第五話
イリヤは昼食後、すぐにミァンと別れた。
お互いに秘密を共有している仲とはいえ、所詮は赤の他人である。
ミァンはここまで道案内してもらった報酬として、イリヤとドミニカ二人分の昼食代を払ってくれた。その為、もうお互いに貸し借りは無しである。
火蜥蜴との件に関しては、元々どちらが欠けていても撃退不可能であったのは明確な事実であり、特にどちらが助けたという訳でもない。そもそも、あの戦闘は彼女の魔法に大きく依存しており、途中で完全に折れていた戦意を立て直してもらった事も考慮すると、どちらかと言えば彼女に助けてもらったという方が近い。
しかし、それにしても――
「兄さん?」
上の空で歩いていた所に声を掛けられ、思わずイリヤはビクンと反応して立ち止まった。
「な、なんだ?」
「いや、兄さんが随分腑抜けた顔をしてたから」
「そうか?」
「あの人の事が、気になるの?」
正直な話、気にならない訳が無かった。彼女がこの街で何をするにせよ、こんな自分でも手伝えない事は無いはずだ。しかし、それが彼女にとって一人でやりたい――やらねばならない事なら、それを邪魔立てする理由は無い。そんな事は分かっているのに、何故か心が無意味に揺れている訳で。
「ん? ……まぁな。俺にも、よく分からないが」
「ふーん」
「な、何だよ?」
「前から思ってたんだけど、ああいう強気な人がタイプなの?」
「……お前、まだそんな事言ってるのか。今日はちょっとらしくない事をしただけだ」
「そーかなぁ。今日は久しぶりに昔の兄さんって感じがするけど」
昔。いつも無意味に苛々していた自分に、ドミニカが脅えて彼女の後ろに隠れていた姿は、よく覚えているのだが。
「そんなに棘々してるか? まぁ、一戦交えた後だしな」
「そーじゃなくて、今日は姉さんと一緒に居た時みたいに丸くなってるって感じ。最近はもっと怠そうな感じだったしね」
確かに、最近怠そうにしていた事は否定出来ないのだが、
「……疲れて満腹になれば、誰だって丸くなるだろ?」
「むー、またそんな事を言って。兄さん、もしかして私にだけ冷たくない?」
「そう、か……?」
この胸のわだかまりの正体が何なのか、心身ともに疲れ果てていた彼には全く分からなかった。
◆
「明日から式典、か。今晩中に何とか情報を掴まないと、しばらくは下手に動けなくなるな……」
ミァンはイリヤ・ドミニカ兄妹と別れてすぐ後に取った、小さな宿屋の一室に置かれたベットに腰掛け、静かに溜め息を吐いた。
実際、自分の抱えている問題は到底一人で解決出来そうなものではないのだが、あまり他人を巻き込みたくないのが本音である。
特に少年が使える〈無影無双〉の隠密能力は相当に希少で、自分の目的を考えれば本来真っ先に押さえておくべき人材なのだが、ああいう系統の人間には心の休息が必要だ。だから今自分がすべき事は、少しでも多くの有用な情報を集めておく事である。
そんな彼女の横に置かれた籠の中では、彼女が先程この宿屋で捕まえたネズミが一匹、ぐったりと横たわっていた。
「使い魔を使役するのは、あまり得意じゃないけど――」
ミァンは火蜥蜴から奪った魔導器官を組み込み、一時的に機能を強化した魔杖の握把を握り込み――そして。
「起動――展開。選択術式、〈仮の依代〉」
ネズミの瞳に魔法陣が灯り――その紋様が瞳に刻み込まれた。
「では行け、『私』」
ミァンがそう唱えると、彼女の身体はゆっくりとベットに倒れ伏し――それと同時に籠の中のネズミが意識を取り戻した。
◆
日が傾き始めた頃。
魔法士サーシャ・スピカの操縦する魔導車に乗り、ようやく領主の館に辿り着いた騎士フィリップ・シャウラは扉を開けて車の外に出ると、開口一番に小さく悪態を吐いた。
「――全く、なんて趣味の悪さだ。田舎貴族なら田舎貴族で、それなりに風情というものがあるだろう。これでは只の猿真似――いやそれ以下だ」
「……フィリップ様。そろそろ御止めになられた方が」
「分かっているよ。私の実家も似たり寄ったりなものだから、余計に腹が立つんだろう」
フィリップが呆れているのは、ここの館に施された内装の趣味である。
前述したように、このベラトリックスの街は元々軍事的な目的で建設された城塞都市である。その為領主の館は、軍事上最低限の城壁や見張り塔を備えた城風の外装になっているのだが、その内装はというと、無意味に派手で猥雑な装飾が施されており、いかにも成金貴族といった感じである。
「街の復興、発展よりも、自分の館の改装が先か。全く笑えないな」
「フィリップ様……!」
スピカが懇願する様な表情を浮かべると、シャウラは大きく溜め息を吐いて首を縦に振った。
「分かった。分かったよ。気を付ける」
「本当に……お願いします……!」
サーシャが頭を下げてフィリップに念押ししていると、
「いらっしゃいませ。シャウラ殿」
ゆっくりと城門が開き、従者を連れた赤髪の大男が姿を現した。
その男は育ちの良さを感じさせる上品に整った顔立ちに、フィリップよりも一回り大きく、全身の筋肉が隆々とした堂々たる体躯を持っている。
カーン・レグルス辺境伯。
先の大戦で大きな功績を挙げ、元々は弱小諸侯だったレグルス家を、このベラトリックスとその周辺の地を治める辺境伯にまでのし上げた男である。
特に、大陸戦争最後にして最大の戦いだったセント帝国首都攻防戦において大きな活躍をしたとされ、この戦争を終わらせたと評価されている四人の英雄――『四聖』の名を冠し、しばしば『英雄』と呼称される事もある人物である。
近年は技術者を集めてベラトリックスの発展と開発、及びレグルス家のさらなる勢力拡大を目指しているとの評判だったが……、後者はともかく前者は誤りだというのがフィリップの見立てだった。
「私がカーン・レグルスです」
「はじめまして。フィリップ・シャウラです」
フィリップはそう言って一礼した。
彼の背後に控えているのは、従者の格好をしたサーシャである。十代後半、しかも武器一つ持たない魔法士の少女という事もあって威圧感は一切無い。魔女の追撃に他の従者二人を差し向けている事を差し引いても、フィリップが重要人物との会合に彼女を連れて行く事が多いのは、それが一番の理由であった。
「あの誉れ高きシャウラ家の次期当主と目される御方に来て頂けるとは――真に幸いですな」
「いえいえ、とんでもない。シャウラ家の娘婿でしかない私が当主の座に座る事が出来るかどうかは、カーン殿の御助力次第でしょう」
「ほう? この私に出来る事でしたら、是非ともお手伝いさせて頂きたいですな」
「それはそれは――心強い限りです」
「なんのなんの。シャウラ家と繋がりを持てるのでしたら、そのくらいの協力はさせて頂きたいところですな。ささ、どうぞお入り下さい」
フィリップとサーシャは彼の従者に連れられて、奥の応接間へ通された。
応接間の中には彼のコレクションなのか、一角獣や双頭犬といった古今東西様々な魔獣の剥製が至る所に飾られており、そして一番奥にはまるでそれらの魔獣を従えているかのような構えを取っている、カーン辺境伯本人の立派な彫像が飾られている。
(よくある御趣味ですが……何か魔術的な処置が施されているような……?)
サーシャは自身の魔法士としての鋭敏な感覚で、それらの剥製に防腐処理が行われていない事を敏感に察知した。
(冬眠、と言った方が近いでしょうか? まぁ、単に虫食い対策なのかもしれませんし、現時点ではあまり考える事に意味は無さそうですが……)
サーシャが僅かな疑念を浮かべている一方、一人来客用のソファに深く腰掛けているフィリップは沈黙を保っている。
(まぁ――仕方ないですね)
サーシャはその後ろに立ちながら、彼の複雑な心境を慮った。
カーン辺境伯は、フィリップにとって一番苦手なタイプの人間である。
先程彼が言っていたように、フィリップ・シャウラは元々シャウラ家の人間ではない。彼は現当主――ケルヴィン・シャウラが率いている、大陸屈指の勢力を誇るシャウラ騎士団の一員を父に持つ従騎士である。
そんな彼は幼馴染だったシャウラ家の令嬢に見初められ、何の運命の悪戯が働いてか婚約――そして後継者候補にまで至ってしまったのだった。
そして彼は、そんな出来過ぎの人生を素直に受け入れられる程の器を持った人間ではない。そのため彼はこの過酷な特命部隊の隊長に志願し、自他共に納得出来るだけの実績を得ようとしているのだという話を、サーシャは以前聞いた事があった。
(あの『四聖』とまで呼ばれる御方が、こんな俗人なのかと失望されておられるのでしょうが、やはり、それなりの何かはあるのでは……?)
サーシャがそう考えていると……。
「お待たせしました」
来客用の服装に着替えたカーンがフィリップの前に現れた。
その服装は、元々相当高価だっただろう先程の格好よりもさらに豪奢な造りをしており、おそらく絹と思われる素材に金銀細工でレグルス家の家紋が刺繍されている事を考えれば、一貴族というよりも一部の高位聖職者、あるいは王族が身に纏っているものに近い。
「今夜は戦後5周年を記念して行う式典の前夜祭を開くのですが、フィリップ殿も同席して頂けましょうな?」
「ええ。勿論。私はその式典に同席させて頂く為に来たのですから」
シャウラ家はセント帝国を滅ぼしたとされる有力諸侯の一つで、特に大陸西部にはそれなりの勢力を持っている。その為、不本意ながらもそれなりの知名度を持つフィリップは、この地で行われる記念式典の来賓として表向きは行動しているのである。
「では、その後に初開催を予定している武術会の見学なども?」
「勿論です。生憎この場には連れてきておりませんが、私の従者も一人その武術会に参加させて頂く予定です」
「おお。フィリップ殿の従者ともなれば、もう優勝は決定ですかな?」
「それは分かりません。何せこの大会の入賞者は、カーン殿がお抱えになるという話を小耳に挟んでおります。その座を巡って、東西南北どのような強者が参加するのか全く予想出来ません」
「なるほど。では私も、その従者殿が健闘される事をお祈りさせて頂きます」
そんな貴族らしい社交辞令を淡々とこなしながら、フィリップは本来の目的を実行する為の探りを入れ始めた。
「ところで、他の来賓の方はお見えになっているのでしょうか?」
「勿論です。あいにくフィリップ殿に匹敵されるような御方は、まだお見えになっていませんが」
「そうですか。まぁ今回を期に、この式典の規模も徐々に大きくなる事でしょうね」
「そう願いたいところですな。もっとも今回行う武術会の影響か、式典参加者は去年の数倍になりそうだとの報告もありまして」
「それは喜ばしい限りです。では私も、前夜祭に参加させて頂きましょう」
「どうぞどうぞ。フィリップ殿のお部屋も用意させて頂きましたので、今晩はどうかごゆっくりと――」
「レグルス様!」
フィリップの背後から小走りで現れた従者が、慌てた声を上げた。
「何だ? 御客人の前だぞ?」
「そ、それが……」
カーンは従者の耳打ちを受けると、その顔をみるみる真っ赤に染めた。
「な、何ッ!? あ、あの女が……!?」
「……は、はい。我々では、お止めする事が出来ず――」
「もういい! 私が行く!」
カーンはフィリップに一礼すると、従者を連れて姿を消した。
残されたフィリップは、背後に控えているサーシャを見てわざとらしく溜め息を吐くと、嫌味っぽく笑った。
「ふっ、なかなかの演技力だろう?」
「はい。正直どうなるのかと不安でしたが……下らない杞憂でした」
「全く、脳味噌まで筋肉で出来ているような男だ。こんな交通の便の悪い場所に、人が集まる訳がないだろう。そのくせ自分の部下まで、武術会に集まった力自慢に頼ろうとは……あの男の頭の中ではまだ戦争中という事か?」
「単身、あるいは優秀な指揮官の指示を受けている間は有能、という人物の典型ではありますが……、それよりも」
サーシャがより急を要する話題へと話を変えると、
「あぁ。あの脳筋馬鹿な『四聖』の一人をあそこまで慌てさせ、私を放置してまで出迎えに行く必要のある女性とは誰なんだ?」
フィリップは肯定してサーシャに問いを投げかけた。
「同じく『四聖』の一人である聖騎士アルドラ様、あるいはどこかの国の王女殿下、といったところでしょうか?」
「そんなところだろうな。全く、物好きな御方もいたものだ。もっともあのセラフィー様と比べれば可愛いものだが……」
フィリップは物憂げな表情を浮かべ、ボソリと呟いた。
「そうご謙遜なさらずとも、フィリップ様はシャウラ家の次期当主として、十分な働きをなさっておられますよ」
それを聞いたサーシャは、にこやかに笑みを浮かべて否定した。
確かに、フィリップの実家はシャウラ家と比べていささか以上に格が劣っているものの、彼個人の人格や能力は決して恥ずかしいものではなく、むしろ歴代の当主にも引けを取らない事は、彼とそれほど長い付き合いがある訳ではないサーシャもよく知っている。
その為セラフィー様――現シャウラ家当主の御令嬢、セラフィナ・シャウラが彼を見初めたのも、別段不思議ではないというのがサーシャの見解である。そして二人の仲も極めて良好であり、彼が自分の家柄に引け目を感じている事を除けば、理想的な関係だと言っても過言ではない。
「そうである事を願いたいが……少しやり難くなったか?」
「その御方の考え方次第でしょう。フィリップ様が上手く説得なされれば、話も進みやすくなるかもしれません」
「ふむ……。ともあれ、しばらくは様子見とするか」
フィリップとサーシャが作戦会議を終え、しばらく待っていると……。
「あ、貴女に来て頂けるとは……!」
「ふふふ。まさかこんな先客がいるとはね?」
少々慌てた表情を浮かべたカーンに連れられて、なんとも妖艶な雰囲気を湛えた妙齢の女性が現れた。
「貴女は……!」
その意外な人物の登場に、思わずフィリップは立ち上がった。
「あらあら。そんなに意外かしら? この私――リリン・シェアトがここに来る事は?」
その女性が謎めいた笑みを浮かべると、
「意外も意外。ある意味、一番予想していなかった御方ですよ……」
動揺を隠しきれず、フィリップは吐き出す様に言った。