海辺の古旅館③
食堂前の廊下の片隅、ガラスケースに飾られた市松人形が陰鬱な目をしている。今のところこの子から霊の気配はしないが、仄かに不穏な気配が漂っている。
動物の勘でも働いたのか、威吹は市松人形にあまり近付こうとしない。
「どうしたの、威吹。人形は噛みつかないよ」
「わかってる。ただ、妙な話を聞いた後だと不気味に思えちまう」
「そんなこと言ってると、本当に夜中に襲ってくるかもよ」
「やめろ、怖ぇだろうが」
カーキ色のノースリーブのパーカーから剥き出しの二の腕を威吹が擦る。珍しく可愛げのある姿だ。
「笑うなよ」
「笑うでしょ。怖いもの知らずの君が怯えている姿なんて、レアだもの」
「チッ、性格の悪い野郎だ」
カメラとマイクを設置していると、階段を降りてくる小さな足音が聞こえた。
振り返ると風変わりな女性がいた。
ラベンダー色に染めて緩く巻いた長い髪にゴスロリ風の黒い長袖のワンピース。華奢な身体に大きな猫目の童顔でパッと見少女のようだが、髪にも青白い肌にも、やや疲れが見える。それに体つきは成熟した大人の女性のラインを描いていて、スクエアネックから覗く胸は豊かだ。二十代半ばだろう。
「貴方達が噂の霊能力者さん達ね?」
高く澄んだ声で尋ねられ、僕は飄々とした笑みで応じる。
「ええ。紫月操と申します。こちらのチビは助手の式見威吹です」
「若いのね。それにその服装、ただの学生に見えるわ」
猫目が胡散臭げに僕と威吹を頭からつま先まで観察する。
威吹はカーキ色のパーカーに黒いスキニーだけど、僕は七分袖のカッターシャツに灰色のベスト、黒いネクタイ、黒のスラックスのいつもの仕事服だ。ただの学生とは言い難い。
奇抜な服装の彼女から見たら、僕でも普通に見えるか。ああいう着飾ることで他の人と違うと自己主張する人間にはなりたくないな。メンヘラっぽいし、面倒そうだ。関わらないでおこう。
「仕事中ですので、用がないならお引き取りを」
「私はこういう者よ」
女性が名刺を差し出す。
霊媒師、本郷美空。うわあ、胡散臭すぎる。
スルーしようとしたが、美空が勝手に喋りだした。
「私はこの旅館の霊現象の噂を知って、除霊に来たの。ここには戦国時代の姫の霊がいるのよ」
「へえ、お姫様の霊ねえ……」
「この辺りの領主だった武将の娘の姫は、敵陣の若き武将に惚れてしまったの。二人は恋に落ち、家を捨てて一緒になろうと約束した。だけど男は姫を裏切った。巧みな話術で姫から情報を聞き出し、その情報をもとに姫の城に奇襲をかけたの。姫の陣営はなんとか領土を守りきったものの、姫は家臣に裏切者として処刑された。バラバラに体を引き裂かれて、海にうち捨てられたの」
「そのバラバラになった姫の霊が現れるのかい?」
「そうよ。そこの市松人形は姫が大事にしていたものよ」
美空が僕と威吹の背後にある市松人形を指さした。彼女は愁いを帯びた目で人形を見詰め、重々しく息を吐いた。
「ああ、恐ろしいわ。この人形には姫の怨念が宿っているのよ。裏切った男と家臣への恨みでこの世を彷徨っているの。姫の霊を怒らせないことね」
「怒らせるとどうなるのかな?」
「バラバラに引き裂かれて殺されてしまうわ」
真剣な顔でそう宣った美空に僕も威吹も絶句する。僕達が恐怖に縛られていると勘違いしたのか、美空は得意げに続けた。
「この辺りで一年ほど前から殺人事件が起きているのは御存知かしら? あれは姫の霊の仕業。姫が夜な夜な海から舞い戻り、裏切った男や、家臣の子孫を殺しているのよ」
「美空さんは霊を目撃しましたか?」
「三日前から宿泊しているけど、姿はまだ見ていないわ。でも、何度も気配を感じているの。夜中、恐ろしくも悲しげな低い唸り声を聞いたわ。おおぉぉ、おおぉぉって泣くの。それだけじゃないのよ。奇妙な水音や、壁を濡れた何かが這い上がる音も聞いたわ。ああ、本当に恐ろしい」
美空は自分を抱きしめて身を震わせると、フラフラと歩いていく。
「ああ、早く姿を見せて姫。私がきっと貴女を救ってあげる」
熱に浮かされた声で呟きながら、美空は廊下を折れ曲がって見えなくなった。
「なんだありゃ。変な女だぜ」
「まったくだね。なかなか美女だったし胸も大きかったのに、あんなメンヘラじゃ手を出す気になれない。絶対に地雷案件間違いなしだ」
「そういう問題かよ。少しは真面目に仕事しやがれ。美空って女の話、お前はどう思う? 俺はどうにも嘘くさく思えるんだが」
「その通り、あれは間違いなく作り話だ」
「根拠は?」
「市松人形は江戸時代の中期に登場したものだ。美空さんの話だと、姫は領土争いが盛んだった戦国時代のお姫様でしょ。市松人形なんて持っているわけがない。お粗末な作り話さ」
「やっぱりそうか……」
威吹は顎に手を当てて数秒考えてから、胡散臭いものを見る目で僕を見た。
「お前、旅館の幽霊騒ぎ自体すべて作り話だとか考えてねぇか? もしかしてさっきの無意味って、そういう意味か?」
ああ、本当に鋭い男だ。嫌になっちゃうよ。もうちょっと威吹が怖がっているところを見たかったのに残念だ。
僕は大きな溜息を吐いて威吹を見る。
「なんだよ、そのツラ」
「べつにぃ。ああ、つまんないなぁ。そう、君の言う通りだよ、威吹。僕はこの旅館の幽霊騒動は人為的なものだと予想している。手塚君は体験談を話していた時、怖がる素振りをまったく見せなかった。むしろ客が増えているって喜んでたし。あれは怪奇現象を目の当たりにした人間の反応じゃないね」
「相変わらず人の感情に聡い奴だな。お前に嘘は通用しなさそうだ」
「それはそうさ。心霊調査員は心理学者であり戦術家だ。相手の心を見透かし、罠を張って上手に嘘を見破ることが必要なのさ」
「新手の詐欺師みてぇだな」
「え~、なにそれ。失礼しちゃうなあ」
「妥当な評価だろ。で、幽霊騒動が嘘なのに、なんで機材を設置しているんだ? 糾弾して終いってわけにはいかねぇのか」
「念のためさ。幽霊騒動は嘘だとしても、なんとなく嫌な気配を感じる。それに、旅館の怪現象の解明だけじゃなく、近隣で連続して起きているバラバラ殺人事件についても調べて来いってお達しだ。まだここを去るわけには行かないから、調査中のふりをしていないと、宿無しになるでしょ」
「おい、バラバラ殺人なんて聞いてねぇぞ」
「だって、言ってないもん」
「さっきの女も一年前から殺人事件がどうとか言ってたが、まさかそれを調べんのか?」
「その通り」
「そういう大事なことは最初に言えよ」
「君に逃げられると嫌だから言わなかった」
「逃げねぇよ。にしても、バラバラ殺人か。えらく物騒だな。お前の親父、お前一人にそんな捜査をさせるなんて何考えてんだ」
「さあね、僕を殺したいんじゃない?」
威吹がぎょっとした顔をする。
僕は威吹に静かに笑いかけると、背を向けて歩きだす。
威吹の視線が背中に纏わりつく。案ずるような視線。他の誰かにそんな同情めいた目を向けられたら吐き気を催すけど、威吹だと不思議と嫌じゃない。彼が根っからの善人だとわかっているからかもしれない。
僕を気にしつつも、踏み込まれたくないという僕の内心を正しく理解し、威吹は黙っていた。そういう察しのいい奴だから、一緒に居ても楽に息ができる。
渡り廊下を通り、大浴場の前にやってきた。
マイクとカメラを設置していると、ガヤガヤと賑やかな声が聞こえてくる。
「あっ、見て見てぇ、マジでなんかやってるぅ」
「ヤベー、あれが霊能力者っ?」
きゃぴきゃぴした女の声に、軽薄そうな男の声。僕と威吹が振り返ると、黄色い悲鳴があがった。
「すごっ、イケメンコンビ! 芸能人?」
「ホントだぁ。背が高い人モデルみたいに足長いし、ハニーフェイスでめちゃくちゃすてきぃ。小さい人も顔キレイでアイドルみたぁい」
作業をやめて、男女二人ずつの四人組に近付く。
男は嫌な顔、女は嬉しそうな顔をした。よくある反応だ。威吹と違って僕は男に嫌われる。僕は女性にだけ目を向ける。
「やあ、こんにちは」
「やだぁ声もセクシーだぁ。こんにちは」
「君達はどういった集まりなんだい?」
「ワタシたち大学のミステリーサークルでぇす。幽霊旅館を見に来ましたぁ」
「今日と明日宿泊予定なのよ」
「ここに幽霊が出るって話は有名なのかい?」
「けっこう有名だよぉ。ユーチューブで幽霊が出る旅館についてまとめた動画があるんだけど、その動画で紹介されてたの」
「それだけじゃなくって、男に裏切られて家臣に切られて死んだ姫の幽霊が現れるって話もあるのよね」
黙々と作業をしていた威吹が近付いてきて、女子大生に問う。
「その話、どこで知ったんだ?」
「ネット。怖い話を集めた掲示板に載ってたのよ」
「そうか。悪かったな、時間を取っちまって。行ってくれ」
つれない威吹の態度に、女子大生達は残念そうな顔で女湯に消えた。
けっこう可愛い子達だったのに、早々に会話を終了するなんてもったいない。
機材の設置が終わると波蝕の間に戻り、スマホで女子大生達が言っていた動画やサイトを確認した。どちらも投稿日は今年の五月と新しい。いろんなワードを入れて検索してみたが、結局、手塚や美空から聞いた以上の情報はなかった。