5.水漏れと恋
三時間目は現代国語の授業中だった伊織のクラスでも、水漏れが始まっていた。
初めは中央辺りから。次に廊下側の前と最後尾、その後は一斉に三箇所から、水滴はぽたぽたと落ちて来た。
クラス委員が教科担任の指示で職員室に走った。他の生徒はバケツや雑巾を総動員して滴の下に置いた。
だが、すぐにそんなものでは間に合わない程漏水箇所は増えてしまった。
「水道管破れたのかなっ?」
「わーっ、こっちダダ漏れっ!!」
滴と言うより流れて来るような箇所も出始め、床に水溜まりが出来始める。
「先生」
伊織は眼鏡を押し上げ若い現国教師を見た。
「こりゃあ、教室から出た方がよかないですか?」
「おう、俺もそう思った。——おおいっ、全員退去ーっ!!」
教師の号令で、クラスは全員廊下へ出た。
彼等が出てすぐ、ひとつ置いた五組の教室からも生徒が出て来た。
「ありゃ。あっちもですか」
「この校舎、古いからなあ」並んで出た本田が渋い顔をする。言っているうちに、今度は二組からぞろぞろと出て来る。
伊織はその中に見知り過ぎている長身を見付け、そちらへ歩く。
「貴史」
「おう、そっちもか」
呼ばれて、貴史は寄って来る伊織へ自分も数歩近付いた。
二時間目に教室を追い出されていた貴史は、授業の終了まで保健室で油を売っていた。三時間目の休み時間、いい加減飽きたのと、新規の『客』が来たのとで教室へ戻った。
「ったくよ、今日は一体どーなってんだよ?」
後ろ首をがりがりと掻く貴史に、伊織は優しい笑みを掃く。
「そうですね。特別棟でも天井からの水漏れがあって、僕らの組は二時間目使えませんでしたし」
「へえ……」
男が気の無い返事を返す。伊織は目で苦笑した。
「でも、貴史は嫌いな授業が潰れて、ちょっと嬉しいんじゃないんですか?」
「あーまあ、そうだけど……。けどこれじゃあ朝うっかり念じた通りだし?」
伊織は、黒縁の眼鏡の中の綺麗なアーモンド型の目を見開く。
「何を、念じたんですか?」
「あー、あっちいからよ、いっそのことガッコ洪水になんねーかなーって……」
人間には、時として己の欲求を無意識に通してしまう能力を持つ者が居る。
予知とは違う。例えば、出掛ける時に雨が上がればいいのにと思うと、本当に上がってしまう。しばらく会えなかった人と会いたいと考えると、すぐに相手から連絡が来る。
霊能力とは別種の、一種の超常的な力だが、大概本人に自覚症状は無い。単に運がいい程度にしか考えていない。
そんな力を、貴史も持っている。貴史自身は知らないかもしれないが、伊織は度々彼のその能力を目撃している。
科学的に解明出来ていないものなので、半信半疑の類いではあるが、貴史の如く、時折というよりしばしば起こるとなると、神秘現象否定論者の伊織としても納得せざるを得ない。
今回のこの水漏れも、ひょっとしたら貴史の『願い』が原因なのかも、と、伊織は一瞬ぎょっとする。
しかし当のルームメイトは、そんな伊織の懸念など知る筈も無くけろりとして言った。
「ま、俺が思った事とは関係ねえだろーけどさ。でもよ、あんま暑いんで、ガッコ来てからも一回顔洗おうと思ってトイレ入ったら、ベンジョは断水してやんの。なんだろーなー?」
「それ……、何時の事ですか?」
伊織は本当に嫌なものを感じて訊いた。
「一時間目の、初めくらいかな?」
「何処の——」
尋ね掛けた相棒の手首をいきなり掴むと、貴史は「こっち」と歩き出す。そのまますたすたと昇降口に近いトイレへと向かった。
入ると、一番手前の蛇口を捻ってみせる。
「ほれ」
「あ、ほんとだ」
水は、確かに出て来ない。
「もう三時間目なのに……。ウチのクラス、誰もここが断水してるなんて言ってませんでしたよ?」
「おまえのクラス、みんな手ぇ洗わねえんじゃねえの? 俺んクラスは俺の他に二人か三人知ってたぜ」
「蛇口を先に捻ってみて、出ないんで他へ行ったのかもしれません。誰も大した事ではないと、思ったんでしょう」
苦笑しつつ、伊織は、隣の蛇口も捻ってみる。やはり出ない。
「ここはからからなのに、教室や特別室の天井は水漏れ。ってことは、やはり上水道の管の何処かが破れてるんでしょうかね……」
「伊織……」
蛇口を触り確認する伊織の形良い指先に、貴史は欲情を刺激された。衝動的に伊織の手を取り、己の口元に持って行く。
「ちゅう、させろよ……」
他の生徒は教室の騒ぎで、彼等がトイレに二人きりで居る事など、全く知らない。
人目に触れる心配が無いのを幸いと、大胆にもそのまま身体を引き寄せようとする男の鼻を、伊織は深い笑顔を浮かべ空いている方の手で、ぎゅっ、と摘んだ。
「ふぁにふんだっ」
「冗談言ってる場合じゃありませんって」
貴史が伊織の手を離す。
「ったくよお……」
結構強く掴まれて痛かった鼻を擦りながら、貴史は横目で愛しい美貌を睨む。
一世一代仕掛けても、伊織は冗談と思って全く取り合わない。
いや、もしかすると勘のいい彼は知っていて知らんぷりしている可能性もある。
「ちぇー」
冗談でもいいから、キスのひとつもして欲しいのに。
連れなくされると更に追い掛けたくなる。恋は厄介な病である。
拗ねた男にお構い無く、伊織は再び蛇口を調べる。
「でも一滴も出ないっていうのは、ちょっと妙ですねえ」
呟いた刹那。廊下から叫び声がした。
「うわあっ!」
「うっひゃあ、最悪っ!」
何事かと貴史と伊織はトイレから飛び出る。途端。ざーっという大量の水が流れる音が、聞こえた。
二人は近くに居た生徒を捕まえた。
「どうしたよっ?」
「何の音です?」
「スプリンクラーだよっ。突然作動したっ!」
廊下の先を見ると、それまで教室内に居た他のクラスの生徒が一斉に廊下に出ていた。
「こりゃ……、全クラスか?」
濡れて騒ぐ生徒の間を、教師達があたふたと駆ける。
「全員校舎の外へ退去っ!」
号令に、生徒達は一斉に昇降口へと動き出した。
事態は深刻な方向へ行ってる、ハズなのに、貴史のせいでなぜかふにゃけます。
仕方ねーなー、恋してる不良・・・