第9話 秘密の向こうにある名前
家に帰った僕は、ステラを床に寝かせてから、アリマと二人で家の近くのカフェに向かった。ずたぼろの服で外を歩けないため、簡単に上着だけ着替えて出た。
店内の最も奥まった場所にある、三方を壁に囲まれた小さなテーブル席に座る。漆喰の壁を照らす柔らかな照明の下で、僕たちは暖かいコーヒーを注文した。他に客はなく、小さく流れるジャズのリズムと、淹れたてのコーヒーの香りが、人の温もりの代わりに店内を満たしていた。
「ステラについて、僕に何か話したいことがあるのですか?」
注文を終えた僕は、迷わず本題を切り出した。
「そうですね。誤解を解く必要もありますから、順を追って話しましょう」
アリマが軽く頭を下げる。
「まず、ガーデンズ学園で案山子からお姉様を助けていただき、ありがとうございました。炭咲さんのおかげでお姉様の行方を把握できました」
僕は腕を組んだまま大きく息をつき、アリマの顔を見つめた。虎ノ門での時とは態度が大きく変わっている。どうやら、ガーデンズ学園でのテロの真相を掴んだようだ。こひなから聞く時間はなかったはずだが、みんなが眠りについた夜明けに、誰かと電話していたことを思い出した。
「事件が起きた現場で、バベルの関係者から樹の一族について話を聞きましたか?」
僕は顎に手を当てて考えた。
「特にありません。人を収穫するとか、罪人扱いしたことは覚えていますが」
「樹の一族の正体については聞いていない、ということですね」
アリマは僕の反応を見て、話を続けた。
「樹の一族とは、巨樹から生まれた後裔でありながら、今は絶滅した存在を指します。一族について記載された文献では、巨樹の呼び声を直接聞いたと伝わっていますが、実際にどのような力を持っているかは分かりません」
「少なくとも、僕は樹の一族ではありません」
「もう一つ質問してもよろしいでしょうか?」
アリマは上品な仕草でショートケーキをフォークで切り取り、口に運んだ。
「樹の一族と関係のある研究所に勤めていたご家族や知人はいらっしゃいますか?具体的に言わなくても構いません。いる、いないだけで結構です」
その質問に僕は押し黙り、複雑な思いで再び考え込んだ。
「特に樹の一族について知っている人はいないと思い——」
そう言いかけた時、先日の病院で香月と同僚が交わしていた会話を思い出した。研究会に香月が参加していた。しかも、あの二人は母親を昔から知っているような口ぶりだった。
僕の知っている母親は専業主婦で、病院の仕事とは全く縁のない人だった。それなのにあの二人は母親を知っていた。しかも、僕の存在まで上から目線で見透かしていた。何かがおかしい。僕は自分の記憶に疑いを抱き始めた。
「その反応だと、誰かいるのですね。最初にお会いした時は緑埜社長かと思いましたが、彼が本格的に活動した時期は緑埜家に入ってからでした」
アリマの話は僕を混乱させた。
「待ってください。まだ僕はその質問に答えていません」
アリマがコーヒーを啜りながら目を閉じた。
「目が左上を向いていますよ。何かを隠したい時は、せめて自分の目くらい意識した方がいいでしょう」
「いや、そんなはずがない。あいつが、あいつが実験をしたから僕の家族は亡くなったんです」
話が白熱する中、店員が注文した飲み物をテーブルまで運んできた。小さなイチゴショートが添えられていたので尋ねると、今日最初のお客様へのサービスだとのことだった。甘いものが苦手な僕は、アリマに全部あげて熱いマグカップだけを自分の前に置いた。
「各務コーポレーションは十年前から、ダイアモンドクラブのメンバー同士で共同研究を行いました。大きな目標は、巨樹の遺伝子情報からトゲの発現を誘導する薬剤でした」
アリマはコーヒーを一口飲んで話を続けた。
「共同研究を始めて三年目の三月のある夜、研究に参加したメンバーの一人が、巨樹の冬芽から特殊なサンプルを抽出しました。通称『青薔薇』と名付けられたそれは、現代人には発現しない樹の一族のトゲだと判明し、どのような特徴を持っているかを確認する段階に進みました」
研究内容の概要を聞いて、僕はあいつの書斎で読んだ昔の研究資料を思い出した。英語で書かれていて内容までは覚えていないが、何かの細胞のイラストが描かれた資料だった。
「問題は、青薔薇を定着させる条件にありました。巨樹から取り出した青薔薇は、動物の体内に移植した際に拒絶反応を起こしました。ネズミ、豚、猿、最後にイルカまで。あらゆる手段を尽くしましたが、すべて失敗に終わりました。研究が進まない日々が続く中、私たちは意外なところからその条件が判明しました」
僕は黙ってアリマの話に耳を傾けた。各務家の話だと思っていた内容が、次第に僕の知らない秘密と繋がり、今まで信じてきたことが覆されそうな気がした。
「青薔薇が反応を示す唯一の生物は、人間でした。しかも、生きた人間の血液でなければ青薔薇は完全には開花しませんでした。意外にも、その条件が判明すると、研究チームの中から自ら被験者を志願する者が現れました」
「……その研究員は、誰でしたか?」
僕は固唾を飲んでアリマを見つめた。
「残念ながら、当時の研究資料には名前は記載されていません。ただ——」
アリマが言葉を濁し、僕の様子を心配してくれる。
「最初の実験は、体の不自由な幼い子供を対象に行われたと記録されています」
アリマから聞いた真実に、僕は唖然とした。話に出てくる幼い子供は体が不自由だったというが、僕の身体に特別な問題はない。だから僕とは違うはずだ。しかし、それでも僕があの実験に無関係だとは断言できなかった。
「実験は大成功でした。続いて何人かの被験者を集めて第二、第三の実験を行いました。お姉様は、その実験の被験者だった子供の一人です」
「案山子が僕たちを狙った理由も、樹の一族の遺伝子情報が僕たちの体内にあるからですか?」
「具体的な理由は案山子の背後にいる者から聞くしかありません。今までガーデンズ学園で行方不明になった受験生についても、バベルが公式に声明を発表したことは、今年の共通テスト以外にはありませんでした。バベルが隠している真実は、まだ他にもありそうです」
「今回は違ったということですか?」
「そうですね。おそらく、テロという予期せぬ出来事で一般の人々にも知られてしまったため、今まで通りの隠蔽はできなかったのでしょう」
アリマはティーカップを皿の上に置いて、話を続けた。
「証拠はありませんが、ガーデンズ学園側は毎年の共通テストが行われる日に合わせて、受験生の中から樹の一族の血を引く子供を見つけ出し、バベルに引き渡していたと思われます。七年前に取り逃がした子供たちを、今度こそ確実に捕らえるために」
僕が案山子と戦ったことが予想外の連鎖反応を引き起こし、噂を表沙汰にするきっかけを作ったようだ。
「アリマさんの話では他にも樹の一族になった子供がいるようですが、実験に直接関わった大人がいれば、その方の連絡先を教えていただけませんか?直接聞きたいことがあります」
「残念ながら、現在のダイアモンドクラブのメンバーは二代目で、先代のメンバーは全員、七年前に『庭師』というバベルの関係者によって焼き殺されました」
「一人残らず全員ですか?」
「はい。信じがたい話ですが、嘘ではありません。研究者とそれを指示したメンバーは皆、庭師の炎によって焼かれ、灰となりました」
真相を教えてくれる人がいなくなったのは残念だが、いくつかの疑問については答えが得られたので一定の満足感はあった。残りの疑問は、香月と父親に尋ねれば解決するだろう。僕は今までの話を頭の中でまとめた。
「僕からも一つ質問があります」
今になって根本的な話を切り出した。
「一度捨てたステラを、再び本家に連れて行こうとする真意は何ですか?」
「随分と回りくどい言い方をしますね」
アリマは苦いコーヒーを一気に飲み干し、イチゴを口に入れた。
「子供にとって大切な存在は誰だと思いますか?」
「僕の質問に質問で返さないでください。真面目に答えるつもりがないなら、この場でTGCの知り合いに連絡してステラの件をお願いすることも考えています」
「なぜですか?炭咲さんはお姉様の代理保護者に過ぎず、私は実の妹です。家族である私が、身内のお姉様を引き取ることに理由が必要でしょうか?」
「本当に大切に思うなら、子供を捨てたりしません。子供のためであれば、何があっても親として子供を見守るものでしょう。捨てた理由は聞きたくありませんが、まずは子供を大切にしなければ、また同じことが起きないとは保証できないと思います」
それだけ言うと、アリマさんはしばらく口を閉ざした。
自分らしくもない余計な世話を焼いて、アリマを怒らせてしまったと思った。しかし目の前の相手の顔を見た瞬間、アリマへの警戒心を強めた。
微笑んでいる。ただそれだけだった。努めて微笑んでいたが、その無理な笑顔がかえって違和感を生んでいた。それは、心に傷を負った少女の寂しい微笑みにも見え。
「失礼、前置きが長くなりました」
彼女は当たり障りのない答えばかりをして、最後に残った一口分のケーキをフォークに載せて僕に差し出した。
「炭咲さん、お姉様の世話係としてではなく、本当の父親になってくれませんか?」
あまりに唐突な提案に、僕は自分の耳を疑った。アリマは今の言葉など何でもないかのような平静な顔でカフェ内を眺めていた。
「今すぐ答えなくても構いません。五日後の朝までに決めていただければ」
「正気ですか?」
「と、言いますと?」
「普通に考えれば、ステラを各務家に連れ戻すために僕を説得するのではなかったのですか?」
「私は契約の話を提案した時点で、炭咲さんにお姉様をお任せしようと決めていました」
「いや、おかしいです。絶対におかしいです」
「契約が終わるまであと二日ほどですが、その間にお姉様に良い父親の姿を見せてください」
「冗談にも程があります。僕の意見も聞いてください」
僕は両手を振って制止した。
「そう簡単に、一日二日で僕が実の父親を超える父親になれるわけがありません。子育てのことを考えても、一人暮らしの男性より、経済的に安定している各務家の方が、ステラにとって何不自由なく暮らせると思います」
「炭咲さん、私が軽い気持ちでお姉様をあなたに預けるような人に見えますか?それに、良い父親になるために求められる部分は、子供を大切にする心構えだと炭咲さんがご自分で言いましたよね。あれは、ただの言い捨てでしたか?」
「いや、いくら何でも突然それは——」
話し終えたアリマは、一層顔の線を固くし、少しきつく感じられる目を窓から僕の方へ向けた。父親の会社で見たアリマさんの人形とそっくりだった。それほど軽い雰囲気は微塵もなかった。
「私は姉様の家族である前に、一人前の起業家です。炭咲さんであればお姉様を任せても問題ないと判断した根拠と理由を考えてお願いしています。お姉様には、あなたが必要なのです」
「もちろん、アリマさんの判断は尊重します。しかし、これは一生涯、本当にステラの人生にとって重要な分岐点です。僕は六年以上を親と離れて生活し、今でもあいつからの支援を断って一人で暮らしています。そのような僕が、父親らしくステラを育てることができると思いますか?」
「逆に聞きたいのですが、父親らしい人物とは具体的に誰のことでしょうか?」
「それは当然、子供に優しく経済的にも安定した大人のことです」
「その基準で判断するなら、炭咲さんの家庭の事情や貧しい境遇が改善された場合、お姉様の父親になる資格を得られるということでしょうか」
「僕から目を逸らしてください。僕は親の役割など初めて経験する、ただの十五歳の子供です。期待されても困ります」
「何も期待していません。だからこそ私が炭咲さんにお願いをしているのです」
アリマは差し出したケーキを僕の口に入れ、にこりと笑った。
「立場的に考えれば、最近お姉様の面倒を見始めた炭咲さんと、年を重ねた大人が初めて父親になった時に経験することの間に、大きな違いはないでしょう。大人だって、パパとママになることは初めてです。炭咲さんは、パパになる機会が他の人より早く訪れただけです。その機会を掴むか掴まないかは、炭咲さん次第だと思います」
アリマはそれを最後にフォークをテーブルに置いた。
「どうか、炭咲さんが考えた理由や条件は置いておいて、本当にお姉様のために必要かどうかを考えてください。どうか、引き続きよろしくお願いします」
ここまでの話を聞いて、僕は口を閉ざした。説得力があるからではない。ステラのために僕を説得しようとするアリマの様子を不思議に思いつつも、言い返す言葉が浮かばなかったからだ。僕自身が思っている以上にステラを大切に思う気持ちが強くて、断りづらくなった。
「お姉様の本当の親になってくれませんか?」
アリマの言葉が、静かに耳元に留まった。
親など、僕の人生には不要な存在にすぎないと信じていた。実際、父親からの経済的支援がなくても、自力でアルバイトを見つけ、一人暮らしに必要な生活費を稼いでいる。まるで最初から独りだったかのように、不便でも不満に思ったことはなかった。
父親の手で荒れた人生を送った僕には、自分の身を守ることなど簡単にできる。父親に散々振り回され、苦労した人生に慣れているからだ。
ただし、ステラの父親になれるかという話は、また別の問題が生じる。家族の安全が関わる場合、正直な話、僕が判断を間違った時のプレッシャーに耐えられるか分からない。ステラには、僕が歩いた道を同じように経験させたくない。ステラには、できるだけ幸せな毎日を送らせたい。人生の主役が僕からステラに変わった時、僕の人生に何か物足りなさを感じるようになった。
仮にステラが僕の娘になった後を想定しても、心配の種は残っている。果たして、ステラが僕の見苦しい一面を見ても、僕を嫌いにならずにいてくれるだろうか。家族になってから、互いを傷つけるほどの大喧嘩をしても、ずっと一緒にいられるだろうか。
僕はマグカップのココアが冷めるまで、じっと考えた。
「炭咲さん、何か甘い物でも注文しますか?」
僕は何気なく、心が望むままに口にした。
「オレオクッキーミルクをお願いします」
「承知しました。オレオクッキーミルクですね」
それから僕はアリマと一時間ほどカフェで明日の予定について話し合い、久しぶりに料理の材料を買ってから家に帰った。
ステラはまだ何も知らずに居間で眠っている。すやすやと眠る天使の寝顔に、艶のある髪が白い頬にかかり、小さな耳は枕に隠れて見えなかった。明日は午前中に水族館に行く予定だから、そろそろ昼寝はやめさせた方がいいと思ったが、寝ている顔があまりにも可愛くて、もう少しだけ寝かせておくことにした。
その間に僕は、時間的にはまだ早いが夕飯の準備を始めた。フライパンをあらかじめ洗い、ネギ一本をまな板の上に置いて包丁で小さめに切る。今日の夕飯はネギ油を使った鶏の唐揚げだ。一ヶ月に一回、贅沢な気分を味わいたい日にしか作らないが、一人暮らしを始めた頃、中華料理屋で初めて習った料理が鶏の唐揚げだった。他の料理は下手でも、これだけは自信があった。
洗ったフライパンに火をつけ、油を入れると、そのうち寝起きでぐずるステラの声が聞こえてきた。
「パパ、うるさい」
僕はごめんなさいと謝り、料理が終わるまで我慢してくれるよう頼んだ。
「料理?パパ、何作るの?」
ステラが眠たそうな目をこすりながら言った。
鶏の唐揚げと答えると、今度は期待に満ちた表情で僕のところにやってきて、料理をする姿を見上げた。アリマも念のため、ステラが怪我をしないよう隣で僕たちを見守っている。
なんだかんだ言って、家族らしい雰囲気が漂い始めた。僕は心の中で呟きながら、電子レンジにパックご飯を入れて温めた。