四人法
「四人法」
「いらっしゃい!」
ある店からガラガラと扉が開いた。
「あっ、お疲れ」
「うぃす」
「お疲れ」
この三人とこの飲食店の店員はどんな関係性だと思いますか?
①大学の先輩・後輩
②趣味が同じ。
③カップル同士
正解は――どれも当てはまりません。
じゃあ、一体どんな関係だと思うだろうか。
「ここって美味しいよね、本当」
公務員の潤子。
「いや……ここの中華丼は絶品だしね」
塾講師の拓。
「…うん」
高校生の暖。
「そんな美味しいなら大盛りいきますか?」
ここの中華店に勤めるさやか。
「いやいや……」
三人同時に左右に手を振って、声を合わせた。
この中華店ではサラーリマン二人組や主婦だろうか中年女性が大きい口を開けて笑って、頷いていた。
「分かってますよ。はい、いつも通りで注文します」
さやかは中華店の店長に「中華丼三つお願いします」と大きい声を出す。
「はいよ! お待ち!」
店長は白い歯を見せて、親指を立て、元気よく答えていた。
ここの中華店は人気店だ。
有名な食レポのユーザーや芸能人からも愛させる中華料理屋。
店内の中には芸能人のサインやテレビ番組が来たであろうステッカーが貼られていた。
テーブル席に三人は向かい合って、話をしていた。
水をひたすら飲む拓・携帯を弄っている暖・メニュー表を見ている潤子。
みんなそれぞれ、中華丼を待っている。
「…さやか。終わるの何時?」
潤子が頬杖をつき、メニュー表を見るのをやめ、仕事中のさやかを呼び止めた。
「うん、二三時には上がる」
「オッケー。もうすぐ終わるね」
潤子は親指と人差し指で丸を作り、再びメニュー表を見始める。
三人とも中華丼を待っていると、「お待たせしました。中華丼でございます」と男性店員が運んできた。
「いつも、さやかがお世話になってます」
潤子は丁寧に座ったまま、礼をしてゆったりとした口調で男性店員に言う。
「いえいえ、こちらこそお世話になっております。いつもご利用ありがとうございます。本当に仲いいですね」
男性店員は中華丼をテーブルに置き、頬にえくぼを浮かべた笑顔で応えた。
愛想笑いではなさそうだ。
本当に笑っている。
三人は目を合わせ、「いえいえ」と笑って答えた。
「おっ、美味しそう」
「よし、食べようか」
「うん」
潤子・拓・暖は引き出しからスプーンを取りだして、「いただきます」と言い、黙々と食べ始めた。
「やっぱ、美味しいわ」
拓は「くぅ」と上を見上げ、顔を崩して、美味しそうにする。
「うん。美味しい」
暖も頬を緩め、目を細めていた。
「はぁ、生き返るわ」
潤子も天井を見上げて、ため息をついた。
何も声を発さずに三人は黙々と、どんぶりをスプーンですくっては口に運んでいた。
一心不乱――まさにそんな様子だった。
食べ終わると、テーブルにはすでに伝票が置かれていた。
拓がそれを手に取り、小さい鞄から財布を取り出す。
「僕払うから」
そう言って、拓は自分以外の分もまとめて支払うことにした。
潤子と暖はそれを見て、身支度を整えると、先に外へ出ていった。
「さやか。ちゃんと仕事しろよ」
近くにいたさやかに拓は声をかける。
拓が支払い済ませ、財布を鞄にしまうと、軽く握りこぶしを作った。
さやかは同じように握りこぶしを作り、それを拓の拳に重ね合わせる。
「おぅ」
さやかはニコリと笑って、そう言った。
周囲の客はにぎやかで、酔っぱらった中年男性たちがガハガハと豪快に笑っていた。
別のテーブルではマッチングアプリで初めて会ったのだろう男女が、どこかぎこちない様子で話していた。
「……さやかちゃん。ファイト」
「静かな応援、ありがとう。暖」
「別にぃ」
外から店内に戻ってきた暖は自動販売機で買った小さめの紅茶のペットボトルを両手で持ち、モゴモゴと何かを言いながらどこか恥ずかしそうにしていた。
「フフフ。じゃあ、仕事戻るね」
さやかは笑って手を振ると、そのまま仕事へと戻っていった。
三人はそれぞれ手を振りながら、さやかの背中を見送った。
この四人の関係性は言葉にするのが難しい。
だけど、一つだけははっきり言える。
――人として、尊敬している。
関わる中で嫌な部分が見えてくることもある。
けれど、それすらも受け入れられる。
この四人だからこそ、成立しているのだ。
誰も欠けてはダメなのだ。
きちんと四人が揃っているからこそ、今がある。
さやかの仕事が終わると、三人はお店の前にある自販機の前で待っていてくれた。
「お待たせしました! さやか帰還しました!」
「はい。さやか殿、ご帰還お待ちしておりました」
ピシッと敬礼しながら、拓は四五度の角度で丁寧に頭を下げた。
「相変わらず、拓さんはノリがいいですね」
「さやかもね」
「はいはい、二人とも。お家に帰りますよ」
潤子が拓とさやかのやりとりを見て、お互いの両肩をポンと掴んできた。
「潤子さん。やめなよ、絡むの。酔ってますよね?」
「酔ってません!」
潤子はいつものクールな表情とは違って笑顔を浮かべ、中華店で買った餃子の袋を手にしていた。
「…酔ってますから! 行きますよ、潤子さん」
暖は苦笑しながら潤子を右手で潤子を支えて歩き出した。
その様子を見て、さやかと拓は顔を見合わせて笑った。
―――私達は一緒に住んでいる。
拓さんが持っている一軒家に、四人で暮らしているのだ。
どうして四人がここに住むようになったかというと……
それは三年前に遡る。
「おい、お前! なんで女といるんだよ。俺だけじゃなかったのか!」
―――さやかには彼氏がいた。
私より三つ年上の職場の先輩。
二十五歳のさやかはその彼氏のことが本当に好きだった。
その気持ちは間違えなく本物だ。
だけど、ただ友達である女性と一緒にいるだけで疑われてしまうなんて。
「あの子は私の友達。今はあんたと恋愛関係にあるの。これでも信じられないの!」
さやかは彼氏が自分を信じてくれないことにショックを受けていた。
「お前がバイってことは付き合う前から聞いてた。俺を愛してくれてる。それだけでよかった。でも……誰かと仲良くしているだけで俺、気が気じゃなくなった。さやかは楽しかっただろ?」
彼氏は大きな口を開け、さやかの鼻に唾が飛ぶほどの勢いで叫んでいた。
人前だというのに、こんなにも乱暴に人を侮辱するなんて――
私は、なんでこんな人と付き合ったんだっけ。
彼氏が一方的に罵声を浴びせてくる中で、さやかは全く別のことを考えていた。
――はぁ、どうしよう。
何を言っても、きっと聞く気なんてないんだ。
彼氏はさやかの言葉よりも自分が正しいことを証明しようとするばかりだった。
さやかは眉をひそめ、そんな彼氏に両肩を強くつかまれる。
「離して! ちょっと…」
さやかは彼氏の片腕をつかみ、強く振りほどうこととした。
喫茶店の入り口で口論していたため、道を歩く人たちがちらりとこちらを見る。
けれど、誰ともかかわろうとはしない。
みんな速足で通り過ぎていった。
――怖い。結局みんな、他人だ。
他人よりも自分の身が大事。
きっと心の中では「関わったら面倒」とか「後始末が大変」って思っているのだろうな。
「離してよ!」
さやかが大きな声で叫んだ瞬間、その声とに重なるように、誰かが彼氏の手首を掴んだ。
「……あの…何してるんですか。嫌がってますよね。それ、見えませんか」
彼氏の腕を掴んだその人にさやかは目を向けた。
その人は、休日だというのに仕事だったのだろうか。
スーツに青いネクタイ。
黒く短い髪、整えられた眉、丸い眼鏡――
鋭い目つきは、威圧感すらある。
「はぁ? 嫌がってなんかないだろ。こいつが俺に不愉快な態度を取るからだよ。お前には関係ないだろう」
彼氏はさやかの肩から手を離し、目の前の男に詰め寄った。
「……あなた、本当に自分本位なんですね。この子はあなたを操る道具でも、所要物でもない。彼女ははまっすぐに想いを伝えているのに、あなたは自分しか見てない」
その男は、静かに、それでも強い意志を込めて言葉を投げた。
「…っ、めんどくせ。勝手にしろよ。じゃあな、さやか」
彼氏は舌打ちをして踵を返し、その場を去った。
呆然としたまま、さやかは彼氏の後ろ姿をただ見つめていた。
「…あの、大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です。ありがとうございます。えーと、お名前は……何かお礼をしたいのですが…」
さやかは後ろを振り返り、助けてくれた男性に声をかけた。
「いえ、名前を名乗る義理もありません。無事で何よりです。お礼も必要ありませんよ。じゃあ、僕はここで」
その男性はにこりともせず、お礼を言って名前を告げずに背を向けた。
「…いや……ちょっと…待ってください」
さやかが慌てて呼びかけたが、男性は振り返ることなく人ごみに紛れていってしまった。
結局、彼が誰なのかもわからないまま――
時間だけが過ぎていった。
助けてくれたことも心の片隅で薄れかけていた、そんなある春の日。
花粉症がひどくて、鼻がムズムズしっぱなし。くしゃみも止まらなかった。
「はぁっくしょん」
「風邪?」
女友達とカフェでお茶をして帰る途中だった。
「ああ……花粉症。この時期、ひどくなるんだよ。あああ」
鼻がむずがゆくて、喉の粘膜もイガイガしてつらい。
「花粉症かぁ。この時期はつらいよね。あ、私こっちに用事あるから」
友達は軽く手を挙げると、さやかとは反対方向に歩いて行った。
六月になると、疲れや免疫力が弱くなってきて、何もかも嫌になる時期だ。
新体制の職場でようやく慣れてきて、人間関係も嫌にはもうウンザリしていた。
ガタガターー
ドタドタドターー
ガシャン、ドタッ。
なにか物音がした。
音のした所を見ると、すぐ近くというよりも、もう少し離れた場所からのようだ。
数歩歩くと、路地があり、猫がニャーニャーと鳴いている。
その声を辿っていくと、そこにはひとりの男の子がいた。
「どうしたの?」
「………っ……ううう」
男の子はうなされていて、俯いていた。
泣いているのか喚いているのか―――
顔が見えず、表情は分からない。
「まぁ、聞いたって答えられないか。これ、置いていくから。食べて、寝て、休んでね」
さやかは鞄にたまたまあった先ほど買った豆腐バーとチョコ一袋、それにペットボトルの水を男の子の傍に置き、その場を後にした。
――数日後
さやかの元に誰かから電話がかかってきた。
「はい」
「あの…さやかさんのお電話で、間違いないでしょうか」
小さな声でボソボソと呟くように話す声。
聞き取りづらくて、さやかは聞き返した。
「すいません。聞こえづらくて、もう一度お願いします」
「えーと。この前、助けてくださった方ですよね」
「え? 助ける?」
「覚えてませんか? 下を向いていた僕にチョコと豆腐バーと水を置いていきましたよね。数日前のことです」
さやかは記憶を辿る。
――そうだ、あの路地裏で会った子だ。
「ああ、はい。でも、どうして私の電話番号が?」
「あ、そうですよね。えっと……その時、いろいろ置いていったくれた袋の中に電話帳が入っていたんです。そこに名前が書かれていてページをめくらせてもらって、電話をかけた次第です。失礼だと思うんですけど……」
「いえ、そうでしたか。それで……私になにかご用ですか?」
電話越しから聞こえてくる学生らしき若い声がだった。
「…あ、今どこですか?」
「え? なんで」
「なにか話したいことがあれば、直接話した方が早いかなと思いまして」
さやかは電話越しから聞こえてくる男の子の声に問いかける。
「あ……そうですね。できれば、そうして頂いた方が助かりますが……今からでも大丈夫ですか? ご都合とかは……?」
男の子はさやかの様子を伺うように、少し声を落として聞いてきた。
「あっ、大丈夫ですよ。私今上野の方にいるんですけど……そちらはどこにいますか?」
電話で話しながら、止めていた足を一歩踏み出して駅の方へ進んでいた。
「……え? 俺も今上野にいるんですよ。どのあたりですか?」
「へぇ? そうなの?」
さやかは驚いたように目を丸くし、再び足を止めた。
「……私は上野駅に向かっている最中で」
今いる場所を聞かれても、どう伝えたらいいか分からず、言葉に詰まる。
だが、男の子は詳しく聞こうともせず、「あ、そうですか」とだけ言い、数秒黙った。
「……でしたら、上野駅で待ち合わせしませんか?」
男の子は少し戸惑いながらも、待ち合わせを提案してきた。
「あ、はい。じゃあ、上野駅で」
そう言って、電話は切れた。
冷静に考えれば、彼と会ったのは一度きり。しかも、顔もはっきり見ていない。
初対面ではないけれど、誰が現れるのか分からない相手に会っても大丈夫なのか――不安がないわけではない。
でも、「怖い」という気持ちよりも「ちゃんと生きているかを知りたい」という想いの方が勝っていた。
十五分後、さやかは上野に着いた。
「…どこにいるのだろう。また、電話かかってくるかな……」
上野駅の改札口付近にさやかは立っていた。
周囲を見渡していると、携帯を弄りながらキョロキョロしている男の子が一人いた。
「……うーん、あれかな」
首を傾げたあと、さやかは先ほど電話番号にかけ直した。
「あの……もしかして、上野駅着きました?」
ヒソヒソ声で電話の相手に尋ねる。
「……っあ、はい」
さやかは電話を耳にあてる。
「はい。着きました。どこにいますか?」
「あの……もしかして、柱のところに寄りかかってる方ですか?」
携帯を耳から外し、目の前の男の子を見ると、彼が頷いた。
「あっ……初めてじゃないですね。今日は会って下さり、ありがとうございます」
あの時は顔を下に向いていたので、顔立ちは分からなかった。
さやかは落ち着いた雰囲気に少し戸惑いながらも改めて彼を見つめた。
見た瞬間、さやかは呆気にとられた。
(この子、こんな顔してたんだ……)
短髪で丸くて黒い目。
今風の韓国ヘアで右耳にはピアス。
さやかは思っていた印象と違う見た目に少し驚いた。
「…あっ…自己紹介遅れました。暖です。この前は本当に助かりました。少しですが、これ……」
暖と名乗る男の子は片手に持っていた袋をさやかに差し出した。
「え? いや、お礼とかいいです。私そういうつもりで助けたわけじゃないし……苦しそうだったから」
さやかは少し俯いてから顔を上げ、微笑んだ。
……その笑顔を見た暖は何故か固まっていた。
「……っ…あなたって見ず知らずの他人にもそんなふうに思いやれる方なんですね」
暖はさやかにそっと近づき、彼女の手に自分の手を重ねた。
「あ、いや…はぁ」
(なんで、手を重ねるの……?)
暖はまばたきをせずに彼女を見つめているだけだった。
「え? なにしてんの?」
その時、誰かが暖とさやかの間に割って入ってきた。
その顔を見て、さやかは息を呑む。
「…え? 助けてくれた……」
目を疑った。
そこにいたのは、以前、彼氏との口論を止めてくれたあの男性だった。
「…あっ…この前は…」
さやかが言いかけると、男性は暖の方に目を向けた。
「暖。なんでこの方と?」
「…この前助けてくれた人だよ。今日話したじゃん」
暖はタメ口でその男性に話しかけていた。どうやら、二人は知り合いのようだ。
仲がよさそうな様子にさやかは驚く。
「ああ……だから、心配だったんだよ。でも、俺が知っている人で安心してるよ」
男性は安堵した様子で胸を撫でおろしていた。
「大丈夫って言ったじゃん」
さやかの存在を気に留めず、暖と男性は笑顔を浮かべて話している様子を見て、通りかかる人たちは駅前の改札口で男性二人が話しているのを見る人は親子かあるいは親戚かなと思いながら、通り過ぎていく。
「…あの、話の途中で申し訳ないんですけど。二人は一体どういうご関係なんですか?」
さやかは交互に暖男性を見ながら、そう問いかけた。
「俺は塾講師している拓といいます。暖はその生徒なんです。心配だったので様子見にきたら……まさか、あなたと再会するとは思いませんでした」
拓さんは暖の頭を軽く撫でながら、二人の関係を説明してくれた。
さやかは「なるほど」と首を縦に振り、納得する「…はいはい……そこの二人だけで話しないでよ。じゃあ、三人でこのあと喫茶店で飲みに行こうよ」
暖は拓さんの右腕に軽く手をかけると、さやかにまだ持っていた袋を再度差し出した。
さやかは、「うん」と頷き、少し困ったようにしながらも袋を受け取った。
そこから、三人は近くの喫茶店へと足を運び、話し込んだ。
三人で交わしたその会話は、他の誰かに話すことはないだろう――そう思っていた。
だが、後にさやかは「話せる相手がいる」ということに気付くのだった。
暖はさやかと会う前に知らない間に誰を助けていた。
「……はぁ、だるっ」
暖は学校や塾にも行かず、コンビニ前でぼんやりとコーラを飲み干していた。
「なんか、ないかな」
暇を持って余していた暖は、特にすることもなく、周りを通りかかる人々を観察していた。
そんな時だった。
「……泣いてるのか?」
女性が一人、通りかかっていた。
髪はボサボサで、しかも靴を履いていなかった。
今は平日の昼下がり。
通常なら仕事や学校に行っている時間帯だ。
俺は今日学校に行っていないので人のことは言えないが、それでも彼女は明らかに社会人に見えた。
仕事は休んだのだろうか。
あるいは俺と同じく、ずる休みか。
それにしても、大人の女性が靴を履かず、髪が乱れているなんてことは、普通はない。
大人なら身だしなみくらい整えるはずだ。
「うーん……」
暖は地面に体育座りをしながら、歩く女性の様子を見て唸った。
「……これはやばくないか?」
女性は足がもつれて、そのまま道端に倒れてしまった。
その様子を見ていた暖はしばらく彼女がどうするのかを見守っていた。
「……うーん?」
倒れた女性は立ち上がろうとせず、そのままうずくまっていた。
「本当に倒れてる……?」
暖は急いで、倒れていた女性の元へ駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
暖は女性に声をかける。しかし、反応はない。
本当に意識がないのか。
女性の肩を揺らしてみる。
それでも、目を覚まさなかった。
試しに暖は鞄に入っていたペットボトルの水を取り出し、「すみません」と小さく謝ってから女性の顔に水をかけた。
テレビで意識がない人には水をかけて反応があれば、意識があると判断できるとやっていたのを思い出したからだ。
「……うぅぅ」
女性が目を開こうとする。
「…おい、大丈夫か。おい……」
暖は必死で女性の肩を揺らしながら、再度反応を確かめる。
「……うぅう、大丈夫……」
女性は目を半開きにして、かすかに答えた。
「ああ…よかった。倒れてたんですよ。一体、何があったんですか?」
暖は起きようとする女性の背中をそっと手で支えた。
「………っ……なにがあったんだろう。私。もうここは天国なのかな」
女性は生きているはずなのに、まるで自分がこの世に存在していないかのような感覚に囚われていた。
暖は「このままじゃ、この人は自分が生きていることさえ信じなくなってしまうかもしれない」と直感的に感じた。
「あの! 僕の声聞こえますか!」
暖は女性の目の前で、はっきりと大きな声で呼びかけた。
「……っ…聞こえてますよ……」
「だったら、あなたは天国にいるんじゃない。生きているんです。ちゃんと、今ここで!」
暖は女性の両肩を優しく揺らしながら「現実だ」を訴えるように伝えた。
その思いが届いたのか女性は静かに涙を流していた。
「……うぅぅ…好きでこんな風にいるんじゃない。私は生きたいんです……」
女性はすすり泣きながら、顔を手で覆った。
背中を支えていた暖は、女性が泣き止むまで、黙って静かに見守っていた。
「……落ち着きましたか?」
「はい。なんとか…本当ありがとうございます。お礼は、ちゃんとさせてください」
「いえ、別に。ほんの人助けです。あなたが起き上がってくれただけで俺は十分嬉しいです」
そう言って、暖は女性の背中をそっと支えながら立ち上がらせた。
「……本当に、優しいですね」
「じゃあ、僕はこの辺で。失礼します」
女性が無事立ち上がったのを確認して、暖はその場を立ち去ろうとした。
だが、女性は「待って」と声をかけて、暖を引きとめた。
「どうかしましたか?」
「……君は、見ず知らずの人にも、いつもこうやって助けたりするの?」
「え? いや、たまたまですよ。お互い様です。今度、僕が困ってたら助けてくださいね」
暖はそう言って微笑み、その場を後にした。
女性は暖の後ろ姿をしばらく見つめていた。そのあと近くのコンビニで靴を買い、自分
の家へ帰っていった。
その日から、彼女は少しずつ前向きに生きるようになった。
以前、暴力を振るわれていた元カレのことをなかったことにしていたが、違うのだと気づいた。
―――あったことはあったのだ。
事実をなかったことにはできない。
ちゃんと、受け止めなければならない。
だけど、あの日、声をかけてくれた彼の優しさが心に染みた。
その出来事をきっかけに、彼女は仕事に打ち込んだ。
いや、一つひとつを丁寧にこなすことで、人の役に立てる仕事が少しずつ回ってくるようになった。
「自分の軸を曲げたくない、曲げずに自分が信じることをしていきたい」
そう思える自分に、少しずつなれてきたと感じたある日。
道である男性が外国人から話しかけられて困っていた。
女性は学生時代から英語を学び、留学経験まである。英語を話すことは自信があるのだ。
「Excuse me, What happened?」
女性は外国人に声をかけて、困っていた男性を助けた。
そのあとも女性は外国人と数分話し、案内を終えた。
「……あ、急に割り込んでしまい、申し訳ありません。困ってるように見えたので」
女性は男性に向き直り、少し恥ずかしそうに言った。
「いえいえ、本当に助かりました。英語すごく堪能なんですね。尊敬します」
男性は丁寧にお礼を言った。
女性は「いえいえ」と手を振りながら、優しく言葉を返した。
「それならよかったです。では、失礼します」
女性はその場を去ろうとした時、男性が声をかけた。
「……あの……このあとご予定はありますか?」
「え? いえ、特にないですけど……何か?」
女性が問い返すと、男性は少し照れたように笑って言った。
「じゃあ、良ければ……喫茶店でも行きませんか?」
そして、二人は近くの喫茶店へと向かった。
その喫茶店にはすでに他の二人がいた。
女性と男性以外にもいた。
一人はさやか、もう一人は暖。
女性の名前は潤子。
公務員で事務職をしているという。
この四人が初めて揃ったのはさやかが拓と出会ってから一年後のことだった。
*
「懐かしいよね。私たち、初めてここで会ったんだもんね」
まだ少し酔っているのか潤子はリビングに飾られた全員で写った写真を手に取り、ぽつりと呟いた。
私たちは帰宅後、リビングでくつろいでいた。
「ねぇ、本当に懐かしいよね。うちらも若かったなぁ」
さやかは潤子の隣に座り、懐かしそうに微笑む。
「まだ俺は若いし」
「あ、またそういうこと言う~、暖は……」
呆れたように言いながら、拓は立ち上がり、キッチンへと向かう。
冷蔵庫から水を取り出して、ペットボトルのキャップをひねって飲んでいた。
暖は「もう~」と小さな声で呟き、潤子の左隣で項垂れていた。
「はいはい。また、始まった(笑)ねぇ、これからみんなでゆっくり話さない?」
さやかはソファーの背もたれに体を預けながら、三人に声をかけた。
「そうだな、……僕はもう少しみんなで話したいかな。まぁ、さっきも少し話したけど、ちゃんとね。みんなはどう?」
拓は水を飲み干すと、再びリビングに戻って、ソファーに腰を下ろしながら尋ねた。
「ああ、私は賛成。もう少し話したい。……暖は?」
潤子は左隣にいた暖に聞いた。
「……俺も話したい……」
暖はソファーの近くにあったクッションを黙って拓に投げつける。
「暖。ってことは、恋愛話したいってことかな。この前もしたでしょ。飽きないねぇ~」
拓はまた呆れた様子で、潤子にクッションをパスする。
暖はふてくれたたようにタコの口をして、黙っていた。
「これは私が答えろってことだよね。うん、私はしてもいいよ~」
潤子はさやかにクッションを投げた。
「では! もうこんな夜更けですが、恋愛トークといきすか!」
ソファーの上に立ち上がり、クッションをマイク代わりにして、張り切った様子で言った。
私たちはまだまだ話し足りない。
この四人に揃うと、一晩中だって語り明かせる。
恋愛トークとは言ったものの、実際は恋愛だけじゃない。仕事や日常、いろんな話をする。
「最近、潤子さんはどう? 仕事のほう」
さやかは潤子に聞いた。
潤子は「あー」と首筋に手を当て、あまり話したくなさそうな様子を見せた。
「ごめんね。話したくないなら無理に聞かないよ」
「大丈夫。ちょっとね、めんどくさい職員が入ってきてさ。まったく他の職員とコミュニケーションとらなくて、勝手に一人で動いちゃうの。それのフォローがが大変で……」
「うわぁ、それはきついね」
さやかはテーブルの上にあったお菓子を一つ摘まみながら相槌を打つ。
「んで、どうするの? その職員さん」
拓は体育すわりのまま、潤子の話に耳を傾けていた。
「うーん、分からないけど。多分まだしばらくはいると思う」
「……それは嫌だね」
暖はもぐもぐと、ひたすらどら焼きを食べていた。
「…あっ…彼氏今来てる」
急に携帯を見た暖は、天気が晴れたかのようにパァと表情が和らげた。
「彼氏さん、今どこいるの?」
「うんと……この家の近くらしい。俺、ちょっと出てくるね」
そう言うと、暖は早口で言い残し、早足に家を出て行った。
「……暖。幸せそうだね」
「そうだね。うまくいってるんだね。この前なんてわぁわぁっ言いながら、私たちに問い詰めるように話してたもんね」
「ねぇ、本当。あの時はどうなるかと思ったよ」
潤子とさやかはソファーに並んで座り、しみじみと話していた。
その様子を聞いていた拓は、二人の話が一段落したところで口を開いた。
「まぁ、暖は素直な子だからね。毎回、恋愛うまくいかなくなると、僕に何時間も語り尽くして、最後には疲れて倒れてたよ」
拓は懐かしそうに目を細め、穏やかな笑みを浮かべた。
「拓さんは、暖と塾の講師と生徒の関係だけど、最初から仲良かったんですか?」
さやかは前から気になっていたことを尋ねる。
「ああ、いや。全然最初は話してくれなかったよ。でもね、ある日、塾の帰りに暖が他の生徒と話している所をたまたま見たんだ。それがちょうど、失恋したばかりのときでね……」
アハハと苦笑いをしながら、当時を思い出している様子の拓。
「……ああ、拓さんって、変な現場に居合わせることが多いですよね」
潤子は拓を見て、冷静に突っ込みをいれていた。
「そのときに、男が好きなんだって知ってね。暖は“バレた!”って顔してたんだよ」
「へぇ~」
さやかは相槌を打ち、拓の続きを待った。
暖はゲイだ。
それを知っているのは、私たち四人だけだ。
「暖は誰にも、ゲイだってこと言ってなかったからさ。僕にバレた時は“世界が終わった”って思ったんじゃないかな」
「確かに。わかるなぁ。自分と違う価値観の人にバレた時って、どう言い訳しようって頭の中で考えちゃうもん、私」
さやかは共感して、うんうんと頷いた。
「……そうなんだ」
潤子はさやかの言葉に耳を傾けていた。
「僕はね、ただ見守ってただよ。暖のことを。そのあと、僕が誰にも言いふらしてないって知って、暖の方から話しかけてくれたんだ。“あなたなら信じられます”って……あれは嬉しかったなぁ」
拓は懐かしむように頷き、腕を組んだ。
「……そんなことあったんだ」
潤子は目を丸くして、拓のことを見つめた。
「まぁ、暖はあんまり自分からは言わないけどさ。僕たち三人のことは、ちゃんと信用してると思うよ。出会って三年になるけど、前よりずっと笑顔が増えたと思う」
拓と暖は出会った年数は私達より長い。
でも、その時間の長さ以上に、大事に積み重ねてきた信頼と気持ちが、言葉から伝わってきた。
「そうだね。私と出会ったときなんて、倒れてたからね……それも失恋した時だったもなぁ」
さやかも思い出したようにニヤニヤと笑みを浮かべながら言った。
「……いいなぁ…」
「どうしたの? 潤子は」
拓はボソッと呟いた潤子の言葉を聞き、そっと問いかける。
「みんなさぁ、恋愛してるよね、何気にね」
「本当、どうしたんですか? 潤子さん」
さやかは急に弱気になった潤子に心配そうに見つめていた。
「……私、まだ男性が怖いんだ。前から言ってるけど。そろそろさ、そろそろ克服しなきゃいけないのに……前に進めてないの。さやかも拓さんもさ、いい人いるじゃん。何気にさ」
潤子はクッションに顔をうずめ、眼鏡を外して、枕のように抱えていた。
「私? いい人? いないよ」
「僕もいないよ。最近は仕事ばっかりだし」
さやかは「ねぇ」と拓の方を見ながら、お互い共感しあう。
「恋人とかじゃなくてもさ、新しい人と出会って、刺激受けたりしてるよね。さやかは興味あることとか挑戦してるし。新しい人と出会ってるじゃん」
潤子はさやかの方を向き、ぽつりぽつりと呟くように言葉を紡ぐ。
「…いや…私、最近はたい焼き好きで、それにハマってて。X(旧ツイッター)で知り合った人たちとたい焼き仲間ができたくらいだよ」
さやかは潤子の気持ちを守るように、拓の方を見て答えた。
「そうそう。僕だって、ほんと仕事ばかりで。人と会うって言っても、職場の人くらいだよ」
「でも、さ、拓さんは仕事で新しい人が入って来たらちゃんと関わって、学んで、やったことのないことにも率先して取り組んでるじゃない。私にとって、さやかと拓は羨ましいんだよ。また……あんなことあるんじゃないかって思うと……私、あの頃から全然変われてない気がする……」
潤子は私たちに出会う前に交際していた彼氏から暴力を振るわれていた。
その過去を乗り越えるために、潤子は仕事に打ち込み、語学にも励んで堪能になった。
勉学や仕事も頑張ってるけど、男性に対しては触れられるだけで気持ち悪くなってしまうらしい。
それでも、拓や暖に対しては、なぜか初対面の時から普通に会話ができ、触れられても平気だった。
仕事では男性とは話すこともあるが、そこまで近い距離で話すことは少なく、しかも女性が多い職場なので、特に困ることはないという。
プライベートでは男性と会う機会も少なく、潤子は私たちと過ごす時間がほとんどだった。
さやかは潤子が抱えているものは理解していた。
もちろん、拓も暖も同じだった。
潤子がもし今つらいと感じているなら、その気持ちに寄り添いたい。助けたい。
「潤子さんは、あの頃より確実に変わったよ。私たちと出会う前、誰にも言えないで抱えて抱えて、無理に笑顔を作っていた。でも、今は違う。本当に笑えてるんじゃない? この三年間、潤子さんのことを見てきた、そうだよね?」
さやかは潤子の肩に手を置き、これまでの思いをを言葉にこめた。
「そうですよ、潤子さん」
その時、部屋のドアをそっと開き、暖が帰ってきた。
「……暖」
潤子は暖の名前を呼び、振り向く。
「俺、潤子さんに初めて会った時のこと、ちゃんと覚えてる。今の潤子さんは、あの時と違うよ。ちゃんと変わってる」
暖の言葉に潤子は、一筋の涙を流した。
そして、暖の顔を見ながら、潤子は穏やかに笑った。
「そうだよ、その笑顔だよ! 潤子」
拓も笑って、潤子の頭をなでる。
「潤子さんは潤子さん!」
さやかも潤子の方へ行き、笑顔で答える。
「みんな、ありがとう! よし、私、頑張る」
「はいはい」
暖は手を挙げて、自分の部屋へ戻っていった。
「ってか、暖。彼氏はどうしたの?」
さやかは部屋に戻ろうとしている暖に声をかけた。
「少し話して、帰っていった。俺、もう寝るね」
暖は顔をさやかの方に向けてから、部屋に入っていった。
「どうしたんだろう。暖」
「ねぇ、さっきの嬉しそうな笑顔どこに行っちゃったのかな」
拓とさやかは向かい合って、言い合う。
「……多分、なんかあったよ」
ぽつりと潤子は呟き、暖が入った部屋を見つめていた。
「暖?」
さやかも暖の名前を呼び、なにかあったのかと心配になる。
暖は部屋に入り、縮こまっていた。
彼氏と話したことで、何に悩んでいるのかは――
それを私たちが知ることになる。
それは、四人とのことであった。
第二話「拓の選択」
「ちょっと聞いてくれる?」
拓がリビングにいた暖・潤子・さやかの三人に、どこか意味深な表情で声をかけた。
「え? なに。どうしたの? 病気? それかここ出ていくの?」
潤子は眉を下げて、尋問するように矢継ぎ早に問いかけた。
「さやか、落ち着いて。出ていかないし、病気でもないよ」
拓は苦笑いを浮かべながら椅子に腰を下ろし、三人に向かって「来て来て」と手で合図を送った。
「じゃあ、なんなの?」
潤子は椅子の背もたれに手をかけ、そのまま座り込む。
「…拓さん。それって、前に俺に言っていたことですか?」
暖は思い当たるのか、頬杖をついたまま顔を上げて尋ねた。
「そう、前に暖にちょっと相談したことなんだけど。やっぱり皆にちゃんと話しておこうと思って。今、僕が塾の講師してるのは知ってるよね。実はその関係で研修があって、二週間ほど海外に行くことになったんだ。だから、その間は家を空けることになる」
やっと言えたとばかりに、拓は天井を見上げて、深く息を吐いた。
「……なんだ、そんなことか」
潤子はふっと肩の力を抜いて立ち上がり、キッチンの戸棚からコップを取り出す。
「潤子さん、なんだはないんじゃない? 一応、日本を出るんだよ、僕。ちょっと心配してよ」
拓は口を尖らせて、少し拗ねたように言った。
「だってさ、。拓さんが自分で決めたことなんでしょ? 私たちがどうこう言うことじゃないし。何も言えないし。ちゃんと帰ってくることが分かってるなら、応援するしかないでしょ。ねぇ、暖?」
潤子はさやかの方を見ながら、軽く頷いた。
「…応援してるよ」
暖はそっぽを向いたまま、手元のスマートフォンをいじりながら答えた。
「素直じゃないなぁ」
さやかは暖の背中を軽くもたれかかり、彼の表情を伺うように覗き込んだ。
暖は「邪魔」と言って、背中にもたれかかっていたさやかをバンと振り払い、再び携帯を弄り始めた。
よろけたさやかはそのままソファーにダイブする。
「まぁ、それぞれって感じだね」
拓はそう呟きながら、キッチンの戸棚からあったコップを取り出す。
潤子は棚を漁って、いつものドリップコーヒーを探していた。
「潤子さん、まだ見つからないの? ドリップコーヒ―」
「ないんだよ。拓さん、飲んだ?」
「いや、僕は飲んでないよ」
拓は自分のコップを手に取り、ふっと目に入ったのはテーブルに置かれた潤子の愛用コーヒー。
「……暖。それ飲んでるのってさぁ、コーヒー?」
視線の先には、潤子がいつも大事にしているドリップコーヒーの空きパックが置かれていた。
「…え? もしかして、暖が飲んだの?」
潤子は慌てて暖がいるテーブルに駆け寄り、目を見開いて顔をしかめる。
「暖っ! それ、私のコーヒー!」
怒り心頭の潤子が指をさす。
「潤子さん。そんなに怒らなくても……ストック、まだあるでしょ?」
暖は悪びれずに棚の方に指を差し、スマホから視線を逸らさない。
「…暖……そろそろ、ちゃんと話を聞こうか」
さやかがソファーから顔を出し、真剣な口調で言う。
「うん…これはさすがに、そろそろだね」
拓も潤子の様子を見て、静かに頷いた。
「いやいや…大丈夫でしょ…」
そう言いながらも、潤子は俯いたまま、ちらりと暖の方へ顔を向ける。
「……暖、それ、私のなんだから。今度は暖がドリップコーヒー買ってきてよ」
潤子は握りこぶしを作りながら、苦笑いを浮かべた。
「あっ、うん。わかった」
暖は返事をして、またスマホを弄り始めた。
「潤子さん、我慢したね」
「だね。相当押し殺したね」
さやかと拓はキッチンの方で隣同士に立ち、互いに同意するように見守っていた。
「ふぅ……」
天井を見上げながら、潤子は棚を開け、ため息をついたあと、深く息を吸いこむ。
「潤子さん…」
さやかはそっと潤子の肩に手を置き、優しく名前を呼んだ。
拓も反対側の肩にポンと手を置き、自分で淹れたコーヒーを一口飲んでいた。
「…拓さん、頑張ってね。二週間」
潤子はもう一度ため息をついた後に、拓に向かって応援の言葉をかけた。
「…ありがとう、潤子」
拓は感謝の気持ちを込めて、微笑んだ。
「頑張ってよ、拓さん」
拓の肩をバシッと力強く叩いた。
「相変わらず、さやかちゃん叩く力強いなぁ。……いてて」
拓は苦笑いをしながら、片手で揉んでいた。
「ごめんね、拓さん。頑張ってよ。ちゃんと待ってるから」
さやかは優しく肩を叩き、微笑んだ。
「…これ。拓さん用」
暖は自分の部屋に戻り、大きい袋を持ってきた。
「なにそれ」
拓は突然差し出された大きな袋に目を丸くする。
「開けてみて」
暖は少し笑いながら、拓に視線を向けた。
「どれどれ…なにが出るかな~♪」
拓は鼻歌まじりに袋を開け、嬉しそうに中身を取り出した。
「…これは……」
「そう。前欲しいって言ってたクッション。これあるだけでもリラックスできるって言ってたでしょ?だから、買ってきたの。あげる」
暖は「どう? 嬉しいでしょ?」とでも言いたげなでフンッと鼻を鳴りしそうになっていた。
「暖、気持ちはめちゃくちゃ嬉しいいんだけどさ……これ、持ってるのよね、ほら、これ」
拓はパンツのポケットからスマホを取り出し、写真フォルダを指でスクロールして探し始めた。
「これ」
拓が見せた写真と今持っているクッションを見比べると―――まったく同じだった。
「…あ、ゴメン」
暖が申し訳なさそうに呟く。
さやかは両手を叩いて、みんなに向かって言い放った。
「大丈夫だよ。クッション二個あっても観賞用として使うから」
「観賞用? それって使うってこと?」
暖は首を傾げながら、拓に聞き返す。
「そう、使うってこと。見るだけでも嬉しいし、癒されてるから見て楽しむから」
拓は暖からもらったクッションを優しく抱きしめ、穏やかな笑みを浮かべていた。
「…よかったね、拓さん」
さやかはうんうんと頷いて、隣の潤子と肩を組んだ。
「じゃあ、気分を変えて、何か頼もうよ。ちょうど、お昼くらいだし。ピザとかどう?」
さやかは両手を叩いて、みんなに向かって言い放った。
「僕はオムライス食べたいな」
「俺は牛丼がいい!」
拓と暖は同時に手を挙げて、それぞれの希望を元気よく伝える。
「みんなバラバラじゃん。どれも頼んじゃえばいいか。ところで、みんな今日の予定は?」
さやかはスマホで出前サイトスクロールしながら、ふと思い出したかのように尋ねた。調べて、思い出したかのようにみんなに聞く。
「今日は私、予定ないよ」
「…僕もない」
「俺もないよ」
「じゃあ、みんなフリーってことで、それぞれ食べたいもの頼んじゃおうか!」
さやかが確認するッと、みんなが「はーい!」と元気よく手を挙げ、各々テーブルに座って何かの作業をし始めた。
潤子さんは部屋から持ってきた本を読み始め、暖はスマホをいじりながらのんびりしていた。
拓は暖からもらったクッションをじっーと眺めていた。
「よし! 注文できた! みんなの分、頼んだよ!」
さやかは大きな声で報告し、続けてお茶のティパックをカップに入れて、お湯を注ぐ。
このまったりの空間の中、暖はある決意を下した。
第三話「四人法」
学校に行こうと歩いている暖に、さやかは声をかけた。
「暖!」
「さやかさん?」
「……なんかあった?」
さやかは午後から仕事のため、買い物に出かけるところだった。
「なんで」
暖は首を傾け、不思議そうに聞き返す。
「なんとなく。暖って悩んでる時、目を細める傾向あるでしょ。だから」
さやかはエコバックを持ったまま、暖の目をじっと見つめた。
さやかは少し目を合わせてから、ふっと逸らし、また見返した。
「……いや…まだ言えないけど。…悩んではいる」
「私たちには言えないこと?」
「うん。まだ……」
さやかはエコバックを持ち直し、暖の左隣を歩きながら、ふと問いかけた。
「暖さ、楽しい? 最近」
風が強く吹き、さやかの髪がうねって口元にかかった。
髪を口に入りそうなのを手に取った。
暖は髪を手で払いながら、まっすぐ前を見て答える。
「…うん。俺はこの生活、気に入っている。さやかさんは? 楽しい?」
「私も楽しいよ。この生活があるから仕事頑張れるし」
ちょうど、道が左右に分かれていた。左右さやかは右へ、暖は左へとそれぞれ歩き出
した。
暖は別れた後、何か胸に引っかかるものを感じて立ち止まる。
「……さやかさん。本当にそう思ってるのかな」
暖は首を傾げながら振り返り、さやかの背中を見つめる。
その背中はどこか小さく見えた。
さやかはうっすらと笑いながらも、視線を落とし、愛想笑いのように下を向いていた。
本当はさやかは何かを考えてるんじゃないのか――暖はそう感じていた。
それは、暖自身も同じような思いを抱えているからこそ、わかることだった。
「……っ…学校行くか」
暖は足を踏み出し、学校へ向かった。
学校での暖のポジションは目立つこともなく、特に存在感があるわけでもなかった。
少し前までは彼氏がいたが、別れてしまった。
理由は四人のことを話したからだった。
もっと早く話しておけばよかった。
付き合って三か月後が経った頃に話した結果、「理解できない」と言われて、破局した。
悲しさや寂しさよりも、むしろ安心している自分だった。
本当の好きな人が、別にいる――それもずっと。
高校一年時からずっと好きだった。
好きでもない人と付き合えば、その気持ちは消えると思っていたが、それは間違いだった。
好きな人は同じクラスの芳樹だ。
唯一、自然体で接することができる存在。友人というポジションだけは守りたい。
もし、暖がゲイだと知られたら、友人ですらいられなくなる気がしていた。
「暖。どうした? 変な顔をしてるぞ」
「え? 変な顔」
暖は自分の顔に両手をあて、確認するように撫でる。
「ほら。変な顔。ほれ」
芳樹は制服のジャケットのポケットから手鏡を取り出して、暖に見せてきた。
「うん? そんな変かな」
「そう気がしたけど、違う?」
芳樹は端正な顔立ちをしているだけでなく、どんな人にも優しく、どんなことでも受け入れてくれるような懐の広さがあった。
そんな彼だからこそ、暖は好きになってしまったのだった。
友達になった時からだった。
はじめて声をかけられた時の笑顔。
いつも笑って過ごしているのだろう――そう思わせるその笑顔。
口元にできたえくぼが、眩しいくらいに輝いて見えた。
「……そうかもしれないな」
暖は手鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。
浮かない表情。
心の中が、そのまま顔に出ている。
本当はこの生活のことを誰にも話せていない。
だけど――芳樹には言おうと思っている。
認めてほしい。
自分の選んだこの生き方を、否定しないでほしい。
今の友人というポジションのままでいたい気持ちと恋人になりたい気持ちが胸の中でせめぎあう。
あの四人との生活について――おかしいかもしれないけど、それでも言いたい。
この思いだけは、消したくない。
友達になったのは高校一年生の時。
それからずっと、ずっと、胸に抱えてきた。今、想いを伝えなかったら――いつ言うの
か。
怖い。
友人でいられなくなるかもしれない。
でも、この気持ちはもう我慢できなかった。
ずっと、ずっと押し殺してきたけど、もう限界だった。
「芳樹、今日の放課後……話せる?」
「え? あ、うん。いいけど……どうしたの?」
芳樹は少し不思議そうな顔をしながらも、笑って聞いてくる。
「ここじゃ言えないから。放課後、屋上で話そう」
暖は手鏡を返し、人差し指を唇に当てて、口止めの合図をした。
「……分かった。屋上で」
芳樹は軽く手を振って、教室へ戻っていた。
放課後
「……暖。で、話ってなに?」
芳樹は屋上に現れ、少し首を傾げながら問いかけた。
「……俺たち、高校からの付き合いじゃん。芳樹は、俺の友達……だよね」
暖は胸もとで両手を組み、心の中で何度も「言え」と言い聞かせながら、ゆっくりと問いかける。
「当たり前じゃん。今さらなに言ってんの?」
「……そうだよな」
しばらく沈黙してから、暖は意を決して言った。
「……でも俺、お前のことが好きなんだ。ごめん……こんなこと言われたら、困るよな」
告げた直後、暖は自分を守るように視線を逸らした。
返事がない。
怖くて顔が上げられない。
――だけど、意を決して顔を上げると。
そこには、涙を浮かべている芳樹の姿があった。
「……芳樹?」
「……俺も、お前のこと……好きなんだ」
芳樹は瞬きを繰り返しながら、現実を確かめるように暖を見つめた。
次の瞬間、彼は静かに、そして力強く暖を抱きしめた。
お互いの温もりを確かめるように、しばらくそのまま何も言わず、寄り添っていた。
そのあと、二人はきちんと話し合い、付き合うことになった。
暖はこれまで話せなかった四人との出会いや共同生活のことを芳樹に伝えた。
自分のすべてを知ってもらいたかった。
そして、それを芳樹がしっかりと受け止めてくれると信じられたから。
「俺はいいと思うよ。暖にとってはあの四人がいるからこそ暖でいられるんだろ? なら、俺は賛成だ」
芳樹はいつものように笑いながらそう言い、暖の手を取取って、しっかりと握った。
「俺、あの四人と芳樹とも一緒にいたい。だから、四人との生活はこのままで続ける。でも芳樹ともいたいんだ。……それでもダメ?」
暖は受け入れてくれた芳樹に、正直な気持ちをぶつけた。
「……うん。わかった。暖はどうしたいの?」
芳樹は手をぎゅっと握り返しながら、優しいまなざしで暖に向き合った。
「俺は、あの四人法を作りたい。まだ、どんな形かは分からないけど」
暖は強いまなざしで芳樹にそう伝えた。
その決意がまっすぐに伝わったのか、芳樹はゆっくりと頷いた。
「そうか。……なら、暖が思うようにやったらいいよ」
その一言に、暖は胸がいっぱいになった。
思わず、涙が零れる。
「……ありがとう」
そう言って、暖は芳樹の手をぎゅっと握り返した。
家に帰ると、暖は四人にラインで「リビングに集まってほしい」とメッセージを送った。
「暖、どうしたの?」
さやかは仕事を早めに切り上げて帰宅し、ジャケットを脱いでリビングにやってきた。
「珍しいよね。暖がみんなを集めるなんて」
潤子と拓も、手を洗ってからジャージに着リビングに姿を見せる。
「ねぇ、どうしたの? 暖」
潤子が心配そうに問いかける。
空気に少しだけ緊張が走った。
「俺、この頃思ってたことがあるんだ」
暖はそう切り出し、ソファーに座っているさやかの方を見た。
「それを言う前に……さやかさん。最近、少し変だったよね。何か思ってることあるんじゃない?」
暖の言葉に、さやかは少し驚いた顔をして、そして、苦笑いを浮かべた。
「……バレてたか。そう、あるよ。このまま生活続けないといけないのかなって。今は気になる人がいないけど、今後できるかもしれない。そうなったら私、どうしたらいいんだろうってずっと考えてた。……もしかして、暖も?」
さやかは目を細めて、静かに問いかけるように言った。
「…うん、俺も悩んでた。でも、今日、彼氏になった人と話して――分かった」
「え? 彼氏って、前に付き合ってた人?」
潤子が思わず聞き返す。
「……いや、もう別れた。今日新しい彼氏ができた」
「……えっ、そうなんだ」
潤子は驚きつつも、淡く微笑んだ。
拓はあまりに話の展開が速すぎて、目を瞬きさせていた。
「その話はあとでちゃんと話す。でも、それより―――今日、分かったんだ。俺、自分が自分でいられるのは、この四人がいたからなんだって。だから、四人法を作りたいと思ってる」
暖はリビングの中央に立ち、まっすぐに三人を見つめながら言った。
「四人法……って、なに?」
潤子は椅子に置いていた本をそっと閉じ、暖の言葉に耳を傾ける。
「そう。四人法って俺が勝手に名前をつけたんだけど――数日間、彼氏と話していて気付いたんだ。彼氏とは別れたくない。でも、それ以上に、この四人とも離れたくなかった。だから、自分たちだけのルールを作りたいんだ。“民間法〝っていうのかな。国に認められている訳じゃないけど、四人だけの約束、契約、信頼。この四人で生きていくための枠組みを作りたいと思ってるんだ」
暖は自分で調べたサイトをスマートフォンに表示し、三人に画面を見せた。
拓・潤子・さやかは暖の元に集まり、携帯をのぞき込む。
「…誰でも作れる仕組みで、これを元に実績を積み重ねれば、国に提案できるってこと?四人だけで生活している形を認めてもらえば、恋愛や結婚は自由にしていい。でも、その基盤として四人の共同生活があることが前提ってことね」
さやかは読み上げるように言うと、暖は頷いた。
「そう。民間の窓口に相談してみたら、そう教えてくれた。国もその枠組みを完全ではないけど、否定はしていないって。……どう思う?」
暖は少し不安げな表情で、三人の反応を窺う。
潤子は腕を組み、少し間を置いてから言った。
「……暖。私もね、今の生活には満足してるし、できることならずっと一緒にいたい。だけど、四人でずっといられる保証なんてないのも、正直なところ。それにそういう形を作るってことは、逆に縛りになってしまうかもしれない。誰かが離れたいって思った時、重荷になる可能性もある……。私はこの生活が好きだからこそ、形にすることのリスクも考えてる。わかる?」
潤子の声には、暖を否定するつもりはないけれど、現実も見てほしいという気持ちがにじんでいた。
「そんなこと、俺だってわかってるよ」
暖は潤子からスマホを受け取り、次の資料を開いて見せた。
「…でも…俺は、彼氏ともいたいし、この四人ともいたい。彼氏とはいずれ同性婚を考えてるけど、その上でこの四人とも一緒に暮らしたいんだ。それって、誰かを犠牲にせずに済む選択じゃない? 俺たちにとっては、ウィンウィンになると思ってる」
暖の目には強い決意が宿っていた。
「……私はこれ理想だけど、本当にできるのかな」
さやかと拓は顔を見合わせる。
そして、潤子がぽつりと呟いた。
「……私はね、こういうの理想だと思ってるよ。ずっと、みんなでいられたらって。でも、それが現実になるかは……本当にできるのかな」
拓も同意したが、現実的に難しいことは分かっている。
やりたいことはやりたいが、どうしたものかということだ。
「じゃあ、これ……一回だけでも試しにやってみない? 俺の彼氏も賛成してくれてる。潤子さん、やってみない」
暖の言葉に潤子は沈黙したまま考え込む。四人法について、潤子の中にはまだ不安が
ある。
先が見えないものには、どうしても不安が
つきまとう。
でも、結局のところ、大事なのは「やってみたいかどうか」だ。
「……私もね、みんなと同じでやってみたい気持ちはある。でも、本当にできるかなぁ……」
潤子はそう言って、目を伏せながら、少し困ったように頭をかいた。
「…じゃあ、やってみる? 四人法」
暖は首を傾げながら、目の前の拓・さやか・潤子の三人に問いかける。
「――やろう!」
拓は少し大きい声で。勢いよく答えた。
「…拓さん…」
「暖がこうやって、真剣に言ってるの、初めてだろ。だったら、本当にやりたいことなんだってわかるよ」
にやりと笑いながら、優しく眼差しで暖を見つめる拓。
「……拓さん……」
拓の胸の奥に、じんわりと温かい気持ちが広がる。
「みんなは、どうしたい?」
拓が改めてさやかと潤子に問いかける。
「…私は……やってみたい。正直、制度のことはわかんないけど、私たちが最初の懸け橋になれたらと思ってる。この四人なら出来る気がするから」
さやかは少し目を逸らしながらも、心に決めた言葉を口にする。
「そっか……」
暖は頷いてから、最後に潤子の方に視線を向ける。
「……っ…みんなが本当にいいって言うなら。……私も、やりたい」
「…潤子さん。じゃあ――やりますか。四人で」
暖はにこやかに微笑んでから、そっとみんなを抱きしめた。
「ありがとう。みんな」
そう言って、暖は三人と輪になり、腕の中で彼らを包み込んだ。
「俺、泣きそう……」
拓がぼそりと呟くと、さやかが優しく微笑んで答えた。
「泣いていいんだよ。暖、ありがとうね」
そう言いながら、さやかは暖の肩をバシンと強く叩く。
「痛いって! さやかさん、ほんとに遠慮ないなぁ」
暖は顔をしかめながらも、どこか嬉しそうだった。
口角を上げながらも、暖は肩を痛そうに手でさすり、さやかの方にちらりと見た。
その目には、一粒の涙が浮かんでいた。
泣いていることを知られたくなくて、少し目を逸らしたけれど――さやかにはすべて見えていた。
だけど、さやかは何も言わなかった。
「…ゴメンって。え? 拓さんも泣いてるの?」
「なんで拓さんまで泣いてんのよ」
潤子は呆れたように言い、ぽかんと口を開けた。
その様子に、みんなが思わず「あはは」と笑いあう。
空気が、少し軽くなった。
四人法。
まだ国には存在しない、新しい形の絆。
けれど、民間から始めて、実績を積めば――いつか法律にできるかもしれない。
この制度を作って実現するまでは、早くて五年――いや、十年はかかるとも言われている。
本当にこの「四人法」が形になるかどうかは、まだ誰にも分からない。
拓、さやか、潤子、そして暖。
この四人でなければ、意味がない。
たとえ誰かに恋をしたとしても、この四人の関係は絶対だ。
今も、四人は悩み続けている。
何が正しいのか。
何が間違っているのか。
――それでも、この四人だけの形を信じて、進んでいく。
「拓さん、これ、どうする?」
玄関先で靴を履いている拓に暖が声をかけた。
「いや、それはここに置いといて。四人法の資料、ちゃんと読んだけど……よかったよ。これで通るといいな」
拓は靴ひもをきゅっと結びながら、後ろにいた暖に話しかけた。
「…そうだね。潤子さんは、まだ準備中?」
暖はリビングの方へ目を向けて聞いた。
「まだ、支度してたみたい」
さやかがリビングから玄関へやってきた。
彼女はフルメイクにきっちりとしたスーツ姿。
普段とは違う雰囲気に、暖が思わず目を見張った。
「珍しいね、さやかさんのスーツ姿」
足元から視線を上げて、暖がそう言う。
「どう? 似合ってる?」
さやかが少し得意げにポーズを取る。
「うーん……普通」
淡々と答える暖。
「なんだと……!」
さやかは暖の頭をぐりぐり撫でて、怒ったふりをして見せたが、その表情はどこか楽しげだった。
「もう、やめなよ。行こう」
「潤子さん、準備オッケー?」
拓は準備を終えた潤子に声をかけた。
「オッケー。じゃあ、行こう」
潤子は靴を履き替えて、ドアを開け、前にいる三人に話しかける。
「行くよ。これからが勝負だからね」
さやかは三人に向かって、言った。
私たちはこれから弁護士に会いに行き、四人法の制度について話し合い、パートナー契約を結ぶことになる。
この四人に、後悔はない。
ただ前に進むだけだ。
「ねぇ、もう一回トイレ行っていい?」
「はぁ……暖~」
「緊張しすぎだよ」
「はい、行ってらっしゃい」
玄関先で、呆れた様子で暖を見守る三人。
本当に大丈夫?
だけど、それが四人らしさなのかもしれない。
四人という四人でしか得られないものを大切にしていく。
四人は自分たちの家を振り返ってから、外へと出た。
これからの不安が希望に変わるときもあれば変わらないかもしれない。
それでも、やるしかない。
「行ってきます!」