11.気配と奔流
雷鳴はまだ続いている。
その後は特に邪魔される事は無く、四人は特別棟へ入った。
そこは、正に水没していた。
ホームルーム棟のスプリンクラーが吐き出した水と、特別教室のものからの水が、全てここへ集まって来てしまっている。
「こりゃますます凄え」
貴史は、切れ長の目を見開いて廊下一面を覆う水を眺める。
嵩は既に、一番の長身の彼の膝に達している。
「まるで水槽ですね」
驚いていない微苦笑で、伊織は続けた。
「さて。ここの何処に呪物があるのか……」
不意に悟がびくん、と身を震わせた。紫は従弟の少年に訊く。
「どうした?」
「ヤな感じがする……」
紫は、俄に厳しい表情になる。
「具体的にどんな感じか、言ってみろ」
「ん……、誰かが泣いてる。ううん、怒ってる、のかな。とにかくすっごくドキドキする」
「どうしたんです?」
「霊だ。かなり近くまで来ている。悟は、時と場合によるが、俺の後ろより早く察知する。しかも大概やばい時が多い」
言ってる刹那。
盛大な水飛沫を上げ貴史の長身が仰向けに倒れた。
「うわっぷっ!!」
「貴史っ!?」
伊織が慌てて手を伸ばす。しかし彼が貴史の腕を捕まえるより先に、長身は浅い水深の中に潜り込んでしまった。
水面に顔を出す事が出来ない。何者かの強い力に足首を引っ張られ、貴史は水の中をずるずると引き摺られて行く。
これは本気でヤバい、と、貴史が思った時。
始まった時と同様、唐突に自分を掴む力が消えた。
貴史は肘を付き、すぐに水面から顔をあげた。
「大丈夫ですかっ!?」
ざぶざぶと水を掻き分け、必死に伊織が駆け寄って来た。荒く息を継ぎながら、貴史は伊織の手に縋り上体を起こす。
「ちっくしょっ……。何で俺、なんだよっ」
「一番自分と同調し易い奴を狙ったな。後ろが、悟の『警報』に気付いて相手を遮断したんでこれぐらいで済んだ」
「警……、報?」
貴史は立ち上がりながら悟を振り返る。
「だから、俺ヤバいのが近くに来ると何となく分かるんだって」
「ってっ!! そういう事は早く言えよっ!!」
怒鳴る男の背後へ目を向けた悟が、怯えたように首を竦めた。
「ここ……」
「何です?」伊織が悟の視線を追う。
そこは、第二化学室に隣接する準備室だった。化学室の後ろの扉と隣り合う形で入り口が設けられた準備室は、危険な薬品も収蔵しているため通常は鍵が掛かっており、教科担任が許可しない限り生徒が単独では入れない。
だが、今は鍵は外れていた。誰がやったのかは、推理する必要も無い。
——ここじゃな。
巫女姫の声が肯定する。
びんびんとこちらの『気』を打ち据えて来る怒気を感じながら、紫は引き戸の、古めかしい彫金が施された棒状の取っ手に触れる。
途端。まるで鞭で打たれたかのような痛みが指先を襲った。
「つうっ!」
「紫っ!?」
「大丈夫かよ大将っ!?」
思わず扉から手を引き腕を胸元に引き寄せた紫に、三人が驚いて近付く。
「どうやら……、奴も必死みたいだな。邪魔しやがった」
巫女姫が霊気を咄嗟に遮断しなかったら、間違いなく腕が吹き飛ばされていただろう。
「ちっきしょー。こん中なんだろ? その呪物とやらはっ!!」
貴史が扉に手を伸ばした。慌てて伊織が止める。
「ダメですっ、貴史っ!」
が、貴史は制止を聞かずに取っ手に指を掛けた。
「うわっ!?」
やはり強い衝撃が彼の手を撃った。しかし、貴史はそれで手を離しはしなかった。
「——こンのおっ!!」
死霊ごときに脅かされるなど我慢ならない。痺れるのを堪え、彼は強引に引き戸を開けようとする。
時間にすれば僅かだが、激しい攻防の末、ついに戸が開いた。
喧嘩屋の意地が、死霊の怒気を屈服させた。
扉が重い感触と共に開き、中から大量の水が廊下へと溢れ出した。
「うっわあっ!!」
「やべっ!」
胸まで来る程の大波に襲われ、取っ手に指を掛けていた貴史は、足を掬われ、咄嗟に腕を伸ばして戸板を掴む。
すぐ脇に立っていた伊織は、同じく足下を攫われ、思わず貴史の腕に縋った。捕まられた貴史は、伊織の細い腰をその逞しい左腕でがっちりと支える。
彼等の反対側に居た紫は、流され掛けた悟の体操着の後ろ首を捕まえると、開いた戸口の内側の凹みに手を掛けた。
「ぐえっ!」悟が首を絞められヒキガエルのような声を出す。
「捕まり直せっ!!」
紫は、見た目の細さからは信じられない強腕で、少年の身体を戸口へと引き寄せる。苦し紛れに悟が伸ばした手が戸口の凹みに掛かり、漸く紫の手が襟を放す。
ややあって、奔流が止まった。