第12話 六畳一間を出た日
段ボールは20箱もなかった。
6畳一間に2年間置いていたものを全部ボックスに入れて、新しい部屋の床に出した。
引越し業者は使わなかった。そもそも運ぶものがほとんどなかった。
新しい部屋は1LDKだ。
府中駅から徒歩8分。
同じ市内だが、家賃は前の倍以上かかる。
それでも、ぜんぜん問題にならなかった。
スマホで口座を開いた。
数字を見て、少し遠い目になった。
2年間、月の収入が15万円を下回ることも珍しくなかった。
苦しいという感覚すら薄れるほど、それが普通だった。
今の口座残高は、そういう生活をしていた自分には関係のない数字だった。
スマホを閉じて、窓から外を見た。
空が少しだけ、広く感じた。
それだけだったが、それが少し新鮮だった。
◇
通知が1件来ていた。
見覚えのある名前だった。
槙野。
『最近いろいろ活躍してると聞いた。元気か。久しぶりに話せないか』
俺はしばらく、その文面を眺めた。
最後に話したのは第4話の時だ。
「損するのはお前だ」と言っていた。
業界内での動きは耳に入っているはずで、今さらの連絡だということも分かっていた。
返信は短くした。
『元気です。今は案件が詰まっているので、落ち着いたら』
それだけ送って、通知を閉じた。
怒りはなかった。
拒絶でもなかった。 ただ、急ぐ理由がなかった。
選べる立場になった、ということは、急かされなくていい立場になった、ということでもある。
◇
翌日、朝倉から連絡が来た。
「《生態安全研究機構》との面談、来週火曜日でセットしました。霞ヶ関の施設です」
霞ヶ関。
俺はその言葉を少し反芻した。
「政府系ですか」
「環境省所管の研究施設です。独立行政法人ではなく、直轄に近い。担当者は岸本という研究官で、防疫と生態管理を専門にしています」
「御厨さん経由ですね」
「そうです。ただ——向こうから来た話ではなくて、うちで事前に情報を取りました。御厨さんが接触を持ちかけた先に、ちょうどうちも声をかけようとしていた機関でした」
「朝倉さんが先に動いていた?」
「倉橋くんの仕事が広がるなら、後手に回るより先に線を引いた方がいいと思って」
俺は少し黙った。
「……ありがとうございます」
「礼を言うような話じゃないです。私の仕事です」
◇
霞ヶ関の建物は、見た目が想像と違った。
古い庁舎の一角にある、地味な外観の施設だった。
受付で名前を告げると、すぐに通された。
会議室に2人いた。
1人は40代のスーツ姿の男。机の上に書類が整然と並んでいる。
もう1人は30代、少し若い。カジュアルなジャケットで、ノートパソコンを開いていた。
「岸本です。ダンジョン庁、危険生態対策部門です」
40代の方が名刺を差し出した。
「三木です。《バイオセーフ》という民間機関に所属しています。厚生労働省から委託を受けて、危険生物の収集・分析の実務を担当しています」
30代の方が続けた。
2人の役割は最初の一言で分かった。
岸本が「何をするか」を決め、三木が「どうやるか」を動かす人間だ。
「倉橋さん、本題に入ります」
岸本が口を開いた。
「ダンジョン庁の管轄内で、近年、危険生物の出現件数が増加しています。毒性・腐食性・感染性——種類は様々ですが、どれも共通している問題があります。安全に確保・輸送・保管できない、という点です。大半は現地処分になっている。研究に持ち込めていない」
「うちが困っているのは、その先です」
三木が引き取った。
「現地処分した個体からはワクチン開発に使えるものが取れない。生体か、完全な組織が必要です。でも持ち帰れない。御厨さんから倉橋さんの話を聞いて、初めて解決策の可能性が見えた」
「具体的な対象は?」
岸本が資料を開いた。
「昨年、九州の中規模ダンジョンで確認された《腐霧種》という個体群です。接触すると皮膚が溶ける腐食性の霧を発生させる。完全防護の専門チームが3回挑んで、3回とも撤退しています」
「撤退の原因は」
「1回目は防護服の継ぎ目から浸透。2回目は閉鎖空間での霧の濃度が予想を超えた。3回目は個体数が把握より多かった」
三木がノートパソコンの画面を向けた。
現地の映像記録だった。
霧の中で防護服が変色していく様子が映っている。
「これを、どうするつもりですか」
俺は映像を見ながら言った。
「ボックスに入れれば霧も止まると思います。ただ——試したことはないので、確かめてからになります」
「いつ確かめられますか」
三木が聞いた。岸本より1テンポ早かった。
「朝倉さんが日程を決めます」
「分かりました」
三木がノートパソコンを閉じた。
話が早い人間だと分かった。
俺は岸本を見た。
「条件を言います。以前からと同じです。専属なし、案件ごとの協力費、仕組みの説明なし」
岸本が少し間を置いた。
「……ダンジョン庁の依頼でも、ですか」
「はい」
三木が小さく笑った。岸本の方は表情を変えなかった。
「了承します。うちに専属を求める権限はない。ただ、継続的に協力を求めたいという意向はあります」
「それは案件の内容と条件次第です」
岸本が頷いた。
「《腐霧種》の詳細資料と現地の情報を送ります」
◇
帰りの電車で、朝倉が言った。
「ダンジョン庁相手でも同じ条件を出すとは思わなかった」
「変える理由がありません」
「向こうは組織です。倉橋くんは個人です」
「結果が出れば関係ないです。肩書きで値段は変わらない」
朝倉が少し笑った。
「そうですね」
しばらく電車が走った。
「倉橋くん、一つ話があるんですが」
「なんですか」
「そろそろ、ちゃんとした契約を組みませんか。うちとの」
俺は少し考えた。
《エクリプス》との関係は、最初から実質的なパートナーだったが、正式な書面はなかった。
「今のままでも問題ないですが」
「あなたが政府と仕事をする段階になってきたので、うちが窓口として明確に動ける方がいい。倉橋くんにとっても、交渉の場に誰かがいた方がいいはずで」
「条件を聞かせてください」
朝倉がスマホを出した。
そこには、こちらが有利になる数字が並んでいた。
朝倉が手数料を最小化して、俺の取り分を最大化する形で作っていた。
「……これ、朝倉さんが損してませんか」
「うちは倉橋くんが動ける状態を維持できれば、十分利益が出ます」
俺は少し目を細めた。
「了承します」
「即答ですね」
「内容が妥当なので」
電車が府中に着いた。
俺は新しい部屋の鍵をポケットから出しながら、今日一日を振り返った。
霞ヶ関で条件を通した。朝倉と正式な契約を結んだ。
槙野の連絡を後回しにした。
どれも、半年前には想像できなかった話だった。
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