防空壕
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その声は、和夫が墓石の前で線香に手をあわせているときに、寺の敷地のどこからか聴こえてきた。子供の泣き声である。晴れた日の午後だったが、他に墓参りの人影はなく、迷子だろうか、と思いながら和夫は立ち上がると声のするほうへと、並んだ墓石の間の小道を歩いた。
楡の樹の下に、コンクリートの構築物があった。泣き声はその中から聴こえている。腐った木の板が開口部を塞いでいる。彼がその板を取り除いてみると、陽光が射して、たたみ二畳ほどの広さの空間があらわれて、人の気配がする。
四歳くらいのおかっぱ頭の幼女が、その空間の奥に膝を抱えてじっとして、泣きながらこちらを見ていた。着ている上着には、おかのよしこ、と名前の書かれた布地が縫い付けられている。
和夫は、声をかけた。
「お姉ちゃん、こんなところで何してんの。お母さんは? おうちはどこ?」
幼女は、和夫の問いかけには応えず、泣き続けていた。和夫は、肩から提げた鞄の中からキャンディーを取り出すと、幼女に差しだした。女の子は、それを手にすると、ぴたりと泣き止み、ありがとう、と言って初めて笑顔を見せた。
和夫は女の子の手をつないで、母親を探さなければ、と思い、寺の本堂へ歩いた。
と、和夫の握っていた女の子の手の感触がするりと抜けた。それは瞬間の出来事だった。
幼女は消えてしまった。
住職に和夫は説明した。コンクリートの構造物について住職は話した。
「あれは、戦時中の防空壕です。近所の共有だったものだと聞いております」
和夫が幼女について話すと、
「この世のものではないかもしれませんな」
と、住職は応えた。
家に戻った幼女に母親が問う。
「良子、どこ行ってたの。探したのよ」
「お母ちゃん、知らないおじさんとお寺ではなしてたの。これ、もらった」
差しだした手のひらにセロハンに包まれたキャンディーが載っていた。
「そう。戦争が終わればいくらでも、好きなだけお菓子を買ってあげるからね」
そのとき、親子の住まいのある街の遥か高空で爆音が聞こえた。澄みきった青空のかなたを白い飛行機雲をたなびかせてB29写真偵察機が飛行していた。発射音を響かせて高性能の三式十二糎高射砲が至近弾を敵機めがけて撃ち始める。
瞬間、頭の上から雷鳴のような爆発音が轟いた。B29の銀色の機体の右主翼が付け根から破断した。一つの小屋ほどの大きさのあるライトR3350エンジンがふたつ付いた、ちぎれた主翼に、火炎がまとわりついたまま落下してきた。エンジンのプロペラブレードは勢いでまだ回転していて、直撃した屋根の瓦を叩き割った。主翼をもがれた機体のほうは地上の平屋の何軒かを上から押し潰した。バリバリ、という音響が鳴り響く。
飛び散った航空燃料によって家屋に火がついた。付近一帯が延焼被害を被った。
………住職が物音に気づいて寺の敷地のなかにある楡の樹のところに見に行くと、小さな女の子が大人たちと一緒に防空壕からでてきたところだった。すすけた顔の大人の一人が言った。
「お坊さん、助けてください」
驚いた住職が防空壕のなかを覗き込むと暗い中から、まだぞろぞろと人が出てくる。
防空壕の中の奥行きは、時間と空間を飛び越え、どこまでも、どこまでも伸びているのだった。
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