第三話 フォンティーヌ侯爵家にて
フォンティーヌ侯爵家の屋敷は、庭園が有名だ。
城壁を模した石垣の内側に広がる庭は四季折々に花が咲き、中央に据えられた噴水が光を弾く。訪れた客人が「まるで絵画のようだ」と口を揃える侯爵家の自慢である。
ただしその庭園の一角にある温室については、訪れた客人の意見が割れる。
「なんとも珍しい、薬草だけとは」と言う者もあれば、「令嬢のお気に入りの場所だとか、なかなかに個性的だ」と言う者もある。少数だが「素晴らしい。あのセルフヒールの育ちが特に」と目を輝かせる者もいる。
いずれにせよ、この庭園はフォンティーヌ侯爵家の個性のひとつだった。
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アリスが帰宅したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
侍女のクレールが飛んできて「お嬢様、旦那様がお待ちです」と言った。待っている場所は屋敷で最も広い客間ではなく、小さな家族用の居間だという。それはつまり、父だけでなく母も一緒だという事だ。
アリスは心持ち息を深く吸って、居間の扉をノックした。
「アリス、入りなさい」
母の声。
扉を開けると、暖炉の前のソファに侯爵夫妻が揃っていた。
フォンティーヌ侯爵エドワードは、今年五十二歳になるがっしりとした体格の男だ。温和そうな顔立ちと穏やかな目が多くの人に好印象を与えるが、娘の事になると別人になる。今もその目は温和ではなかった。
侯爵夫人マリアンヌは夫と並んで座り、どちらかというと冷静な顔をしていた。冷静ではあるが、その目の奥が少し固い。
「座りなさい、アリス」
母の言葉に従って向かいのソファに腰を下ろすと、父が口を開いた。
「レオから、大まかな経緯は聞いた」
「……そうですか」
「モルティエ令息が温室に来て、婚約解消を申し出た。お前はそれを了承した。そう聞いたが、間違いないか」
「間違いありません」
アリスは静かに答えた。
父の目が、一瞬細くなった。
「……了承した、という事は、お前は構わないと思っているのか」
「引き留める理由が見当たらなかったので」
「アリス」
父が立ち上がりかけた。それを隣で母がそっと押さえた。
「エドワード、まず話を全部聞きましょう」
「だが、マリアンヌ……」
「全部、聞いてから」
夫人の静かな一声で、侯爵はソファに戻った。
マリアンヌ夫人がアリスを見た。
「アリス。クロード様は何と仰っていたの」
「令嬢として問題があると仰っていました。温室から出てこない事、夜会で薬草の話をした事、薬師のような真似をしている事——それが問題だと」
「……それだけ?」
「それから父のことも」
「パパのことを?」
アリスは少しだけ躊躇したが、正直に答えた。
「娘を甘やかし放任しているせいで、令嬢としての問題が生まれたと」
居間に、しんとした静寂が落ちた。
次の瞬間、侯爵が立ち上がった。
「おい」
「エドワード!」
「マリアンヌ、今は止めてくれ」
エドワード侯爵の声は、普段の温和さとは全く別物だった。
「わが娘への無礼は、ぎりぎり聞き流せよう。だがわが家への無礼は話が別だ。甘やかしだと。放任だと。我が娘の才能を信じて手を貸してきたのが、甘やかしと言われるのか」
「お父様」
「アリス、お前は何も悪くない」
ぐっと低い声でそう言って、侯爵はアリスを見た。
「何も悪くない。お前が薬草研究をしてきた事も、師匠のもとで学んできた事も、全て誇るべき事だ。それを令嬢として問題だなどと言う男が間違っている」
「ありがとうございます、お父様」
「後の手続きはこちらで行う。お前は何も心配しなくていい」
「……でも、お父様が怒っているとかえって心配です」
「俺は冷静だ」
「全然そう見えません」
アリスがきっぱりと言い返すと、父はぐっと言葉に詰まった。隣で母が小さく吹き出すのが聞こえた。
「……マリアンヌ、笑うな」
「笑っていません」
「笑っているだろう」
「笑っていませんわ」
夫人は端然とした顔で言いながら、実際には口元が隠れていた。
アリスは二人を見ながら、少し肩の力が抜けるのを感じた。
この光景を見ていると、家に帰ってきたという気持ちになる。父が怒り、母が宥め、アリスが突っ込む。いつも通りの、フォンティーヌ家の風景だった。
「アリス」
母が真剣な顔に戻った。
「一つだけ聞かせて。クロード様との婚約が解消になって、あなた自身はどう思っている?」
「……残念には思っています」
「それだけ?」
「それだけ、です」
アリスは少し考えてから、付け加えた。
「泣くほど悲しいかと問われれば、そうではなくて。でも全く何も感じないかと言われると、嘘になります。一年間の話ですから」
母はしばらくアリスを見ていた。
「……そう。わかったわ」
「お母様」
「あなたが元気そうで良かった。——後の事は、お父様に任せましょう。ところでレオから聞いたのだけれど、温室の薄荷の手当ては済んだの?」
話題の変わり方が唐突で、アリスはぱちりと瞬いた。
「あ、はい。レオがやってくれました」
「そう。良かった」
母はそれきりお茶のカップを手に取り、窓の外を見た。
父はまだ立ち上がりかけたままで、どこに怒りをぶつければいいか分からないような顔をしている。
アリスはそっと立ち上がった。
「師匠のところに行ってきます。経過報告がありますので」
「行きなさい」
母の言葉に背を向けて、居間を出た。
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廊下に出ると、すぐ傍の壁にレオが立っていた。
まるでそこに最初からいたかのような立ち方で、扉の方に目を向けている。アリスが出てきたのを見て、さっと前に出た。
「お父上の声が聞こえていましたよ」
「だと思ったわ」
「大丈夫でしたか」
「父がああいう形で怒ってくれるのを見ると、なんだか安心するわ。変かしら」
「……変ではないと思います」
レオはそう言いながら、アリスの隣を歩き始めた。
「師匠のところに行きますか」
「ええ。書状も出していないのに押しかけるのは申し訳ないけれど、今日はどうしても話したい気分で」
「では馬車の手配を」
「ありがとう」
廊下を歩きながら、アリスはふと足を止めた。
「レオ」
「はい」
「あなたは、今日の件についてどう思っているの」
レオは少しだけ止まってから、歩き続けた。
「護衛の立場では、お嬢様の身辺に何事もなかった事を良しとします」
「護衛の立場では、というのは?」
「……護衛の立場では、と申しました」
「うん、だから護衛の立場では、の後は?」
アリスはまっすぐに問いかけた。
レオは前を向いたまま、しばらく黙っていた。廊下の窓から光が差し込んで、黒い髪が少し明るく見える。
「……腹が立っています」
「そう思ったわ」
「申し訳ありません、護衛として感情的になるのは」
「別にいいわよ」
アリスは再び歩き始めた。
「わたくしのために怒ってくれる人がいるのは、ありがたいと思うから」
レオは返事をしなかった。
ただ、廊下の端を歩くアリスの歩調に合わせて、一歩後ろを歩き続けた。
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王宮薬師長ヴィクトール・ラングの執務室は、王宮の中で最も本が多い部屋だと言われている。
実際には他にも候補がいくつかあるので最多かどうかは定かでないが、それくらい本で溢れているのは確かだった。壁という壁が本棚で埋まり、本棚に入りきらない本が床に積み重なり、その間に作業台と椅子と、狭い通路だけがある。
書状も出さずに来訪したアリスを迎えたヴィクトールは、白い眉毛を少し動かしただけで「まあ入れ」と言った。
六十三歳になる老師は、白髪混じりの灰色の髪と厳めしい顔立ちが特徴で、初対面の人間は大抵怖がる。しかしアリスは五年前に初めて会ったときから怖いとは思わなかった。本の間からにょっと顔を出した師匠の目が、薬草の話をした瞬間に輝いたからだ。
「今日は何だ」
机の向こうに座ったヴィクトールは、眼鏡の上からアリスを見た。
「婚約解消になりました」
しばしの沈黙。
「……そうか」
「はい」
「理由は」
「令嬢として問題があると。薬草研究に時間を使いすぎているのが問題だそうです」
ヴィクトールはしばらく黙った後、机の上にあった羽根ペンを置いた。
「……フォンティーヌ侯爵は何と言っていた」
「かなり怒っていました」
「そうだろうな。私も怒れる年齢だったら同じようにしていたかもしれん」
「師匠」
「何だ」
「師匠は、わたくしの研究が令嬢として問題だとお思いですか」
ヴィクトールは眼鏡を外し、目の上を揉んだ。
「馬鹿な事を聞くな」
「聞いてはいけませんでしたか」
「そういう意味ではない」
老師は立ち上がり、部屋の隅の棚に向かった。そこから一冊の分厚いファイルを取り出して、アリスの前に置く。
「これを見ろ」
アリスはファイルを開いた。
そこには、数字と報告書が並んでいた。
「……これは」
「北方戦線の傷病記録だ。六ヶ月前と、その前の六ヶ月の比較だ」
アリスは数字を目で追った。
「感染症による死者の数が……大幅に減っていますわ」
「おまえが開発した傷薬を採用してから、の変化だ」
静かな声だった。
「六ヶ月で、三百七十人」
「……え」
「おまえの薬のおかげで、三百七十人が助かった。少なくともその数の人間が、今も生きている」
アリスは数字を見たまま、しばらく動けなかった。
三百七十人。
その数字が、実感を伴って胸に落ちてくるまでに、少し時間がかかった。
「……師匠」
「何だ」
「わたくし、間違っていなかった、という事ですか」
「おまえが間違っていたと思った事など一度もない」
ヴィクトールは静かに言った。
「ただ、これを王宮薬師長として陛下に報告したのは先月の事だ。おまえにも報告するつもりでいたが……まあ、今日にまとまったな」
「今日の話と、関係があるのですか」
「あるかもしれんし、ないかもしれん」
師匠は手をひらひらと振った。
「いずれにせよ、おまえは薬草研究を続けなさい。それだけだ。——ところで今日持ってきた薄荷の調製報告はどうなった」
「あっ、手元に持ってきていました」
「見せろ」
二人はそのまま二時間、薄荷の話をした。
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師匠の家を出たのは、夕方近くだった。
帰りの馬車の中で、アリスは膝の上で手を組んだ。
三百七十人。
その数字が、まだ頭の中にある。
「レオ」
向かいに座った護衛に、アリスは話しかけた。
「わたくしの薬が、北方戦線で三百七十人を助けたそうですわ」
「……知っています」
「知っていたの?」
「フィシェル将軍から、直接報告がありました。六ヶ月前に」
アリスはぱちりと瞬いた。
「なぜ報告が来るの、あなたに」
「護衛の立場として、お嬢様に関わる情報は把握しておく必要があります」
「それだけ?」
「……護衛の立場として、です」
また「護衛の立場として」という言葉が繰り返された。
アリスはしばらくレオを見ていたが、彼は窓の外を向いていた。夕暮れの光が車窓を流れて、金色の目の横顔を照らしている。
(不思議な人ね)
アリスは思った。
五年間そばにいて、薬草の事を一緒に学んで、怒ったり笑ったり。それなのに、何かが少し、掴みきれない。
まあ、護衛とはそういうものかもしれないけれど。
「レオ」
「はい」
「婚約解消については、もう引きずらない事にしました」
「……そうですか」
「ええ。三百七十人の話を聞いたら、なんというか、目が前に向いた気がするわ。やるべき事があると思ったら、後ろを向いている場合じゃないもの」
レオは、窓の外から視線をアリスに戻した。
「お嬢様は、強いですね」
「そうかしら」
「そうです」
そっけない言い方だったが、嘘のない声だった。
アリスはそれをありがとうと受け取って、窓の方を向いた。
夕暮れが、侯爵家の庭園を橙色に染めていた。
ヴィクトール師匠は基本的に「何だ」か「そうか」しか言いません。
でも弟子の事は誰より誇りに思っています。
三百七十人の数字はこの先も出てきます。
次章はそもそも話です。レオが護衛になった経緯と、五年前のアリスとの出会いをお届けします。




