第七話 あなたの隣にて
王宮の夜会から五日後。
フォンティーヌ侯爵家の居間に、侯爵と夫人とアリスが揃っていた。
机の上には十二通の書状が積まれていた。
「……多いわね」
アリスが率直に言った。
「増えたのよ、夜会の後から」
夫人が穏やかな顔で答えた。
「表彰式の話が広まって、改めて婚約のお話を、という方が増えました。中には以前からお付き合いのある家もあるし、初めてのご連絡もある」
「全部婚約の打診?」
「全部ではないわ。何通かは、研究に関する協力依頼。軍からのものと、商会からのものが二通ずつ。それは別にまとめてある」
アリスは積まれた書状を見た。
「……お父様はどうお考えですか」
侯爵は少し考えてから口を開いた。
「お前の意見を一番に聞きたい。どこかに話を進めてほしい家はあるか。あるいは、今はまだ考えたくないという事なら、それでも構わない」
「……今すぐ決めなくていいのですか」
「急ぐ必要はない。これだけ打診が来るという事は、しばらく待っても条件は悪くならないという事だ。お前が納得できる縁を探す方が大事だよ」
アリスは少しだけ下を向いた。
「……わかりました。少し考えさせてください」
「もちろんだ」
「ただ一つだけ、聞いてもいいですか」
「何でも」
「護衛のレオは、公爵家の次男ですよね」
居間が、しんとした。
父と母が、音もなく顔を見合わせた。
「……そうね」
母が、まず答えた。
「シャルダン公爵家の次男。家格としては、わが家より一段上ね」
「釣り合わない、という事になりますか」
「釣り合わない、とは言えないわ。侯爵家の令嬢と公爵家の次男なら……まあ、考えられない話ではない」
「そう、ですか」
アリスは少し考えてから、また口を開いた。
「以前から気になっていたのですけれど、彼は護衛の仕事の範囲を超えて色々と手伝ってくれているでしょう。薬草の世話から研究のノート整理まで。それって護衛の仕事ではないですよね」
「……そうね」
「そういう事をする人は、珍しいのかしら」
「普通の護衛は、そこまではしないでしょうね」
アリスはもう少し考えた。
「わかりました。少し、自分で考えてみます」
それだけ言って、アリスは立ち上がった。
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居間を出たアリスは、しばらく廊下を歩いてから足を止めた。
窓の外、庭園の奥に白い温室が見えた。
朝の光の中で、温室のガラスが光を弾いている。
(わたくしは、何を考えているのかしら)
アリスは心の中で自問した。
婚約者の話が来た。十二通も。それを前に、聞いたのはレオの家格についてだった。
それはつまり、どういう事なのか。
(……鈍い、とは自覚しているけれど)
アリスはゆっくりと息を吐いた。
五年間、傍にいてくれた。薬草を一緒に学んでくれた。研究の補佐をしてくれた。怒ってくれた、笑ってくれた、「お嬢様は強い」と言ってくれた。
護衛の立場として、とよく言う人だ。でもその言葉の前置きが、最近少し引っかかる。
護衛の立場として。護衛の立場を外せば——何だろう。
「お嬢様」
声がして、振り返った。
廊下の向こうから、黒髪の青年が歩いてきた。
「お父上のところを出られたとのことで、お探ししていました。温室に行かれますか」
「ええ。行こうと思っていたわ」
「では随行します」
いつもと変わらない言葉で、いつもと変わらない一歩後ろを歩く。
アリスは少し歩いてから、足を止めた。
「レオ」
「はい」
「少し聞いてもいいですか」
「何でも」
「あなたは、護衛の立場として、とよく言うわね」
「……言いますね」
「護衛の立場を外したら、どう言うの」
廊下に静寂が落ちた。
レオは一歩後ろで止まった。アリスは振り返らなかった。
窓の外、庭園に春の光が満ちている。
「……お嬢様」
「なに?」
「それは、答えていい問いですか」
「わたくしが聞いているのだから、答えていいと思うわ」
また静寂が落ちた。
今度はもう少し長く。
「……お嬢様の事が、好きです」
アリスはゆっくりと振り返った。
レオは廊下の中央に立って、まっすぐにアリスを見ていた。護衛の制服を纏い、黒い髪はいつものように整えられていた。金色の目に、いつもの穏やかさと、それから何か固い決意のようなものが混じっていた。
「護衛の立場を外せば、という話でしたので」
「……ええ」
「護衛を始めた頃から、ずっと傍にいました。薬草の事を教えていただいて、研究の話を聞かせていただいて、三年前から自覚して、二年間護衛の立場を理由に言わないでいました」
「三年前から自覚していたの」
「はい」
「二年間、言わなかったの」
「……言えませんでした。立場の問題もありましたし、婚約の話もありましたので」
アリスはしばらく、レオを見ていた。
(三年前から)
その言葉が、じわりと染み込んでくる。
「レオ」
「はい」
「わたくしは鈍い方だと自分でも思っているのだけれど」
「……存じています」
「それでも、あなたが薬草を一緒に学んでくれた事や、怒ってくれた事や、強いと言ってくれた事は、全部覚えているわ」
「……おそれいります」
「おそれいりますではなくて」
アリスは少し顔を赤くしながら言った。
「その……嬉しかった、という事を伝えたいのよ」
レオは黙った。
「返事が必要ですよね」
「……できれば」
「少し時間を下さい」
「……はい」
「すぐには答えられないのは、あなたへの気持ちが嫌だからではなくて。ちゃんと考えてから答えたいから。そういう事は、誠実にしたいのよ」
「……わかりました」
「待ってくれますか」
「待ちます」
即答だった。
アリスはぱちりと瞬いた。
「即答ね」
「五年間待っていますので、もう少し待つのは問題ありません」
「……それを言われると、申し訳ない気持ちになるわね」
「申し訳なくなくていいです」
「でも」
「お嬢様がお嬢様らしく考えてから答えてくれる方が、私は嬉しいです」
アリスはしばらく黙った。
それから、小さく笑った。
「……やっぱり、あなたは不思議な人ね」
「不思議、ですか」
「いつも、わたくしにとっていい言い方をしてくれるから」
「……それは」
「護衛だからでも、立場だからでもなくて。ずっとそうだったから、ずっと、あなたがそばにいるのが自然だったわ」
アリスはもう一度窓の外を見た。
温室のガラスが光を弾いている。
「温室に行ってきます。考えながら、薄荷の様子を見てくる」
「……随行します」
「ありがとう」
二人は歩き出した。
いつもと同じ、アリスが前でレオが一歩後ろ。でも廊下を歩く空気が、少し違った気がした。
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答えが出たのは、その翌日だった。
温室でカモミールの収穫をしていたアリスは、扉が開く音に振り返った。
「お嬢様」
「レオ」
「水を持ってきました」
「ありがとう」
アリスは手袋を外した。
「レオ」
「はい」
「考えました」
「……はい」
「わたくし、あなたの事が好きよ」
静かな声で、はっきりと言った。
レオは一瞬だけ固まった。
「……それは」
「昨日の返事です。ただ、昨日のあなたが言ったように、はっきり言葉にするのに少し時間がかかりました。わたくしも三年前からだったかどうか自信がないのだけれど」
「……三年前、というのは」
「薬草の話をしていた時に、あなたが『お嬢様の話す薬草は面白いと思います』と言ってくれた夜があったでしょう。あの時、なんだか急に胸が温かくなったのを覚えているから」
レオはしばらく黙っていた。
「……それは三年と少し前です」
「そうかしら。じゃあ同じくらいかも」
「……」
「レオ? どうしたの?」
「……少し、呆気にとられています」
「なぜ?」
「お嬢様がそれほどはっきり言ってくださるとは、思っていませんでしたので」
「はっきり言うのが苦手な事は、確かにあるわ。でも大事な事ははっきり言いたいと思っているから」
アリスはまっすぐにレオを見た。
「改めて正式に、という話は父に相談します。家格の事もあるし、手順を踏まないとと思っているから。それより先に気持ちを伝えたかっただけです」
「……わかりました」
「レオ?」
「……その前に、一つだけいいですか」
「なに?」
「手を、貸してください」
アリスはきょとんとしてから、右手を差し出した。
レオがその手を、両手でそっと包んだ。
土で少し荒れた指先を、大きな手がそっと包む。
「五年間、ありがとうございます」
「……なんで急にそういう事を言うの」
「言いたかったので」
「言わなくても分かるわ」
「言葉にしないと伝わらない事もあります、とお嬢様に教えていただきました。薬草の研究で」
「…………それは薬草の話だったわよ」
「同じだと思います」
アリスは少しだけ、顔を赤くした。
温室の光が二人を包んで、薄荷の香りが漂う。
「……レオ、いつも前を向いて進む姿が、かっこいいと思っていたわ」
「お嬢様の方こそ」
「わたくしは横を向いていたり、下を向いていたりするわよ」
「それでもです」
アリスはまたしばらく黙った。
「一つお願いがあるの」
「なんでもどうぞ」
「研究が認められたから、これからは外に出る機会が増えると思うわ。発表の場とか、軍の視察への同行とか。その時、隣に並んでくれる?」
「……はい」
「護衛としてではなくて」
「……はい」
短い返事だったが、声に温度があった。
アリスは微かに笑った。
「では、そういう事で」
「……はい」
「そういう事で、で了解ですか」
「お嬢様の言い方が面白くて、つい」
「失礼ね」
「すみません」
二人はしばらくそのまま、温室の中にいた。
外では春の鳥が鳴いている。噴水の音が遠くに聞こえる。
やがてアリスが手をそっと引いた。
「薄荷の収穫の続きをしなければ」
「手伝います」
「今日はいいわ。レオはそこで座って、少し休んでいてください」
「護衛が座って休むのは」
「今は護衛じゃないから」
アリスが、いたずらっぽく言った。
レオはしばらく黙ってから、温室の隅の椅子に腰を下ろした。
アリスがまた作業を始める。翠玉色の目が薄荷に向けられて、クリーム色の巻き毛が揺れる。
レオはその横顔を見ていた。
護衛の立場を外した自分が、ここにいる。
五年間で初めての事だった。
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その後、正式な話は侯爵と公爵家のやり取りで進んだ。
フォンティーヌ侯爵は、最初の三秒は固まったが、次の瞬間には「レオナルドなら、そりゃあ申し分ない」と言った。夫人は「そうなるとは思っていたわ」と静かに笑った。
シャルダン公爵は少し驚いたが、次男が護衛として五年間真剣に仕事をしていた事は知っていたので、まあ納得できる縁談だと結論づけた。
ヴィクトール師匠には二人揃って報告に行った。
「そうか」
師匠は一言言ってから、研究の続きをした。
「先生、もう少し何かございませんか」
「研究を続けなさい。それだけだ」
「……はい」
「ただし」
師匠が眼鏡の上からレオを見た。
「弟子を泣かせたら、許さんぞ」
「肝に銘じます」
「よし。では報告は終わりだ。アリス、今日の配合はどうなった」
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婚約解消から四ヶ月後。
フォンティーヌ侯爵令嬢アリスとシャルダン公爵次男レオナルドの婚約が、正式に発表された。
その夜会で、二人は初めて並んでフロアに立った。
アリスの白いドレスの横に、レオの黒い礼服。二人が並ぶと、なんとなく全体が締まる気がした。
「緊張しているの?」
小声でアリスが聞いた。
「していません」
「嘘でしょう」
「……少しだけ、しています」
「わたくしも」
アリスがそっと言った。
「でも、隣に並んでいると、前が向ける気がするわ」
レオは少しだけ微笑んだ。
「私もです」
春の夜会の光の中で、二人は並んで前を向いた。
温室の薄荷は今日も元気で、研究ノートの次のページは空白で、三百七十一人目を助けるための研究が、明日も続く。
お読みいただきありがとうございました。
アリスは鈍いようで全部分かっていたタイプだと思います。
レオは三年間言えなかった割には、聞かれたら即答でした。それだけ溜まっていたという事で。
ヴィクトール師匠の「弟子を泣かせたら許さん」は今作一番の愛情表現です。
クロード令息は夜会の後、モルティエ伯爵から三時間説教を受けました。反省しました。
フロラン会頭は翌月、アリスに薬草輸入の正式契約を持ち込みました。
フィシェル将軍はアリスの結婚式に招待されました。とても喜んでいました。
以上、「追い出された令嬢は、今日も薬草を愛でています」でした。




