第一夜 ―― 塩と血の産地証明 ――
第一夜 ―― 塩と血の産地証明 ――
夜が王国に落ちる時、それはいつも静かだった。
鐘の音もなく、嘆きの声もなく、ただ砂漠の風だけが宮殿の尖塔を撫でて通り過ぎる。民はとうの昔に泣くことをやめていた。泣いても朝は来るし、朝が来れば――また一人、消える。
ザルカ王が玉座から立ち上がる時の音は、絹の衣擦れだけだった。
「連れてこい」
それだけで充分だった。
サフィアが謁見の間に踏み込んだ時、彼女が最初に感じたのは恐怖ではなく、匂いだった。
――没薬。沈香。そして、かすかな鉄の気配。
(血ではない。でも、血を何度も拭った床の記憶が、石に染み込んでいる)
彼女は商人の娘だった。父と共に、北の凍原から南の香辛料市場まで、馬車で十七年を旅してきた。値踏みされる目に慣れていた。値踏みする目にも。
だから、玉座の男が自分を見る時の目――感情の温度がゼロに近い、標本を眺めるような青い瞳――を見ても、足は止まらなかった。
三歩進んで、膝をつかずに立ち止まる。
「ザルカ王。わたくしはサフィア。絨毯商イブン・サリムの娘です」
「知っている」
王の声は低く、しかし不思議なほど澄んでいた。
「父親が借金の形に差し出した、と聞いた」
「差し出した、ではございません」
サフィアは訂正した。静かに、しかし明確に。
「取引を申し込みに参りました」
沈黙。
燭台の炎が、ゆれた。
ザルカは三十二年生きてきて、「取引」という言葉をこの場所で聞いたことがなかった。
嘆願ならある。懇願も、祈りも、呪いも。だが取引とは――対等を前提とする言葉だ。この部屋に、自分と対等な者が立っていると主張する人間が。
「……続けろ」
彼は椅子に深く腰を下ろし、顎を片手で支えた。退屈を装いながら、しかし目は、わずかに細くなっていた。
「わたくしは物語を売る商人です」
サフィアは言った。
「毎晩一つ、王のお心を満たす物語をご献上いたします。日の出までに物語が王のお気に召せば、その夜はわたくしの命をお買い上げいただく。――いかがでしょう、これを百夜続けることを、提案いたします」
「物語など、」
ザルカは言いかけて、止まった。
何かが、喉の奥で引っかかった。棘のような、しかしどこか懐かしい感触。
「――料金は」
「毎晩、晩餐をご一緒させていただくこと。それだけです」
王は長い間、女を見つめた。
恐れていない。震えもしていない。それ自体は珍しくなかった――覚悟を決めた人間は、往々にして静かなものだ。だが、この女の静けさは覚悟の静けさではない。
これは、商人の静けさだ。勝算を持つ者の。
「……面白い」
ザルカはそう言って、初めて晩餐の席へと目を向けた。
卓の上には、すでに料理が並んでいた。
国中の料理人が腕を競う、王の晩餐。しかし王はいつも、ほとんど食べなかった。食べる必要を感じなかった、と言うべきか――何を口にしても、この長い年月、「味」というものが王の舌に届いた試しがなかった。
サフィアは席に着き、最初に手を伸ばしたのは、パンではなく――卓の端に置かれた小さな塩壺だった。
蓋を開け、指先でひとつまみ、舌の上に乗せる。
目を閉じる。
「……なるほど」
独り言のように呟いた。
ザルカは眉をわずかに動かした。
「何が」
「この塩は、東の岩塩鉱のものですね」
サフィアは言った。
「でも本物の東岩塩ではない。おそらく西の海塩に、岩塩の苦みを人工的に加えたもの。――つまり王宮の御用達商人は、今、何かに追われている」
「……何だと」
「東の交易路が、最低でも三ヶ月は滞っています」
サフィアは塩壺を卓に戻した。
「父と旅をしていたので、舌でわかります。本物の東岩塩には、鉄分と微量の硫黄が混じる。それが――ない」
ザルカは、自分が身を少し前に乗り出していることに、一瞬遅れて気づいた。
元に戻す。表情は変えない。
「それが、今夜の物語か」
「いいえ」
サフィアは微笑んだ。初めて。
商人が値段を告げる前に見せる、あの種の笑みだった。
「塩の話は、ただの前菜です。今夜の物語は――」
彼女は葡萄酒の杯を持ち上げた。王の毒が、まだ入っていない夜の杯を。
「毒を売る商人と、それを買い続けた王の話です」
サフィアの語り 第一夜 ――「毒商人バルハムの帳簿」
むかし、海の向こうの国に、バルハムという毒商人がおりました。
彼は腕の良い商人で、無色透明で味のない毒、蛇でさえ死ぬほどの遅効性の毒、笑いながら死ねる毒など、百種類以上の品を揃えておりました。
ある時、一人の王が彼を呼びつけました。
「朕の妃が、朕を裏切った。二度と裏切られたくない。――確実に、しかし苦しませずに逝かせられる毒を売れ」
バルハムは毒を売りました。
翌年、王はまた彼を呼びました。また翌年も。そのまた翌年も。
バルハムは毎年毒を売り続け、帳簿は厚くなり、財は積み上がりました。しかしある年、彼は奇妙なことに気がつきます。
――この王は、一度も、同じ毒を二度買ったことがない。
サフィアは、そこで一度、杯を傾けた。
ザルカの目が、杯の動きを追っていた。
「バルハムは考えました」
彼女は続ける。
「百種類の毒を試し、百人の妃を逝かせた王は――いったい何を、探しているのだろう、と」
「……結末を言え」
ザルカの声は、低かった。静かだった。
しかしサフィアには聞こえた――その声の奥の、わずかなかすれが。
「バルハムはある夜、王に尋ねました」
彼女は言った。
「どんな味の毒を、探しておいでですか――と」
沈黙。
「王は答えました。苦くない毒を探している――と。バルハムは首を振りました。苦くない毒は毒ではございません、それは蜜です――と」
「王は何と言った」
「王は言いました」
サフィアは、まっすぐに、ザルカの青い瞳を見た。
「――ならば、蜜のような毒を作れ。朕はもう、本物の蜜の味を覚えていない」
燭台の炎が、また揺れた。今度は風のせいではなかった。
ザルカは長い沈黙の後、ゆっくりと卓の上の塩壺に目を落とした。自分が今まで一度も気にしたことのなかった、ただの塩壺に。
「バルハムは、その毒を作れたのか」
「それは――」
サフィアは杯を静かに置いた。
「第二夜の物語です」
夜明けの光が、窓の端を白く縁取り始めていた。
ザルカは立ち上がり、毒を混ぜた葡萄酒の杯を――今夜初めて、手に取らずに、卓の上に残した。
「明日の晩餐も、同じ時刻に用意させる」
それだけ言って、王は部屋の奥へと消えた。
サフィアは、王の背中が扉に消えるまで待って、それから静かに息を吐いた。商人としての、長い長い、交渉の後の。
(百夜――長い旅になる)
彼女は偽物の塩を、もう一度だけ舌の上に乗せた。
鉄分のない、硫黄のない、産地証明のない塩。
(でも、塩は塩だ。それ自体は、嘘ではない)
窓の外、夜明けの空が、血のような赤から、少しずつ、白へと変わっていった。
――第一夜、了




