第四話 そもそも五年前にて
レオナルド・シャルダンがフォンティーヌ侯爵令嬢の護衛になったのは、ある意味では偶然だった。
シャルダン公爵家の次男として生まれたレオは、幼い頃から「次男」という立場について深く考えていた。
長男は家督を継ぐ。三男は聖職者か軍人か。しかし次男というのは、どっちつかずの立場だ。長男ほど後継者教育を受けるわけでもなく、三男ほど自由でもない。一応の貴族教育は受けるが、どこに進むかは本人次第という、ある意味で自由な立場でもある。
レオは軍人を考えたこともあった。しかし剣術は得意でも、軍という組織への向き不向きが自分でも分からなかった。
そんな折、父から打診が来た。
「フォンティーヌ侯爵家から、護衛の要請が来ている。令嬢が一人で王都を出入りする機会が増えており、信頼できる人間を置きたいとの事だ」
「護衛、ですか」
「うちから出すなら、お前が適任だろう。剣術はできる、礼儀も問題ない。フォンティーヌ家とは長い付き合いで、向こうも信頼している」
その時点でレオはフォンティーヌ侯爵令嬢の事を、ほとんど知らなかった。
名前はアリス。年齢は十二歳。温室で薬草を育てているという噂がある。
——薬草。
その一言だけが、印象に残った。
護衛を引き受けて、最初にアリスに会ったのは侯爵家の応接室だった。
クリーム色の巻き毛を整えて、白いドレスを着た少女が、椅子の端にちんまりと座っていた。翠玉色の目が大きく、初対面の相手を見る顔は少し緊張していた。
レオが挨拶をすると、アリスは丁寧に頭を下げ、それからすぐ「あの」と言った。
「護衛のお仕事って、どんな事をされるんですか」
「基本的には、お嬢様の身の安全を守る事です。外出の際の随行、屋敷での警戒、必要に応じて連絡の取り次ぎなども行います」
「なるほど。——ひとつお願いがあるのですが」
「はい」
「わたくし、週に二度、王宮薬師長のお師匠のところに通いたいのです。その時の随行をお願いしたいのですが、よいでしょうか」
「承知しました」
「あと月に一度、薬草市場に行きます。半日かかる事があります。それも大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「あと、温室での作業中は近くにいていただく必要はないのですが、一応いた方がいいですか」
「……基本的には、お嬢様の近くにいた方がよいかと思います」
「そうですか。では温室にいる間、退屈させてしまいますね。申し訳ありません」
十二歳の令嬢が申し訳なさそうに言って、頭を下げた。
レオはその時、少し意外に思った。
護衛を迷惑と思う令嬢は少なくない。常に傍にいる他人は、やはり煩わしいものだ。しかしこの令嬢は退屈させる事を心配している。
「退屈は致しません。薬草には興味があります」
「本当に?」
アリスの目が、ぱっと輝いた。
「どんな薬草がお好きですか」
——それが始まりだった。
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最初の一ヶ月は、薬草の基本を教わった。
正確に言えば、レオは護衛の仕事をしながらアリスの説明を聞いているうちに、気づいたら薬草の知識を吸収していた。
アリスは温室で作業しながら話す。薄荷の効能、タイムの使い道、ラベンダーの乾燥方法。一つの話が終わると次の話が始まる。話しながら手は動き続けて、植木鉢を持ち替え、土を耕し、葉を摘む。
レオは最初、ただ聞いていた。
やがて「その葉、少し折れていませんか」と指摘するようになった。
「あら、本当ね。気付かなかったわ、ありがとう」
アリスが嬉しそうに笑ったので、次の日も目を光らせていた。
二ヶ月目には、植木鉢の水やりを手伝うようになった。
「あなた、器用ね。根元からゆっくり注げているわ」
「教えていただきましたので」
「そう? でも覚えが早いわ」
アリスはまた嬉しそうに言った。その表情には嘘がなく、ただ純粋に喜んでいた。
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半年が経つ頃、レオはアリスの薬草研究の全容を、ある程度把握するようになっていた。
アリスの研究は、一般的な薬草の知識を超えていた。
植物の有効成分を最大限に引き出す配合を研究し、それを実際の薬として形にする。師匠のヴィクトールの指導のもとで行うその研究は、学術的にも価値があるものだとレオには感じられた。
ある日、師匠の執務室で二人が議論しているのを聞いた。
「この配合では、有効成分が揮発する速度が早い。保存性の問題がある」
「でも揮発を抑えると、吸収率が下がります。どちらを優先するかによって……」
「現場での使いやすさを考えれば、保存性だ。戦場の薬師が複雑な処理をする時間はない」
「では、油脂基剤の種類を変えて……」
十三歳の令嬢が、齢六十を超えた王宮薬師長と対等に議論していた。
レオはその光景を見て、何かが腑に落ちた感覚があった。
この令嬢は、本物だ。
薬草を育てるのが好きな令嬢ではなく、薬草で人の命を救う事を本気で考えている人間だ。
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転機は、護衛を始めて一年半後に来た。
アリスが十三歳の冬。フォンティーヌ侯爵家の屋敷に、突然訪問者が来た。
陸軍のフィシェル将軍だった。
将軍は侯爵と二時間ほど話してから、令嬢に会いたいと申し出た。
応接室に現れたアリスを見て、将軍は少し戸惑った顔をした。
「……聞いていたより、若い令嬢だな」
「十三歳です、将軍閣下」
「十三歳が、あの傷薬を開発したと?」
「師匠のヴィクトール師匠と一緒に開発しました。アイデアはわたくしですが、完成は師匠の力があってこそです」
将軍は侯爵の方を見た。侯爵はにこりと微笑んだだけだった。
「……令嬢」
「はい」
「北方の第三連隊に、あの薬を届けてほしい。今の傷薬では感染症を抑えきれない。部下を助けてくれないか」
アリスはしばらく考えた。
「原材料の確保と、製造量の問題があります。一人では量が限られますが、師匠と相談すれば……量産のための協力者を探せるかもしれません」
「最大でどのくらいの量が可能か」
「三ヶ月で……百人分くらいでしたら」
「少ない」
「わかっています。だから協力者を——」
「百人分で構わん」
将軍は静かに言った。
「今の薬で百人助かるなら、それで充分だ。後は増やす方法を一緒に考える」
それ以来、アリスの研究は加速した。
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その頃から、レオの役割も変わっていった。
護衛という仕事に加えて、アリスの研究の補佐もするようになった。材料の調達、研究ノートの整理、師匠との連絡の取り次ぎ。アリスが「こういうのが分からなくて」と言うたびに、一緒に本を調べた。
気づけば薬草の知識は、いっぱしの薬師補助くらいにはなっていた。
(どうしてここまでやっているんだろう)
と自問した時期もあった。
護衛の仕事の範囲を超えている。公爵家の次男がやる事ではない、という声も聞こえてきた。
しかし答えは簡単だった。
アリスが嬉しそうにするから。
研究が上手くいったとき。師匠に褒められたとき。将軍から感謝の言葉をもらったとき。アリスの翠玉色の目が輝く。その瞬間のために、気がつけば動いていた。
それが何を意味するか、レオが自覚したのは、護衛を始めて三年目だった。
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その日も温室で、いつものように作業を手伝っていた。
アリスが「レオ、あのノートを取って」と言った。レオが棚から取って渡すと、アリスが「ありがとう」と笑った。
翠玉色の目が、真っ直ぐにレオを見た。
「あなたがいてくれるおかげで、研究がずっと進みやすくなったわ。本当に、ありがとう」
それだけの言葉だった。
それだけの事で、レオは胸の中に火が点った気がした。
(——ああ、そういう事か)
その火が何なのか、遅ればせながら理解した。
護衛だから、傍にいる。
しかしそれだけではないと、認めざるを得なかった。
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自覚してからは、むしろ冷静になった。
護衛という立場で、お嬢様への感情を表に出す事は許されない。レオはそう判断した。
だから言わない。余計な事はしない。ただ傍にいて、研究が進むよう手を貸して、笑顔を見ていればいい。
そう決めた。
一年後に婚約の話が来たとき、レオはその決意の正しさを確認した気持ちになった。
身分が違う。立場が違う。護衛が令嬢に想いを告げるなど、あってはならない。
だから何も変えない。傍にいて、守る。それだけでいい。
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……などと思っていたのだが。
(今日の婚約者の物言いは、いかがなものだったか)
夕暮れの馬車の中で、レオは静かに窓の外を見ながら考えていた。
令嬢として問題がある。父親の教育が悪い。
(五年間、ずっと傍にいた。薬草研究が何を生み出したか、あの男は知る事もなく、問題だと切り捨てた)
腹が立っていた。
アリスの前では「護衛の立場として」と前置きして、なんとか抑えたが。
(護衛の立場を外せば、もう少し別の言い方がある)
ちらりと向かいのアリスを見た。
アリスは窓の外を見ながら、何かを考えている顔だった。
三百七十人。
師匠から聞いた数字に、今もどこか感動しているような顔だった。
(この人は、三百七十人の命を助けた。それを「令嬢として問題だ」と切り捨てた男と、同じ気持ちで並んで歩ける気はしない)
レオは静かに目を閉じた。
(そもそも俺は、護衛の立場を外した時に何を言いたいのか——本当は分かっている)
ただ、今はまだその時ではない。
馬車が揺れる。
夕暮れが侯爵家の庭を染めていく。
今はまだ、それでいい。
十二歳から十七歳まで五年間ずっと傍にいて、薬草の事を一緒に学んで、思いを自覚したのが三年前というのは、告白まで随分と遠回りしたものです。護衛の立場がとか言って、本当は度胸がなかっただけでは……とは言えません。だってレオくんなりに色々考えていたはずですので。
アリスは気付いていたのかどうか。それはもう少し先で。




