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第二話

「私は――旅の者だ」

「…………」

 どうも嘘っぽい。

 いくらベラトリックス市は四方を山で囲まれている城塞都市だといっても、当然樹海の一部を切り開き、丘陵の通り易い場所を整備して造られた街道の類は存在する。旅人なら普通に街道を歩けばいいし、その方が余程安全で早いのだ。

 つまり余程の事情が無い限り、敢えてこの難所を越えてくる理由が無いのである。となると答えは罪人か、賞金首か。イリヤの頭にはそれくらいしか浮かばない。

 もっとも、こんな調子の少女に何が出来るんだと思わないでもないのだが、例えば誰かに濡れ衣を着せられて、という事は十分に考えられるのだ。生き伸びるためには誰であろうと傷つけ、貶め、略奪する。今はそういう非情な時代なのである。

「ま、あんたが何者だろうが、俺には関係無いか」

「……信じていないな?」

 勘は意外と鋭いらしい。下手に取り繕って、また少女の攻撃を警戒するのも面倒なので、ここは正直に答えるべきだろう。

「ん? いや、こんな所を歩いている時点で、何か訳アリなんだろうと思っただけだ」

「ふむ。確かにその通りだが――お前に話す必要はない」

「別に聞く必要も無いだろう?」

「……それもそうだな」

 見たところ、この少女の警戒はとりあえず解けたらしい。となればお昼過ぎまでにドミニカの所へ帰るためには、この正体不明の少女に関わっている余裕は無いのだが。

「お互いの誤解も晴れた所で、そろそろ――」

「ところでお前、猟師と言ったな?」

 話を適当に切り上げ、さっさとその場を立ち去ろうとしたイリヤを、すっかり落ち着きを取り戻した少女が呼び止めた。しかし、今更イリヤに何の用があるというのだろうか。まさか道案内でも頼むつもりなのだろうか。

「……だったら何だ?」

「どうも道に迷ってしまったようだ。だから、近くの街――ベラトリックスと言ったか、そこまで案内してくれ」

 予想的中である。しかしここまで来られたなら、後は適当に歩いているだけでも街が見えてくると思うのだが。

「いや、ここからは徒歩二時間ってとこだぞ? 方向も大体合っていることだし、もう迷わないだろ」

「そうなのか? 今日で三日も歩いている事を考えると、完全に道に迷ったと思っていたのだが、やはり私も捨てたものではないな」

 少女は自分の力量に満足したような、なんとも不敵な笑みを浮かべて言った。

 しかし少女の考えは、根本的に間違っていた。

 この丘陵地帯を抜けるのに要する時間は、普通の人間なら一日半、イリヤならば半日もあれば十分である。つまりここまで来るのに三日も掛かっているという事は、この少女がこういう地形の歩き方を知らないという事実を表している。

 この辺りまではとりあえず下って行けばいいだけなので、この少女もなんとか来る事が出来たのだろうが、ここから先は平坦な樹海が続いている為、このままでは非常に遭難する可能性が高い。

「ちょっと待て。こんな所を抜けるのに三日も掛かる訳無いだろ。やっぱりあんた、道に迷っているぞ」

「本当か? ふむ……困ったな。やっぱり道案内してくれないか?」

「それは別に構わないんだが、まだ仕事が終わってないんだよな。少しの間でいいから待っていてくれないか?」

 それを聞いた少女は僅かに口を尖らせながら、自分は彼に何を言うべきなのかと十秒ばかり考え、そして再び口を開いた。

「――多少の報酬は出す。今は早く街に着いて、ゆっくり休みたいからな」

「そうか。ん――」

 前述の通り、彼は元々何か食い物を手に入れる為に樹海に入った訳ではなく、お金を稼ぐための商品を調達しに来ただけであるので、少女の提案を飲む事は必ずしもドミニカのお願いに反する訳ではないからだ。

「――だったらいいか。付いて来い」

 色々考えた結果、結局今日の狩りは中止することにした。最悪の場合、明日また来ればいいだけの話だからだ。

「あぁ。私の名前は……ん?」

 取引が成立し、お互いに名前を名乗ろうとしたところで、少女は突如その顔を曇らせた。

「どうし……って伏せろ!」

「なわっ!?」

 少女が顔を曇らせた直後、『それ』の接近に気付いたイリヤが少女を大樹の陰に押し倒してその上に覆い被さった瞬間だった。

 大樹の反対側から放たれた火山弾のような炎の塊が、一瞬前までイリヤと少女が立っていた場所を通り過ぎていき、大樹に着弾してその周囲を炎上させた。

「くそっ……最悪だ……!」

 それを見たイリヤは思わず唇を噛んだ。いくらなんでも相手が悪過ぎる。

「こっちだ! 来い!」

 そして少女の手を強引に取ると、有無を言わせず引っ張った。いちいち事情を説明している時間すら惜しいからだ。

「あ――、もう……!」

 少女は戸惑いの声を上げながらも、イリヤに手を引かれるまま樹海を走り始めた。

 このままじっとしていても間違いなく殺される。勿論逃げても殺される可能性は――極めて高いのだが。

「ちっ!」

 黒く大きな影が、先程の炎弾で燃え上がる樹海の中を疾走してどんどん近付いてくる。

 その魔手からなんとか逃れるべく、イリヤは少女の手を引きながら全速力で地を蹴るが、そんな彼に引かれる少女の足取りは明らかに重い。基本的な脚力が違うのは勿論だが、それに加えてこの大荷物では尚更である。イリヤはその状況を打開する為、少女の荷物に空いた方の手を伸ばした。

「おい、ちょっと!?」

「俺が持った方が速い! 貸せ!」

「むぅ――落とすなよ!?」

 イリヤは少女の手を掴んでいない方の手で、彼女がこの状況下でも懸命に握っていた重い鋼の杖を奪い取ってさらに走ると、突然開けた場所に出た。

 勿論樹海を抜けた訳ではない。

 そこは切り立った崖だ。下には今抜けて来た場所と同じような樹海が広がっており、さらに遠くに視線を向ければ、僅かにベラトリックスの街が見える。

崖の高さはおよそ二十メートル。傾斜は70~80度といったところだろうか。

「――ったく」

 振り返ったイリヤの視界に飛び込んできたのは、巨大な蜥蜴だった。

 もっとも、燃え盛る樹海の中を悠々と駆け回り、額の奇怪な器官から次々に炎弾をあちこちに放つ馬のような大きさの赤黒い蜥蜴を、蜥蜴と呼んで良いのなら、だが。

「よりによって火蜥蜴(サラマンダー)かよ……!」

 火蜥蜴(サラマンダー)。そう呼ばれる魔獣の一種だ。

 世界中でおよそ数十種類が確認されている魔獣の中でも屈指の戦闘能力を誇り、基本的に雑食ではあるものの、大好物は焼いた獲物の肉という恐ろしい怪物である。

 当然少人数で戦うのは愚の骨頂であり、それどころか一度狙われて無事に逃げ切れたら奇跡と言われるだけの異常な脚力と執念を兼ね備えている最悪の相手だ。

「おい、崖だぞ! どうするつもりだ!?」

 少女は遥か下に映る樹海を見て、焦燥からかイリヤの胸倉を掴んで叫び声を上げた。確かに、一見何処にも逃げ場は無い。普通に考えれば万事休すである。

「このまま下に飛び降りる!」

 胸倉を掴まれたイリヤはそのまま左腕一本で少女を抱き抱えると、崖の淵に立った。

「ちょ――おい!? どうやって!?」

「俺にしがみ付いてろ。途中で体勢さえ崩れなければ、傾斜に沿って降りられる」

 それを聞いた少女は一瞬躊躇いの表情を浮かべたが、イリヤの背中越しに迫り来る火蜥蜴(サラマンダー)の姿を認めると、溜め息を吐いて彼の身体に四肢を絡み付けた。

「……分かった。途中で放り捨てるなよ」

「あぁ。しっかり掴まってろよ!」

 イリヤはそれだけ言うと、火蜥蜴(サラマンダー)の放った炎弾が彼の足元に着弾するまでの刹那の間に、その身を崖下へと滑らせた。

「~~~~~~~~~~~ッ!?」

 少女は急斜面を滑降するイリヤの身体に必死でしがみ付きながら、声にならない悲鳴を上げた。



 それからおよそ一分後。

「……ふー。案外なんとかなるもんだな」

 なんとか崖下への滑降に成功したイリヤは、上の様子を伺いながら呟いた。

「お前、滅茶苦茶だ……」

 一方その脇で両手を地面に付けてぐったりしているのは、先程までイリヤにしがみ付いたまま悲鳴を上げていた少女だ。

「まぁ、普通に逃げたくらいじゃ無理だろうと思ったからな」

 イリヤが崖の滑降を成功させる際に取った行動は至ってシンプルだ。

 崖の斜面の彼方此方に飛び出している、大樹の根や掴めそうな岩を瞬時の判断で掴んでは放し、掴んでは放し、自らの落下速度を限りなく緩やかにするというものである。

 当然これを為し遂げるには異常なまでの判断力と反射神経を要求されるものの、最後に大樹のクッションを使えるこの場所ならば、イリヤにとって致命傷を避ける程度はそれほど難しい事ではない。

 勿論それは――彼が単身ならばの話だが。

「はっ。これくらいで火蜥蜴(サラマンダー)から逃げられる訳ないだろう。早く逃げないとすぐにやって来るぞ――」

 崖下滑降の恐怖からか、そう恨めしそうに言って。

「――って、その血は……!?」

 少女はイリヤの足下に滴っている赤黒い血を指差して、表情を凍らせた。

「……ん?」

 先程の無理な駆動で身体の彼方此方が悲鳴を上げているため、どこをどの程度怪我したのか咄嗟に判断する事は出来ないのだが、それでもどうやらかなりの深手を負ったらしいという事は分かった。

「なるほど……」

 イリヤがとりわけ焼け付く様な痛みを放っていた箇所――右太腿の裏側に触れると、そこにはまるで鈍い刃物で切ったような深い裂傷が刻まれていて、そこから血が溢れ出していた。

「……途中の岩で切ったか」

 イリヤは苦々しく溜め息を吐いた。

 崖の突起物による右太腿裏側の裂傷。この少女を担いでいた所為で視界が狭まり、さらに重量が増していたため、無理も無い事だった。元よりその程度の危険は承知で取った行動である。今のところ動作に問題は無いため腱や筋までは届いてなさそうだが――体力、及び脚力の低下は避けられまい。

「私が、居たからか?」

 少女はポツリと呟いた。

「なんだ、責任でも感じているのか?」

 イリヤは少女の意外な反応に戸惑いながら言った。

「……いや。もしそうだったとしても、そんな逃げ方を選んだお前が悪い」

 少女は(かぶり)を振って憎まれ口を叩いたが、その口調は明らかに重い。見るからにしょんぼりしている。どうやらイリヤが深手を負った事に対して、自分なりに責任を感じているらしい。それはそれでこの少女の美徳を表しているのだろうが、それで共倒れになってしまっては何もかも台無しである。

「まぁ、こんな怪我はどうでもいい」

 持っていた当て布で傷口を縛り、簡単な止血を終えたイリヤは言った。

「ところで、さっき街が見えただろう? あれがあんたの目指している街だ。さっきの火蜥蜴(サラマンダー)は血の匂いに誘われて俺の方に来るはずだから、後は自力で逃げてくれ」

 まるで他人事の様にそれだけ言うと、踵を返して街と反対側の方向に向かおうとしたイリヤの腕が、いきなり少女の柔らかい手で引っ張られた。

「……死ぬ気、か?」

 少女はまるで化け物を見たかの様な表情を浮かべていた。

「ま、仕方ないだろ。両方死んだら意味が無いからな」

 確かに――少女から見たイリヤはあまりにも合理的過ぎて不自然、というよりも明らかに一人の「人」として異常なのだろう。多分。

「怖く、ないのか?」

「……別に全く怖くないって訳でもないんだが、元々惰性で生きていただけだから――」

 イリヤは何故か少女の眼を見ていられず、遠くに目を逸らしながら言った。

 こういう眼には慣れている。

 ――『貴方は人間じゃない』。

 かつて鍛錬に明け暮れていた自分に、そう言ってきた少女がいた。

 その時、その少女がしていた眼と全く同じ眼だ。

 やはり自分は最期の最期まで、まともな人間になる事が出来なかったらしい。

「正直、どうでもいいってのが本音だな」

 イリヤは自嘲気味に笑いながら言った。

「どうでも、いい?」

「あぁ。こんな世の中じゃ、な……」

 彼女と同じ眼を向けてくる少女を前にして、イリヤは誰に聞かせるという訳でもなく、自然に長年一人で抱え込んできた言葉が次々に溢れ出してきた。

「昔は、押し付けられたものだけど夢があって――」

 物心がついた頃。

 今や顔も思い出せない実の親に、名前も与えられないまま奴隷として売られた自分。

 そんな自分を買い取り、「イリヤ」という名前を与えて過酷な修行を強いた里の者達。

 そんな彼等に押し付けられた、『戦場で軍功を上げて名誉騎士になる』という幻想。

「ある日、それを叶えられなくなって、何をしたらいいのか分からなくなって――」

 しかし戦争が終わり、そんな幻想は儚く崩れ去った。

 戦争が終わったと聞かされた日。

 お前の人生は無意味だと。

 世界に、そう言われたような気がした。

「そんな俺を導いてくれた人まで失って――」

 修行の最中、『貴方は人間じゃない』と言ってきた、山深くにひっそりと存在する里に年に数回訪れる、隊商の一族に生まれたという少女。

 彼女は自分を人間に戻すんだと言って、戦う事しか知らない自分に色々な事を教えてくれた。今の自分が曲がりなりにも人間らしく振る舞えるのは全て彼女のお蔭だ。

 だから誓った。

 自分の人生は、彼女の為に捧げようと。たとえそれが報われなかったとしても、自分がそう誓った事は無意味ではないと。そう思った。

 しかし彼女は一年前、何者かの手によって殺されてしまった。

 所詮自分の力なんて世界の不条理と比べてあまりに無力で――無意味だった。

 そう、思い知らされた。俺は――無意味なんだと。

「俺の、俺の大事なものは全部無くなってしまった」

 そして周囲を見渡した時、自分に残っていたものは無かった。

 ただ、いつも少女の後ろで人ならざる自分に脅えていた彼女の妹だけが、近くに立っていた。

 しかし彼女は、決して彼女の代替にはならない。

 少なくとも、自分と目の前に立っている少女の両方が間違いなく殺されるという愚行を冒してまで、彼女の下に戻ろうとは思えないのだ。

「だから、もういいんだよ。もう。どうでもな」

「……さっき言っていた『五月蝿い奴』はどうするんだ?」

「あんたが、無事に街まで辿り着けたら、その難民街の東地区にドミニカっていう栗毛の女の子が住んでいるから、お前の兄は死んだって伝えておいてくれ」

 実際、そんな事はどうでもいい。どうして俺が、どうして俺なんかが、自分の死んだ後の事まで考えなければいけないのだ。俺は、俺は早く死んで彼女に――

「――馬鹿が」

 会いたいんだ、と思わず叫びそうになったイリヤを、少女が凛とした声で制した。

「自分の大事な人が死んだからどうでもいい、だと? 泣き言を言うな。そいつがお前のこんな、こんな馬鹿みたいな死に方を望んでいると思うのか?」

「…………」

 これ以上ない程の正論だ。

 だが、それは所詮綺麗事に過ぎない。この俺でさえ万に一つも敵わない火蜥蜴(サラマンダー)を相手にして、たかがお前如きに何が出来るというのだ――?

 そう反論しようとしたイリヤの行動は、またも意外な少女の言動で中断された。

「仕方ない。この私がお前に、少しはマシな死に方を与えてやる」

 そう言うと少女は、背中の大リュックを下ろしてそこから大小様々な機械類を取り出すと、それらを地面に置いた鋼の杖に取り付け始めた。

「……それは?」

 いまさらのように、イリヤはそう訊ねた。

 少女が突如始めた謎の行動に、そうさせるだけの雰囲気があったからだ。

「携帯型魔導具『魔杖(ロッド)』だ。これを上手く使えば、あの火蜥蜴(サラマンダー)を返り討ちに出来るかもしれないぞ?」

 少女は不敵に笑った。

 魔導具。

 それは魔法士(ウィザード)が魔法を発動する際に用いる道具の名前だ。騎士にとっての剣や槍、射手においての弓矢に該当する、いわば魔法士としての証である。

 本来は馬車や砲台に取り付けて使用する大型の兵器であり、今までこのようなサイズの魔導器があるという話は聞いた事がなかったが、少女がこのような状況下で言っている以上、わざわざそれを疑う理由は無いだろう。

「あんた、魔法士(ウィザード)だったのか。確かに魔法なら、いや、しかし……」

 イリヤは言葉を濁らせた。

 彼は魔法士(ウィザード)ではない為、細かい理論については分からない。しかし、魔法士の用いる異能の力に関しては何度も耳にした事があった。

 魔法は魔導具自体の非携帯性と、それを行使する際に必要な手順の煩雑性から、近接戦闘を行いながら使用する事は出来ない。実際、この場で誰かに少女が魔法を発動させる前に殺せと命令されれば、イリヤは少女を何度殺せるかも分からない。

 しかし、一度発動した魔法の力は他の武器の追随を許さない。

 魔法の種類にも依るものの、その射程距離は弓矢の類を遙かに超え――卓越した魔法士に十分な時間と手間を与えれば、単身で一つの戦況を変えられるとまで言われている。ちなみに、数年前に滅亡したセント帝国は特に強力な魔法士(ウィザード)部隊を擁していた事で有名で、かの国がほぼ世界全土の国を敵に回しても滅亡寸前まで互角に戦う事が出来たのは、その魔法士(ウィザード)部隊のお蔭だという話である。

 だが、あいにくここは樹海である。視界はほとんど利かず、正確に狙いを定める為には火蜥蜴(サラマンダー)に近づいて発動準備をする必要があるのだ。

「ふむ。確かにお前の言う通り、魔法の発動にはそれなりの準備と接近が必要……」

 そこまで言ったところで。

 二人は互いに顔を見合わせ、崖の反対側を向いた。

 すると。

「…………」

「……接近する必要は無くなったな」

 少女は口を閉じ。

 イリヤは溜め息を吐いた。

 その直後、赤黒い巨大な蜥蜴――火蜥蜴(サラマンダー)が大樹の陰から姿を現した。

 不運はそれだけではない。

 火蜥蜴(サラマンダー)の頭部に生えている角のような突起物に光が点った。

 続けて火蜥蜴(サラマンダー)が大きく咆哮すると、その光は無数に分裂してそのまま消える事無く滞留し、それどころか続けて放たれる無数の咆哮に呼応して四方八方に伸長――合体し、複雑な紋様を描き始めた。

 それはいわゆる――魔法陣だ。

 魔獣。

 それは魔法を用いる生物の総称である。

 人間は基本的に何らかの魔導具を用いなければ魔法を使えないが、魔獣はその身体一つで魔法を行使する事が出来る。何故なら魔獣は、それぞれ『魔導器官』と呼ばれる魔法を発動する際に必要な発動媒体と、その媒体を処理する特殊な器官を備えているからだ。たとえばこの火蜥蜴(サラマンダー)の場合は、額に生えた角のような突起物がそれに相当している。

「――私が攻撃する。だからお前は、それまで奴を食い止めろ」

 イリヤの顔を見据えてきっぱりと少女は言った。

「……!」

 どうやって少女を逃がすか。それしか考えていなかったイリヤは絶句した。

「このままではお前は、くだらない泣き言に付き合わせて私を逃がし損ねた最低の人間だぞ。その責任を取って、死んでも奴を食い止めろ。いいな?」

 無茶ぶりも甚だしい。

 事実上の死刑勧告だ。

 だが――このままあっさり殺されてしまうよりも、万が一の可能性に賭けて死力を尽くした方が、彼女は笑ってくれるような気がした。

「……分かった。やれるだけやってみよう」

 腹を括ったイリヤは一歩前に足を進めた。

「あぁ。任せたぞ」

 少女がそう言って後ろに下がったのを確認すると、イリヤは大きく息を吸った。

 手持ちの武器は、山菜の採集や小動物を狩るために使う小振りな猟刀一本だ。大型魔獣、それも火蜥蜴(サラマンダー)を相手にする以上、せめて長剣、出来れば大剣の類が欲しいところなのだが、無いものねだりをしても仕方あるまい。

 使えるものは何であれ、使うしかないだろう。

 それがたとえ非力な猟刀であろうと――禁忌の業であろうとも。

「――『我は〝(しのび)〟』」

 イリヤはそっと囁いた。

「何……?」

 イリヤと火蜥蜴(サラマンダー)の戦闘に巻き込まれない為、彼から少し距離を取り始めた少女は背後を振り返って訝しげに声を上げたが、彼は何の反応も示さなかった。何故なら極度の精神集中に入った彼は、少女の声自体は耳に届いていたものの、それを意識する事が出来なかったからだ。

「『我〝忍〟故に()(のが)れ』――『〝忍〟故に(いん)(かく)る』」

 そう唱えた直後、彼の身体の輪郭がまるで深い霧が掛かった様にみるみる澱み、薄れ、霞んでいき、周囲の風景に溶け込み始めた。

 『あの日』以来、これを使うのはイリヤにとって約一年ぶりであった為、正直一字一句正確に覚えているかどうかは自信が無かったのだが、いざ唱えてみれば、殆ど無意識のままに正しい言葉が溢れ出してくる。流石に何千、何万回と繰り返し唱えて身体中に刻み付けた言葉――たかが一年程度の怠慢では薄れないようだ。

 それはつまり、自分がこの一年間で何も変わっていないという事実を如実に表していて――それはそれで哀しい事でもあったが、今この瞬間に於いては確かにそれは僥倖(ぎょうこう)だった。

「『故に我、一切の栄光を受ける事無く』――」

 続けて黒い靄のようなものが彼を包み込み、彼の姿をさらに捉え難いものへと変えた。

 その捉え難さは、彼と火蜥蜴(サラマンダー)の様子を伺いながら支援攻撃の為の最適な距離を計っていた少女に、彼の居場所をあらかじめ知っていなければ容易に発見する事は出来ないだろうと思わせる程のものであった。

 彼にとって、これは一種の『枷』だ。

 普段は封じ込められ、隠されている本当の自分を表に現出させる為の。そして一節、また一節と紡ぐ度に、彼は自分の本質とでも言うべきものが身体の内側から溢れ出してくるのを感じていた。

「『(ただ)その身を、一振りの刃と化す』」

 眠っていた筋肉が目覚め、心臓は早鐘を打ち始める。

 そして最後に彼の神経が、彼の体感時間を通常時の二倍以上に感じさせる程の異常な感度で駆動し始めた。

「……は――――――っ」

 イリヤは静かに、熱い吐息を吐き出した。

 全身を黒く霞ませた彼の身体で、唯一その鋭い双眸だけが、身体中で活性化した魔力の影響を受けて、暗闇に潜む獣の瞳の様に紅く光り始めた。

 今の彼は――彼本来の武芸を限界以上に発揮するだけの「兵器」だ。

 勿論それは、単に通常時と比べて膂力や反射神経が優れているという意味ではない。

 簡単に表現するなら、今の彼は全身の筋肉は勿論、それを動かす神経、さらにはそれらを司る頭脳までもが戦闘の為だけに最適化されている。

 いわば戦う為に身体を動かし、戦う為に思考するだけの存在へと変化したのである。

 それは最早人ではない。

 人の形と機能を備えた一種の兵器と言った方が正確だ。

 しかし――そのままの姿では、彼は人として生きていく事が出来ない。

 何故なら人間は何の意味も無く、他の様々な動物と違って戦闘に最適化されていない脆弱な肉体を手に入れた訳ではないからだ。

 たとえば戦闘に最適化したが故の弊害として真っ先に挙げられるのが、抽象的思考能力などの直接戦闘には関係無いものの、人間を人間足らしめているような能力において、どんな凡人にも及ばない未熟な者になってしまう事である。

 人の姿をした獣の如き自動兵器。これを良からぬ者に悪用されるような事があってはならない。所詮兵器とはいえ、人の姿をして人間社会に生きる以上、普段は人として最低限の道理や道徳を解する心を持つ必要があるからだ。

 故に求められた。

 人と兵器の間を自在に行き来する方法が。

 遠い昔、それを欲した者達が居た。

 そしてその者達はその答えを、当時まだ近代魔法学として体系化されていなかった未知の力の中に見出だし、長い年月に渡る実験と研究を積み重ね、最初は単なる暗示のようなものに過ぎなかった力を徐々に現実的なものへと昇華させていき――やがてその技術を伝承する集団が各地で現れるようになった。

 その一つ――奥義〈無影無双(むえいむそう)〉。

 一時的に俊敏性を中心とした身体能力の向上、及び固有の隠密能力を獲得する、極東の山間部に集落を構える小さな部族〈晴嵐(アルコル)衆〉の編み出した秘伝の業である。

「これは、まさか〝極東の黒霞(くろかすみ)〟……?」

 少女は思わず驚嘆の声を上げて〈晴嵐(アルコル)衆〉の異名を呟いた。

 しかしそれも無理はない。何故なら使い手がこれを人前で使うのは、互いに殺すか殺されるか以外の選択肢を失った極限状態の時だけであり、たとえ戦場といえども滅多に見られるものではないからだ。

そして。


 火蜥蜴(サラマンダー)の呪文詠唱が終わった。

 空中に浮かぶ魔法陣は高速で回転しながらギラギラと光を放っている。

 そして先程放っていた炎弾が四つ、その魔法陣の前後左右に浮いて赤々と燃えている。

 流石に森の王者――目の前でこれだけの変化を見せられながら、全く挙動に変化が見られない。

「では――始めるか」

 イリヤは僅かに身体を沈めながら言った。

 火蜥蜴(サラマンダー)の魔法陣が、さらに強く光を放った。

 次の瞬間。

 炎弾の一つが、イリヤに向かって放たれた。


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