第五話 王宮薬師長の執務室にて
書状が届いたのは、婚約解消の申し入れから三日後だった。
封筒にはモルティエ伯爵家の紋章が押されており、中には正式な婚約解消の文書が入っていた。
フォンティーヌ侯爵エドワードはその文書を一読して、二読して、それから静かに机の上に置いた。
傍に控えていた侯爵家の執事が、おそるおそる侯爵の顔を窺った。
「……旦那様」
「返書を書く。インクを持ってきなさい」
「は、はい」
「それから今夜のうちにモルティエ伯爵宛てに使者を出す。ただ文書を返すのではなく、直接向こうの当主と話し合う席を設けたい」
「……穏便に、でございますよね」
「穏便に、だ。私はいつでも穏便だ」
執事は黙って頷き、足早に執務室を出た。
廊下を歩きながら執事は思った。
旦那様の「穏便に」は、時々穏便でない時があるので、今回はどうか神様願いますと。
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一方アリスは、その三日間、普段通りの日々を送っていた。
朝は温室で薬草の手入れ。昼は師匠の執務室で研究の続き。夕方は父と母と三人で夕食を取る。
変わった事といえば、婚約者が来なくなった事だけだった。それは正直、静かになって良かったというのが本音だった。
ただ、四日目に師匠から「来なさい」と書状が来た。
急ぎの様子だったので、その日の午後すぐに馬車を出してもらった。
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ヴィクトール師匠の執務室は、平日でも人が来る事が珍しくない。
王宮内に部屋を持つ薬師長は、陛下の侍医も兼ねており、医療に関わる相談が日々持ち込まれる。
しかし今日はその部屋に、見慣れない顔が二人いた。
一人は陸軍の軍服を着た中年の男。もう一人は文官の服を着た、白髪の男性だった。
「アリス、来たか」
師匠が立ち上がり、二人を紹介した。
「陸軍医療部のデュボワ部長と、王宮書記官のノヴァル書記官だ。お前に話がある」
アリスはぺこりと頭を下げた。
「フォンティーヌ令嬢か」
デュボワ部長が口を開いた。年齢は五十代くらいで、日焼けした顔に白い眉毛がある。
「お会いするのは初めてですね。私はデュボワ、陸軍医療部の責任者です」
「初めまして」
「北方戦線のフィシェル将軍から、令嬢の薬の話は聞いています。大変助かっていると、将軍が直接書状を送ってきました」
「過分なお言葉を……」
「過分ではありません」
デュボワ部長は静かに言った。
「今日お時間をいただいたのは、一つ正式な話をしたかったからです」
書記官がファイルを取り出し、机の上に置いた。
「フォンティーヌ令嬢。陸軍医療部として、あなたの傷薬を正式に軍の標準薬として採用したいと思っています。量産体制を整えるにあたり、調合の指導と、品質管理への協力をお願いできますか」
アリスは一瞬、黙った。
「……陸軍の標準薬、ですか」
「はい。これまでの半年間の試験採用で、その効果は十分に確認されています。正式採用の手続きを進めるにあたり、令嬢の同意と、調合の詳細な記録が必要です」
アリスはちらりと師匠を見た。
師匠はただ静かに立っていた。「後は本人が決めることだ」という目をしていた。
「……わかりました」
アリスは答えた。
「喜んでお力添えします。ただ、原材料の確保については、フォンティーヌ侯爵家の協力が必要になるかと思います。父に相談させてください」
「もちろんです。フォンティーヌ侯爵にも別途ご連絡いたします」
話がまとまって、二人が執務室を出た後。
アリスは改めて師匠の顔を見た。
「師匠」
「何だ」
「これは……大変な事になりましたわ」
「おまえが三年前から積み上げてきた事の結果だ。大変なのは今後だが、大変でない仕事など存在しない」
「そうですけれど」
「嬉しくないのか」
アリスはしばらく考えた。
「嬉しいです。とても。でも少し、怖い気持ちもあります」
「何が怖い」
「たくさんの人の命がかかっていると思うと、わたくしでいいのかと」
ヴィクトールは短く鼻を鳴らした。
「おまえでいいから頼んでいる」
「師匠」
「おまえではなくなる日が来たら、その時は引退しろ。だが今は、おまえでいい。——さっさと次の配合の研究を再開しなさい。今日の分の進捗を見ていない」
「は、はい」
アリスは少し笑いながら、作業台に向かった。
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帰りの馬車は、夕暮れを少し過ぎた時間だった。
街に灯りが灯り始め、王都の夜が始まる手前の、橙と藍が混じった時間帯だ。
「レオ」
「はい」
「陸軍の標準薬になるそうです、わたくしの薬」
「……聞いていました」
「あなたはいつもどこかで聞いているのね」
「護衛ですので」
「まあ、そうね」
アリスは窓の外を見た。流れていく街並みが、橙色に染まっている。
「嬉しいけれど、怖いとも思っているわ」
「怖い、ですか」
「責任の重さが増えますでしょう。たくさんの人に使われる薬を作るという事は、一つの失敗が大勢の人に影響するという事だから」
「……そうですね」
「だからこそ、丁寧にやらなければと思います。完璧にはなれなくても、誠実には在れると思うから」
レオはしばらく黙っていた。
「お嬢様」
「なに?」
「誠実に在れる、という言葉が、お嬢様らしいと思います」
「らしい、というのは?」
「……完璧を目指すより、誠実を目指す方が、ずっと難しい事もあります。そしてお嬢様はいつもそちらを選んでいる」
アリスはぱちりと瞬いた。
「……ありがとう、レオ」
「どういたしまして」
馬車が揺れる。
レオは窓の外を見て、アリスは膝の上で手を組んだ。
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その翌日、フォンティーヌ侯爵家に二通の書状が届いた。
一通は陸軍医療部のデュボワ部長からの正式書状。
もう一通は、王宮書記官の名前で封じられた書状だった。
エドワード侯爵がそれを開封し、一行目を読んで目を見開いた。
夫人が「どうしたの」と声をかけた。
「……陛下から、だ」
「陛下が? 何のご用件かしら」
「我が家の令嬢を、王国功労者として表彰したいとおっしゃっている」
夫人は少しの間黙った。
「……王国功労者」
「ああ」
「それを、モルティエ令息は知らなかったわけね」
「知らなかったのだろう。知っていれば……まあ、どちらにせよ後の話だが」
エドワード侯爵は書状を机に置いた。
「表彰式は、来月の王宮での夜会の席だそうだ」
「……その夜会には」
「社交界の主だった家が招かれている。当然、モルティエ家も」
夫人はしばらく考えた後、静かに言った。
「アリスには、表彰の話を早めに伝えましょう。驚かせないために」
「そうだな。あの子はああいう事に動揺するから」
「あと、今後の婚約者の件も、少し急いで考える必要がありそうね」
侯爵は少し顔を引き締めた。
「……そうだな。いくつか打診が来るだろう」
「来ていますわ。もう」
「なに?」
「婚約解消の話が漏れ伝わったのか、昨日から書状が三通来ています。うちのアリスに婚約のお話を、という旨で」
侯爵は頭を抱えた。
「早い……」
「そういうものですわ。——ただ、アリス自身がどう思うかを一番に考えてあげましょう。前回のようにはしたくないので」
「当然だ」
夫婦はしばらく並んで窓の外を見た。
庭園の奥に、白い温室が見えた。
その中では今頃、アリスが薄荷の手当ての経過を確認しているはずだった。
王国功労者表彰。
アリスは驚きますが、師匠は当然だろうという顔をします。
侯爵邸に届く婚約打診の書状は、翌日にはまた三通増えました。
来章は夜会です。クロード・モルティエ伯爵令息の、いよいよの場面です。




