落第寸前の地味魔術師、実は禁書庫に名を刻まれた最後の大賢者
王立アストレア魔術学院の掲示板の前で、権三郎は自分の名前を下から数えた。そのほうが早いと知っているからだ。
三年次進級査定、実技乙等・筆記丙等、総合評価は下から四番目。「要再考」の朱印が名前の横に押されている。要再考、というのは学院の婉曲な言い回しで、要するに「次の査定で結果を出さなければ退学」という意味だった。
周囲のざわめきが、彼の耳を素通りしていく。
「見ろよ、権三郎のやつ、また要再考だぜ」
「三年連続だろ? よく心が折れないよな」
「あの地味な詠唱でここまで残れたのが奇跡だって、講師も言ってた」
権三郎は聞こえなかったふりをして、掲示板から離れた。灰色がかった黒髪に、これといって特徴のない顔立ち。制服のローブは支給品のまま一度も仕立て直しておらず、袖口が少し擦り切れている。歩き方まで目立たない男だった。実際、彼とすれ違った生徒の半分は、すれ違ったことにすら気づかない。
今朝の実技査定のことを、彼は歩きながらぼんやり思い返した。
課題は第二位階『焔球』。魔力を火に変換し、球形を保ったまま十メートル先の的に当てる。入学二年目には全員が習得している基礎中の基礎だ。査定場の壇上で、権三郎は支給品の杖を構え、教本どおりの詠唱を口にした。火は、出た。拳より少し小さい、頼りなく揺れる橙色の球が、ふらふらと飛んで、的の手前一メートルで力尽きて消えた。
査定官のドレイク教授は、羽ペンを走らせながら顔も上げなかった。
「ゴンザブロウ。君ねえ、三年間で焔球の飛距離が二メートルしか伸びてないの、逆にどういうことなの」
査定場の待機列から、くすくすと笑いが漏れた。
「魔力量の問題じゃないんだよ、君の場合。測定値だけならむしろ平均はある。変換効率が絶望的なの。杖に魔力を通す段階で九割九分どこかに消えてる。こんな数値、教員生活二十五年で見たことがないよ。君、魔力をどこに捨ててるの?」
「どこに、と言われましても」
権三郎は曖昧に笑った。まさか、捨てているのではなく「使っていない」のだとは言えない。詠唱と杖という翻訳経路そのものが、彼の身体にとっては利き手と逆の手で刺繍をするような作業なのだとは、もっと言えない。ドレイク教授はため息をつき、査定表に慣れた手つきで書き込んだ。覇気なし。上達の見込み、極めて薄し。
「次、レオン・ヴァルトシュタイン君」
その名が呼ばれた途端、査定場の空気が変わったのを覚えている。壇に上がった金髪の貴公子は、杖を一振りしただけで、直径二メートルはあろうかという白金色の火球を出現させ、それを五つに分裂させて、五つの的を同時に撃ち抜いてみせた。課題を三段階は逸脱した完璧な演技に、査定場は拍手で沸き、ドレイク教授は立ち上がって彼と握手をした。
――きれいな火だったな、と権三郎は思う。それは皮肉ではなかった。あの威力と制御を詠唱式でやるのは、素直に大したものだ。ただ一点、あの白金色の輝きが本人の魔力の色ではないことに、この学院の誰一人として気づいていないだけで。
中庭に出ると、歓声が聞こえた。
噴水広場の中央で、金髪の青年が右手を掲げている。レオン・ヴァルトシュタイン。ヴァルトシュタイン侯爵家の嫡男にして、学院創立以来の天才と呼ばれる男。彼の指先から放たれた光の奔流は、七色の竜の形を取って空へ昇り、雲の下で花のように弾けた。第七位階『幻竜昇華』。教授でも扱える者が少ない大魔術を、詠唱もそこそこに撃ってみせる。
「さすがレオン様!」
「今回の査定も学年首席ですって」
「王宮魔術師団から直々の内定が出たらしいわよ」
取り巻きの輪の中心、レオンのすぐ隣に、一人の少女が立っていた。
陽の光を撚ったような亜麻色の髪。理知的な緑の瞳。アリサ・フォルクレイン。子爵家の令嬢で、学年次席の才媛。そして――権三郎の幼馴染だった。
だった、と過去形で考えるようになったのは、いつからだろう。
アリサの視線がふと動いて、権三郎を捉えた。彼女は一瞬だけ表情を硬くし、それから何かを決めたように輪を抜けて、こちらへ歩いてきた。レオンが目で追い、取り巻きたちがひそひそと囁き交わす。
「……掲示、見たわ」
噴水の水音が届くか届かないかの距離で、アリサは立ち止まった。昔のように名前を呼ばない。ゴンちゃん、という子供のころの呼び名は、入学から半年もしないうちに彼女の口から消えた。
「見たよ。俺も」
権三郎は肩をすくめた。
「下から四番目。去年より一つ上がった」
「そういうところよ」
アリサの声が、硬くなった。
「そうやって、へらへら笑って。悔しくないの? あなた、次で結果が出なければ退学なのよ。わかってる?」
「わかってるよ。要再考ってそういう意味だろ」
「わかってない!」
声が跳ねて、彼女自身がはっとしたように周囲を見た。取り巻きたちの視線がこちらに刺さっている。アリサは声を落とし、しかし言葉の刃は落とさなかった。
「私、ずっと見てきたわ。あなたが図書館の隅で、誰も読まないような黴くさい本を漁っているの。実技の授業では初級魔術ひとつまともに輝かせられないくせに、夜中まで学院に残って。……何をしているのか知らないけど、それが結果に繋がったことが一度でもあった?」
「耳が痛いな」
「茶化さないで」
アリサは息を吸った。次の言葉を言うために、勇気を溜めるように。
「私ね、レオン様のご実家から、正式に婚約のお話をいただいたの」
風が、噴水の飛沫を細かく散らした。
「フォルクレイン家にとっては願ってもない縁談よ。お父様も喜んでる。私も――お受けするつもり」
「そっか。おめでとう」
権三郎は本心からそう言った。それがいけなかったのかもしれない。アリサの緑の瞳に、傷ついたような、それを上回る苛立ちのような色が走った。
「……本当に、それだけ?」
「それだけって?」
「もういい」
アリサは首を振った。振ることで、何かを自分の中で断ち切るように。
「昔のあなたは、もっと目が輝いてた。村の裏山で、いつか誰も見たことのない魔術を見せてやるんだって言ってた。私、あれを信じてたのよ。学院に入るまでは、ずっと」
「今も裏山の続きをやってるつもりなんだけどな」
「凡人が努力しても、凡人なのよ!」
言ってしまってから、アリサは唇を噛んだ。だが撤回はしなかった。撤回しないことを選んだ顔で、まっすぐに権三郎を見た。
「才能の世界なの、ここは。レオン様を見ればわかるでしょう。生まれ持ったものが違う人は、努力の一歩目から違うの。あなたがどれだけ夜更かしをしても、届かない場所があるの。……私はもう、届かない夢に付き合ってあげられない。私にはフォルクレイン家の娘としての責任があるから」
だから、と彼女は言った。
「もう、私に関わらないで。レオン様の隣に立つ私に、あなたとの過去は――邪魔なの」
最後の一言は、ほとんど囁くような小ささだった。それでも権三郎の耳には、はっきりと届いた。
権三郎はしばらく黙っていた。怒鳴り返すでもなく、泣き崩れるでもなく、ただ静かに、旧い友人の顔を見ていた。それから、ふっと息を吐いた。
「わかった。元気で、アリサ」
あっさりと背を向けた権三郎に、アリサのほうが虚を突かれたようだった。何か言いかけて、やめて、彼女は踵を返してレオンの輪へ戻っていく。レオンが「どうしたんだい」と甘い声で訊くのが、背中越しに聞こえた。「なんでもありませんわ」と答えるアリサの声は、完璧な令嬢のそれだった。
権三郎は歩き出した。正門はもうすぐそこで、今日はこのまま下宿に帰って、干した薬草の仕分けでもして、それから夜になったら、いつものように「続き」をやろう。そう思っていた。
その時だった。
足の裏から、地鳴りが来た。
最初は誰も気づかなかった。次の瞬間、学院の敷地全体が、巨大な鐘の内側になったかのように鳴動した。石畳の目地から青白い光が噴き上がり、光は幾何学模様を描いて中庭を走り、本館の地下へ――正確には、地下三層に封じられた「禁書庫」の方角へと、川のように流れ込んでいく。
悲鳴が上がった。噴水の水が渦を巻いて逆流し、空中で球体になって静止する。掲示板の紙が一斉に剥がれて舞い、学院の尖塔に取り付けられた七つの魔導警鐘が、建学以来一度も鳴ったことのない音階で鳴り始めた。
「な、なんだ!?」
「結界の暴走か!?」
「違う、これ……共鳴だわ。地下から、何かが呼応してる……!」
レオンが咄嗟にアリサを庇って障壁を張った。教師たちが飛び出してくる。生徒たちが避難誘導の号令に押し流されていく中で、権三郎だけが、正門へ向かう足を止めて、静かに空を見上げていた。
――ああ、鳴っちゃったか。
彼は胸の内でだけ、そう呟いた。
空の球体になった噴水の水が、ぱしゃりと崩れて落ちた頃、正門の方角から複数の飛行魔導艇が矢のような速度で降下してきた。艇体に刻まれた紋章は、双頭の梟に開かれた書物――王国魔術院。国内すべての魔術師の頂点に立つ、王直属の機関だ。
先頭の艇から、着陸も待たずに一人の老人が飛び降りた。真白い顎鬚を風になびかせ、七枚重ねの導師礼装の裾をからげて、老人とは思えぬ健脚で中庭を駆けてくる。その顔を見て、教授たちが凍りついた。
「ま……マーリウス卿!? 王国魔術院院長、じきじきに!?」
マーリウス・エルドヴァイン。王国最高位の大導師にして、現存する魔術師の中で唯一「賢者」の称号を持つ男。王ですら彼の執務室には予約を取って訪れるという生ける伝説が、息を切らし、白鬚を乱して、地方学院の中庭に立っていた。
「学院長はどこか!」
老人の一喝が空気を震わせた。転がるように駆けつけた学院長ボードワンが、揉み手と平身低頭の中間のような姿勢で進み出る。
「こ、これはこれはマーリウス卿、本日はいったいどのような……」
「挨拶は省く。時間が惜しい」
マーリウスは懐から一枚の水晶板を取り出した。板の中では、無数の光の糸が複雑な模様を描いて明滅している。
「六日前、大陸北方で何が起きたかは知っておろうな」
「は、はい。北の魔穴の大規模活性化……観測史上最大の魔力災害の予兆があったと。ですが幸い、予兆は自然に鎮静化したと発表が」
「自然に、ではない」
老人の声が、低くなった。
「あれはな、鎮められたのだ。人の手で」
中庭がざわめいた。避難しかけていた生徒たちも、教授たちも、その言葉の意味を測りかねて顔を見合わせる。マーリウスは水晶板を掲げ、全員に見えるように光の模様を映し出した。
「これは当夜、北方観測塔が記録した術式紋様だ。魔穴を封じたのは単一の術者による単一の術式――第十三位階相当、『星辰緘封』。よいか、第十三位階だぞ。現行の魔術体系は第九位階までしか存在せん。第十位階より上はな、五百年前に大賢者オズヴァルドの死とともに失われた、古代魔術の領域だ」
誰かが、ひっと喉を鳴らした。
「魔術院は総力を挙げて術者を探した。あの規模の術式を組める者が野にいるなら、それは国家戦力どころではない、大陸の勢力図を塗り替える存在だ。だが、どこにもおらん。どの国の宮廷魔術師でもない、どの魔術結社にも該当者がおらん。手がかりは唯一つ――術式の『署名』だけだった」
「署名……ですか」
「高位の術式にはな、術者の魔力癖が指紋のように焼き付く。我らはこの指紋を、あらゆる記録と照合した。そして今日、たった今――照合結果が出たのだ」
マーリウスは、震える指で足元を指した。正確には、足元のさらに下。地下三層を。
「この学院の禁書庫。大賢者オズヴァルドが自らの直筆手稿を封じた、大陸に三つしかない第一級封印書庫。その封印構造に登録された『開扉権限者』の魔力紋と――北の災厄を封じた術者の署名が、完全に一致した」
しん、と中庭が静まり返った。
「意味がわかるか。オズヴァルドの封印は、奴の直系の術理を完全に継承した者にしか登録できん。つまり北の魔穴を封じた術者は、失われた古代魔術の正統な後継者。五百年ぶりに現れた――『最後の大賢者』だ。そしてその者は」
老人は、ゆっくりと顔を上げた。
「今この瞬間、この学院の敷地内におる。先刻の共鳴は、禁書庫が主の帰還に呼応した音だ。書庫が、扉を開けてくれと鳴いておるのだ」
沈黙は三秒。それから中庭は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「大賢者……大賢者がこの学院に!?」
「生徒か? 教授か? まさか学院長……はないな」
「決まってるだろ、うちの学院で第十三位階なんて可能性があるとしたら――」
視線が、一斉に一人の男へ集まった。
金髪の貴公子は、突然向けられた数百の期待の眼差しに、一瞬だけ怯んだ。だがすぐに、生まれついての役者の本能がその背筋を伸ばさせた。レオン・ヴァルトシュタインは優雅に前髪をかき上げ、困ったような微笑を浮かべてみせた。
「参ったな。僕は何も言えないよ。……ただ、六日前の夜、僕が寮を空けていたことは、ルームメイトが知っている」
どよめきが爆発した。実際それは事実だった。六日前の夜、レオンは実家の夜会に出るため学院を離れていたのだ。だが彼はそれを言わなかった。嘘は言わない。ただ、事実の並べ方で人に夢を見させる。それはヴァルトシュタイン家が三代かけて磨いてきた、魔術よりよほど実用的な技術だった。
「レオン様……やっぱり……!」
「第七位階をあんな簡単に使う方だもの、隠してたのよ、本当の力を」
アリサは隣で、頬を上気させてレオンを見上げていた。誇らしさと、安堵と、自分の選択は正しかったのだという確信。彼女の目は、もう権三郎を探しもしなかった。
その権三郎はといえば、騒ぎの輪の一番外側で、下宿の夕飯は何にしようかと考えていた。
――まいったな。署名まで照合されるとは思わなかった。
彼は素直に反省していた。六日前のあの夜は、確かに少し急ぎすぎたのだ。
北の魔穴の異変には、三月前から気づいていた。図書館の閲覧室に置かれた大陸魔力観測網の週報――誰も読まない、数字ばかりの薄い冊子だ――の片隅で、北方観測塔の背景魔力値が奇妙な律動を刻み始めていた。周期十一日、振幅は毎回三分ずつ増大。五百年前の観測記録と照合すると、それはオズヴァルドの手稿が「大喰らいの目覚めの鼾」と呼ぶ波形と一致した。手稿の予測式に代入すると、臨界は約九十日後。ちょうど学院の連休に重なる計算だったので、権三郎はのんびり準備を進めていた。封印の骨格となる術式を千枚の紙に下書きし、失敗した場合の退避計画を三通り立て、旅嚢に干し肉と着替えを詰めた。
ところが臨界は、三日早く来た。
当夜、下宿の窓から北の空が薄く赤らむのを見た瞬間、権三郎は舌打ちをして旅嚢を掴んだ。消灯後の寮界隈を抜け、街外れの雑木林に隠しておいた自作の転位陣に乗る。現代魔術で転位は第九位階、国家間の外交でしか使われない超高等術式だが、古代式で書けば床に描いた円一つで済む。次の瞬きの後、彼は北方の凍土に立っていた。
空が、割れていた。
地平線の向こう、氷河を裂いて開いた魔穴は、差し渡し四十キロ。裂け目からあふれる原初の魔力は、夜空を紫に染め、触れた雲を石に変えながら、渦を巻いて広がりつつあった。あと半日で暴走は不可逆点を越え、一月で大陸北部の生命は絶え、一年で世界の魔力循環そのものが壊死する。手稿の予測式は、そこまで教えてくれていた。
権三郎は凍土に膝をつき、指先で雪の下の岩盤に触れた。
そして、書き始めた。
詠唱はしない。杖も持たない。世界という書物の、この頁の、この行に、直接ペンを入れる。第十三位階『星辰緘封』。天にある星々の運行を仮の綴じ糸として借り受け、開いた頁を縫い閉じる術式。骨格は下書きどおり、だが現場で合わせるべき変数が三万ほどあった。彼は八時間、まばたきの回数まで惜しんで書き続けた。指先は凍り、鼻血が二度出た。夜明け前、最後の一画を結んだ瞬間――四十キロの裂け目は、音もなく、一枚の白い光の膜に覆われ、閉じた。後には静かな氷河と、へたり込んで荒い息をつく、一人の学生だけが残った。
「……よし。帰って寝よう」
誰にも聞かれない呟きを残して、彼は帰りの転位陣を組んだ。本来ならここで、術式に残った魔力紋を消す偽装工程を丁寧に施すべきだった。だが朝の点呼まであと二時間で、しかも一限は落とせない薬草学だった。偽装は三層だけ省略した。どうせ照合できる記録などない、と思っていた。まさか自分の魔力紋が、あの禁書庫の封印構造に「登録」されていて、王国がそれと照合するとは考えもしなかったのだ。
次からは、眠くても手を抜くのはやめよう。彼は改めてそう思った。
権三郎が魔術に出会ったのは、七つの時だった。
生まれ育ったのは王都から馬車で十日の辺境の村で、村には魔術師など一人もいなかった。ただ、裏山の中腹に、誰のものとも知れぬ朽ちた石塔があった。子供の探検心で忍び込んだその塔の地下で、彼は一冊の本を見つけた。表紙も背も焼け焦げ、綴じ紐は千切れ、頁の三分の一は判読できない。後に知ることだが、それは五百年前の大戦で散逸した、大賢者オズヴァルドの手稿の写本の、そのまた断片だった。
読めなかった。当然だ。古代文字である以前に、権三郎はまだ現代文字すら怪しかった。だから彼は、まず村の司祭に字を習った。現代文字を覚えると、行商人から古語の入門書を買った。古語を覚えると、断片の文字が三種類の異なる時代の文字の混合体であることがわかった。一つずつ潰した。十歳になる頃、最初の一行が読めた。
――魔術とは記述である。世界という書物への、加筆である。
その一行を理解した瞬間のことを、権三郎は今でも覚えている。夏の夕方で、蜩が鳴いていて、隣にはアリサがいた。ゴンちゃんまたその焦げた本読んでる、と笑っていた。彼は興奮して説明した。すごいんだアリサ、今の魔術は呪文を「唱える」だろ、でもこの本の魔術は世界に直接「書き込む」んだ。詠唱も杖もいらない。世界の文法さえわかれば――。
アリサはよくわからないという顔で、それでも目を輝かせて聞いてくれた。いつか誰も見たことのない魔術を見せてやる、と言った権三郎に、指切りまでしてくれた。
学院に入ったのは、資料が欲しかったからだ。
辺境の村では手に入らない文献が、王立学院の図書館にはある。それだけの理由だった。入学試験は現代魔術の詠唱式で行われるから、権三郎は試験の三月前から現代魔術を「勉強」した。彼にとってそれは、母語の使い手が外国語の文法ドリルを解くような作業だった。世界に直接書き込めば一瞬で済むことを、わざわざ詠唱という迂遠な口述形式に翻訳し、杖という補助器官を経由して実行する。翻訳の過程で魔力の九割九分は失われる。だから彼の実技はいつも、蝋燭ほどの火しか出ない。
全力で書けば、山を消せるのだが。
それをしなかったのは、隠すためというより、単に必要がなかったからだ。古代魔術は制御を誤れば大陸が割れる。オズヴァルドの手稿には、警告が繰り返し記されていた。曰く、力を見せる者は力を求められる。力を求められた者は、やがて力そのものになる。余は戦争の道具として五百年を失った。継ぐ者よ、静かに在れ。必要の時まで、必要の分だけ――。
だから権三郎は、静かに在った。図書館の隅で、禁書庫の目録の写しから手稿の全容を推定し、失われた頁を自力で再導出する日々。教授たちの査定表に「覇気なし」と書かれる日々。幼馴染が離れていき、それでも研究ノートは千冊を超えた日々。
凡人が努力しても凡人、とアリサは言った。
半分は正しい、と権三郎は思う。彼は確かに、現代魔術の凡人だ。詠唱のセンスは学年最下位クラスで、それは今後も変わらないだろう。ただ彼は、現代魔術を専攻したことが一度もないだけだった。
「――全生徒、全教職員に告げる!」
マーリウス院長の声が、回想を破った。老人は魔導艇の甲板に上がり、拡声の術で学院中に呼びかけていた。
「これより魔術院立ち会いのもと、禁書庫の開扉照合を行う! 開扉権限者――大賢者の後継者は、名乗り出られよ! 貴殿の身分・成績・出自は一切問わぬ! 王国は貴殿を最大の礼をもって迎える!」
誰も動かない。数千の視線がレオンに集まり、レオンは謎めいた微笑のまま動かない。動けるはずもなかった。
「名乗り出られぬ事情がおありなら、それでもよい!」
老人は続けた。その声には、駆け引きではない、剥き出しの切実さがあった。
「だが聞いてほしい。北の魔穴の封印は完璧だ。完璧すぎて、我々の誰にも維持継承ができん。あなたの術式を理解できる者が、この大陸に一人もおらんのだ。もし……もしあなたの身に何かあれば、封印は五十年で緩む。次の活性化を止める術を、人類は持たん。頼む。世界のために、どうか――」
権三郎は、小さくため息をついた。
夕飯は、当分先になりそうだった。
禁書庫の照合は、その日の夕刻から地下三層で行われることになった。
立ち会いを許されたのは、魔術院の導師団、学院の教授陣、そして「希望する上級生徒」。もっとも最後の枠は事実上、レオンとその周辺のために用意されたようなものだった。学院長ボードワンが揉み手で「我が学院の誇る俊英たちにも、ぜひ歴史的瞬間を」と押し込んだのだ。万一レオンが大賢者であった場合、彼を輩出した学院長として歴史に名が残る。その皮算用が、ボードワンの顔には隠しようもなく書いてあった。
地下三層は、学院の建物の中で最も古い区画だった。学院のほうが後から建てられたのだ、と言ったほうが正確かもしれない。五百年前、オズヴァルドの手稿を封じるための書庫がまず在り、それを守る施設として魔術学院が築かれた。長い螺旋階段を降りきると、そこは大聖堂ほどもある岩窟で、正面に高さ十メートルの黒い扉が屹立していた。扉には蝶番も取っ手もなく、表面全体に、銀の糸を埋め込んだような細かい文字がびっしりと流れている。文字は今も生きて動いており、水面の光のように明滅を繰り返していた。
「共鳴が続いておる」
マーリウスが囁いた。
「わしは四十年前に一度、この扉の調査に参加した。当時は完全に沈黙した、死んだ扉だった。それが今は……見よ、歌っておるようだ」
照合の手順は単純だった。扉の中央に、手形のくぼみが一つある。そこに掌を当て、魔力を通す。登録された魔力紋であれば、扉は開く。違えば、何も起こらない。オズヴァルドの封印は侵入者を害さない。ただ、永遠に無視するだけだ。
「では――照合を希望する者から、前へ」
導師団の視線が、期待を隠しもせずレオンに注がれた。教授陣も、生徒たちも、固唾を呑んで貴公子を見た。
レオンは、進み出るしかなかった。
彼自身、この数時間で自分の噂に半ば酔ってもいた。ひょっとしたら、と思わないでもなかったのだ。自分は天才だ。物心ついた時からそう言われて育った。ならば自分でも知らぬ力が眠っていることも、あり得るのではないか。物語なら、そうなるはずではないか。
黒い扉の前に立つと、銀の文字の流れがよく見えた。読めない。一文字も読めない。レオンは深呼吸をひとつして、くぼみに掌を当てた。
全身の魔力を、練り上げて注ぐ。
何も、起こらなかった。
銀の文字は、彼の掌のまわりだけ、すっと明滅をやめた。まるで興味を失ったように。それは「不一致」の表示ですらなかった。ただの、無視だった。
「……そう、か。私では、ないか」
レオンは笑おうとした。優雅に、残念そうに、しかし品位を保って身を引く算段だった。実際、それで済むはずだった。彼が余計な一言を言わなければ。
「まあ、当然だな。私の術式系統は宮廷式だ。古代式とは根本から違う。この扉は私を拒んだのではなく、系統の違いを検出しただけのこと――」
「レオン・ヴァルトシュタイン殿」
導師団の中から、初老の女性導師が静かに進み出た。魔術院術式解析局長、ヴェルダ・クライン。大陸で最も多くの魔術師の術式を「視て」きた鑑定の権威だった。
「先ほどから拝見しておりましたが……あなた、今の照合で、練り上げた魔力。あれはあなた自身のものではありませんね」
岩窟が、静まり返った。
「な……にを、おっしゃる」
「私の眼は魔力の出所を視ます。あなたの魔力の八割五分は、体内からではなく、装具から供給されている。左手の指輪が二つ、胸元のメダリオン、ベルトの留め具、それから――靴の踵に仕込まれた増幅結晶。すべてヴァルトシュタイン工房の最高級魔力貯蔵具。夜会用の装身具かと思うておりましたが、照合の場で装具の魔力を混ぜられては、記録の正当性に関わります。外していただけますか」
「こ、これは、その、礼装の一部であって」
「外して、もう一度ご自身の魔力だけで照合を。なに、簡単なことでしょう。学院始まって以来の天才ならば」
ヴェルダの声は穏やかで、それゆえに逃げ場がなかった。レオンの顔から血の気が引いていく。教授陣の何人かが、ざわ、と囁き交わした。彼らは思い出していたのだ。レオンの実技はいつも完璧だった。だが彼は、ただの一度も、装具なしで実技に臨んだことがない。実家から装具の持ち込みが「伝統」として黙認されてきたこと。査定官への付け届けが「季節の挨拶」として続いてきたこと。誰もが薄々知っていて、誰も口にしなかったことを。
震える手で、レオンは指輪を外した。メダリオンを外した。踵の結晶は外し方がわからず、靴ごと脱いだ。そうして裸足で、彼はもう一度、掌をくぼみに当てた。
注がれた魔力は、蝋燭の火が揺れるほどのものだった。
第七位階『幻竜昇華』を撃ってみせた男の、それが素の魔力量だった。装具の増幅を前提に組まれた詠唱技術。借り物の魔力で描かれた、天才という名の絵。扉は今度も、彼を無視した。当然だった。扉だけではない。今や岩窟にいる全員が、目の前の青年をどう見ればいいのか、わからなくなっていた。
「ち、違う……これは、その、今日は調子が」
「下がられよ」
マーリウスの声は、冷たくすらなかった。ただ、次へ進む声だった。それがかえって、レオンという存在がこの場の関心から完全に消えたことを意味していた。彼はふらふらと後退り、脱いだ靴を抱えたまま、壁際の暗がりにへたり込んだ。アリサが駆け寄ろうとして――足を止めた。彼女は今、自分が誰に駆け寄るべきなのか、その計算が崩壊した顔をしていた。
「他に照合を希望する者は!」
マーリウスが呼ばわった。教授が三人、進み出て、無視された。導師が二人、試して、無視された。ボードワン学院長までこっそり試して、無視された。岩窟に、重い沈黙が降り積もっていく。
――このままでは、夜が明ける。
権三郎は「希望する上級生徒」の列の最後尾で、あくびを噛み殺した。そして、心を決めた。どのみち書庫はもう鳴いてしまった。放っておけば共鳴は学院の結界を軋ませ続け、そのうち構造ごと傷む。あれは五百年も主を待った、いささか犬に似た書庫なのだ。
「あのー」
間の抜けた声が、岩窟に響いた。
全員が振り返った。ローブの袖が擦り切れた、灰色がかった黒髪の、これといって特徴のない生徒が、ひょこひょこと歩み出てくる。教授の一人が眉をひそめた。
「……誰だ、君は」
三年間教えた学生の顔を、その教授は思い出せなかった。別の教授が査定名簿をめくり、ようやく声を上げた。
「ゴンザブロウ……三年次、総合評価『要再考』。おい君、ここは遊びの場ではない。照合には登壇者の記録が残るのだぞ。成績下位者が悪ふざけで――」
「ふざけてはいないです。ただ、その、開けないと書庫が可哀想なので」
可哀想、という語彙に、導師団が失笑しかけた、その時だった。
黒い扉の銀の文字が、一斉に、燃え立つように輝いた。
権三郎が歩を進めるたび、光は強くなった。彼はくぼみに掌を当てなかった。当てる必要がなかった。三歩手前で足を止め、囁くような小声で、誰も聞いたことのない言語を一節だけ口にした。それは詠唱ではなかった。強いて言えば、挨拶だった。ただいま、というほどの意味の古代語だった。
扉が、震えた。
十メートルの黒い扉が、音もなく、内側へ開いた。五百年ぶりに吐き出された書庫の空気が、羊皮紙と星の匂いをさせて岩窟に流れ出す。扉の内側の壁面――開いた者にしか見えないその場所に、銀の文字で一行、署名のように刻まれた名があった。導師の一人が、かすれた声でそれを読み上げた。
「『継承者、ここに術理を修めたり。その名――ゴンザブロウ』……」
誰も、動けなかった。
最初に膝をついたのは、マーリウス院長だった。王すら予約を取って会うという生ける伝説が、両膝を岩床につき、深々と、額が床に触れるほどに頭を垂れた。
「お……お待ち申し上げておりました。大賢者の、継承者殿……! じ、じかにお目にかかれる日が来ようとは……! 北の災厄より世界をお救いくださった御恩、王国魔術院一同、なんと御礼を申し上げてよいか……!」
「いや、あの、頭を上げてください。土下座されるようなことでは」
「土下座ではございませぬ! 最上級導師礼でございます!」
「同じに見えますけど……」
導師団が雪崩を打って跪いた。ヴェルダ解析局長も、教授陣も、ボードワン学院長にいたっては跪くというより崩れ落ちた。彼の頭の中では、三年分の査定表がめくれ返っていた。要再考。覇気なし。詠唱に精彩を欠く。凡庸。それらの朱筆をこの学生に入れ続けた決裁印は、全部、自分のものだった。
権三郎は所在なげに立ち尽くし、頭をかいた。
「ええと。とりあえず、書庫の共鳴だけ鎮めますね。このままだと学院の結界が傷むので」
彼は開いた扉の内側へ一歩入り、書架の闇に向かって、短く古代語を紡いだ。よしよし、もう鳴かなくていい、というほどの意味だった。学院全体を震わせていた地鳴りが、潮が引くように収まっていく。地上では、七つの魔導警鐘が同時に鳴りやみ、生徒たちが呆然と顔を見合わせていた。
扉の内側は、外の岩窟よりもさらに広かった。
権三郎の足音に応えて、天井から吊るされた無数の光球がひとつ、またひとつと灯っていく。浮かび上がったのは、見上げるほどの書架の森だった。五百年前の羊皮紙が、経年をまるで感じさせない瑞々しさで並んでいる。書庫全体が一個の保存術式であり、時間の流れそのものが棚の中では堰き止められているのだ。マーリウスと導師たちは入り口で立ち尽くし、その光景に声を失っていた。人類が失った五百年分の術理が、手つかずのまま、そこに眠っていた。
書架の森の中央に、小さな机がひとつあった。
樫の古机で、上には羽ペンと、閉じられた一冊の手帳が置かれている。権三郎が近づくと、手帳の表紙の留め金が、ひとりでに外れた。開いた頁には、彼が七歳の日から追い続けてきた、あの懐かしい筆跡が躍っていた。
――継ぐ者へ。この扉を開けた者は、余の術理を独力で修めた者である。それ以外にこの扉は開かぬゆえ、まずは言おう。よくぞ来た。そしてすまぬ。余は術理の全てをここに封じた。悪用を恐れたからだ。だが封じるとは、託すことでもある。そなたが何者かを余は知らぬ。王か、乞食か、老人か、子供か。ただ一つだけ確信できることがある。独力でここまで登った者は、力の重さを知る者だ。ゆえに最後の頁の警めを繰り返すのみ――静かに在れ。必要の時まで、必要の分だけ。そして時々は、よく眠り、よく食え。余はそれを怠って死んだ。
権三郎は、少しだけ笑った。書いた人間の生真面目さと不器用さが、行間から滲むような文章だった。五百年前の師匠は、最後の最後に飯の心配をして逝ったらしい。彼は手帳をそっと閉じ、留め金を掛け直して、机の上に戻した。持ち出す必要はなかった。ここは今日から、いつでも来られる自分の書斎なのだから。
「継承者殿……いや、大賢者殿。伺わねばならぬことが、山ほどございます」
マーリウスが、床に膝をついたまま顔を上げた。
「北の魔穴の封印。あれは、まことに貴殿が?」
「あー……はい。すみません、勝手なことをして。報告すべきかとも思ったんですが、報告先というか、手続きがよくわからなくて。あと平日だったので、授業もあったし」
「じゅ、授業」
「はい。次の日、一限が薬草学だったので。出席日数が足りてなくて、あれ落とすと進級できないんですよ」
世界を救った翌朝の一限に薬草学へ出た男は、面倒くさそうにそう言った。導師団の間から、笑いとも嗚咽ともつかない音が漏れた。ヴェルダ解析局長が、震える声で尋ねた。
「『星辰緘封』……第十三位階の術式構造を、我々は解析しきれませんでした。あの多重階層は、いったいどこで」
「独学です。基本はオズヴァルド師の手稿の断片から復元して、足りない部分は自分で導出しました。ここの図書館、五百年前の観測記録が揃ってるので助かりました。……あの、皆さんそろそろ立ちませんか。床、冷えますよ」
誰も立たなかった。立てなかった。独学、復元、導出。その三つの単語が意味する絶望的な高さを、その場の専門家たちだけが正確に理解できたからだ。五百年間、大陸中の天才が挑んで一人も辿り着けなかった場所に、この青年は辺境の村の焦げた本の断片から、たった一人で登ったのだ。
壁際の暗がりで、レオン・ヴァルトシュタインは靴を抱えたまま、その光景を見ていた。
彼の目に映っているのは、跪く王国魔術院と、その中心に立つ、袖の擦り切れたローブの男だった。三年間、視界に入れる価値もないと思っていた男。凡人の見本として、取り巻きとの笑い話に使ってきた男。……本物、というのは、ああいうものなのか。装具も、家名も、付け届けも、演出もなしで、扉のほうから開く。
翌週、ヴァルトシュタイン家には査定不正と装具偽装に関する魔術院の正式な調査が入ることになる。三代分の「季節の挨拶」の記録が精査され、レオンの成績はすべて再査定、王宮魔術師団の内定は取り消され、侯爵家は多額の追徴と社交界での失墜を被る。だがこの夜のレオンにとって、それらはまだ未来のことだった。この夜の彼を打ちのめしていたのは、もっと単純な事実――アリサが、もう自分の隣にいないことだった。
彼女は岩窟の中ほどで、一人で立っていた。
跪く群れにも加わらず、レオンの傍にも戻らず、ただ、開いた黒い扉と、その前の幼馴染を見ていた。
その夜の聴取と、書庫の一次調査と、際限のない「最上級導師礼」から権三郎が解放されたのは、日付が変わる少し前だった。
マーリウス院長は権三郎に魔術院の貴賓房を用意すると言って聞かなかったが、権三郎は下宿に帰ると言って聞かなかった。干し薬草の仕分けが途中だったし、大家のおばあさんに、遅くなる時は一声かける約束だったからだ。押し問答の末、導師二名が「護衛」として下宿の外に立つことで手打ちになった。世界で唯一の大賢者を、王国はもう一晩たりとも無防備にしておけない。それが世界を救うということの、請求書だった。
学院の裏門を抜けて、街灯もまばらな並木道に出たところで、権三郎は足を止めた。
道の先に、アリサが立っていた。
肩掛けも羽織らず、夜気に白い息を吐いて、どれだけ待っていたのか、指先が赤くなっていた。権三郎が黙っていると、彼女のほうから口を開いた。
「……ゴンちゃん」
三年ぶりに聞く呼び名だった。
「昼間のこと、謝るわ。ひどいことを言った。凡人だなんて……何も知らないで。ううん、昼間だけじゃない。この三年間、ずっと」
「気にしてないよ。実際、詠唱の成績は本当にひどいし」
「そうやって笑わないで」
アリサは一歩、踏み出した。
「ねえ、聞いて。レオン様との婚約のお話は、お断りするわ。もともと家同士の話だもの、あの家が今度どうなるかを考えたら、お父様も反対しない。だから、その」
彼女は言葉を探した。緑の瞳が、街灯の明かりに揺れていた。
「私、思い出したの。裏山の石塔。焦げた本。あなたが最初の一行を読めた日、蜩が鳴いてて、あなた、頬っぺたを真っ赤にして私に説明してくれた。世界に直接書き込む魔術なんだって。誰も見たことのない魔術を見せてやるんだって。……今日、あの扉が開いた時、私だけはわかったのよ。ああ、ゴンちゃんは指切りを守ったんだって。この学院で、あの導師様たちの中で、私だけが」
アリサは両手を胸の前で握りしめた。
「私だけは、昔のあなたを知ってるの。あなたがどんなに頑張ってきたか、本当は誰よりも知ってるの。だから――だから、また昔みたいに、あなたの隣で」
「アリサ」
権三郎の声は、静かだった。怒気はなかった。それは昼間、おめでとうと言った時と同じ、本心からの静けさだった。だからこそ、遮られたアリサは、続きの言葉を失った。
「昔の俺を知ってるのは、本当だと思う。それは嬉しかったよ。三年間で一番、君の言葉で嬉しかったのは、たぶん今のだ」
「じゃあ……」
「でもさ」
権三郎は、夜空を見上げた。北の空に、彼が封印を編んだ夜と同じ星が出ていた。
「昔の俺を捨てたのも、君だろ」
夜気が、二人の間で細く鳴った。
「届かない夢に付き合えないって言ったのは、君だ。もう関わらないでって言ったのも、君だ。それでいいと俺は思ってる。責めてない。君には君の家の事情があって、君は君の計算で最善を選んだ。今日、計算の答えが変わったから、選び直しに来た。それも君の自由だ。……でも俺のほうは、選び直さない。それだけの話だよ」
「私は、計算なんかじゃ……昼間のあれは、あなたに現実を見てほしくて」
「うん。そして現実が変わった夜に、君はここにいる」
アリサは何か言おうと口を開き、開いたまま、何も言えなかった。どの言葉を選んでも、今夜ここに立っている事実の説明にしかならないことに、聡い彼女は気づいてしまったからだ。緑の瞳から、堪えていたものがひとつ、頬を伝った。
「……指切り、守ってくれたのに」
「ああ。あれは君との約束だったけど、途中からは、俺と俺の約束だったから」
権三郎は少しだけ迷って、それでも言った。
「元気で、アリサ。それは昼間も今も、本心だ」
彼は歩き出した。すれ違う一瞬、アリサの唇が「ごめんなさい」の形に動いたが、声にはならなかった。権三郎は振り返らなかった。並木道の先の角を曲がる時、背後で小さな嗚咽が聞こえた気がしたが、それは夜風の音だったかもしれない。彼はただ、明日の一限が薬草学であることを考えた。世界がどう変わろうと、出席日数は足りていないのだった。
翌朝の薬草学の教室は、異様な空気に包まれていた。
権三郎がいつもどおり五分前に滑り込み、いつもの最後列の席に着くと、教室中の視線が音を立てて彼に集まった。昨夜の禁書庫の一件は、夜のうちに学院の隅々まで駆け巡っていた。要再考の落ちこぼれが、実は五百年ぶりの大賢者だった。北の災厄を独りで封じた張本人だった。王国魔術院の院長が、床に額をつけた――。
噂の中心人物が平然と登校してきたことに、教室は凍りつき、それから小声のさざなみが立った。誰も隣の席に座ろうとしない。恐れ多くて、というのが半分、気まずくて、というのが半分だった。この教室の大半は、昨日まで彼を笑い話の種にしていたのだから。
教壇に立った薬草学のモルツ教授は、出席簿を持つ手を震わせながら、蚊の鳴くような声で言った。
「ご、ゴンザブロウ……様。本日は、その、ご出席いただかなくとも、出席扱いに」
「いえ、普通に出ます。あと様はやめてください。今日は月光草の乾燥法ですよね。あれ、手稿の保存術式と原理が近いので、楽しみにしてたんです」
大賢者に「楽しみにしてた」と言われた瞬間、モルツ教授の背筋が伸びた。二十年間、実技系の教授陣から「暗記科目」と軽んじられてきた薬草学の、これ以上ない名誉回復だった。この日を境にモルツ教授の講義には妙な熱がこもるようになり、後年「薬草学の中興の祖」と呼ばれることになるのだが、それはまた別の話だ。
それから一月の間に、権三郎の下宿の周辺は大陸の縮図になった。
最初に来たのは王国魔術院で、マーリウス院長は「特別首席導師」の椅子を携えてきた。魔術院始まって以来の役職で、序列は院長と同格、義務はなし、望むだけの研究予算と禁書庫の永久閲覧権がつくという。権三郎が「閲覧権だけで十分です」と答えると、老賢者は「では閲覧権と椅子だ」と譲らず、結局「肩書は保留、閲覧権は受領」という奇妙な妥結に終わった。帰り際、マーリウスは玄関先で振り返り、しみじみと言った。「わしは五十年、天才と呼ばれる者を数えきれず見てきた。じゃが、欲のない本物というのは、貴殿が初めてじゃよ」
次に来たのは王家で、宰相みずから伯爵位と王都の屋敷の目録を持参した。権三郎は茶を出し、目録を丁重に押し返し、代わりに「王都の大図書館の貸出期限を、二週間から一月に延ばしてもらえませんか」と要望した。宰相は三度聞き返し、四度目に「それだけで、よろしいのですな」と念を押し、帰りの馬車で頭を抱えた。この要望は後日、勅令によって全国民に適用され、「大賢者の一月」として司書たちの間で永く語り継がれた。
三日後には隣国の使節団が「大導師院首座」の招聘状を、その翌週には東方の皇国が「国師」の玉印を、南方の都市同盟にいたっては白紙の契約書を持ってきた。条件はそちらで書いてくれ、というわけだ。権三郎は白紙の契約書をしばらく眺め、隅に小さく「災厄の際はお互い様とする」とだけ書いて返した。都市同盟の使者は泣いた。
大家のおばあさんは、毎日玄関先に立派な馬車が列を作るのを見て、「ゴンさん、あんた借金でもこさえたのかい」と本気で心配した。権三郎は「まあ、そんなようなものです」と答えた。あながち嘘でもなかった。力を見せる者は力を求められる。手稿の警告どおりの日々が、玄関の呼び鈴を鳴らし続けていた。
学院はといえば、ボードワン学院長が青い顔で「要再考」の査定の全面撤回と過年度の再評価を申し出たが、権三郎はこれを断った。評価は査定どおりでいいです、詠唱は実際下手なので。ただ、進級だけさせてもらえると助かります、図書館をまだ使いたいので――それが彼の出した唯一の要望で、学院史上もっとも安上がりな和解となった。
レオンが学院を去ったのは、査定不正の再調査が結審した日の翌朝だった。
自主退学。処分としては温情だったが、社交界というものを知る者には、それが再起の道を断たれたのと同義であることがわかった。迎えの馬車は一台きりで、かつて彼を囲んでいた取り巻きは、一人も見送りに来なかった。
正門の前で荷を積み込むレオンと、一限に向かう権三郎は、偶然に行き合った。
気まずい沈黙が流れるかと思われた。だがレオンは、荷物の革帯を締める手を止め、存外まっすぐに権三郎を見た。装具をすべて没収された彼は、記憶にあるより一回り小さく、そして記憶にあるどの瞬間よりも、まともな顔をしていた。
「……一つだけ、聞かせてくれ」
「なんでしょう」
「君は、三年間、僕をどう見ていた。装具のことに、気づいていたんだろう」
「ええ、まあ。魔力の色が違ったので」
「なぜ黙っていた。あの査定の日、君が一言暴露すれば、僕は君より先に落ちていた。君は僕に嗤われながら、僕の種を知っていて、黙っていた。……侮蔑か? それとも憐れみか」
権三郎は、少し考えた。それから、正直に答えた。
「どちらでもないです。装具込みでも、あなたの制御技術は本物だったので。借り物の魔力をあそこまで精密に振り回せる人は、そういません。素の魔力量は生まれつきで、あなたのせいじゃない。……ただ、家の方針で嘘の看板を背負わされてるんだろうな、大変だな、とは思ってました」
レオンは目を見開き、それから、喉の奥で短く笑った。三年間の学院生活で彼が浮かべた、おそらく初めての、演技でない笑いだった。
「大変だな、か。……ああ、大変だったよ。物心ついた時から、ずっとな」
彼は馬車に乗り込み、窓枠に肘をかけて、最後に言った。
「領地で、一から詠唱をやり直す。装具なしの、蝋燭の火からだ。十年かかっても、今度は自分の魔力の色で第七位階を撃つ。……次に会う時は、本物同士で話せるように」
「はい。楽しみにしてます」
馬車が走り出し、砂埃が立ち、やがて見えなくなった。権三郎は一限に三分遅刻し、モルツ教授に「大賢者様でも遅刻は遅刻です」と、この一月で初めて普通の小言を言われた。彼は少し嬉しかった。
アリサは学院に残った。廊下で見かけることはあったが、互いに会釈をするだけの距離が、そのまま二人の距離になった。
結局、権三郎はすべての招聘に同じ返事をした。
肩書はいりません。ただ、次の災厄の時にまた呼んでもらえるなら、どこの国のためでも封印は編みます。あと、できれば平日は避けてもらえると。
諸国の使者たちは、この返答を持ち帰るたびに頭を抱えた。爵位も、黄金も、権力も刺さらない。大陸最強の存在が望むものが「図書館と、静かな放課後」だけなのだ。買収のしようがない。やがて各国は悟った。この男を繋ぎ止める鎖は存在しない。存在しないからこそ、誰の敵にもならない。五百年前、戦争の道具にされた大賢者の轍を、継承者は踏まない――それ自体が、手稿から復元された何よりも大きな術理なのだと。
春が来て、権三郎は四年次に進級した。
総合評価は相変わらず下のほうだった。薬草学はぎりぎりで通った。放課後の図書館の隅、黴くさい本の谷間の定位置に、彼は今日も座っている。膝の上には千と一冊目の研究ノート。開いた頁の一行目に、彼は古代語で小さくこう書きつけた。
――魔術とは記述である。世界という書物への、加筆である。ゆえに継ぐ者よ、静かに在れ。
窓の外で、夕方の鐘が鳴った。誰も彼に気づかない、いつもの図書館だった。それが、世界でいちばん強い魔術師の、いちばん気に入っている魔術だった。




