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海鳴の怪旅館  作者: 月臣
第二章 海辺の古旅館
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海辺の古旅館⑥

 コンコン、コンコンコン。


 のっぺりとした静寂にノックの音が響く。

 僕と威吹はほぼ同時に目覚めた。襖の向こう、玄関の方から音がする。威吹が少し引き攣った顔で僕を見た。


「まさか幽霊じゃねぇよな?」

「どうだろうね」


 僕が真剣な表情で答えると、威吹はそっと布団を這い出て静かに襖を開けた。迷わず先兵になる彼の勇敢さに、密かに感心する。


 コンコン、コンコンコン。


 襖を開けたので音がさっきより大きく聞こえる。

 威吹が玄関のドアを勢いよく開いた。行燈の黄昏色の光に照らされた廊下が扉の向こうに現れる。

 だが、そこには誰もいない。


 威吹がスリッパをつっかけて廊下に出る。左右を見渡した後、彼はさっきよりも強張った顔で部屋に戻ってきた。


「操、誰もいなかったぜ」


 生真面目な声で呟いた威吹に、僕は堪えきれず噴き出した。


「なに笑ってんだよ」

「だって、怖い物知らずの威吹が真面目な顔で怖がっちゃってて面白いんだもん。幽霊なんていないのに」

「じゃあさっきの音はなんだよ」

「悪戯でしょ。僕達の部屋の前は従業員しか入れない衣類室だ。きっと手塚君が幽霊を演じて、衣類室に逃げ込んだのさ」

「何故そう言い切れる。いくらお前でも、幽霊が気配を消したり隠れたりしてたら見えないこともあるんだろう」

「あるよ。でも、今回は違う」


 僕は廊下に出た。廊下の温度計やカメラを確認する。

 カメラの電源が落ちていた。集音マイクには足音が記録され、温湿度データロガーの記録には急激な温度低下は見られない。


「霊が現れると急激に部屋の温度が下がることが多い。でも、ノック音がした時も廊下の観測地点は平常時と変わらない温度だ。マイクは明確な足音を拾っていて、カメラだけ電源が落ちている。やっぱり悪戯だよ、威吹」


 にっこり微笑むと、威吹が目を鋭く細めた。


「お前、最初から悪戯ってわかってたんだろ。それなのに態と神妙な顔して、俺を騙そうとしやがったな」

「面白かったんだもの」

「この最低野郎め。クソ、気分わりぃな」 


 怒った顔で威吹が布団に潜る。僕は満面の笑みで布団に戻った。今夜は楽しい夢が見られそうだ。

 このまま何事も起きずに朝を迎えるはずだった。

 だけど、闇は聡明な僕を欺いた。



 一時間ほどが過ぎた頃、威吹に肩を揺すられて僕は目を覚ました。


「なんだい、威吹。珍しく気持ちよく眠てたのに、起こさないでよ」

「波の音が騒がしいんだ」

「波の音?」


 威吹が障子を開けて広縁に移動する。

 彼は壁に身をくっつけ、窓に首だけを向けた。

 まるで窓の外の何かから隠れるような行動。冷たいものが背筋を這い上がった。


 海を臨む広い窓の向こうから、荒れた波音が聞こえる。ばしゃばしゃと、水を掻き分けるような音。闇に眼を凝らすと、うねりを上げる黒い波間を、何かが一心不乱に突き進んでくるのが見えた。

 それはこちらに近付いている。


 海藻の絡んだ長くボサボサの髪、纏わりつく白い着物、青く変色して所どころ剥がれ落ちた醜い皮膚。白い着物の女だ。


 女はホテルの壁にべたりと張り付くと、凄まじい勢いで壁をよじ登ってきた。


 ペタペタという音が暗い部屋に響く。しとどに濡れた髪を振り乱し、両手足を蜘蛛のように広げて一心不乱に壁を這う女に、嫌悪が込み上げた。

 見開いた黒い目は煮詰めた深い恨みを宿し、大きく開いた口からは今にも恐ろしい咆哮が上がりそうだ。頬はこけ、黒い染みが点在する薄汚れた白装束から出た手足はやせ細り、肌は青く腐ってどろりとしている。


 威吹が叫び声をあげ、僕を引っ張って広縁を飛び出した。勢いよく障子を閉め、僕を布団の上に放り捨て、自分は頭から布団を被る。


 傷む背中を擦りながら文句を言おうとすると、布団を被ったまま威吹が寄ってきて小さな手で僕の口を塞いだ。


 びたびた。


 濡れた両手で窓ガラスを叩く音。音は次第に激しくなる。


バンバン、バンバンッ。びたん。


 何かが広縁の床に崩れ落ちた音がした。

 闇に青白く浮かぶ障子に、床で蠢く巨大な芋虫のような影が映っている。


 起き上がった影がべたりと障子に貼り付いた。

 すっと障子が開き、闇の向こうにどろんとした目玉が浮かぶ。霊の気配が薄っすらとした。

 部屋が酷く寒い。まるで真冬の墓地にいるような、寂寥と凍える寒さだ。


 作り話のはずの幽霊の登場か。いつの時代も厄介なのは人間の心だ。美空の興奮した顔が脳裏を過り、思わず溜息が漏れる。


「消えろ」


 目玉を睨み返して凛とした声で命じると、白装束の女はふっと消えた。

 威吹が青褪めた顔をこちらに向ける。


「ありゃなんだ。幽霊話は作り話じゃなかったのか?」

「さあね」


 僕は素っ気なく答え、障子を静かに開く。窓には開いた形跡がなく、床も乾いたままだ。


「おい、除霊しなくていいのか」


 威吹が細い喉を上下させ、唾を飲み込む。緊張した面持ちの彼に微笑みかけ、僕は明るい声で告げた。


「よし、寝よう」

 唖然とする威吹を無視し、僕は布団に入った。




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