第一話 温室の前にて
そんな長くないです!
全部で7話構成!!!
よろしくお願いいたします
「失礼ながら、アリス嬢。本日、私はあなたとの婚約解消を申し入れに参りました」
凛とした声が、白い温室に響いた。
フォンティーヌ侯爵家の庭園の一角に建てられた温室は、天井から壁まで全てガラス張りの小さな建物だ。春の陽光が惜しみなく降り注ぎ、整然と並んだ植木鉢から青々と伸びる薬草たちが室内を緑色に染めている。土と草の混じった独特の香り。静かに循環する暖かな空気。
令嬢の温室と言えば、薔薇や百合などを愛でる華やかな空間というのが一般的だろう。
フォンティーヌ侯爵令嬢アリスの温室には、ただの一本も観賞用の花は咲いていなかった。
薄荷、カモミール、タイム、ラベンダー、セージ、エキナセア、ヴァレリアン。馴染みのある薬草から珍しい品種まで、棚という棚にびっしりと植木鉢が並んでいる。奥の作業台には乾燥中の束がいくつも吊られ、その隣の棚には色とりどりの瓶が整列している。分厚い研究ノートが何冊も積まれ、そのうちの一冊は今まさに開かれたまま台の端に置かれていた。
アリスは今日も今日とて、その温室の真ん中に立って、両手で薄荷の葉を丁寧に摘んでいた。
クリーム色の巻き毛は白い布でまとめ、淡い緑のエプロンドレスの袖を肘までまくって。土で汚れた革の手袋に、鼻先には土の跡。どこから見ても令嬢の姿ではないが、翠玉色の瞳は生き生きと輝いていた。
「……」
返事がない。
クロード・モルティエ伯爵令息は眉を寄せた。
扉を開けて宣言した言葉が完全に空気に溶けてしまったのを感じながら、一歩足を踏み込む。靴の底が土の床に触れて、思わず視線を落とした。
「アリス嬢、聞こえていますか」
「……あ」
ようやく振り返ったアリスの翠玉色の瞳には、愛おしそうな光が宿っていた。
ただし、その視線の先にあるのは来訪者のクロードではなく、手の中の薄荷の枝である。
「この子、葉の裏に虫食いがありましたの。見て、ここ。こんなになるまで気付いてあげられなかったわ。かわいそうに」
心底申し訳なさそうに、薄荷の葉を差し出してくる。
クロードは固まった。
「……虫食い、ですか」
「ええ。だからもう少し、ここで様子を見てあげなければ。——あ、クロード様はいらしていたのですか。ごめんなさい、気付かなくて」
今更気付いたように、アリスはぺこりと頭を下げた。
白い布で包まれた頭から、土で汚れた手袋の端まで。まあ、侯爵令嬢とは思えない有り様である。
これだ、とクロードは思った。
これが問題なのだ。
フォンティーヌ侯爵令嬢アリスは、確かに見目麗しい。クリーム色の巻き毛は手入れが良ければ社交界でも映えるはずで、翠玉色の瞳も整った顔立ちも、令嬢として申し分はない。読み書き計算もできるし、礼儀作法も一通り身についている。
しかし彼女はいつも、こうなのだ。
婚約を結んで一年。クロードが訪ねてきても温室から出てこない事が多く、出てきたと思えばエプロン姿のまま出迎える事もあった。夜会では薬草の話を延々と語り始め、出席者を困惑させた。侯爵家の跡継ぎとして相応しい女性を要求されるモルティエ伯爵家に、この令嬢を嫁として迎えていいものか。
そしてもう一つ、決定的な問題があった。
「アリス嬢、申し上げます」
クロードは声を整え、一歩前に出た。
「理由を聞かせていただけますか」
「喜んで申し上げますよ」
すっと背筋を伸ばし、クロードは言った。
「あなたは侯爵令嬢としての務めを全く果たしていない。婚約者が来訪しても温室から出てこず、社交界では薬草の話ばかりして場を凍りつかせる。貴族の令嬢が薬師のような真似をして、品位も体裁もあったものではない。私はそう判断しました」
「……社交界で薬草の話をした夜会ですが」
アリスは少し首を傾げた。
「確かに熱心にお話しましたわ。でも皆様も興味深そうにしてくださっていたように思うのですが、違いましたかしら」
「違います。場の雰囲気を読めない事が問題なのですよ」
「そうでしょうか」
「そうですよ。貴族の夜会で薬草の効能を語るのは、場違いというものです」
「あの夜会にはフィシェル将軍もいらしていましたが、将軍は最後まで真剣な顔でお聞きになっていましたわ。帰り際に、北方遠征での傷薬についてご相談もいただきましたし」
「……それは」
「それだけではなく、シャペル商会のフロラン会頭様も、薬草の輸入に関わる御相談を翌日わざわざお手紙で……」
「アリス嬢」
クロードは少し声を上げた。アリスはぱたりと口を閉じる。
「それが問題なのです。令嬢が薬草の売買について商人と話し合うなど、家格も立場も弁えていない。フォンティーヌ侯爵はそれを放任しているどころか、王宮薬師とかいう人間を招いてまで研究の手伝いをさせているとか聞きました。御父上の教育方針に問題があると、私は判断しました」
アリスは、しばらく黙っていた。
翠玉色の瞳が、静かにクロードを見ている。怒っているわけでも、泣いているわけでも、戸惑っているわけでもない。ただ真っ直ぐに、見ている。
「……父の悪口だけは」
声音は穏やかなままだった。
「父の悪口だけは、聞き流せませんの」
「事実を申し上げているのですよ」
「父はわたくしを信じてくれています。それは甘やかしではなく、信頼です。その二つは全く違うものですわ」
「買い被りというものですよ、親の目は節穴です」
「……クロード様」
「なんですか」
「クロード様のご両親は、あなたの事を誇りに思っていらっしゃいますか」
しばしの沈黙が落ちた。
「……話が逸れています」
「そうですわね。失礼しました」
アリスは視線を外し、手の中の薄荷の枝を植木鉢に戻した。
クロードは咳払いをひとつした。
「いずれにせよ、私はあなたとの婚約を解消したい。これ以上続けても、お互いのためにならないと判断しました。正式な書状はフォンティーヌ侯爵宛てにお送りします。——それだけです」
「わかりました」
あまりにもあっさりとした返答に、クロードは一瞬息を飲んだ。
「……了承する、という事ですか」
「お断りする理由も、特にありませんもの」
アリスは手袋を外しながら言った。
「長い付き合いでしたから、残念には思います。でも、引き留める事はしません。書状をお送りいただければ、父から正式にお返事が参りますわ」
それだけ言って、アリスはさっと作業台に向き直った。薄荷の手当てに使う道具を棚から取り出し始める。
来訪者の婚約者はもう眼中にない、という態度だった。
クロードは踵を返した。
釈然としない気持ちを抱えながら、扉に手をかける。泣いて縋るか、怒鳴り返すか、そのどちらかを想定していたのに、アリスはどちらでもなかった。まるで天気の話でもするような顔で了承して、薬草の方が大事とばかりに向き直った。
——まあ、これで良い。
クロードは内心でそう結論づけた。
これが正しい判断だ。今はまだ分からなくても、近いうちに分かる。自分がいかに正しい決断をしたかが。
そのためにこそ、今日この婚約を解消しに来たのだから。
扉を押し開けて、クロードは温室を後にした。
春の陽光の中、侯爵家の庭園を早足で歩く。背後でガラスの扉が閉まる音がした。
次の婚約相手は、もう目星がついている。
クロードは口元に微かな笑みを浮かべながら、馬車へと向かった。
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温室の中で、アリスはしばらく薄荷の葉をなぞっていた。
青い香りが鼻先に漂う。
葉の表面をそっと撫でると、擦れた部分から爽やかな匂いが立ち上った。
薄荷は強い植物だ。踏まれても折られても、翌年にはまた芽を出す。
「……まあ」
アリスは静かに息を吐いた。
婚約が解消される事への感傷が、全くないわけではない。一年間の付き合いで、楽しかった事が全くなかったわけでもない。クロードが持ってきてくれた珍しい薬草の図鑑は今でも棚に並んでいるし、彼が初めて温室を訪ねてきたとき、薄荷の香りに「これは何ですか」と興味を持った顔は印象的だった。
あの頃は、まあ、悪くなかった。
ただ、それ以降は少しずつ噛み合わなくなっていって。
「……仕方ないわね」
誰に言うわけでもなく呟いて、アリスは道具を手に取った。
薄荷の手当てをしてから帰ろう。この子を放っておくわけにはいかないし、ヴィクトール師匠に報告したら、手当て方法についてまた二時間くらい議論になるだろう。それはそれで楽しみだ。
それより、父にどう伝えようか。
父の顔を思い浮かべたアリスは、少し気が重くなった。
フォンティーヌ侯爵エドワードは、アリスの知る限り最良の父だ。アリスが薬草研究をしたいと言えば温室を建ててくれたし、師匠を探したいと言えば奔走してくれた。令嬢として夜会に出席させながら、無理に縁談を急かす事もしなかった。
その父が、娘の婚約解消を聞いてどう反応するか。
「……お父様ごめんなさい、先に師匠に報告してからにしましょう」
現実逃避だとは自覚していたが、薬草の手当てが終わったら師匠のところに行こうと決めて、アリスは作業を再開した。
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温室の扉が、そっと開いた。
「お嬢様」
入ってきたのは、黒髪の青年だった。
護衛の制服——フォンティーヌ侯爵家の紋章が刺繍された黒の上着——に身を包み、整髪剤で丁寧にセットした黒い髪。日焼けで少し浅黒い肌と、鍛えた体躯。金色の瞳がアリスを捉えて、僅かに眉を寄せた。
レオナルド・シャルダン。
五年前からアリスの護衛として傍にいる男だ。
「聞こえていましたよ、全部」
「あら」
「扉越しに、はっきり聞こえていました」
レオは静かな声で言った。口調は落ち着いていたが、金色の目の奥に何か固い光があった。
「怪我は? 声が大きい方でしたので」
「怪我はしていないわ。声が大きいのは確かに、慣れているわね」
「……慣れているのはどうかと」
レオは短く言って、すっとアリスの傍に歩み寄った。アリスの持つ道具に視線をやって、「手当てですか」と確認する。
「この子に虫食いがあったから」
「私がやります」
「でも、殺虫液の薄め方は……」
「知っています、お嬢様」
遮られて、アリスはぱちりと瞬いた。
そうだわ、と思う。
この五年間でレオが覚えた事の量は相当なもので、薬草の手入れ方法など既にほとんど把握している。最初の頃は「護衛がなぜ薬草の世話を」と思わないでもなかったが、今となってはアリスより丁寧に植木鉢を扱う事もある。
「あなたって本当に勉強家ね」
「お嬢様のそばにいれば、覚えざるを得ないのですよ」
「それは申し訳なかったかしら」
「いいえ」
即答だった。
アリスはまたぱちりと瞬いたが、レオはもう薬草棚の方を向いていた。
「屋敷に戻りましょう。侯爵様に報告しなければ」
「……そうね。でも父の顔を思うと」
「逃げても仕方がないですよ」
「わかっているわ」
アリスは道具を置いた。
エプロンを外しながら、もう一度温室を見渡す。三百を超える植木鉢が整然と並んでいた。
「レオ」
「はい」
「わたくし、どこかで間違いを犯したかしら」
歩きながら、ひっそりと問いかけた。独り言のようで、でも確かにレオに向けた言葉だった。
レオはすぐには答えなかった。一歩後ろをついてくる気配があって、しばしの後、静かな声が返ってきた。
「お嬢様が間違いを犯したとは、私には思えません」
「でも婚約者に、令嬢として問題があると言われてしまったわ」
「……問題があるとすれば、それはお嬢様ではなく。お嬢様の価値が分からなかった方でしょう」
アリスは足を止めずに、ただ少しだけ首を傾げた。
「ありがとう、レオ」
「どういたしまして」
庭園を横切る二人の後ろで、温室のガラスが春の光を反射して、きらきらと輝いていた。
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廊下でアリスを見送ったレオは、その場で一度だけ深く息を吐いた。
聞こえていた。扉越しに、全部。
婚約者が来たと侍女が報告してきたとき、アリスは「すぐ行く」と言いながら薄荷の手当てを始めていた。レオは温室の外で待機しながら、内心では早く出ていけ、と思っていた。
思っていたが、それをアリスに言う立場でもない。
婚約者との婚約は、正式に取り交わされた話だ。護衛の立場で口を挟む事ではない。
ただ。
(婚約者に、令嬢として問題がある、と)
レオは目を閉じた。
問題がある。
アリスの育てた薬草から作られた傷薬が、北方戦線で何百人の兵士の命を救ったか。その数字を知っているのはレオも含めて何人かいる。王宮薬師長のヴィクトール師匠は先月、声を震わせながらアリスに礼を言っていた。
あの男はその事を知っているのか。
知らないのか。
(知らないのに、問題があると言い切ったのか)
レオは静かに目を開けた。
もう一度だけ、息を吐く。
護衛の仕事は、お嬢様の安全を守る事だ。それ以上でも以下でもない。
そう自分に言い聞かせながら、歩き出した。
言い聞かせは、五年前から続けている習慣だった。
いつか終わりにできる、と——密かに思いながら。
薄荷の手当て、そんなに急かなかったと思いますが、まあそういう子なのです。
婚約破棄した側が意気揚々としているのは、当然ながら理由があります。
次章はその理由が明かされます。クロード・モルティエ伯爵令息の頭の中へどうぞ。




