4.子犬と紙片
二時間目。
伊織達が使用出来なかった第二化学室で実験を行っていたのは、悟のクラスだった。
悟達は、二時間分の教科書とノートを抱えて化学室に入っていた。
実験は、ごく弱い薬品同士を指定の割合で混ぜ反応させるものだった。弱いといっても、皮膚に付くと少しピリピリする。
生徒は慎重に調合していた。
クラスを六班に割っての実験で、一班の人数が五、六人である。分担を決めて進めるが、どうしても仕事量の関係ですぐ手持ち無沙汰になってしまう。
悟もあまり勉強は得意ではないので、程無く見学組に入った。小柄な彼にはやや大きい白衣の袖を肘の辺りまで捲り上げ、所在無さげに木製の四角い椅子に座っていた。
かたかたと椅子を揺らして、実験を続けるクラスメイト達の手元を見ていたが、ふと、目線が机の下の棚へと移る。
首を倒して、悟は何気なく中を覗いた。
机を囲む全員が教科書や他の勉強道具を仕舞える広さの棚の奥に、白い小さな紙切れがあった。
何だろう? と、手を伸ばして紙片を取り出す。それはルーズリーフの切れ端だった。
鋏かカッターナイフで切り取ったと思われる、十センチ角程の紙片。その表面には薄い小さな文字で何かが書かれている。
悟は、紙を持ち上げ天井の蛍光灯に透かす。
書いて、一度消したらしいそれは、だが文字では無かった。記号のようなものを幾つも組み合わせた、妙な形の模様である。
「何処かで見たような……?」
でも思い出せないと思いつつ、更に眺めていると、その模様の上に重なって文字が書かれているのが読めた。
「ジュ……?」
声に出して読んでみて、悟は初めてその字の意味を確認する。
ジュ。呪い。
決して大きくも太くも無い書かれ方その文字は、だがはっきりと書いた人間の意を表している。
誰かを呪いたい、呪ってやる——
悟の背に、ぞわりと冷たい汗が浮いた。
——やべえ、これ。
彼は周囲を窺う。同じ班の生徒達もその隣の班の者も、実験に集中していて誰も悟の行動は見ていなかったようだ。
確かめて、悟はそっと紙片を棚の奥に戻した。
その時。
「つめてっ!」
前から三番目の右の班の生徒が飛び上がった。
「何だよ?」同じ班の者が訝しむ。
「天井から何か落ちて来たっ。冷たいものが首の後ろに当たったっ」
「うわっ。ムシとかじゃねえの?」
他の生徒も寄って来て、級友の襟の中と天井を見る。と、生徒達の居る場所の真上から、ぽたり、と何かが落ちた。
「水滴じゃんこれ?」
「あ、ほら。天井に染みが出来てる」
「げげっ。こっちも水漏れっ?」
たちまち生徒がその場所に集まって来た。
悟も、やじ馬の群れに混ざって天井を見上げる。
「そう言や隣の第一も漏ってるって。さっき二年が言ってたよな」
「せんせー」一人が準備室に入っている教師を呼びに行く。
「やっぱ配管かなあ?」
「ここって上、何だっけ?」
「生物室だよ」
「違うよ、地学室」
わいわいと言っている間にも、水漏れは酷くなって行く。
「わっ、こっちもだっ!」
窓際の班の生徒が叫んだ。丁度準備室から出て来た教師とやじ馬がそちらへ移動する。
「あー、ここも随分染みになってるなあ!」
「センセーっ、こっちもですっ」
中央からも声が上がる。続いて廊下側の最後尾の班の生徒が叫ぶ。
「ここも漏って来たっ!!」
更にその隣の上からも。そこからはあっと言う間に天井全体からぽたぽたと滴が落ち始めた。
「こりゃダメだ。全員脱出っ!」
生徒達は慌てて勉強道具を引っ掴み、我れ先にと第二化学室を出た。
戸口に立った悟は、先程の紙片を突っ込んだ机を振り返った。
——ほっといて、いいのかな……?
束の間逡巡する。が、思い直すと級友を追って廊下へと出た。
******
悟達は一旦教室へ戻った。だが教室の水漏れは酷さを増しており、とても居られる状態ではない。腕時計を見た教科担任は、残り時間があまり無いのを確認、生徒に授業の切り上げ終了を告げた。
「取り敢えず次の授業が体育だから、体育館へ着替えに行け」
青葉の広い体育館予備室には、全校生徒分のロッカールームがある。悟達は教室に入るのを諦め、二教科分の道具を持ったまま体育館へと急いだ。
幸い、先に体育の授業が入っていたクラスは無かった。悟達はロッカールームでゆっくりと着替えを済ませ、三時間目が始まると同時に暑いグラウンドへと出、準備運動を開始した。
同じ時間。紫のクラスは日本史だった。
窓際の自分の席で年配の教科担任のもたもたとした講義聞きながら、紫は欠伸を噛み殺す。
陽射しを遮るために引かれた乳白色のカーテンが、熱風に押されて膨らむ。邪魔なカーテンを身体で抑えた紫の指が、教科書の次頁をかったるそうに捲った時。
ぽたり、と水滴が本の上に落ちた。
「先生」紫は立ち上がった。
「何だ一条」
「天井、水漏れしてます」
教師が怪訝な表情で寄って来る。紫は教科書の濡れた部分を指差し、次いで天井を指した。
他の生徒も教師と共に見上げる。
「あ」
「ほんとだ」
言った途端。
「うわっこっちもだっ!」
一人が飛び上がる。退いた椅子の上にぽたり、ぽたりと水滴が落ちる。
「やべっ、ここもっ!」
すぐ隣の列の生徒が頭を押さえた。
「あ、こっちもっ」
「わっ、つめたっ!!」
「こりゃ酷いな」教師は教科書を畳むと紫を振り向いた。
「一条、おまえ済まんが職員室に報告に行ってくれ」
「……解りました」
何で俺なんだという不満は胸の隅に無理矢理押しやって、紫は立ち上がる。
「他の者は、何か水を受けるものを持って来い」
ばたばたと動き出した級友を後目に、紫は教室を出た。