海辺の古旅館①
威吹の不法侵入事件から数日後、七月二十日土曜日。僕達が通う高校は夏休みに突入した。午前十一時四十分に三鷹台駅に集合した僕と威吹は、今は東京駅を午後一時発車のわかしお九号に乗車している。
窓の外を流れる景色がビルだらけの都会から、緑や一軒家の多い長閑なものにかわっていく。
下車する上総興津駅に着くのは二時半過ぎだ。
「なんで夏休み早々、お前と二人で旅行なんだよ」
ブスくれた顔で威吹がぼやく。
それは僕の台詞だ。と言いたいところだけど、一人で重たい仕事道具を運ばずに済んだのは正直助かる。威吹は僕よりも十九センチもチビだけど、細いながら筋肉質で僕よりずっと力が強い。喧嘩も滅法強いので、対人間の用心棒としては心強い。
それに彼には霊力があって霊感体質だ。霊力を自在に操ることはできないだろうから除霊では役立たずだけど、センサーの一つとしてくらいは役に立つだろう。まあ、一ミリも期待はしてないけど。
いくつも建ち並ぶ住宅が途切れ、窓の外に海が見えた。海なんて仕事以外では行かない。久しぶりに見た。
視界は良好で、海と空の境界線が拝める。晴れた空は上空に近付くにつれて蒼さを増し、海は下方に向かって碧が淡くなってエメラルドがかっている。海面が陽光を弾いて煌めき、美しく健全な光景だ。
けれど、水辺には人間も幽霊も多く、今からうんざりだ。人込みは嫌いだし、海辺を彷徨う霊はグロテスクな見た目が多い。
窓側の僕のほうに身を乗り出して「綺麗な海だな」と、はしゃいでいる威吹が羨ましい。
「あ~あ、帰りたいな」
「まだ着いてもねぇのに、帰りたいってか? ハッ、俺だって帰りてぇわ」
なにが『帰りてぇわ』だか。さっきまで子供みたいに目を輝かせていた癖に。
「だって面倒じゃないか。怪奇現象てんこ盛りの幽霊旅館の騒動の解決なんて、どう考えても厄介ごとだもの」
幽霊騒動は人間や動物の仕業でしたとか、ただの思い込みでしたというケースが珍しくない。
依頼者は政治家の吉良征一郎で、父のお得意様だ。吉良は「儂の友人の女将が困っている、助けてやってくれ」と父を頼った。この事情を鑑みると、外れクジの可能性が高い。要するに怪異じゃないとわかっているが何もせずに断るのが不可能な相手なので、息子に仕事を押し付けたというわけだ。
だが、それならそれでまだマシだ。最悪なのは怪異の仕業だけど、幽霊ではなく妖怪が原因だった場合だ。
後者の可能性を考えると自然と眉間に皺が寄り、大きな溜息が零れる。冷血な父の魂胆が透けて見えるようだ。
なにせ、旅館を脅かす怪現象の解明だけならまだしも、ついでに近隣で起きている連続バラバラ殺人事件についても怪異が関わっていないか確認してきてくれとの、大雑把なおまけつきだ。
この物騒なおまけが僕にとって凶事になる気がしてならない。
「そんなに嫌なら断れよ。身内から回ってきた依頼なら、まだ断りやすいだろうが」
「逆だよ、威吹。身内の依頼が一番厄介なのさ。父様は非常に面倒な御仁でね。断るなんて選択肢はない」
「意外と苦労してんだな、お前」
茶化して言ったつもりだが、本音が透けていたらしい。威吹が真剣な顔で眉根を寄せた。彼はとても勘が鋭く、人の感情の機微に敏感だ。
これじゃあまるで僕が同情されたがっているみたいじゃないか。
同情など御免だ。意図的に飄々と笑む。
「苦労なんてしてないよ、僕は天才だからね。解決できなかった事件はない」
「そりゃ結構なこった。その天才様がなんで脅してまで素人に仕事を手伝わせるんだよ。俺は見えちまう性質だが、幽霊退治なんてしたことねぇぞ」
「安心しなよ、威吹。君に除霊の手伝いなんて期待してないさ。君はただの荷物持ち兼対人間用の用心棒だから。まあ、下僕ってとこだね」
「……露骨すぎて腹も立たねぇわ」
「ふふ、せいぜい働きたまえよ」
喋っている間に下車駅の上総興津に着いた。
宿泊用の荷物と仕事着だけを持ち、怪異究明用の機材をぜんぶ威吹に持たせて、さっき電車で来た道を戻るように、海沿いの道を東に向かって歩く。目的地のまさき旅館は海岸沿いにポツンと建っており、上総興津駅から徒歩二十分ほどだ。
日差しは一向に衰えず、気温は三十度を越えている。残念ながら斜陽の旅館なので人手が少なく、車での迎えはない。一人ならば早々にタクシーを捕まえていただろうが、威吹がいるので歩くことにした。
でも、失敗だったかもしれない。暑すぎて着く前にばてそうだ。
灼熱地獄の中、重たい機材を沢山持たされているというのに、威吹の足取りは堂々として軽やかだ。見た目は美しく繊細でしなやかな猫科の動物でも、やっぱり彼の中身は体力馬鹿のゴリラだ。
僕の恨みがましい視線など気にせず、威吹は海を眺めながら上機嫌に歩いている。
「真っ青な海だな。泳ぎてぇ」
「こんなに暑いのにお子様は元気で羨ましいよ」
「お前だってまだガキだろうが、ちったぁ元気のあるところ見せろよ」
「無理。僕は暑いのは苦手なんだ」
「どうせ冬は冬で寒くて動きたくないって言うんだろ。ようは年中ぐうたらしてんじゃねぇか。ったく、情けない男だぜ」
「威吹が元気すぎるんだよ」
湿った風に乗ってふわりと漂う潮の匂い、寄せては返す波の音、横を向けば一面に広がる青い海。素晴らしいロケーションに心が洗われるけど、暑いものは暑い。
囚人のように首を垂らし、ダラダラと歩いた。
漁港を越えて海のすぐ傍に森が生い茂る景色が見えてきた。海を抱え、森を背負うように一軒の旅館が静かに佇んでいる。
薄茶色の壁に飴色の木柱の落ち着きがある二階建ての旅館。レトロな雰囲気は悪くないが古臭く、いかにも何か出そうだ。
格子戸を開いて中に入ると、上がり框に立つ着物の女性が一礼した。
「いらっしゃいませ、まさき旅館の女将でございます。お荷物をお持ち致します」
「ああ、お構いなく。僕達は客じゃありませんから。僕は怪異研究所の紫月操です。そして、こちらは助手のおチビちゃんです」
「ふざけんな、誰がおチビちゃんだ。俺には式見威吹っていう立派な名前があるんだよ」
「怒らないでよ、威吹。君がチビなのは誰から見ても揺るがない事実じゃないか。名前より覚えやすいよ」
「黙ってろ、この人格破綻者」
いつも通り喧嘩をする僕と威吹に、女将が目をパチクリさせた。
清純な顔立ちながら、黒目がちな垂れ目と右目の泣き黒子が色っぽく、憐れで儚げな魅力がある女性だ。一房の藤の簪、淡い灰青の草花柄の白い着物に金の流水紋の縹色の帯を締めた、気品のある装いが良く似合う。
「美しい女将さん、貴女のお名前は?」
「ご紹介が遅れました、私は正木清乃と申します」
「お幾つですか?」
「今年の誕生日で四十一でございます」
「とてもそんな年齢には見えません。誕生日は?」
「え、あの、十一月三日でございます」
「ご結婚は?」
「……独身です。お恥ずかしながら、御縁がなくて」
「美人なのに。でもラッキーです。好きな男性のタイプは……いたっ」
僕の質問を遮るように威吹が僕の足に軽く蹴りを入れた。
脛を擦りながら、横目でじろりと威吹を見る。
「何するんだい、威吹。痛いじゃないか」
「ナンパしてんじゃねぇよ、さっさと本題に入れ。こっちは重い荷物持たされてんだよ」
「まあ、失礼いたしました。どうぞ、応接にご案内致します」
「別にあんたに怒ったわけじゃない。まあ、邪魔するぜ」
威吹は靴を脱ぐと、きちんと揃え直した。見た目は粗暴そうなのに几帳面な彼らしい。どうせあとで旅館の従業員が片付けるのに。
僕が脱ぎ散らかした靴をさりげなく揃え、女将が歩きだす。
女将について歩きながら、僕はぐるりと辺りを見渡した。
梁がむき出しの天井、ロビーの正面の木の階段、ロビーの横のアンティーク風の飴色の木の椅子とテーブが並んだ小さなラウンジスペース。小規模な個人運営の旅館にしては凝った内装だ。
だけど、どことなく野暮ったく陰気臭い。夏休みの繁盛期だというのに、午後三時のチェックイン開始
数分前に、上がり框に並んだ客用スリッパは僕達が履いた分を抜いて八足。なんとも微妙だ。
フロントを右に曲がってすぐの事務室に入り、奥の小部屋に案内された。
壁には日本画が掛けられ、ふかふかのソファと机が中央に置いてあるが、小説や実用書が並んだ本棚もある。来客対応の応接室を兼ねた女将の休息室といったところか。
ソファに腰を下ろす。ふかふかして沈み込むような感触だ、悪くない。
脱力した僕を威吹が冷たい目で見降ろした。
「勝手に座んじゃねぇよ。ガキでももうちょっと行儀いいぜ」
「いいじゃないか。遠慮せずに威吹も座りなよ」
「馬鹿、ここはお前の実家かよ」
清乃が小さく笑う。
「お二方は仲が良いのですね。ご友人ですか?」
「ええ、僕と威吹はトムジェリのようにとっても仲良しです」
「誰と誰がとっても仲良しだ」
「ふふ、恥ずかしがっちゃって。因果な能力者同士仲良くしようじゃないか」
「俺は普通の人間だ」
さっきまでの元気な怒りを消し、威吹が冷たい声で呟く。
威吹は愛想よく笑う僕を一瞥すると、威圧的な目で清乃を見た。
「清乃さん、話を始めてくれ」
「あ、私だけですと心許ないので、詳しい従業員を呼んで参ります」
清乃が内線電話をかけると、藍色の甚平姿の若い男が入ってきた。
ワックスで立てたベリーショートの黒髪に目鼻立ちの濃い顔立ち。清潔感がありつつもワイルドさがあってそれなりに男前だ。背は僕と同じくらいだけど体格がかなりいい。
「従業員の手塚拓也君です。拓也君、こちらは心霊業者の紫月操さんと式見威吹さんよ。この旅館での怪現象について話してあげてくれないかしら」
「業者ってことは客じゃないってことっすね。そんじゃ、くだけてもいいよな。つうか、二人とも若くね? オレ、霊能力者見んのはじめてだわ」
なに、このアホっぽい男。ウザすぎるんだけど。
思わず顔に出すと、威吹に肘で脇腹をつつかれた。
おっかない顔しちゃって。わかっているさ、同じ土俵にあがったりしない。僕はごく自然に慇懃な笑みを浮かべる。
「早速ですが本題に入りましょう。知っていることを話してください」
「オレが最初に異変を感じたのは三カ月前。客から入浴中に大浴場の電気が消えたって苦情を受けたんだよ。蛍光灯を変えたけど、違う客から同じ苦情が入ってさー」
「それはただの電気の故障では?」
僕が突っ込むと、手塚はムッとした。
「違うっつーの。業者に見てもらったけど、悪いトコはねーってよ」
「では、電気の不調が始まりだったということですね」
「そういうこと。そんでオレ、入浴時間終了の夜十一時に、試しに大浴場で風呂に入ってみたんっすわ。そしたらマジで電気が消えてよ。真っ暗な中ぴちゃんぴちゃんって音が聞こえんの。いるのはオレだけで、蛇口はどこも閉じてんのによ」
「水道の故障では?」
「さっきから故障故障ってウゼーな。呻き声まですんだよ。あ~とかう~とか。それは故障じゃねえだろ」
空耳か聞き間違いだ。そう思ったけど、話が進まないので黙っていた。
「気味ワリーなって思ってたら、パッと電気が点いたんだよ。そしたらよー、いたんだよなあ」
焦らすように手塚が一旦言葉を切る。
僕の隣に深く腰掛けていた威吹が少し緊張した面持ちで、身を乗り出す。
「何がいたんだ?」
「びしょ濡れの長い髪の女の霊。許さない、許さない、許さない。くらーい声で、そう呟いていたんだわ」
馬鹿馬鹿しい、安っぽい怪談話じゃないか。
軽薄なわりには真に迫る語り口だが、手塚の目には真実味が足りない。本当に幽霊を見たとは思えない。
「話はそれだけ?」
敬語をやめて問い返すと、手塚は口元を歪ませた。
「それだけじゃねーよ。ウチの旅館の食堂付近の廊下のすみ、市松人形が置いてあんだけど、そいつが妙なんだ」
「妙とは?」
「たまに首が反対向いてたり、口に血がついてたり、手足がもげてたりすんだわ。オレだけじゃなく、客も何人か目撃してんぜ」
これもよくある怪談だ。僕は清乃に目を向ける。
「清乃さんは何か怪異に遭遇したことは?」
「え、ええ。ときどき奇妙な水音を聞くんです。海から何かが近付いてくるような波を掻き分ける音、水分を含んだ何か重たいものが壁を這いずるような音です」
「音ですか。他には?」
「私は見ていませんが、以前にご宿泊なさったお客様の一人が、幽霊を目撃したそうです。夜中窓から外を見たら、青褪めた顔の女が恐ろしい形相で長い髪を振り乱して壁をよじ登っていて、すごく怖かったとのことです」
それは想像するとなかなか恐ろしい。優美であるべき女性が必死の形相で蜘蛛のように壁を這い上がる姿を思い浮かべると、ゾッとする。
この前二股がバレた時、般若顔で掴みかかってきた優子ちゃんが頭に浮かんだ。
名前の通り優しくおっとりした美少女だったから告白を受け入れたのに、あれは詐欺だ。幽霊より人間のほうがよっぽど怖い。特に嫉妬に狂った女性は危険だ。
「他にも怪談話はありますか?」
僕が尋ねると、手塚がまた口を開く。どうせなら美しい清乃の声で聞きたいのだが。
「客からの苦情っすけど、部屋の障子に化け物の影が映ったとか、夜中に部屋をノックされてドアを開けたら誰もいなかったとか。あとは雨も降ってねーのに廊下がびっしょり濡れてたこともあったぜ」
威吹の横顔が引き攣っていた。今まで見たことがない表情だ。
もしかして、怖がっているのだろうか。散々幽霊を見ている上に、幽霊の世話まで焼いていたくせに。
思わずクスリと笑うと、ぱっちりした目を細めて睨まれた。普通の人ならビビるのだろうが、僕にとっては子猫の威嚇でしかない。このいきがいい表情、堪らない。愉しくなってくる。
話が途切れると、清乃がすっと立ち上がった。
「そろそろ他のお客様がいらっしゃいます。本日から三日間は業者さんが怪奇現象究明にいらっしゃると、事前にホームページ上で説明し、了承頂いたお客様だけご宿泊いただいております。従業員も全面的に協力致しますので」
「夏休みのかき入れ時に申し訳ありません」
「お気になさらず。お恥ずかしながら数年前から客足が少なくて、夏休みでも予約は埋まりませんので」
「幽霊騒ぎなどがあっては、余計に客足が遠のいてしまうでしょう。僕と威吹が一刻も早く解決しますので、ご安心を」
優しく微笑みかけると、清乃は小さな声で礼を言った。頬を朱に染めて目を伏せる様が可愛らしい。処女じゃないだろうに初心な人だ。艶めかしい容姿に反して男慣れしていない。こういうギャップ、権力と金がある爛れたエロ親父が好きそうだな。
美人女将がいる旅館で過ごす夏休みも悪くない。にやつく僕を、威吹が呆れ顔で見ている。それだけじゃない。手塚があからさまにムッとした顔でこちらを睨んでいた。
あの程度のルックスで絶世の美男の僕に敵意を持つなど、随分と身の程知らずじゃないか。
嘲笑を漏らすと、手塚はさらに顔を歪めた。
「ご心配なく、霊能者さん。幽霊が出るって噂が広がってから、ウチの旅館ちょっと話題になって知名度上がったんっすわ。幽霊が目的の連中が宿泊したり、そういうヤツらがウチのよさを知ってリピーターになったりで、客増えてんっすよ」
鼻の穴を膨らませる手塚を鼻で笑う。
「おやおや、それじゃあ僕達が怪異を解明したら困るのでは?」
言葉に詰まった手塚が僕を睨んだ。
僕を言い負かすだけの気の利いた返答を思いつかなかったのだろう。頭脳が貧困な人間は哀れだ。
「と、ともかく。インチキ業者じゃねーってんなら、ちゃんと幽霊を退治してくれよな。行きましょうよ、女将」
「ええ。お二方のお部屋は二階の二人部屋、波蝕の間を用意いたしました。唯一のスイートルーム金波の間のお客様を除いては、ご夕食は食堂で六時に一斉に開始となりますので、遅れぬようお越しください。お食事の間にお部屋にお布団を敷きに上がりますが、鍵はお掛けになって結構です。ご用命がございましたら、いつでもお声かけ下さいませ」
清乃は静々と頭を下げると、手塚に腕を引かれて応接室を後にした。