第8話 家族喧嘩
「お前も、この家から出ていけ」
冷たい声が部屋に響き渡った。混乱した僕の口から、取り返しのつかない言葉が流れ出た。
三人での生活が始まって四日目の朝だった。前日映画館で過ごしたせいでインフルエンザにかかってしまった。体調は最悪で、頻繁に出る咳と共に熱が上がり続けていた。全身を覆うだるさの中、かろうじて水を口に運んだ。
少しでも体調が回復したら、二人と一緒に出かけたかった。しかし、半日で治る病気ではない。
「アリマさん、今日は体調が悪くて外出は難しいと思います。申し訳ありませんが、ステラと二人で出かけてもらえますか?」
今日の予定は葛西臨海水族館だった。海の近くにある水族館で、家から一時間ほどの場所にある。電車とバスを乗り継ぐ必要があったが、アリマはタクシーでの移動を提案した。僕は当然、そこまでする必要はないと強く断った。
「だめです。一緒に行かないと意味がありません」
アリマの声は有無を言わさない調子だった。
「午後に出発しますので、それまでに体を休めて治してください。お願いします」
「いえ、午前中に治る病気ではないので、無理です」
しかし、頑固なアリマは一歩も譲らなかった。
「午後の予定を変更して、まず病院に行きます。その後、薬を処方してもらって、水族館にはタクシーで向かいます。お姉様にインフルエンザが移らないよう、室内でもマスクを着けてください」
「おい、なんだその言い方は?」
話がまったく噛み合わない。僕は休みたいと言っただけなのに。大声を出したせいで、喉がさらに痛んだ。
アリマは僕の話を聞く様子もなく、淡々と着替えの準備を始めた。
「予定をキャンセルする選択肢はありません。炭咲さんには契約を履行する義務があることをお忘れなく。お分かりいただけましたら、午後までゆっくりお休みください。タクシーが到着次第、具合が悪くても予定通りに動きます」
「死にそうな人間に対して契約の義務の話は酷くありませんか?」
人の話を無視する態度に怒りがこみ上げた。
「口約束で契約した時は、義務の話なんて聞いていません。アリマの話は分かりました。ステラの父親役はここまでにします。あとは僕がいないところで好きにしてください」
「逃げるおつもりですか?」
アリマが舌打ちをした。
「最初に、父親役を何だと思って契約を引き受けたのですか?父親とは、子供が生まれた瞬間から責任と愛情を持つ存在です。自分より子供を優先し、自分を犠牲にしても子供を守る。時には常識を超えてでも、子供の夢を実現するために努力する。それが親なのです。炭咲さんにも親がいるのだから、私の話は分かるはずです」
話の最中に、ステラが二人の間に入ってきた。すでに外出の準備を整えた状態で、僕とアリマの顔色を窺った。さっきまで平和だった雰囲気が、なぜ殺風景になったのか。ステラは戸惑っていた。
「炭咲さん、あなたはまだお姉様の父親です。それだけは忘れないでください」
頭の回転が鈍くなった今、アリマの話は半分以上聞き流していた。しかし、彼女の口から出た言葉がふと耳に引っかかった。
義務とは何だろう。
何度も自問すると、僕はナイフを胸元に突きつけられたような気分になった。それでも今になっても、自分にパパ役を強いる義務感は感じなかった。ある意味で、どこかで親になる覚悟はできていたかもしれない。でも、今の状況に直面する覚悟はしていなかった。
遭遇した子供ステラが、死への諦めに沈んでいた僕を自分の世界に引き込んだ。お互いに一種言いようのない強い親近感を抱く関係が、僕が気づかない間に結ばれていた。思いもよらない偶然から一人の子供と知り合いになって、僕の性情は不思議な方向に導かれている。
僕は初めて味わう感情に、心臓が締め付けられる感覚を覚えた。これは漠然とした誰かへの怒りを思い出させた。似ているが、本質は違う。あえて言えば、これは自己嫌悪に近かった。
「怖いパパはダメ。ネネに優しくして」
隣で話を聞いていたステラが、軽くパンチを繰り出した。
僕は奥歯を固く噛み合わせ、肩で息を吐いて背筋を伸ばした。泣き腫らしたようなステラの顔が目の前で邪魔になった。
「人の耳元でギャーギャー騒ぐな。今はアリマと話し中だ。邪魔になるから、僕の前から退きなさい」
右腕を上げて、ステラの肩を押し退けた。
「お姉様に何をするのですか? ネネ、大丈夫?」
アリマの慌てた声で、ふと我に返った。僕は、ステラを簡単に押し退けられるほど軽くはないだろうと考えていた。
「いや、僕は——」
傷つけるつもりはなかったと言う前に、ステラと目が合ってしまった。ステラは激しいショックを受けて、泣きそうな顔で僕を見つめている。罪悪感が心の底から噴き出した。
「パパなんて大嫌い」
それだけ言い残して、ステラは素足のまま外に出た。鉄製の階段を駆け降りていく。呼び止めようと手を伸ばしたが、壁の方から不吉な音がして視線を移した。ステラの足に赤い糸が絡まり、プッシュピンで固定した写真が全て剥がされていた。玄関のドアには、糸に絡まった紙がゴミのようにぶら下がっていた。
虚無の中に生まれたかのような長い沈黙を破って、僕は口を開いた。
「お前も、この家から出ていけ」
「何を言っているのですか。このまま、お姉様がまた行方不明になったら、ただでは済まないと思ってください」
アリマは僕のコートを借りて、玄関のドアを開けっ放しにしたまま、家出したステラを探しに出て行った。
僕は一枚の破れた関係図を見上げ、独りでくすくすと笑った。なんだか、大いに空振りをした気分だ。ジェットコースターのような感情の波に振り回されても、幼い子供に八つ当たりした行為は、決して正当化されない。すでに起きたことに後悔を重ねても無駄だった。
気持ちが落ち着くまで待てない。僕は取り急ぎ灰色のチェスターコートを着て、玄関のドアに鍵をかけた。普段よりも強い雪が降っており、外の寒さで白い息が口の周りに広がった。朝の時間帯にもかかわらず、曇った天気が街中に影を落として夜よりも暗く見える。
まだ家を出て五分も経っていないから大丈夫だと自分に言い聞かせるものの、心の中の不安がひたすらに足を急がせた。
この街は都内でもノバナが多く滞在している場所だ。TGC内では「ネペンテスの鉢」と呼ばれ、ノバナを狙って寄ってくる虫どもを排除する依頼が毎朝会社に来る。実戦経験が足りなかった新人の頃は、先輩の指示に従って動いたが、あの時に遭遇した虫どもの力は人のレベルをはるかに超えていた。
「はあ、もうこの街を離れてしまったかもしれない」
自分を責めた。
足跡が雪で消えて、これ以上追跡が困難だと思った時、雪の上に何かを見つけた。それは、僕が壁にピン留めして使った赤い糸と同じものだった。
これだ、と本気で感謝した。ステラが外に出た時に糸が体のどこかに引っかかり、地面に引きずられたようだ。僕は雪の積もった住宅街でその手がかりを追い、ステラがいるところまで駆け出した。
道路の端で右に曲がり、小さな橋を渡って別の街に着いた。足が止まった場所は、四月に完成予定の工事現場だった。帰り道にあるから見慣れた場所である。周りに人影は見当たらない。
赤い糸は入口のパネルゲートの奥まで続いている。他に探す方法は思いつかなかった僕は、入口近くにある安全ヘルメットを被って中に入った。
金属製の板の足場と防護ネット、養生シート等で囲まれた内側は、外からの光が遮断されて夕暮れに近い暗さの雰囲気がした。雪風で単管パイプが互いにぶつかって、甲高く不快な音を鳴らしながら、暗闇が僕の足を奥へと向かわせた。
「……けて」
人の声が闇の奥から聞こえてくる。
「た……け」
湿気が濃くなった。一歩ずつ時間をかけて声が聞こえる方向に近づくと、人の顔と片手が闇の真ん中に浮かんで、力なくうめき声を上げていた。赤い糸はその人の片手にぶら下がっている。
声の正体を確かめて分かった。あれは、ノバナを狙って街に潜り込んだ虫どもの一員だ。僕は、ステラを脅かす存在を先に見つけ出して安心する一方で、とても嫌な予感がして後ずさりしながら、前方に向けて警戒を強めた。
「タスケテ——」
遺言らしい言葉を最後に、完全な闇に飲み込まれ、怪しげな姿は消え去った。ここで僕は闇の向こうで何かの動きを感知した。その何かは、ギザギザに並んだ歯で人の肉と骨を噛み砕き、喉越しよく獲物を胃袋の中に入れ込んで、最後は物足りなさそうに舌鼓を打った。
かすかに闇の向こうから姿を現した存在は、左右の眼球を別々に動かしながら、大振りで長い鼻といった彫りの深い顔立ちには、なんというのだろう、野生の威嚇とでもいうようなものが感じられる。有無を言わさぬ威圧感が、存在そのものから発されているようにも思える。
やや大きめの爬虫類らしき何かが、ぜいぜいと荒い息をついて僕の方に近寄った。しかし、その正体は暗闇ではっきりと確かめられず、馴染みのない足跡を地面に残すだけだった。アルファベットのYを連想させる足跡は根本から二つに分かれ、その先にまた分かれた二本と三本の指を持っていた。二日前に遊びに行った動物園でも見たことがある生き物だ。
「巨大カメレオンなんて聞いたこともない」
透明に擬態した野獣に驚愕しつつ、勝てない相手に戦意を失って、頭の中が真っ白になった。勝てるどころか、ここから生きて帰れる自信さえなくなっている。
動物園で見たカメレオンは、わずか二十分の一秒で舌を伸ばし、舌の先から出る粘液で獲物をくっつけて捕らえた。目にも止まらない速度の攻撃を僕が避けるのは現実的に無理がある。改めて、人間の無力さに打ちのめされるような気がした。
「下手に動かない方がいいです」
隣から聞き慣れた女の子の声が響いて、僕の耳元に届いた。
「お姉様はこの中のどこかに隠れています。先にお探してください」
「アリマさんは無事ですか?」
内心ではステラが心配だったが、妹の安全も確認しないと、あの子に申し訳ないと思った。
「私の心配をする前に、まずは自分に差し迫った危機を脱する対策を考えなさい」
当然のことながら、頭の中で大量の思考がぐるぐると渦巻き、カメレオンと対面した事態を打開する方法を模索し続けている。しかし、完全にパニックになったステラの顔が目の前にちらつく。
弱肉強食の世界で、ステラは僕よりも小さな生き物だ。カメレオンがここにいる理由は後回しにして、所在不明のステラがいる場所を見つけ出すことを最優先で考えた。
「炭咲さん、直ちにその場から離れてください」
アリマの合図に合わせて、巨大な影が地面に長く伸びた。そこに突然現れた謎の爬虫類は不気味な地鳴りを起こし、僕と先ほどのカメレオンの間に割り込んだ。黒みを帯びた緑色の体を持った色違いのカメレオンは、口を開けて縄張り争いのように激しい喧嘩を始めた。
僕は体色を変える二匹のカメレオンから逃げ出して、独りで怯えているはずのステラを探しに暗い鉄骨の中を走り回った。
「ステラ、どこにいる。僕の声が聞こえたら、答えて」
「パパのこと嫌い。もうあっちに行って」
反応は意外と上の方から聞こえてきた。
どうやって二つ上の階に行けるのかを頭の中で想像して、周りを見渡したところ、土木作業員が作業時に使う仮設階段を発見した。階段は狭いため、建物の壁に張り付いて歩かないと単管パイプに上着が引っかかってしまう。ちょうど小さい子供が自由に通れる階段だ。
七階建てのビルの高さを、命綱もつけずに移動できるなんて、どういう精神力なのだろう。今更ながら、ステラの恐れ知らずな勇気と大胆さは認めざるを得ない。
「危ないから、一緒に降りよう。アリマさんも今、ステラのこと心配している」
今度は上から、だだだだ、と走る音が響き、同時に階段全体が軽く揺れ動いた。喧嘩を終えたカメレオンがここに戻ってくる場合、僕を含めて足場の作業床の上にいる者が危険な目に遭うかもしれない。
「ステラ、どこだ。危ないから、動かずに僕が行くまで待っていろ」
と叫んだ瞬間、誰かの悲鳴が上がった。
「ネネ、危ない!」
顔を出して上の階を確認すると、一匹のカメレオンが単管パイプを木の枝のように器用に伝って登っていた。地上で遭った二匹のカメレオンとはまた別の種類である。カメレオンの視線の先には、走る子供の人影がかすめた。
先に動き出した獣よりステラがいる階まで行くことは現実的に困難だと判断した僕は、階段ではなく工事用に設置された鉄パイプを踏んで上まで登り始めた。
「ステラから離れろ」
人の言葉を理解したかのように、ギョロリと目玉が反応した。
しかし、カメレオンは言葉通り僕を見下ろしながら、体を前後に動かしながら、長い尻尾をくるりと巻いて腹の部分に密着させた。
向こうも僕の存在に気づいて意識している様子である。
カメレオンとの距離を三分の一ほどに縮めて、僕は再び階段で動き出した。二、三段を一気に駆け上がると、風邪気味の疲れなど感じる暇もなかった。
「ここから先は、関係者以外立ち入り禁止だ」
僕は一回の深呼吸で体重を片足に乗せた。そしてすぐ、膝を内側に向けて腕を伸ばし、体をひねってカメレオンの腹にパンチを放った。爬虫類の皮膚は硬くて、肩がずきずきと痛んでくる。だが、いきなりの攻撃に危険を感じたカメレオンは体を膨らませ、威嚇音を出した。
「カメロンちゃんを傷つけないで」
ステラの声だ。顔を上げて様子を確認する途端、カメレオンの尻尾が僕の首を巻き取り、きつく締め付けた。息が苦しくなって体に力が入らなくなり、大人しくカメレオンの目の前まで運ばれた。初めて自分より大きな爬虫類と対面して、背筋にざわっと鳥肌が立った。
僕はカメレオンと緊張したアイコンタクトを通して、お互いの存在を認め合った。といっても、一方的に食べられる直前まで追い詰められているのは僕だった。
「パパを食べちゃダメだよ。カメロンちゃん、こっちにおいで」
ステラが子供をあやすような口調で、やわらかな声で巨大な爬虫類に呼びかけた。カメレオンは素直に言うことを聞いて、僕をステラの前に降ろしてくれた。
僕は安心しつつ、ごほんごほんと苦しく咳き込み、ようやく息を整えた。あと数秒で気を失うところだった。
「ステラ?」
自分の前に立っているステラの身の安全を確かめた。
「どこか、怪我はしていないか?」
「邪魔だって言ったのに、なんでステラのことを探したの?」
「ごめんなさい。僕が、ステラに悪いことを言ったから、謝りに来た」
隠さずに、直ちに僕の過ちを認めて二人の関係をやり直そうとした。
「ここは危ないから、一旦下に降りてから話さない?」
話を聞いたステラは顔を横に振った。
「パパがステラの心を傷つけたから、一緒に帰らない。だから、別に謝らなくてもいい」
僕は膝を曲げて、ステラと同じ目線の高さになった。
「本当にごめん。僕が病気で機嫌が悪くて、ステラに八つ当たりしてしまった。君は何も悪くない」
ステラの瞳に涙がたまっているのが見えた。
「パパ、本当に反省してる?」
「している。君を傷つけて、本当に申し訳ないと思っている」
「じゃあ、今度は優しいパパになる?」
「なる。約束する」
ステラは小さくうなずいた。
「カメロンちゃんも、ステラを守ってくれたの。だから、カメロンちゃんにもありがとうって言わなきゃ」
僕はカメレオンの方を向いて、頭を下げた。
「ありがとう、カメロン」
カメレオンは色を変えながら、満足そうに鳴いた。
「それじゃあ、みんなで下に降りよう」
ステラは僕の手を取って、にっこりと笑った。
「うん。でも、パパの熱は大丈夫?」
「君が無事なら、もう何でも大丈夫だよ」
三人と一匹は、雪の降る工事現場から静かに家路についた。赤い糸は、僕たちを結ぶ新しい絆の象徴のように、雪の中に鮮やかに映えていた。
ステラは拗ねた顔をしていたが、白い雪の光が、その表情の奥にある余裕を照らし出していた。その余裕がおとなびているように見えて、僕にはステラの本音が透けて見えるような気がした。今思えば、当時の僕の勘違いだったのかもしれない。
まだ子供だと油断するには、ここ二、三日の間であまりにも急成長を遂げ、僕を驚かせた出来事がある。水を吸い取るスポンジのように、新しいことをどんどん学習し、自分のものにしてしまう。
最近——といってもまだ一週間も経っていない関係だが——ステラに昔の自分の姿を見るようになった。これからは荒い言動には注意を払おう。ステラの前で膝をついた状態で、自分の行動を省みた。
「僕がどうすればいいか教えてくれない?誠意が伝わるまで謝りたい」
「セイイ?ステラはムズカシい言葉は知らないの」
ステラが皮肉めいた口調で言い返した。
「さっきのステラが話したこと、全然聞いてないんだ。サビシい」
ステラに冷たくされて、僕は少なからず驚いた。焦るまいと意識しても、頭の中とは裏腹に、心の底では夏の嵐のように揺れていた。
せめて今まで交わした会話の中で、ステラが怒った理由を教えてくれれば、『それ』に近い返答もできるのに。『それ』が分からない僕は、思いをまとめないまま何でも喋ろうと口を開いた。すると頭の中で、たまたま煌めいた過去の過ちが、稲妻のように脳裏から飛び出してきた。
「分かった、アリマさんに怒ったからだ。そうだろう?」
ステラは言った。
「パパ、何を嬉しげな顔をしているの? ステラ、まだ怒ってるよ」
両腕でしっかりと膝を抱き、幼い顔に不機嫌な表情を浮かべている。
僕は先ほどの部屋でやらかした暴言を思い出したが、ろくな謝り方は知らず、かといってこのまま放置するわけにもいかない。ここは一先ず頭を下げて、ステラの機嫌を伺うことにした。
「アリマさんに本当に申し訳ないことを言ってしまい、すみませんでした」
「違う、違うの。それじゃないの。なんでステラの前で嘘をつくの?」
無邪気な顔で攻め込まれた僕は、以前に経験した同じような違和感が底深く這い上がり、ふと不安を感じた。ステラの声が図星を突き、自分の頬を冷や汗が伝うのが分かるほど、今の僕は緊張していた。
今まではとりあえず謝って、その場を取り繕ってきた。お互い、わざと口に出さないという暗黙のルールを守って、ただ表面の礼儀だけを弁えて聞き流してくれた。それをステラは敢えて関係の中に持ち出して、「本当にパパが怒った理由ってなに?」と、僕が本音を語るまで待っている。
「大丈夫、ステラはパパの話ぜんぶ聞いてあげる」
ステラが僕の頭を撫でながら慰めの言葉をかけてくれた。その手の温もりに触れて、父親が嫌いになった理由を思い出した。
僕は昔、父親——あいつを世界一尊敬していた。クラシック音楽が好きだった父親の書斎からは、いつも音楽が流れてきていた。毎月、生活費がなくて貧乏な食卓を用意することになっても、本に関しては気にせず買ってくれた。おかげで僕は、六歳になってからは父親が集めた研究用の資料を少しでも読めるようになった。知らない単語があった場合には、自力で調べたり、父親に質問して答えを得た。
「身の程を知らずに大それたことをする」という言葉があるが、まさに昔の僕のことだった。それほど父親は、僕の世界のすべてだった。
だからこそ、あの日、父親が立てた仮説を証明する場で、僕は第一適応者として接木の手術を受けた。実験は大成功だった。元々僕が持っていたトゲが活性化し、手術は問題なく終わった——と後から香月から聞いた。
「君を育てるために俺の目標を諦めたくない。だから、君は俺に恩を返す必要がある」
父親はそう言った。
結果的に、父親は喉から手が出るほど欲しがった出世を叶え、残りの二人は一握りの灰になった。僕のせいで家族がばらばらになった。
施設に入って一週間は、服も着替えないまま父親が来ることを待っていた。僕を見落としてしまうのではないかと、ひどく不安だったからだ。一ヶ月が経ってからは、父親に電話をして謝った。僕が悪いことをしたからだと勘違いしたからだ。一年が経過して、僕は、父親への復讐を誓った。そうでもしないと、自分も父親と同じ道を歩む未来が来るのが怖かった。
父親一人のために、我を捨て、未来を捨て、家族も捨てた。
父親一人のせいで、名を捨て、過去を捨て、命も捨てた。
ところで、ステラが僕の本音を聞きたがっている。昨日と明日が一つの点として噛み合った今、ステラは僕のどこまで知っているのか。不安に胸を締め付けられるような感覚がした。
昨日まで赤の他人だった女の子が、僕に娘になりたいと告白した。しかし、それは単なる美談では済まない話だった。僕と父親の間に、僕とステラの間に、すべての人間関係に潜む記憶の残滓を、彼女は見抜いているのではないか。
「アリマさんは正しいことを言った。僕も知っている。それなのに何故か僕は、僕が一番嫌いな父親と同じ態度で、二人を傷つけてしまった。うまくパパの役割を果たせると思ったのに、全然できていない」
世間に気兼ねして立ち止まっていた時間が動き始め、つぐんでいた口から爽やかな味がした。
「僕は、父親の影から永遠に逃れられないかもしれない」
この親にしてこの子あり。父親——あいつから生まれた僕に、父親——あいつの背中を見詰めて生きてきた僕が、果たして父親の存在になれるのか。自信を失った僕は、小さく独り言をこう呟いた。
「最初から君の保護者にならない方が良かった」
「違う、違うの。パパはステラのパパなの」
その切ない訴えに、仰向いたステラの顔は今にも泣きそうな表情をしていた。
目はかっと見開かれ、ついに涙に濡れて、僕の胸は痙攣するように波打った。
「パパはステラが選んだパパなの。ステラはパパが好きなの」
僕の重い話を和らげようと、ステラが言葉を切った。人生には思い出したくない、うまく言い紛らしてしまいたい時があるものだ。ずっと後になってみれば、惨めな空気に埋もれ、それもばかばかしく感じられるだろう——とステラの瞳に映った自分の顔を眺める。
ステラは快活な性格の子だ。今日の出来事は明日になるときれいに忘れて、元気そうに新しい一日を過ごしてくれるだろう。きっと僕の話を聞いて嫌がっても、いつかは理解してくれるはずだ。
「ごめん、ステラ。やはり僕は、ステラのパパには——」
「いやだ、いやだ、いやだ。聞きたくない、キキタクないない、ない!」
互いの関係から愛情が不意に起こってくるのを、僕はしばしば避けていた。中途半端な優しさが内なる感情として父性愛を呼び起こし、人知れぬ情の炎に心を燃やしながら、形として明確に結ばれないように、ステラと心の距離を置いた。実のところを言えば、情緒的な理由ではなく、「僕なんかがステラの保護者になれる資格があるのか」との根本的な質問から始まった不安が胸に去来したことだった。
「ステラのパパを返して!」
動揺するステラの鳴き声に、足場が軽く震え動いた。規模の浅い地震かと思い込んだが、それに比べて地表で伝わってくる揺れは小さい。
「極めてセンシティブなお姉様です。それ以上は刺激しないでください」
背後から密かに忍び寄った声が僕の耳を打った。
「アリマさん?」
「説明は後からにします。今はお姉様を抱きしめて落ち着かせてください」
アリマの目に怯えに似た色が瞳に差していた。
「ネネ!」
やはり聞き違いではない。アリマもステラを「ネネ」と呼んでいる。これで二度目だ——と思っている間に、不安定だった足場がカメレオンの重さに耐えきれずに崩壊した。僕は前方に身を挺して、ステラの頭を右手で守って懐に抱き抱えた。下に落ちる間際に一本の単管パイプを掴み取り、ギリギリで命拾いした。
でも、この状態で長くは持たない。二人の重さに耐えるには、体もパイプも限界が近づいていた。
僕は腕の力だけで体を支えた。足元に何かが触れるまで耐え続け、鉄筋に足先が届いた瞬間、その反動を利用して上に向かって体を押し上げた。
「アリマさん、ステラを頼みます」
最後の力を振り絞って、ステラをアリマがいる階まで押し上げた。その直後、鉄のパイプが限界に達して折れた。ステラは無事に足場の上に着地し、僕は七階建ての高さから地上一階に落ちるまでの数秒間を空中で過ごした。
建物の残骸が連鎖的に他の鉄骨を巻き込んで崩れ落ちる中、冬風に震える工事現場は砂煙に包まれた。風が耳を切り裂き、やがて平和が地上に訪れた時に、心臓は重さを失ったように軽やかに、いつもと違って鼓動を忘れたかのように静かに脈打っている。朦朧とした意識の中で、僕は下敷きになった体を動かしてみた。不思議なことに、手足の痛みが少し和らいできる。頭の中は霧がかかったように白くなり、そこで大きなあくびが出た。まだ朝を迎えて数時間も経っていないというのに、軽い眠気がぼんやりと視界を覆ってくるのを感じる。
「あ、なんだか、疲れた」
少しだけ、沈んだ気分が晴れたような気がした。その網膜にステラの像を捉えようと目を細めたが、脳からは血の気が引き、意識は混濁していく感覚で全身から力が抜けた。
「パパ、死んじゃだめ」
どこからか少女ステラが泣き声を迸らせた。
音が籠もってステラの声がよく聞こえない。程なく体に強い寒気が走り、手足がわなわなと震え出した。激しい渇きを覚えた喉は、息を吸うたびに、喉の奥から血が込み上げてきて咳が出た。おかしい、僕は死なないトゲを持っている体のはずだった。だが、今は死にかけている。
初日にステラを助け、初めて新吉原に泊まり、初めて父親に刃向かい、初めての動物園にも行った。今更ながら、ステラといる時間は何事も初めてだったことが不思議に思える。それぞれ悪くない時間が多かった。無彩色の白と灰色に分かれていた人生が、有彩色に満ちた人生に変わった。
死に至るまでちょうどいい季節だ——と僕は未練なく思いを手放し、空を漂う積乱雲を見上げた。大地が再び大きく揺れ動いた。時が来たと、僕は周りの変化を従容として受け入れ、目を閉じた。
「パパはステラが救ってみせる」
壊れたコンクリートの破片に覆われた地面から、太い樹の根が勢いよく伸び上がった。僕の体は暖かな温もりを帯びたオレンジ色の光に包まれ、生々しい何かが喉の奥に流れ込んできた。たちまち「飲まないと死ぬ」と僕に告げるように、全身の細胞が光を吸収した。
意識が明確になって、最初に目にした光景は、地面から生えた樹の根元が、壊れた周りの残骸を支える壁になって、外へと続く通路を作り出していたことだった。僕は雨の匂いがする森のトンネルで、道の真ん中に倒れているステラとその隣のアリマを見つけた。
「ネネ、ネネ!」
「一体、これは、何なんだ?」
「すべて、あなたのせいです! あれほどお姉様を刺激しないよう注意したのに。身を投げてお姉様を助けたのはありがたいですが、結果的にお姉様が力を使うことになり、状況は最悪です」
僕は状況に慌てる暇もなく、ステラの様子を伺った。ステラは汗をかきながら、ふう、ふう、と荒い息を吐いた。体も微妙に震えている。初めて見る症状に、応急処置のやり方も忘れてしまった。
「お姉様がまだ意識があるうちに、ここから出ましょう」
重いコンクリートの破片を支えていた樹の根が、軋むような音を立て始めた。もはや、ステラが作り出したと思われるこの応急のトンネルから一刻も早く脱出することが急務だった。
「一人で走れますか?」
アリマの問いかけに僕は頷き、ステラを抱えて、アリマと一緒に必死にトンネルを駆け抜けた。外で確認した工事現場は、見た限り、今にも倒壊しそうな雰囲気であった。余震に備えて工事現場からかなり離れた場所まで、二人は足を止めなかった。
しばらくして、工事現場から一大轟音が街中に広がった。家にいた人々は、それぞれ思い思いに動きはじめた。窓を開けて災難の正体を確認しつつ、消防車のサイレン音に外に出る人もいる。その景色は、人々の感情が織りなす交響楽であって、実に多彩な表情を見せていた。
その騒然とした光景に向かって人々が足早に駆け寄る中、僕だけが川を遡る魚のように、粛々と反対方向へ歩いていた。