16.模型と懐中電灯
紫はしゃがんで調べ始める。先刻伊織が言った通り、模型にはホームルーム棟と管理棟、特別棟はあるものの、それ以外の建物は無い。
何かが引っ掛かる。
水槽の縁に手を掛け、反対側に動かし見てみようとした時。
——底じゃ。
紫は巫女姫に頷くと、模型を取り出そうと水槽の上へ手を翳した。刹那。細く青い電撃が紫の手を襲う。
「つうっ!」
弾かれた手を軽く振る紫に、巫女姫が苦笑する。
——どうやら、吾の霊力が気に食わぬようじゃ。
「紫、大丈夫?」悟が従兄を心配そうに見る。
「貴史、こいつを引っ繰り返せ」
「へ?」紫の正面で成り行きを見ていた男は、いきなり振られて素っ頓狂な声を出す。
構わずに紫は続ける。
「底に何かある。恐らく呪符だと思うが」
「……へいへい」
言われた通り、貴史と伊織は水槽を引っ繰り返した。
幾枚も貼り合わせた模型の土台の発泡スチロールが、無機質な白い断面を硝子越しに見せている。
「……なんにもねえぜ?」
貴史が言う。伊織は眼鏡のブリッジを左手の人さし指で押し上げながら、水槽の底を見下ろす。
「土台の中、ですかね」
「の、ようだな。なら、水槽ごとこいつを壊す」
「えっ、これ壊しちゃうのっ!?」
悟が叫ぶ。
「こいつは見立てだ。壊さない限り術は破れねえ」
「でも……、何だか勿体無い」
模型をしげしげと眺める悟に、伊織が柔らかく言った。
「仕方無いですよ。このままじゃあ学校がずっと水浸し、らしいです」
「けど、どーやって壊すよ?」
しゃがんだ貴史が、眉を顰める。
「懐中電灯を寄越せ」
言われるままに、悟が紫に懐中電灯を渡す。
紫は無造作に電池の入っている柄の部分で硝子を叩いた。
が。
「……割れねーじゃん」
「やっぱり力足りないんじゃないんですか?」
「紫こーゆーのヘタだし」
「るっせっ!」
三人の非難の目に赤くなりながら、紫はもう一度懐中電灯を振り上げる。
その時。
「あっ、あいつっ!!」
「今井君っ!?」
伊織と悟が同時に特別棟の方向を見た。
貴史と紫もそちらを向く。
渡り廊下の入り口、特別棟からの出口に、今井雅司は立っていた。
中肉中背、髪もごく平凡な短髪でやや前髪が長い髪型、青葉の制服であるダークブルーのネクタイを白のワイシャツの襟元に締めた、本当に目立たない少年。
青白い貌でじっとこちらを見る少年の、水に浸かっているいる筈のダークブルーのズボンの足下は、しかし透けて消滅していた。
「げっ……、お約束通りの幽霊っ……」悟がたじろぐ。
「霊体になっても優等生ですね」
「おいおい〜、俺に丸見えの幽霊って初めて。ってか?」
「さっきも見たって言ったじゃないですか?」
「だっけ?」
「……ちっ」
舌打ちすると、紫は懐中電灯を持ったまま今井雅司に向き直った。
「てめえの企みは、悪いが粉砕する。大人しく消えろ」
宣言すると、彼は再び水槽を割るべく腕を振り上げた。
が、その腕は空中で止まった。
見えない強力で腕をねじ上げられた紫の脳裏で、巫女姫の緊迫した声が響いた。
——いかんっ!!
死霊の念が、紫の気を搦め取り支配しようとしている。
このままでは殺され兼ねないと判断した巫女姫は、無理矢理紫の身体に入り込む。
「ぐっ……!!」
腕を拘束されたまま憑依の時の胸苦しさを覚えた紫は、巫女姫に悪態をつこうと口を開き掛けた。が、言葉が声になる前に、己の意識は隅に追いやられてしまった。
苦しさに、紫の金茶の瞳が大きく見開かれ、そして閉じられる。次に開かれた両眼は、巫女姫の黒曜石の瞳に変わっていた。髪の色も、霊力によって金茶から漆黒へと変化する。
紫の肉体は、一時的に乗っ取った巫女姫の生前の姿に変わる。少し背の小さくなった細身の身体の、ワイシャツの胸元を押し上げる丸い膨らみを認めて、貴史が思わず相貌を崩した。
「うっひょっ。守護霊ちゃんたら、何時見てもナイスバディ」
「そんな事言うと、後で紫に思いっ切り殴られますよ?」
二人の戯れ言を横目に、巫女姫は今井に搦め取られていた腕をゆっくりと下ろす。
『生憎じゃが、吾にはそちの念は効かぬ』
巫女姫は手の中の懐中電灯を確認すると、もう一度振り上げる。
ばちっという青い火花が上がり、懐中電灯に稲妻が絡み付く。
巫女姫の霊体には痛みは無いが、紫の肉体は激痛を感じる。女の丸みが加わり一層美しくなった貌を歪め、巫女姫が懐中電灯を取り落とす。
『……それでも、抵抗するというか……』
巫女姫は右手を押さえ、今井を睨み付ける。
『為ん方なし。されば相手になろうぞっ』
巫女姫が背を伸ばす。と同時に彼女の身体から白い光が溢れ出す。光は急速に収斂され、ひとつの束となって巫女姫の腕に集まる。
姫が、右腕を前へ振る。集まっていた光が真っ直ぐに今井の胸元へと飛ぶ。
死霊は避ける事も出来ず、巫女姫の霊気をまともに受ける。
守護霊であり神霊に近い巫女姫の霊気を浴びれば、通常の霊ならばたちまちに霧散する。
しかし、少年の怨念は消えなかった。じりじりと後退しながらもその場に踏み止まっている。
『しぶといのっ』
押している筈の巫女姫が、苦し気な声音で言った。
『……この間に、呪物を破壊しやっ』
死霊と守護霊の争いを呆然と見ていた三人は、巫女姫の言葉に我に還る。
「っしゃっ!」貴史が水槽に組み付く。
ばちん、と火花が彼の手を弾こうとする。がそれを堪え、貴史は水槽の底に掌を押し付けた。
「どーすりゃいいっ!?」
『割れよ、と念じよっ』
頷くと、貴史は目を閉じ頭の中で「割れろ」と繰り返す。伊織し悟も彼に倣い、火花を堪えて水槽に掌を押し付けた。
三人の念が掛かる。死霊が、初めて慌てた様子でこちらへ腕を伸ばす。させじと巫女姫の霊気が強まる。
『ジャマヲ、スルナッ!!』
今井が、絡まる巫女姫の霊気を振り払おうと腕を振る。呼応するかのように、貴史の掌の下の硝子面にひびか入る。
びしり、という鈍い音。その音を聞いた貴史は、伊織と悟に手を退けさせる。そして己の掌を一度浮かせ、大きく息を吸い込むと気合いと共に割れた面を叩いた。
「うおりゃあああっ!!」
裂帛の気合いは、念じて出来たひびの部分から完全に水槽を粉砕した。
中の発泡スチロールまでかち割って、貴史の手は止まる。
「やったっ!」
悟が叫び、拳を前へ突き出した。
『まだじゃっ。完全に壊しゃっ!』
巫女姫の指示に、三人は慌てて死霊を振り返る。焦る今井の形相は、赤く光る両目を釣り上げ、耳まで裂け、のこぎりの刃を思わせる歯列の口を大きく開け、まさに『鬼』と化していた。
思わず息を飲みつつ、それでも意気を奮い起こした貴史は、手を引き抜くと、もう一度粉砕しようと腕を上げる。その手を、伊織が止めた。
「んだよ?」
「今度は僕がやりましょう。……要するに念でブロックされているものは、念じてでしか割れないって事ですよね? で、より強い念を込めれば叩かなくとも粉砕出来る」
伊織は、貴史が割った部分のすぐ脇に手を乗せた。先程の貴史と同じく大きく息を吸うと、一挙に硝子を押した。
「はっ!!」
刹那、先に割れた部分のひびが更に広がり、次の瞬間、がしゃっ、という音を残して水槽が崩れた。
見立てが壊れたと同時に、今井の死霊が掻き消える。
死霊の念を押さえていた巫女姫は、ふうっ、と息を吐き出すと、唐突に紫の身体から抜けた。
巫女姫の支配が去り、紫ががくりと膝を着く。
「紫っ」悟が彼の側へ寄る。倒れそうな従兄の身体を抱き留めた。
「大丈夫っ!?」
伊織と貴史も彼の顔を覗いた。
憑依されると己の気も相当消耗する。疲労困憊した表情で、紫は三人の顔を見上げた。
「……ったく、あの女。疲れる事させやがって」
口の中でぼやく。そして紫はゆっくり意識を手放した。