巫女姫の声が響いた。
——させぬわっ!!
転がった場所から姿勢を上げる事が出来ず、俯せていた紫と悟目掛けて走って来た稲妻が、彼等のすぐ真上で、強烈な閃光と共に消える。
同様に、貴史を庇うように伏せた伊織の頭上でも、稲妻が閃光、消滅した。
——今のうちに、走りゃ。
巫女姫の声が、紫と伊織に指示する。
二人は聞こえない悟と貴史を引っ張り、一目散にホームルーム棟へと駆けた。
ホームルーム棟の扉に組み付き、紫が扉を開ける。次々と四人が中へと入った直後。
特大の破壊音が響き、渡り廊下の屋根に落雷。屋根を吹き飛ばした。
木製の廊下の屋根には一度火が点く。しかし激しい風雨が瞬く間にそれを消した。
「……怖ええぇ」
ホームルーム棟の防火用の扉越しにその様子を見ながら悟が呟く。
——相当な癇癪じゃの。
呆れたような巫女姫の声に、伊織は小さく失笑する。
「……とにかく、先を急ぎましょう」
******
ホームルーム棟の廊下の床には、既に三センチ程水が溜まっていた。
「さっすがスプリンクラー。仕事が速いねえ」
貴史の軽口を伊織が苦笑で受ける。
「正常に動く証拠っちゃそうですけど、今はただの困りものですね」
廊下は、棟の西側を通っている。渡り廊下から続く通路とは昇降口手前で交わる。その辺りまで来た時、紫は不意に呼び止められた。
「生徒会長っ?!」
四人は一斉にそちらを向いた。昇降口の方から四、五人の生徒が現れた。
最初の雷でここへ入り込んだ一団であろう。胸の校章の色からすると、二年生である。
「どっから来たんですか?」
「おまえらこそ、ずっとここに居たのかよ?」
逆に尋ねる貴史に、生徒達は「ああ」と答えた。
「初めは二十人くらいでここへ入ったんだけど、みんな体育館の方へ移って。……でも、俺達は一度管理棟の方へ行っちゃって。あそこも酷い水溜まりなんで、今戻って来たんだ」
「そうですか……」
「って事は、無事なのは体育館だけか?」
貴史の言に伊織も頷く。
「後は、僕達が避難していた武道館の方ですね」
「え? じゃもしかして、あの雷の中、校庭を通って来たんですかっ?!」
武道館や弓道場は、渡り廊下では繋がっていない。
目を丸くする生徒達に、貴史が軽く言う。
「それ以外、どーすんのよ?」
「だって、あんな直撃するみたいな雷で……」
「ま、俺達には幸運の女神が付いてっからっ」
片目を瞑った貴史に、紫が渋い顔をする。
巫女姫の声は聞こえないものの、彼女が自分達を守っている事は、貴史も承知していた。
「さて。ではそろそろおいとましましょう」
伊織が言い、紫が歩き出す。
「あっ、あのっ」
生徒の一人が呼び止める。
「俺達はどうすれば……」
「そんな事は、てめえで考えろ」
「そっ、そんなっ」
紫に切り捨てられて困惑する生徒達を見兼ね、伊織が柔らかく教えた。
「外は、ご存じの通り物凄い嵐です。建物の中は、先程あなた方からお聞きした話を総合すると、やはり安全なのは体育館という事になりますね。しかし、ここから体育館へ行く通路は、先程落雷で滅茶苦茶になってしまいまた」
「えっ? じゃあ、俺達もうここから動けないんですかっ?」
今にも泣き出しそうな生徒達に、貴史が大袈裟な溜め息をついた。
「あのなあ、誰かに頼ろうって考えてんじゃねえよっ。俺らも忙しいのっ。体育館に行きたきゃぶっ壊れてる渡り廊下根性で通りなっ」
「窓硝子が割れて大量の破片が床に散らばってます。滑らないように気を付けて行けば、何とか渡れるとは思いますよ?」
「それじゃ、とっても……」
逡巡する生徒達に、紫はいい加減痺れを切らす。付き合っていられないと背を向けた。
「おい、行くぞ」
他の三人に声を掛けた。
「あっ、何処へ……?」
付いて来ようとする生徒達を、紫は足を止めて振り返る。
「来るな。おまえ達には関係無い」
「連れてって、くれないんですか……?」
「足手まといだ」
紫の非情な言葉に、生徒達が黙る。再び伊織がフォローした。
「すいませんね。僕達これからちょっと危ない事しに行くんです。一緒に連れて行って差し上げたいですけど、あなた方まで危険に晒したら不味いでしょ?」
「そーゆーコト。んじゃ」
片目を瞑ると、貴史か手にしたタオルを彼等に投げて寄越す。
「幸運のタオル。それで頑張りな」
悟も「じゃね」と自分のを投げた。先に歩き出した紫に、小走りに追い付く。
伊織も「それでは」と丁寧に頭を下げて、その場を去った。
「あの人達、体育館へ行くかな?」
紫の隣に着いて、悟は少し心配気な表情で後ろを振り向いた。
「さあな。別にここに居てもすぐに死ぬ訳じゃねえし」
「そりゃそうだけど……」
「大体、生きたきゃてめえでどうにかするしかねえ。……さっき、一番他力本願な奴が言ってたがな」
「おいっ。今の科白は聞き捨てなんねーぞっ」
真後ろを歩いていた貴史が、紫に食い付く。
「誰が他力本願だってんだっ。このクソ坊主っ」
「……てめえ何度言ったら判るっ! 俺は坊主じゃねえっ、坊主は親父だっ!」
「跡継ぎだろーがっ。細かい事でいちいち怒鳴るんじゃねーっての、この生臭坊主っ!」
長身を利用して頭の上から文句を振らす男の向こう脛を、紫は思い切り蹴飛ばした。
「ったーっ!! いってーなこの暴力ボーズがっ!!」
「坊主を連呼するなっ」
蹴られた足を曲げ脛を擦っていた貴史の頭を、紫は平手で叩く。
「こンのヤローっ!! 一度ならず二度までもっ!!」
「あははは。随分古めかしい言い回しを知ってますねえ、貴史」
えらいえらい、と乾いた拍手をする伊織に、紫も貴史も一遍に毒気を抜かれる。
「……アホらし」
「……やってられるか」
「なー、早く行こうぜっ。こんなとこでぐすぐずしてたら、ガッコ屋根まで水に浸かっちゃうってっ」
絶妙なのかズレているのか。悟の言葉に貴史が鼻を鳴らした。
「バカかてめー。ここ高台だぞ? 校舎の屋根まで水に浸かるくらいになったら、坂下の街全部水没するだろーがっ」
頭の真上から完全に馬鹿にした眼差しで見下ろされ、子犬が吠えた。
「そんなんわかんねえじゃんよっ! もしほんとに水没したらどーすんだよっ!?」
「ある訳ねーだろがっ。ほんっとしょーがねえなマメ芝はっ。のーみそ1ミリグラムしか入ってねえんじゃねえの?」
「うるせーっ。オオカミこそノウミソじゃなくって頭ん中エロ雑誌しか入ってないんだろーっ!」
「ああっ!? 誰が頭ん中エロ雑誌だよっ! んならてめーの頭はドッグフードだけだろがっ!!」
「るせえってんだよっ! このバカ犬コンビっ!」
紫は脱いだ靴で素早く大小の頭をぱんぱんっ、と叩いた。
「ぎゃんっ!!」
「ぐぎゃっ!!」
「おら行くぞ」
靴を履き直して、鬼の生徒会長はとっとと歩き出す。伊織が後に続き、怒られたバカ犬二匹は頭を抱えつつその後ろをのろのろと続いた。