1948年8月開戦
■ 1948年8月1日 ― 欧州戦争(第三次大戦)勃発
西ベルリンを完全包囲していたソ連は、突如として市内へ装甲部隊を投入。
ベルリン駐留の米英日混成旅団は市街地で踏みとどまるが、ソ連はベルリン
確保を目的としていない。
真の狙いは、
「ベルリンを陽動にして、ドイツ平原への総攻撃を一気に開始する」
ことであった。
同日未明、ソ連軍は:
• 北方軍集団(バルト軍管区)
• 中央軍集団(ベラルーシ軍管区)
• 南方軍集団(ウクライナ軍管区)
の3正面から、
総勢約300万・戦車1万両規模の攻勢をドイツへ開始した。
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■ ① ソ連の“再電撃戦”が西側防衛線を粉砕(8月1日〜8月10日)
● 西ドイツ東部:わずか72時間で全面突破
西側は戦後3年しか経っておらず、
ライン川以東の防備は脆弱で、
• 米第7軍
• 英第2軍
• 日本派遣軍(第1派遣師団、第2派遣師団)
などが点在するのみ。
史実の1941年に比べ
、
ソ連軍ははるかに機械化され、JS-3、T-44、T-54の先行量産型さえ投入され
ていた。
8月3日、
ハノーファー/カッセル/ニュルンベルクの3方向で西側前線が崩壊。
日本派遣軍はJS-3の大突破に耐えられず、
わずか2日で総戦力の1/3を喪失し後退。
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● 連合国司令部(SHAEF)は混乱
ベルリンの包囲を“主攻”と誤認し、
東部戦線への予備兵力の移動が遅れたため、
西側はソ連の多正面攻撃に全く対応できなかった。
米英の将官すら
「速度が速すぎて戦況が把握できない」
と記している。
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■ ② フランス共産党(PCF)の蜂起(8月5日〜8月15日)
● ソ連の攻勢開始と同時に国内蜂起が発生
パリ・マルセイユ・リールで
フランス共産党の武装組織(旧FFI系)が一斉に行動を開始。
• パリ警視庁襲撃
• 北部炭田地帯でのスト → 武装化
• マルセイユ・トゥーロンの港湾封鎖
• 鉄道労組の同時ストによる補給遮断
これにより、フランス全域の補給網が一気に麻痺した。
西ドイツ戦線にいた米英軍は、
• 砲弾補給 1/3
• 航空燃料 1/4
• 糧食補給 50%停止
という最悪の事態に陥る。
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● 仏政府は脆弱、対処できない
第四共和政は政権基盤が弱く、
蜂起対応に軍を動かすことすらできず、
パリはほぼ無政府状態に陥った。
英米は緊急治安部隊を派遣するが、
西ドイツ前線が崩壊しつつあるため
十分な兵力は送れない。
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■ ③ 連合軍の総崩れ(8月10日〜20日)
● ソ連軍は「突破」ではなく「蹂躙」
8月10日〜15日、ソ連軍は
電撃戦の戦術ドクトリンに基づき、
突破した戦車軍団をライプツィヒ・フランクフルト方面へ雪崩れ込ませた。
西側の司令部は完全に分断され、
各部隊は統制を失う。
特に壊滅した部隊:
• 日本第1派遣師団(40%損耗)
• 英第6機甲師団
• 米第1軍の3個歩兵師団
一部は包囲され、夜陰に紛れて撤退。
装備の大半を投棄して逃げる形となる。
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● 8月14日:ドイツ中央戦線全面崩壊
ライン川東岸に到達する頃には、
西側は防衛線を形成できず、
ほぼ総退却となっていた。
連合軍はライン川で最後の防衛線を張ろうとするが、
• 補給不足
• 仏国内の交通遮断
• 空での制空権喪失
が重なり、わずか48時間で崩壊。
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■ ④ ベルギー〜北仏へ後退(8月20日〜9月1日)
● ベルギー戦線の崩壊は早かった
ブリュッセル、アントワープの陥落は10日以内。
港湾は共産派の暴動で機能が停止。
連合軍はイギリス海軍の援護を受けながら、
カレー・ダンケルク・ディエップの退却港を目指す。
特にカレー付近で日本派遣軍が殿を務め、
激しい市街戦で損害を出しながら後退した、とされる。
日本兵の損耗は欧州到着時の約45%に達する。
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■ ⑤ ダンケルク“最後の線”(9月5日〜)
9月5日、連合軍はついに
ダンケルク〜カレー〜ブローニュの狭い海岸線に追い詰められる。
• 英遠征軍の残存
• 米第1軍の残存
• 日本派遣軍の残存
• フランス政府軍の残り
が、この40kmの海岸線に圧縮される。
ここでようやく連合軍は
「1940年のダンケルクの再現」
を悟ることとなる。
ソ連軍は重砲と近接航空支援で海岸線を圧迫し、
連合軍は英海軍による海上補給の細い線に頼る。
完全な劣勢、完全な包囲、完全な膠着――
この時点で欧州の主導権は完全にソ連に移っていた。




