第六話 王宮の夜会にて
来月の夜会とはいつになるのか、正確に言えば婚約解消から二十一日後だった。
春も本番を迎えた王都に、王宮からの招待状が届いたのは二週間前。フォンティーヌ侯爵家にはもちろん、社交界の主だった家すべてに。
表彰式が行われるとは招待状に書かれていない。ただ「春の宴」とだけある。
誰を表彰するのかは、当日まで公表されなかった。
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クロード・モルティエ伯爵令息にとって、招待状は嬉しいものだった。
父から「一緒に行くぞ」と言われ、礼服を新調して臨む夜会だ。婚約解消の後始末もほぼ終わり、後はミレイユ嬢への正式な申し込みだけだと思っていた。
——ただ、リオン侯爵家の夜会で冷水を浴びせられてから三週間、クロードは少し内省していた。
あの夜に知った事実——ミレイユ嬢には既に婚約者がいた——は、確かに衝撃だった。
(……知らなかった。それだけだ)
クロードは心の中で繰り返した。
知らなかっただけで、自分の判断は間違っていない。フォンティーヌ令嬢との婚約解消は、どちらにとっても適切な決断だった。その後の事は……まあ、また改めて考えればいい。
そう結論づけて、クロードは馬車に乗り込んだ。
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王宮の大広間は、春の花で飾られていた。
白と黄のフラワーアレンジメントが柱ごとに設えられ、天井の大シャンデリアが光を散らす。中央のフロアでは既にダンスが始まっており、色とりどりのドレスが回っている。
クロードは父と並んで入場し、知り合いに挨拶しながら広間を進んだ。
父が隣で何か言った気がしたが、音楽に紛れてよく聞こえなかった。
人の波の向こうに、白いドレスの女性が見えた。
クリーム色の巻き毛を上品に結い上げ、白地に薄い緑の刺繍が入ったドレスを纏い、翠玉色の瞳が穏やかに笑っている。
アリスだった。
クロードはわずかに足を止めた。
社交界で見るアリスは珍しくなかったが、今日は少し雰囲気が違う気がした。普段と同じ穏やかな表情で、特別着飾っているわけでもないのに、どこか自然に人が集まっている。
(……まあ、関係ない)
視線を外して、クロードは先へ進んだ。
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夜会が始まって一時間ほどが経った頃、広間の中央で陛下が立ち上がった。
それまでのざわめきが、すっと静まる。
「本日の春の宴に来てくれた諸君に感謝する。今夜は一つ、皆に紹介したい事がある」
陛下はゆっくりと広間を見渡した。
「この一年間、王国医療に多大な貢献をした人物がいる。その功績を正式に表彰したい」
広間に、静かな関心が満ちた。
「フォンティーヌ侯爵令嬢アリスを前に」
クロードはその名を聞いて、反射的に顔を上げた。
人波の中から、白と緑のドレスの令嬢が中央に進み出る。翠玉色の目は少し緊張していたが、歩みは乱れていなかった。
「令嬢が開発した傷薬の採用により、北方戦線において感染症による死者が大幅に減少した。軍の医療部の報告によれば、この一年で三百七十人の命が助かったとされている」
広間が、しんと静まった。
「令嬢が薬草研究を始めたのは十二歳の頃と聞く。それから五年間、地道に続けた研究の成果が、今も戦地で兵士たちを助けている。この功績を、王国として正式に讃えたい」
陛下が立ち上がり、アリスに近づいた。
勲章が手渡された瞬間、広間に拍手が広がった。
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クロードは、その場で固まっていた。
三百七十人。
陛下が口にした数字が、頭の中で反響している。
(……薬草研究が。あの、令嬢として問題だと判断した薬草研究が)
「大きいのう、あの数字は」
隣から声がした。見ると、見知らぬ老紳士が扇子を閉じながら立っていた。
「フォンティーヌ令嬢の功績は、私どもも以前から伺っていましたが、こうして公になるとまた改めて感動しますな」
「……あなたは?」
「シャペル商会のフロランと申します。令嬢には薬草の輸入について大変お世話になっておりまして」
クロードは口を閉じた。
(シャペル商会。確か王国最大の貿易商の)
「先日の夜会でも、令嬢に薬草の話をしていただいて——あなたもご存知では? いや失礼、まだ自己紹介が」
「モルティエ、です」
「ああ! モルティエ伯爵家の?」
商会長は笑顔になった。
「それはご縁がある、令嬢の婚約者の方でしたよね。いや、夜会で令嬢に紹介していただいた時も思いましたが、素晴らしい令嬢ですよ。薬草の事だけでなく、交渉事にも長けていて、あれだけの話し合いができるお嬢さんはなかなか……」
「……いえ、その婚約は」
「ん?」
「先日、解消になりました」
商会長の顔が、固まった。
「え? 解消? それはつまり、あなた方はもう」
「はい」
「……それは……」
商会長はしばらく黙って、アリスの方を見た。勲章を受け取ったアリスが、陛下と言葉を交わしている。
「……失礼ですが、理由を伺ってもよろしいか」
「令嬢の薬草研究が、令嬢として問題だと判断したためです」
沈黙。
それは数秒の、しかし重たい沈黙だった。
「……それは」
商会長は扇子を再び開いた。
「それは……随分と、その……」
「何か」
「いやその……三百七十人ですよ、今陛下が仰いました三百七十人を助けた研究が、問題だと……」
商会長は何かを言いかけて、それから「失礼」と言って離れていった。
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その後、クロードは何人かに同じような目を向けられた。
フィシェル将軍には「モルティエ令息か。アリス嬢との婚約はどうなった」と直接聞かれ、解消した旨を告げると将軍の目が細くなった。
「……なぜ」
「令嬢として問題が——」
「令嬢として問題がある? 薬草研究で?」
「は、はい」
「……あの研究があと半年遅れていたら、さらに百人単位の死者が出ていた可能性がある」
将軍は静かな声で言った。
「それを問題だと言うのか」
クロードは答えられなかった。
そこへ父がやってきて、「クロード、こちらへ」と腕を引いた。
「父上」
「少し落ち着け。顔色が悪い」
「落ち着けと言われましても……」
「分かるか、クロード」
父は静かに言った。
「私が出発前に言った、お前の知らない事が世の中にはまだ沢山あると言ったのは、このことだ」
「……父上は、知っていたのですか」
「フォンティーヌ侯爵家と付き合いは長い。アリス嬢の研究が軍に関わっているとは、風の噂で聞いていた。それがここまでとは思わなかったが……」
父は息子の顔を見た。
「お前は、知らずに判断した。それは仕方がない部分もある。しかし」
「……」
「知らなかった、という事と、調べなかった、という事は、別の話だ」
クロードは黙っていた。
広間の中央では、アリスがいくつかの人物と話しているのが見えた。軍服の人物、文官の服の人物、商会の服の人物。次々と声をかけられ、しかし表情は穏やかで、一人一人に丁寧に対応している。
その横に、黒い服の男が立っていた。
護衛のシャルダンだ。
一歩後ろに控え、広間全体に目を光らせながら、しかしアリスの方を見る時だけ目の色が少し変わる気がした。
(……五年間、あの男は傍にいたのか)
クロードはわずかに眉を寄せた。
(俺が知らなかった事を、あの男は全て知っているはずだ)
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夜会の後半、クロードはアリスの前に立った。
「……アリス嬢」
アリスは振り返った。翠玉色の目が、クロードを映した。
「クロード様」
「本日は、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
アリスは静かに答えた。
怒っているでも、恨んでいるでもなく、ただ穏やかな顔でそこにいた。
「……私は、あなたの研究について、間違った判断をしていたようです」
「そうですか」
「三百七十人という数字を聞いて、自分の認識が大きく誤っていたと分かりました。それについては、謝罪いたします」
アリスはしばらく黙った。
「謝罪は受け取ります」
「……感情的ではなく、おっしゃるのですね」
「怒ってはいませんから。ただ、残念だとは思っています」
「残念?」
「もう少し、話し合えたら良かったと。婚約期間の一年間、薬草の話をしたとき、クロード様が興味を持ってくださった事は少なかったように感じていました。でもそれは、わたくしにも伝え方の問題があったかもしれません」
クロードは黙った。
「お互いにとって、良い縁ではなかったのだと思います。だから残念、という気持ちだけです」
「……そう、ですか」
「ええ」
アリスは微かに微笑んだ。
「クロード様も、良い縁が見つかるといいですね」
それだけ言って、アリスは軽く頭を下げ、向こうから声をかけてきた軍の人物の方へ歩いていった。
クロードはその背中を見送った。
後ろで父が静かに立っていた。
「父上」
「うん」
「俺は、ひどい男でしたか」
「……ひどい、というより、知らない事が多すぎた」
「同じでは」
「違う。知ろうとすれば知れた。今後は知ろうとする人間になりなさい」
父は短く言って、先に歩いた。
クロードはしばらくその場に立って、広間の向こうへ消えたアリスの白いドレスの残像を見ていた。
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夜会の終わり近く、レオはアリスの二歩後ろで広間の壁際に立っていた。
「お嬢様」
アリスが振り返った。
「どうかした?」
「クロード令息と話していたのが見えました。何か問題は」
「問題はないわ。謝罪を受け取って、それでおしまい」
「……そうですか」
「あなたの方が、わたくしより怒っていそうね」
「怒っていません」
「そうは見えないわ」
アリスが少し笑う。
レオは表情を保ったまま、広間の入口の方に視線を戻した。
「お嬢様。今夜は大変でしたね」
「そうね。でも、人に会うのは嫌いじゃないわ。今日は特に、お師匠が来てくれていたから」
「ヴィクトール師匠が? お見かけしませんでしたが」
「入口のところで一言だけ、よくやったと言ってくれました」
「それだけですか」
「師匠らしいでしょう」
アリスは少し笑った。
その笑顔を、レオはそっと目に焼き付けた。
今夜の夜会で、何通かの婚約打診の書状がフォンティーヌ侯爵宛てに届くだろうと、レオには見当がついていた。それはアリスの父が喜ぶ話でも、困惑する話でもある。
そしてレオ自身にとっても——何かを決断しなければならない時が、近いという気がしていた。
クロード令息、少し成長しました。
遅い成長ですが、ないよりはいいです。
フロラン会頭の「それは……随分と」で場を去ったのは大人の判断です。
フィシェル将軍の目が細くなった場面は、次の夜会では違う目をしていると思います。
次でラストです。




