第四話
市場独特の賑やかな声が響いている。
周りの人々から不審な視線を向けられる中――ミァンは黙々と食事を続けていた。
その食べ方は上品で、この街の一般市民しか利用しない小さな定食屋の客としては明らかに珍しい優雅な雰囲気を醸し出している。
「…………」
ちなみに彼女にそんな視線が向けられているのは、その食事作法とは全く関係無い。
「おい」
その隣の席で突っ伏して昏々と眠り続けている黒髪の少年――イリヤが原因である。
「お前」
三時間程前の事。
ミァンはこのベラトリックスの街に向かう為、とある事情から一本道の街道を歩くという選択肢を捨て、難所と呼ばれる樹海を歩いていた最中にこの少年と出会い、更に魔獣の一種で森の王者と言われる難敵、火蜥蜴と遭遇した。この少年はミァンを庇って深手を負いながら火蜥蜴から逃げ回り、逃げられなくなった事を悟ると、魔法を用いて倒そうというミァンの立てた無謀な計画を実行する為に命を投げ出し、さらに少年の切り札であろう〈無影無双〉まで使った。
ミァンがこれを実際に見たのは初めてであったが、近代魔法学を修めた彼女には少年が何を行っていたのか、ある程度分析する事が出来た。
結論から言えば、〈無影無双〉は一種の魔法である。
普通の人間はその身に魔法の発動媒体を持たない為、この力は深い思索等を行う時に使用されていると考えられているのだが――何事にも例外は存在する。
彼は長い年月を掛けて編み出された特殊な方法――幼い頃からの過酷な訓練を経て、肉体を単一の術式専用の擬似媒体に変えているのだ。
その術式とはおそらく、頭脳を含めた肉体の自由操作と魔力探知無効の二重術式。
人間の肉体とは、本来の力を自由に発揮すればすぐに限界を迎えてしまう構造になっている為、一定以上の力が出ないように無意識下で制限が掛かっている。それを強制的に解除して筋力・反応速度を高めているのだろう。
その為――その魔法は肉体に大きな負担を強いるのだ。
むしろここまで倒れなかったのが不思議な位で、本当ならこのままゆっくり寝かせておくべきなのだろうが、体力は睡眠だけで回復するものではない。
「起きろ」
「……ん……あ?」
いきなり声を掛けられて揺さぶられた為、腕を机に突いて眠そうな顔を起こしたイリヤの口の中に、ミァンは汁物を掬ったスプーンを突っ込んだ。
「食え」
「んー、んー!?」
突然口の中に突っ込まれた汁物を、モガモガさせながら必死に飲み下すイリヤを見て、ミァンは僅かに肩を竦めた。
「……あんた、俺を殺す気か?」
イリヤは目元に隈を浮かべ、恨めしそうな顔でミァンの顔を睨んだ。
「ちゃんと食べないと、体力が戻らないだろう?」
ミァンはそう嘯いたが、勿論イリヤもそんな事は十分承知している。
「今……金が無いんだよ。だから注文出来ないんだ」
イリヤは気怠そうに言った。
基本的にイリヤの財布はドミニカが握っている。もちろんリスクを軽減する為、一部は貴金属に換えて懐に持っているのだが、それを勝手に消費する訳にもいくまい。
「だったら私が奢ってやるから」
「いらん」
「じゃあこれを食え」
「むー!?」
今度は口の中に御飯物を突っ込まれ、イリヤは悶絶しながらもそれを仕方なく咀嚼し始めた瞬間――その場で凍り付いた。
「兄さん」
何故かその声の主とは面識が無いはずのミァンも、イリヤの口に突っ込んだスプーンを握ったまま彼の隣で凍り付いている。
厳密には――彼女は自覚が出来ないだけだ。蛇に睨まれた蛙は本能的に身が竦んでしまう様に。準備の出来ない強い敵意に当てられると、生物は自覚する事も出来ずに硬直してしまうのである。
「なかなか帰ってこないから、まさかと思っていたんだけど――」
「…………」
徐々にその声の主が近付いてくる。
「兄さんは何をしているの?」
「…………」
声の主はすぐ後ろに立っている。
一瞬で眠気が吹き飛んだイリヤは、火蜥蜴と対峙した時以上の精神力を振り絞って後ろを振り返った。
彼の目に入ってきたのは一人の少女だ。
やや小柄な体躯で、栗色の髪を肩に当たらない位の短さで切り揃えている。
その吊り眼は可愛らしいが――それだけに視線は鋭く厳しい。
ドミニカ。イリヤの妹である。
「兄さん?」
「ん、あぁ」
イリヤは慌てて口の中の物を飲み下し、水を飲んで一息吐いた。
よくよく考えてみれば既に時刻は昼過ぎだ。いつもの事を考えればもうとっくに帰っているはずの時間である。それなのにこんな所で眠りこけて時間を浪費していた自分には、どう考えても言い訳の余地が無いだろう。
まぁ――謝るしかないな。
「――悪い。遅くなった」
「それは別にいいんだけど――」
ドミニカは更に眼光を鋭くしてイリヤの顔を見ると、その隣でいまいち状況を掴めないまま不審な表情を浮かべているミァンを見つめた。
そして。
「その顔の傷は?」
ゆっくりと呟いた。
「あぁ……」
イリヤは思わず顔を顰めた。
そういえばこの傷は治してもらっていなかったか。放置しても特に傷痕が残るような傷ではないから放置していたが――確かに気になるのかもしれない。
「なんでもないよ」
「そう?」
そう言うとドミニカはイリヤの隣の席――ミァンとは反対側の席に座って話を続けた。
「その人に、引っ掻かれたのに?」
「はい?」
思わず思考が停止したイリヤに畳み掛ける様に、ドミニカは淡々と話を続けた。
「まぁ兄さんが誰に何をしようと勝手だけど――私に何も話してくれないのはちょっと酷いんじゃない?」
「……お前、何を言っているんだ?」
ようやくドミニカが何か勘違いをしている事に気付いたイリヤは、溜め息を吐きながら彼女に言った。
「その人に手を出そうとして、反撃された上に誑かされたんでしょ?」
「はぁ?」
「そうでもしないと、兄さんを傷つける事なんて出来ないでしょ」
まぁ、それはそうなのだが。
「お前の中の俺は一体どうなっているんだよ。これは――」
そう言って状況を説明しようとした時。
「ふむ。そいつが、お前がさっき見捨てようとしていた奴か?」
余計な奴が割り込んできた。
「何?」
ドミニカは僅かに目を細めると、その余計な奴――ミァンの顔を睨んだ。
「こいつはさっき火、ん――!?」
さらに余計な事を言いかけたミァンの口を、イリヤは右手で塞いだ。そしてその耳元に唇を寄せて囁いた。
「……それをここで言うのは、お互いに止めた方がいいだろう?」
本来この辺りには生息していない筈の火蜥蜴が樹海で出たという事が知れ渡れば、間違いなく大騒ぎになる。さらにその火蜥蜴と遭遇し、交戦して返り討ちにしたこの二人は何者なのかという話にもなるだろう。異能持ちの一族、晴嵐衆の生き残りであるイリヤと、何か訳アリの凄腕魔法士ミァン。火蜥蜴を逃がしてしまったのならばまだしも、殺したのなら敢えてその正体を晒す必要は無いだろう。
「……ふむ。そうだな」
納得したという感じでミァンは頷いた。やはり自分が魔法士である事は秘密にしておきたいらしい。彼女がこの街を訪れた理由とも関係しているのだろうか。
「へー、随分と仲が良いみたいだね」
そのやり取りを見たドミニカがムッとした表情を浮かべて言った。彼女のこういう反応はあまり見た事がないのだが、ともかくそれは勘違いである。
「違うぞ」
ここで説明しないまま押し通すのも面倒なので、イリヤは言葉を大陸極東語に切り替え、声量を抑えながら言った。この言語ならば、多少は大陸公用語よりも盗み聞きされる可能性は低い。
「どういう訳かは知らないが、樹海の奥で火蜥蜴と遭遇してな。たまたまその直前に会ったこの魔法士の子――ミァンと協力して倒したんだ。これはその時の掠り傷で、本当はもっと重傷だったんだぞ?」
「……本当?」
流石に信じられないのか、ドミニカは言語を切り替えながら首を傾げて目を丸くした。
「――これ、その、証拠」
ミァンもこの言語を多少は使えるらしく、たどたどしい話しぶりで会話に入ってきた。
「ん? あぁ、それ拾ってきたのか」
彼女がリュックの中から見せてきたのは、奇跡的に殆ど無傷で残ったらしい火蜥蜴の魔導器官だ。改めて見ると、魔法陣に似た奇妙な刻印が彫り込まれている。材質は動物の爪などを形成している角質に似た様な物質だが――正直よく分からない。
「これは……本物だ……」
ドミニカは驚嘆の声を上げてそれをじっと見つめた。
「まぁ、そういう訳だ」
「……分かった」
「ようやく分かってくれたか」
イリヤは溜め息を吐き、ミァンも聞き取りやすいだろう大陸共通語に戻した。
「じゃあ、どうして食べさせて貰っている訳?」
「…………」
確かに、傍から見ればそう見えても不思議は無い訳で。
「どういう事?」
「これは……その……」
咄嗟に上手い言い訳が思い付かず、イリヤは思わず言葉を濁した。
「その?」
「そういう仲、という事だ」
「――ッ!?」
「そういう仲ってどういう事!?」
ミァンはイリヤに助け舟を出そうとしたのか、ともかく凄い説得力でそう言い切ったが、結果的にドミニカの火に油を注いだのは――言うまでもない。
◆
三人が口論を始めた最中、街の大通りを一台の魔導車が進んでいた。
戦争後――かつては戦場でしか見られなかった魔導機関を用いて駆動する機械類の類は徐々に一般庶民の間でも浸透し始めていたが、それでも魔導車ともなれば一般人の手に届く物ではない。貴族や王族に代表される上流階級、あるいは豪商や高位聖職者の類か。その耐久性や操作性、使用期間――いわゆるコストパフォーマンスを考えれば、既に高級な馬車を購入するのとあまり変わらないのだが、ともかく初期投資が半端では無いのだ。
故にこの田舎街において、それは非常に目立つ代物である。
ただし――とある事情で最近は何度も見ているのだろう、振り返ってまでこれを見ようとする人間はそこまでいない。
「――やれやれ、なんとか間に合ったな」
その魔導車の中の青年が、溜め息を吐きながら言った。
この魔導車――シリウス号の中は広い。個人で動かせる型の魔導車としては最大である。このシリウス号を動かす為の操縦席に加えて、就寝用の個室が四つ、貨物室が一つ、そしてその青年が一人座席に座っている、それなりの空間を持つ客室が一つある。
青年の纏っている空気はどことなく上品で、見るからに貴族という感じである。
「そうですね。『魔女』を見失って、随分時間を浪費してしまいましたし」
青年の耳に、操縦席の方から声が聞こえてきた。
その声はやや高く――客席に座っている青年と同年代位の娘のものである。
「確かに、いきなり樹海の中に姿を消すとは予想していなかったな。しかし本物なら専門の人間を雇うくらいはするだろうし、おそらく今回も外れだろう」
「でも、その偽物の『魔女』も捕まえるおつもりなのでしょう?」
「その為に、今もユーリとアリスに追撃させている訳だが――」
そんな操縦士の声に青年は一瞬不思議そうな顔を浮かべたが、ふと何か思い当たったのか、得心いったという様な表情を浮かべた。
「あぁ、そういえば君は元々セント帝国の人間だったか。これでも偽物だと判明すれば、すぐに解放する程度の度量は持っているつもりだけどね」
「ありがとうございます。シャウラ様」
「まぁ、それが本来騎士のあるべき姿だろうしね。それよりも問題は、件の英雄様との会合だが――君はどう見る?」
「どう、なのでしょうね? 正直言って、事前に予想出来る類の人間ではないと思います」
「確かに、相当厄介な人間だろうな……」
◆
「…………」
二人の男女が、魔獣の死骸の前で立ち尽くしていた。
男はやや背が高く鋭い顔つきの青年で、機能性を重視した革製のベストにベルトから反りのある片刃の剣――いわゆる刀を吊っていた。
女はまだあどけない顔立ちに、先端が肩に掛かるくらいの赤髪を伸ばしていた。そしてその背中には小型の魔導機関を搭載した機械弓――いわゆる破魔弓を背負っている。
「まさに、針山地獄といったところか」
青年はそう呟くと、その魔獣の死骸の周囲を慎重に調べ始めた。
大地に横たわっているその死骸の正体は、周囲の大樹から不自然に伸びた槍で全身を貫かれている森の王者――火蜥蜴と思しき生物のものである。額に生えている筈の魔導器官が根元から切り取られており、その身体は殆ど原型を留めていないものの、その独特の赤黒い堂々たる体躯は紛れも無く火蜥蜴のそれである。
「で、やったのはその『魔女』で間違いないのか?」
「まず、間違いないでしょうね」
少女は火蜥蜴の身体に突き刺さっている槍をコンコンと叩きながら言った。
「こんな大規模な魔法を単身で発動出来る魔法士はそうそういないだろうし、あの魔杖遣いで間違いないと思うわ」
少女の返答を受けて青年は大きく頷いたが、首を傾げた。
「……しかし、これほど大型の火蜥蜴が、魔法士一人に敗北する理由があるのか?」
「そんなコト知らないわよ。そんなコトより、何でこのアリス様が追撃組で、サーシャがシャウラ様とデートなのよ? 普通逆でしょ逆」
少女は、いわゆる過程というモノにあまり興味が無い性質らしく、話題を変え、自分がこんな場所を歩いている事に対してぶーぶーと不平を漏らした。それを見た青年は、少女の微妙な内面を慮って皮肉気な笑みを浮かべた。
「これはおかしな事を。あの御方には、既に立派な婚約者が居られると聞いているが?」
「それくらい知ってるわよ。だからこそ、こういう機会に仲を深めておく必要が――って、ちょっと聞いてんのアンタ!?」
「これは……」
少女が話している最中、地面に何かが落ちている事に気付いた青年は、その落ちていた金属片を拾い上げた。どうやら片刃の剣の刀身が折れたもので、その造りはこの辺で作られている刀剣というよりも、極東部で作られる刀を想起させるものである。
「何なの、それ?」
「私の故郷で使われている刃物の一種だ。という事は――」
青年はその破片が落ちていたすぐ近くに、火蜥蜴以外の誰かが地面を強く踏み締めた跡を見つけた。常人では不可能な程に深く刻まれた足跡は、その人物が持っている確かな実力を明らかに示している。
「どうやら時間を稼いだ奴が居たようだな。しかも火蜥蜴と正面からやり合えるとは、おそらく相当の使い手だ」
「ふーん。そんな奴がいるなら、迂闊に追い駆けるのは危険ね」
少女が口を尖らせると、
「あぁ。我々も街へ向かおう」
青年は踵を返して少女を先導し、街の方向へと歩き出した。
「暑い。だるい。疲れた。服が汚れる……」
青年は少女が背後でぶつぶつと文句を垂れ流すのを聞きながら、
(……まさか、お前なのか? アルコル族の黒犬よ……)
かつて鎬を削り合った同胞に思いを馳せた。