1951~52年の欧州膠着戦 → 1952年米国の核実験成功 → 連合国によるポツ ダム宣言発出
■ 1951〜52年
ポーランド=ソ連国境線での膠着・消耗戦
1951年後半から1952年初頭にかけて、
連合軍(米・英・日・仏ほか)はブレスト=リトフスク〜リヴィウ〜ビリ
ニュス前面で攻勢を試み続けたが、
• 地形(湿地帯・森林・泥濘)
• 補給線の限界
• ソ連軍の強固な縦深防衛
• T-54等新世代戦車の大量投入
の前に進撃は完全に停止した。
大規模攻勢をかけても前進は数km、
失われる戦車・歩兵は膨大で、
**「西部戦線の再来」**と呼ばれる状況となった。
● 1951年末の損耗(概算)
• 連合軍 戦車:月平均1,200輌損失
• ソ連軍 戦車:月平均1,800輌損失
• 砲兵・歩兵損害:双方で数十万規模
• 航空戦は連合軍優勢だが損害は増加
特に日本派遣軍は欧州の泥濘に弱く、
車輌故障率が高く「機甲戦力としての限界」に達しつつあった。
戦いは一進一退で、誰も勝利できず誰も後退できないという完全な膠着が続
いた。
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■ 1952年春
核開発が再加速──米国の「トリニティII」計画
日本と早期停戦したことでマンハッタン計画が史実より縮小していた米国だ
が、
1948年の第三次世界大戦勃発によって再び核開発が国家最優先事項となっ
た。
1949〜51年の「トリニティII計画」で、
• 新型ガス拡散工場の建設
• 原爆設計の完成(史実のFat Man系だが改良型)
• 爆縮レンズの安定生産
• 運搬手段(B-29DおよびB-36初期型)の準備
が進められ、1952年6月、ついに米国は初の核爆発実験に成功。
名称は 「トリニティII」
出力は20〜30kt級。
欧州の連合軍陣営は歓喜し、
英国も日本も「これで決着がつく」と期待した。
その一方、
ソ連にはすでに実験成功情報が漏れ、
スターリンは「核を持たぬまま戦争継続は危険」と判断し、警戒態勢に入
る。
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■ 1952年7月
連合国首脳会談「ポツダム会談」開催
場所は史実同様、
ベルリン郊外のポツダムだが、
史実とは逆に「戦争を終わらせるための恫喝会議」となる。
出席者
• 米国:アイゼンハワー政権
• 英国:チャーチル復帰政権
• 日本:吉田茂政権
• フランス・カナダ・オランダなど連合国代表
会談の焦点
1. 核兵器の使用方針をどうするか
2. 欧州での戦争終結条件
3. 極東(朝鮮北部・満州北部)での処理
4. ソ連の占領地域からの撤退要求
5. 核による都市攻撃の可否
特に日本は欧州に大軍を派遣していたため、
「これ以上の消耗は不可能」と訴え、
核を外交カードとして使うべきと強く主張する。
英国も同意し、米国も核を「戦争終結の切り札」と認めた。
こうして、「ポツダム宣言」の骨子が固まる。
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■ 1952年8月
ポツダム宣言(対ソ連最後通牒)発表
これは史実の対日ポツダム宣言と構造が似ているが、
対象はソ連であり、内容はさらに苛烈であった。
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▼ ポツダム宣言(対ソ連)主要条文(IF世界版)
1. ソ連軍は欧州から即時撤退し、
1941年国境線(独ソ戦前)まで後退すること。
2. 朝鮮北部および満州北部からのソ連軍・人民軍の即時撤退。
3. コミンテルン系勢力(中共・朝鮮人民軍)への軍事援助禁止。
4. 捕虜・強制移住者の全員送還。
5. ソ連は連合国と停戦交渉に入ること。
● そして最重要条文
6. これらを受け入れない場合、
連合国は新型破壊兵器(核兵器)を用いて、
ソ連の軍事都市・工業都市を徹底的に破壊する。
宣言は、史実の「原爆投下の直前の布告」よりも明らかに威圧的である。
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■ 世界の反応
● 欧州
連合軍支配地域では歓声。
「ようやく終わる」と期待が高まる。
● ソ連
スターリンは激怒しつつも動揺する。
なぜならこの時点でソ連はまだ核を持っていない。
• ベルリン・ワルシャワは失陥
• ドイツ・ポーランド・チェコは連合軍支配
• フランス主力軍は包囲・壊滅
• 朝鮮北部・満州北部でも敗勢
スターリンは宣言を「帝国主義の虚構」と非難するものの、
ソ連政府内部では**「受諾か核破壊か」の極限の議論**が始まった。




