ソ連国境線(ベラルーシ・ウクライナ西部)到達
■ 1951年2月〜1951年6月
連合軍、ついにソ連国境へ到達
ベルリン・ワルシャワ陥落後、連合軍は勢いに乗って東進を継続した。
● 北方:バルト海沿岸
英加軍・米軍の北翼はシュチェチン〜ダンツィヒ(グダニスク)を押さえ、
さらにリトアニア国境まで前進。
● 中央:ベラルーシ方面
連合軍主力(米第1・第3軍、日本派遣軍団、英国第2軍)は
ポーランド中部〜東部を掃討し、
• ビャウィストク
• ルブリン
• ブレスト=リトフスク西方
に到達。
ここが事実上のベラルーシ・ウクライナ国境であり、
連合軍は史上初めてソ連本土国境線へ迫った。
● 南方:ウクライナ方面
チェコ・シレジアから進出した米第7軍・仏軍・日本軍一部は、
• リヴィウ(ルヴフ)
• スタニスラヴフ(イヴァーノ=フランキウシク)
など、旧ガリツィア地域を制圧。
南翼もウクライナ国境前面に達した。
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▼ ■ だが、ここから進撃速度が激減
理由①:地形が連合軍に不利
ポーランドから東へ進むと地形が一変する。
• 湿地帯/深い泥濘(プリペチャ大湿地帯)
• 森林が多い
• 道路網が乏しい
• 鉄道はソ連規格(広軌)で、連合軍の列車がそのまま入れない
ヨーロッパ西側の「機甲戦向きの平原」とは異なり、
連合軍戦車(M26・シャーマン改・センチュリオン・日本改良STA等)が
高速で展開できる地形ではなかった。
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理由②:ソ連軍が「本土防衛戦」に移行
フランス・ドイツでの敗北後も、ソ連軍は以下の点において依然強力であっ
た。
• 兵力は豊富(徴兵で再増強)
• 装甲戦力はT-44・T-54初期型が量産開始
• 退却しながらも兵站線が短くなる(自国領に近い)
• 防御陣地構築に全国家総動員
スターリンは1941年の大祖国戦争序盤の逆境を想起し、
「祖国防衛」モードに突入。
国境地帯に膨大な数の野戦堡塁と対戦車壕を構築し、
攻める側の連合軍が圧倒的不利となる。
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理由③:連合軍の補給線が長すぎる
連合軍の補給軸は、
• ノルマンディー〜パリ〜ドイツ〜ポーランド
• 南翼はブレーメン〜ミュンヘン〜シレジア
• 北翼はロッテルダム〜ハンブルク
という「欧州横断距離」であり、1000km規模の補給道路になっていた。
特に:
• 1949〜50年の大反攻で鉄道インフラが破壊されている
• 架橋・道路補修が追いつかない
• 極寒の冬季で輸送効率が低下
• 燃料の消費量が過去最大
• 日本派遣軍は部品不足が深刻化
• 欧州住民の食糧不足への自治政府対応も必要
連合軍は「勝てるが前に進めない」状態になりつつあった。
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理由④:航空優勢はあるが、ソ連の防空網が強力化
連合軍は空では優勢だが、国境地帯で次の問題が発生:
• ソ連がMiG-15級ジェット戦闘機を本格投入
• 地対空砲・レーダーの密度が非常に高い
• 飛行場が国境から内陸に多層配置され攻撃しきれない
• 天候が悪化し航空作戦が制限される
「空から叩いて突破する」という定番が通じにくくなる。
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▼ ■ 1951年夏:
連合軍は国境を越えられず、戦線は膠着
● 1951年6〜8月:
大攻勢「サンダーボルト作戦」が試みられる
(攻撃目標:ブレスト=リトフスク〜ミンスク)
しかし結果は:
• 連合軍、前進はわずか10〜30km程度
• 機甲部隊は泥濘と地雷で進撃不能
• ソ連軍のT-54部隊が激しく反撃
• 損耗率がポーランド戦の3倍に跳ね上がる
• 日本派遣軍は車両故障が頂点に達し整備能力限界へ
結果、攻勢は中止。
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1951年末:戦線の固定化
最終的な戦線は以下のラインに固定される。
• 北:ビリニュス北西
• 中央:ブレスト=リトフスク前面(バグ川沿い)
• 南:ルブリン東方〜リヴィウ東方の丘陵地帯
およそ1941年6月開戦時の独ソ国境に近い位置で、
全欧州戦線が膠着することとなった。
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▼ ■ 膠着の結果:欧州は「長期消耗戦」化
● 連合軍側の判断
• 人員損耗は許容できるが、兵站の持久力が限界
• 国境のソ連防衛網は電撃戦向きではない
• 一気にモスクワまで進むのは不可能
• 先にアジア戦線(朝鮮北部包囲)の終結を優先すべき
イギリスと日本は特に疲弊が深刻で、
「1952年以降の本格攻勢は不可能」と判断。
● ソ連側の判断
• 国境ラインで防衛できる限り、耐え切れる
• ポーランド以西を失ったとはいえ、
ソ連本土の工業地域は無事
• ウラル以東で軍需生産を強化
• 「雪と泥と距離」が連合軍を阻むと確信
これにより、
1951~52年の欧州は“静かながら極めて重い膠着状態”に突入する。




