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黄色い線の手前

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/18

 待合室は、いつも同じにおいがした。


 消毒液と、古い雑誌の紙と、誰かの遠慮がちな咳払い。蛍光灯の光は白くて均一で、影を作らない。午後の二時すぎ、窓の外には冬の鈍い空が広がっていたが、ここにいると季節さえどうでもよくなってくる。


 丸山華は、硬いビニール張りの椅子に浅く腰掛け、膝の上のトートバッグをぎゅっと抱えていた。まるで何かにしがみつくように。いや、実際にそうだったのかもしれない。


 整理番号は十四番。いま呼ばれているのは九番だ。


 壁に掛けられたデジタルの番号表示が、ゆっくりと、十、十一、と増えていく。そのたびに華の心臓は奇妙な動き方をした。早まるわけでもなく、遅くなるわけでもなく、ただ不規則に、まるで濡れた布を絞るように、きゅっ、きゅっ、と収縮した。


『どうか、癌でありますように』


 静かな祈りだった。


 声には出さない。頭の中だけで、丁寧に、何度も繰り返す。まるで呪文を唱えるように。まるで本当に信じている神様に向かって、両手を合わせるように。


 三十八歳。


 鏡で自分の顔を見るたびに、もう充分だ、と思う。三十代後半というのは、思っていたよりずっと疲れている年齢だった。若い頃に思い描いた「三十代」は、もっと洗練されていて、もっと自信に満ちていて、仕事と趣味と人間関係がきれいに折り合いのついた、そういう年齢のはずだった。


 現実は違った。


 職を失って八ヶ月。月に一度、メンタルクリニックに通う日々。処方された薬を夜に飲んで、朝に起きて、何もしない午前中を過ごして、何もしない午後にたまに病院に来る。それが華の毎日の骨格だった。


 将来の展望、という言葉が頭に浮かぶたびに、そこには何もない、ということを確認するだけになっていた。確認するのはもう慣れた。慣れてしまったことが、また怖かった。


「十二番の方──」


 受付の声がして、老いた男性がゆっくりと立ち上がる。白い杖をついて、小さな背中で診察室へ向かっていく。華はその背中を、ぼんやりと目で追った。


 やりたいことは、やった。


 そう思う。叶わなかった夢ばかりだったけれど、やろうとした。精一杯やった。漫画を描いた。小説を書いた。コンテストに何度も応募した。編集部の扉を叩いた。叩いて、叩いて、叩いた。


 それでも扉は開かなかった。

 だから、やり残したことはない、と言えるはずだ。少なくとも、そう言い聞かせることはできる。


 病気で死ねたら、きっと周囲も納得してくれる。

 仕方なかった、と言ってくれる。


 自殺は──考えないようにしていた。いや、考えてはいた。ただ、それは「方法」として考えていなかった。あくまでも概念として。出口の形として。でも病気なら、もっとずっと分かりやすい。誰も責めない。誰も苦しまない。本人だけが苦しんで、それで終わる。


 両親はまだ生きている。

 父は七十二歳、母は六十九歳。兄はいない。姉もいない。華は一人っ子だ。

 順番からいくと、最後に残されるのは自分だ。


 ──それだけは、嫌だった。

 一人になることを想像すると、胃の底が冷たく沈んだ。夜中に目が覚めて、この恐怖を思い出すと、もう眠れなくなった。両親のいない世界で、自分が生きている風景が、どうしても想像できなかった。


 だから、先に死にたい。

 二人が生きているうちに。見送られて、死にたい。


「十三番の方──」


 あと一人だ。

 華は膝の上のバッグを、もう一度だけぎゅっと抱えた。




「丸山、華さん」


 名前が呼ばれた瞬間、体が一瞬だけ固まった。


 立ち上がり、診察室のドアノブに手をかける。冷たい金属の感触。深呼吸をしようとして、うまくできなかった。ドアを開ける。


「──こんにちは」


 我ながら情けないほど小さな声だった。蚊の鳴くような、とよく言うが、まさにそれだった。


 白衣の女医は、パソコンの画面から目を上げなかった。四十代くらいだろうか、切れ長の目に細いフレームの眼鏡をかけていて、表情というものがどこにもなかった。いつもそうだ。この医師は愛想というものを持っていない。それが悪いわけではないと、華は思っている。こういうところに来る人間は、優しくされたいわけではないから。


 目の前の椅子に促されて、座る。


「丸山さんは、前回、子宮頚がん検診をされたんでしたね。今回はその結果です」


「──はい」


 心臓が早鐘を打ち始める。


 こんなにも緊張しているのに、願っていることは死ぬことだ、と華は思った。そのちぐはぐさが、自分でも奇妙だった。体は生きようとしていて、頭は死を望んでいる。


『どうか、癌でありますように』


 もう一度だけ、心の中で繰り返した。


 痛くて苦しいことは嫌だ。それは本当のことだ。できればゆっくり、眠るように死にたい。 


 でも癌なら、治療の過程で眠れる薬を出してくれる。痛み止めも出てくる。段階的に、丁寧に、死に向かっていける。そういう道筋を、ぼんやりと思い描いていた。


 女医が、わずかに口を開いた。


「検査の結果、癌は見つかりませんでした」


 世界が、一瞬だけ止まった気がした。


 華は表情が動かないように、動かないように、全力でこらえた。顔が白くなっているのが自分でもわかった。血の気が引くというのは、比喩ではなく、本当に物理的な感覚なのだと、こういうときにいつも思う。


 どうか気づかれていませんように。


「──子宮筋腫も、日常生活に支障が出ていないのであれば、経過観察でいいでしょう」


女医の声は淡々と続く。


「鉄欠乏性貧血の治療は続けていきましょう。今の鉄剤は合っていますか」


「──はい、大丈夫です」


 自分の声が、どこか遠くから聞こえる気がした。


 子宮筋腫。鉄欠乏性貧血。どちらも死ぬような病気ではないことは、知っている。でもどこかで、何かしら重大な合併症が起きて、そのまま死ねないだろうか、と考えてしまっている自分がいる。


 頭の中が、死ぬことでいっぱいだった。


「良かったですね」


 女医は画面を見たまま、事務的に言った。


 ──何が、いいものか。

 唇の内側で、華は噛んだ。

 ──地獄だ。




 帰り道の空は、相変わらず白かった。


 薬局で鉄剤を受け取り、紙袋をトートバッグに押し込んで、駅への道を歩く。冬の乾いた風が頬を撫でた。信号が赤に変わる。止まる。青になる。歩く。それだけのことをするのに、やけに力がいった。


 どうすれば、いいのだろう。


 そればかりを考えていた。癌であることを、ずっと、ひそかに期待していた。この八ヶ月間、どこかでそれを心の支えにしていたのかもしれない。検査を受けながら、悪い知らせを待ちながら、それが一つの出口として存在していた。


 それが、なくなった。


 また何も変わらない日常が続く。メンタルクリニックと、薬と、何もしない午前と午後と。


 ──夢があった。

 自分の本が、書店に並ぶ夢。


 平台に置かれた、自分の名前の入った本の表紙を想像したことが、何百回あっただろう。漫画でもよかった。小説でもよかった。書店の棚のどこかに、背表紙が一列だけでもいいから、自分の名前が刻まれている、そういう景色が見たかった。


 十八歳から描き始めた。二十代はほとんどそれに費やした。漫画のペンタコを何本使い潰しただろう。コンテストの締め切りに間に合わせるために、仕事帰りに深夜まで机に向かった日々。編集部に持ち込みをする前夜、緊張で胃が痛かったのを覚えている。


 でも、いつも同じ言葉が返ってきた。


「商業レベルではない」


 編集者によって、言い方は少しずつ違った。「絵は好きなんですけど、ストーリーが……」「世界観は面白いと思うんですが、キャラクターが読者に届きにくくて」「惜しいんですよね、本当に惜しいんだけど」。でも全部、同じ意味だった。


 あなたのものは、売れない。


 それを二十年かけて、丁寧に教えてもらった。


 三十八歳になった今、もう夢という言葉を自分に使う気にはなれなかった。あれは夢だった、と過去形で言うにはまだ傷口が新しくて、でも現在形で言えるほど諦めきれてもいない。宙ぶらりんのまま、ずっと抱えている。


 最後に原稿を描いたのは、三年前だった。


 ペンはまだ引き出しにある。

 でももう、握ることはない。


 才能がないと分かるまでに、二十年かかった。

 二十年は、長すぎた。


 同年代の作家のインタビューを読んだ夜、

 華は自分のスケッチブックを捨てた。


 何も起きなかった。

 涙も出なかった。


 夢は、失うときより、

 何も感じなくなったときのほうが終わるのだと知った。


 どこかで電車の音がした。


 顔を上げると、いつの間にか駅のホームに立っていた。


 黄色い点字ブロックの少し手前。電光掲示板に、次の電車まで三分と表示されている。


 ──このまま、ここに飛び込めば、死ねる。

 思考が、すうっと滑り込んできた。


 押しのけようとしたが、もう遅かった。考えてはいけない、と思えば思うほど、考えてしまう。電車が来る。速い。一瞬だろう。痛みを感じる時間もないかもしれない。


 でも。

 大勢の人に迷惑がかかる。


 運転士さんが、一生トラウマを抱えることになる。居合わせた人たちが、何年も夢に見るかもしれない。電車が遅れて、帰りを急いでいた誰かが、大切な何かに間に合わなくなるかもしれない。


 それに、痛い。

 絶対に、痛い。


 死にたいのに、もう苦しみたくない、と思っている。


 黄色い線の向こう側は、思っていたより近かった。


 黄色い線を越えた。


 足は震えていた。

 電車のライトが迫る。


 死ねる、と思った。

 同時に、強烈な恐怖が喉を締め上げた。


 ──痛い。

 ──怖い。


 華は後ずさった。

 自分は、死ぬ勇気すらないのだと理解した。


 生きる力もない。

 死ぬ覚悟もない。


 ただ恐怖だけは、きちんと持っている。

 それがいちばん情けなかった。

 華は線の内側に戻った。


 自分は、あちら側の人間ではないのだと、改めて思った。


 その矛盾が、また自分を情けなくさせた。死ぬ覚悟もない。生きる気力もない。どちらにも踏み出せないまま、ただ黄色い線の手前に立っている。


 電車が来た。


 風圧で、コートの裾が揺れた。

 華は動かなかった。


 扉が開いて、人が降りて、人が乗って、また扉が閉まった。電車は去った。


 ──今日も、死ねなかった。


 それが安堵なのか失望なのか、自分でもわからなかった。ただ、どちらでもあるような気がした。


 明日も、きっと死ねない。

 そういう人間なのだ、自分は。




「ただいま」


 玄関のドアを開けると、廊下の奥から物音がして、すぐに母が顔を出した。


 エプロン姿で、手に菜箸を持っている。夕飯の支度をしていたのだろう。六十九歳になった母の顔には、華が子どもの頃からずっとある細い皺が、また少し増えた気がした。


「おかえり。検査結果、どうだった?」


 明るい声だった。

 答えを知っているかのような、確信に満ちた明るさだ。この人は、娘が癌であることなど、欠片も疑っていない。それが当然だと思っている。なぜなら世界はそういうふうに動くはずだと、この人はまだ信じているから。


「癌じゃなかった」


 一瞬、母の動きが止まった。

 それから、ほっと息を吐いて、目尻に小さな皺を寄せた。


「そう、良かったわね」


 母は本気で嬉しそうだった。

 その顔を見た瞬間、華の中で何かが冷えた。


 ──あなたたちがいる限り、私は死ねない。


 それは愛ではなく、拘束だった。

 この人たちは、娘が先に死ぬ可能性など一度も想定していない。

 順番通りに死んでいく未来を、疑っていない。


 華は、湯気の向こうで笑う母を見ながら思った。

 あなたたちが長生きすればするほど、私は地獄が延びる。


 母は本当に嬉しそうだった。安堵とも違う、もっと単純な、純粋な喜びだった。心底良かったと思っている顔だった。


 ──何が、良いものか。

 華は靴を脱ぎながら、返事をしなかった。


 リビングに入ると、テレビがついていた。夕方のニュースが、どこかの政治家の話をしている。父はソファで新聞を読んでいて、眼鏡の奥の目を細めて、「そうか、陰性か」とだけ言った。


「良かったな」


「うん」


 華は自分の部屋に鞄を置きに行って、手を洗って、食卓に戻った。


 夕飯は鍋だった。白菜と豆腐と豚肉の、シンプルな水炊き。母が丁寧に作るこの鍋は、華が子どもの頃から好きだった。ポン酢の小皿を引き寄せて、箸を持つ。


 何の味もしなかった。


 食べている、という感覚だけがあった。口の中で何かが咀嚼されて、飲み込まれて、お腹に収まっていく。でもそれだけだった。


「寒かったでしょ、今日」と母が言う。


「うん」と華は答える。


「お父さん、昨日から少し咳が出てるのよね」と母が言う。


「病院行った方がいいんじゃない」と華は言う。


「そうよね、言ってるんだけど」と母が言う。


 会話は続く。内容は何もない。でも続く。

 華はその声を、どこか遠くで聞きながら、鍋の中の白菜をぼんやりと箸でつついた。


 両親はまだ、ここにいる。

 母の笑い声が聞こえる。父が新聞の話題を持ち出す。テレビの音が混じる。湯気が上がる。あたたかいにおいがする。


 それでも、何の味もしない。


 ──それでも生きていけというのか。

 この地獄を。

 誰に向けているのかわからない問いが、また静かに頭をもたげた。


「華、ご飯もう少しどう?」


 母の声がした。


「──うん、少しだけ」


 華は答えた。

 食べた。


 その事実が、今夜もまた、重く、かすかに、華の胸の底に沈んでいった。


 今日も、死ねなかった。

 明日も、きっと死ねない。


 来年も。

 五年後も。


 両親を見送り、誰もいない家に一人で住み、メンタルクリニックに通い続け、鉄剤を飲み、季節をやり過ごし、誰にも必要とされないまま、ただ寿命だけが残る。


 それが、いちばん現実的な未来だった。

 死ねないまま、生きてしまう。


 それが華の罰だった。


──完──

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