第二話 馬車の中にて
(よし、これで準備は整った)
侯爵家の門を出た馬車の中で、クロード・モルティエは足を組み替えた。
革張りの座席に深く背を預け、窓の外を流れる街並みを見ながら、口元に薄い笑みを浮かべる。
(思ったより早く片付いた。拍子抜けするくらいあっさりと、あの令嬢は了承したな)
クロードは今一度、アリスの最後の顔を脳裏に思い描いた。怒るでも泣くでもなく、「わかりました」と告げてさっさと薬草に向き直った顔。
(あれだけあっさりされると、こちらが拍子抜けするくらいだが……まあ、元々自分に婚約者として相応しい令嬢ではなかった。早く次の手を打てる、という事だ)
その「次の手」こそが、今回の婚約解消の真の目的だった。
クロードは窓から目を離し、揺れる馬車の天井を見上げた。
全ての始まりは、六ヶ月前。
親友のベルナールが持ってきた一枚の話だった。
『クロード、いいか。お前だけに教えてやる。実はな、今度のリオン侯爵家の夜会に、ミレイユ・リオン嬢が初お披露目されるらしいぞ』
ミレイユ・リオン。
リオン侯爵家の一人娘にして、現王国随一の美姫と名高い令嬢。父のリオン侯爵は王の信任厚く、その令嬢との縁談が決まれば、家格と権力において他を圧する立場が手に入る。
次男のクロードは、自分の将来について常に計算してきた。
モルティエ伯爵家の長男は兄だ。家督は兄が継ぐ。次男のクロードが上を目指すには、有力家の令嬢との婚姻しかない。
フォンティーヌ侯爵家の令嬢との婚約は、その意味では最適な話だった。
ただ、それはアリスと婚約を結んだ時の話だ。
その後ミレイユ・リオン嬢の噂が耳に入り、直接顔を見て……話は変わった。
(美しい人だった)
クロードは静かに思い出す。
初めて対面した夜会での、ミレイユ嬢の姿。淡い金色の髪に鈴を転がすような笑い声。挙措は完璧で、社交界の華と称されるに相応しい令嬢だった。何より彼女は、クロードと話している間ずっと、真っ直ぐにクロードを見ていてくれた。
(あの方こそが、私の求める令嬢だ)
それ以来、クロードの心は決まっていた。
アリスとの婚約を解消して、ミレイユ嬢と婚約する。
そのためには、まずアリスとの婚約を終わらせなければならない。
(フォンティーヌ侯爵令嬢は温室に引きこもって令嬢らしくない行動ばかり。婚約者として問題があると判断した——という理由は、充分通る)
クロードはそう考えていた。
事実、アリスの行動はそのように見えた。
婚約者が来ても出てこない事が多く、夜会でも的外れな会話をする。侯爵家の跡継ぎとして振る舞う気が見えない。これは令嬢としての問題だ。
(それに、フォンティーヌ侯爵があの令嬢を溺愛し過ぎているのも問題だ。王宮薬師などという者を屋敷に招いて、令嬢の薬草遊びに付き合わせるなど——侯爵の教育方針に問題があると思われても仕方がない)
クロードはそう結論づけていた。
正しい判断だと、信じて疑わなかった。
(後は書状を送れば、解消手続きは進む。父も了承してくれている。この婚約解消は正当な理由がある……そう、正当だ。感情で動いているわけでは断じてない)
わずかに耳が熱い気がしたが、気のせいだろうとクロードは結論づけた。
(次は、ミレイユ嬢に正式に申し込みができる。婚約者のいる男が他家の令嬢に近付けば、それこそ問題だ。今日の行動は正解だ)
馬車が揺れる。窓の外の景色が流れていく。
クロードは目を細めた。
(アリス嬢は拗ねているかもしれないが、そのうちこちらの判断が正しかったと分かるだろう。令嬢として相応しい振る舞いを磨けば、別の良縁が来る。それは彼女にとっても良い事のはずだ)
そう思っておく事にした。
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しかし、クロードはいくつかの事実を知らなかった。
一つ目。
例のリオン侯爵家の夜会で、薬草の話で場を「凍りつかせた」とクロードが判断したあの場面。
実際には「凍りついた」のではなく、アリスの話に出席者たちが聞き入っていたために静まり返っていた。
その夜会にはフィシェル将軍が出席していた。将軍は北方遠征中に傷薬の需給問題で頭を痛めており、アリスが語る薬草の配合と保存方法の話を、一言も聞き漏らすまいと前のめりになっていた。その横でシャペル商会の会頭が「この令嬢は商談の相手として第一級だ」と密かに唸っていた。
クロードは二人から少し離れた位置にいたため、その表情が見えていなかった。
二つ目。
アリスが「薬師のような真似」をしているとクロードが判断した、あの薬草研究。
実際には、アリスが調合した傷薬は六ヶ月前から陸軍に採用されており、北方戦線で使われた記録がある。有効成分の配合がそれまでの傷薬と比べて格段に優れており、感染症による死者の数が大幅に減ったという報告が軍部に上がっていた。
その功績を王宮薬師長のヴィクトールが陛下に報告したのは、つい先月の事だ。
クロードは当然、それを知らない。
三つ目。
王宮薬師を屋敷に招いているのがフォンティーヌ侯爵の溺愛の結果だとクロードは思っていたが、実際には逆だった。
王宮薬師長ヴィクトールが「弟子にしたい」と言ってフォンティーヌ侯爵家に頼み込んだのだ。
ヴィクトールほどの大家が自ら頭を下げに来るなど、前代未聞と侯爵は言っていた。それを断る理由もなく、師弟関係が結ばれた。
クロードはそれを知らない。
四つ目。
最も重要な事実として——ミレイユ・リオン嬢は、既に別の令息と婚約を取り交わしていた。
それが公表されるのは、今夜のリオン侯爵家の夜会でのことだ。
クロードはまだ、それを知らない。
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馬車が屋敷に着いた。
意気揚々と降り立ったクロードは、執務室で待っていた父を見た。
「父上、婚約解消の件、了承を得てきました。後は書状を送るだけです」
モルティエ伯爵は机から顔を上げ、息子を見た。
「……そうか」
「はい。思ったよりあっさりとしたものでした。令嬢も了承しましたし、後は手続きを進めるだけです。ミレイユ嬢への申し込みも……」
「クロード」
父が珍しく、静かな声で名を呼んだ。
「今夜のリオン侯爵家の夜会に、私と一緒に行こう」
「もちろんです。ミレイユ嬢への……」
「その前に、一つだけ言っておく」
モルティエ伯爵は立ち上がり、息子の目を真っ直ぐに見た。
「お前の知らない事が、世の中にはまだ沢山ある。今夜の夜会で、お前は何かを学ぶだろう。……良い学びになればいいが」
クロードには、その言葉の意味が分からなかった。
「父上、何を仰っているのですか」
「いや、なんでもない。行くぞ」
伯爵は先に歩き出した。
息子の後ろで、小さく肩を落としながら。
暴走男、クロード・モルティエ伯爵令息でした。
感情で動いているわけでは断じてない、と言いながら耳が熱いのはまあそういう事だと思われます。
モルティエ伯爵(父)は大体の事情を察しています。止めなかったのは息子が自分で気付く必要があると思ったからですが、正直タイミングをかなり間違えました。お父様に同情します。
次はフォンティーヌ侯爵家の反応です。




