第7話 束の間の幸せ
東京都内から荒川大橋を渡り、江戸川区に向かう高速道路で、久しぶりに冬の海を眺めた。十二年前の大震災で、この辺りは津波によって水平線まで綺麗に掃き清められた。
東京湾の主要航路が閉鎖されてから二年が経ち、三年目にして奇跡的に海外貿易が再開された。海外メディアは「東京ミラクル」と呼んで、前代未聞の出来事として報じた。
しかし、景気回復の陰には莫大な犠牲があった。街には家と職場を失ったホームレスやノバナが前年度より二割増加していた。バベルは当初、彼らに臨時避難所を提供し、日常生活に戻れるまでサポートを続けた。だが翌年、東京都内で大火災が発生し、大勢の命が失われた。避難所使用の優先順位から外され、人々は再び街に追い出された。
僕がTGCでアルバイトを始めた頃、老若男女を問わず、二十歳前後の若者から高齢者まで、センターで配る無料弁当を求めて昼時間の一時間前から行列を作っていた。現場で働いた際、闇市で家賃より安い値段で取引されているノバナたちを、一週間で三十人以上施設に連れてきた。
「お嬢様、もうすぐ目的地に着きます」
考え事をしている間に、車は船堀に到着していた。東京都心まで電車で約二十分の町で、家賃の安い物件が多い。僕の住む桜ハイツも周辺より安い家賃で入居でき、冬の時期に空き家に住み着くノバナが若干増えることを除けば、住み心地の良い住宅街に建っている。
車が入るには狭い道のため、僕たち三人は車を降りて歩いて移動した。地上より三メートルほど高い台地の割には坂道が少なく、ほとんどが平地だった。隣を流れる川では、週末になると釣り人で賑わい、子供たちのはしゃぐ声がよく聞こえる。見た目には穏やかで平和な街だった。
「申し訳ございませんが、十五分ほどステラと一緒に外で遊んでいただけますか?部屋の掃除がまだ済んでいないもので」
眠そうなステラがアリマの手を握って言った。
「ステラも一緒に掃除する」
「お姉様のおっしゃる通りです。三人で掃除すれば早く終わりますし、一緒にやった方が効率的だと思います」
僕は困った顔で二人を制した。
「いや、本当に汚いんです。まず僕が掃除してみて、それでも終わらなければ手伝っていただきます」
説得力に欠けたが、事情を説明する時間がなかった。二人が近くの公園で散歩している間に、僕は郵便ポストの中から予備の鍵を取り出し、三階の部屋の扉を開けた。
電気をつけると、何日も放置されたゴミ袋から一週間前に食べ終わった弁当まで、腐敗臭とともに床に散らかっていた。今が冬でよかったと思った。
とりあえず窓を開けて不要な物は袋に詰め、全てゴミ置き場に運んだ。流し台では湯が出るまで蛇口を開けっ放しにし、その間に掃除機をかけた。古い服や下着は丸めて二槽式洗濯機に放り込んだ。洗濯機に水が流れ込む音がドア越しに微かに聞こえた。
一人暮らしを始めてから、部屋の掃除は週に一度だった。明日から五日間、三人での生活が始まる。今まで通りというわけにはいかないだろう。最低限、人に見られても恥ずかしくない程度には保たなければならない。
約束の時間まで三十分ほど残っていた。僕は久しぶりに片付いた部屋を眺め、壁に視線を向けた。部屋の片側には、施設を出た日から今年の共通テストに向けた人生プランが黒い線で描かれている。そして、それらのきっかけとなった七年前の火災事故に関わった人物の関係図が左側を広く覆っていた。
口頭で聞いた情報を付箋に書き込み、要注意人物の写真の周辺にプッシュピンで固定した。ネット記事は切り抜いて年度別に整理し、床に置いてある。最近は電子資料も並行して整理している最中だ。ただし、これらの情報は極めて機密性が高いため、全てローカルのハードディスクに保存している。集めた情報は最終的に、場所や人物写真などのプッシュピンを赤い糸で結び、一目で関係が分かるようにした。しかし一貫性に欠けるため、今までは情報収集に重点を置いていた。
この数日間で新しく入手した情報を黄色の付箋に順番通り書き並べた。カカシと樹の一族の繋がり、ガーデンズ学園と失踪事件の関わり、ステラの周辺関係など。七年前の火災事件をめぐって迷宮入りとなった真実のパズルピースが一つに集まりつつある。この事件は、同時期に発生した他の火災とは明らかに性質が異なる。意図的に仕組まれたものである可能性が高い。
「一人で七年前の大火災事件をここまで調べた人は初めてです」
後ろからアリマの声が聞こえた。
「素晴らしいです。私が把握しきれなかった情報もあります。一体、どこからこれほどの情報を集めたのですか?」
僕は振り返らずに壁の関係図を見つめ続けた。入り口はあるが、出口が見つからない巨大な迷路に他人を誘い込んだことは初めてだった。
「マスコミは事故として報道していますが、あなたも事件だと考えているということは――」
「ええ、その通りです。あれは人為的に起こされた火災です。地下の天然ガスパイプの爆発は、あくまで結果に過ぎません」
アリマは一歩前に出て、僕の隣に並んだ。
「しかし、真相を知っている人はごく一部しかいないはずです。炭咲さんがここまで辿り着いたのは、並大抵のことではありません」
僕は勢いよく振り返り、溺れる人が浮き輪を掴むようにアリマの肩を掴んだ。それは自分でも気付かない無意識の行動だった。
「誰から聞いた話ですか?詳しく教えてください、お願いします」
「落ち着いてください。確かに私が『事件』と言いましたが、事態の詳細についてはそこまで知りません」
アリマが苦しそうに説明を続けた。
「企業家の中で選ばれたメンバーだけが入れるダイアモンドクラブがあります。私が知っている情報は全てそこから聞きました。炭咲さんの必要に応じて、緑埜家を通さずに情報元を紹介することもできます」
冷静さを失った僕は、小さく震えている肩から手を離した。怒っているのではない。僕が間違っていないことを証明してくれる人に出会えて、素直に嬉しかった。
七年間、僕は一人で調べ続けてきた。施設にいた時から周りの人に妄想だと言われ、心配そうな目で見られても、僕が諦める理由にはならなかった。永遠に鳴り続ける電話にいつか応答があるまで、一日も休まずに資料を探しだ。アリマの口から出た言葉は、過去に葬られていた僕の時間を再び蘇らせてくれたのだ
「失礼しました」
僕はアリマに向き直った。
「興奮してしまいました。ダイアモンドクラブについて、もう少し詳しく教えていただけますか?」
「構いません。むしろ、炭咲さんの情熱に感服しています」
アリマは壁の関係図を見上げた。彼女の視線は、夜空の星を数える人のように、丁寧で集中していた。
「ダイアモンドクラブは表向きは企業家の親睦団体ですが、実際は情報交換の場として機能しています。政財界の重要人物が定期的に集まり、表には出ない情報が飛び交う。それはちょうど、地下で流れる暗渠のようなものです。表面からは見えないが、確実に存在している」
「どのような情報ですか?」
「計画的だったということ。そして、ある特定の組織が関与していたということです」
アリマは慎重に言葉を選んでいるようだった。まるで、壊れやすい陶器を扱うように。
「しかし、その組織の名前や詳細については、私も推測の域を出ません。だからこそ、あなたの調査結果に興味があるのです。同じ楽譜を違う楽器で演奏しているようなものかもしれません」
話の最中なのに会話はここで止まった。思わぬところで邪魔が入ったからだった。
「パパ、これは何?」
ステラが壁に垂れた赤い糸に手を伸ばした。
「勝手に触るな!」
咄嗟に大声を出してしまった。慌ててステラに謝ろうとした時には、既にステラは泣きそうな顔でアリマの後ろに隠れていた。僕はため息をついた。子供相手に大人気ない失態を見せた。
「この壁に貼ってある物は僕が大切にしているから、糸を引っ張ったり写真を剥がしたりしないでほしい。分かった?」
「パパ、ステラのこと嫌い?」
ステラは落ち込んだ声で僕の顔色をうかがって、今にも泣き出しそうになった。
「ああ、僕が悪かった。もう二度とステラに怒鳴らない。約束する」
泣く寸前の子供を慰める方法がすぐに思いつかない。
「よし、指切りげんまん、指切った。嘘ついたら針千本飲みます。これでパパはステラとの約束を絶対破らない」
「指キル?ハリセンボンってお菓子?」
ステラは今にも泣きそうな顔で僕と小指を絡ませている。
「もう一回しよ。ステラもハリセンボン食べる」
僕は少ししゃがんでステラの頭を右手で撫でた。短い期間とはいえ、五日間は僕がステラの保護者代理だ。ステラの前では乱暴な言葉遣いに十分注意しようと決めた。
「あの、約束の十五分が過ぎました。まだ何か掃除することがありますか?」
僕は洗濯機の終了時間を確認し、トイレの扉を閉めた。
「ありません。まだ早いですが、夕飯の準備をしますか?座って待っていてください。適当に何か作って――」
そう言って冷蔵庫を開けると、中が空っぽだったことに気づいた。
「すみません、買い物が必要でした。近くにライフがあります。一人で行ってきますので、ステラと一緒に休んでください。あ、着替えが先ですね」
僕は収納クローゼットからお土産でもらった大阪サブレの缶を探した。掃除の際に目につく場所に置いた記憶がある。ユニクロで買った黒いセーターに着替え、缶の中から小銭と千円札を数枚取り出してポケットに入れた。外はそれほど寒くなかった。
「行きたい、行きたい、ステラも行きたい!パパと一緒じゃなきゃやだ」
鼻声でステラが一緒に連れて行ってとせがんだ。ここまで自分の意思を強く主張したのは初めてだ。表情やコミュニケーション能力も先日と比べて豊かになっている。
子供は一人一人が個性を持ち、成長には個人差があると言われる。しかしステラは日々、周りからの新しい刺激を全て吸収して成長を続け、人を驚かせる。おそらくアリマも、このことに気づいて、身内であるステラの変化を一番近くで見極めたいから僕と契約したのだろう。
そうでなければ、僕の背景を知っていてもステラをこの家に泊まらせる理由がない。
「ネネも行きたいでしょう?ね、行きたいでしょう?」
ステラはアリマを「ネネ」と呼びながら、行きたいとアピールした。正直なところ、僕には悩ましい問題だった。子供の面倒を見るだけで疲れるのに、買い物までする体力がなかった。
「はい、ネネも一緒に行きたい、デス」
最後の「デス」は絶対にわざとだ。アリマは、人を困らせるためにステラをけしかけている。この二人は、育児経験が全くない僕にとって、とんだ災難だが、嫌いではない。
やるしかないだろう。僕は二人の目線に合わせて優しく話しかけた。
「二人とも、僕の話を聞いてください。今日の夕飯はコンビニで済ませます。各自、出かける準備をお願いします」
はしゃぐステラに灰色のフードパーカーを着せて、マスクで口を覆った。アリマは事前に用意した服に着替えて、僕が終わるまで待っていた。アリマにも手伝ってほしいと思ったが、諦めて靴を履いた。
ここでまたステラが、自分も靴が欲しいと駄々をこねた。当然、下駄箱に子供用の靴はない。どうしても欲しいと言うので、仕方なく靴下を重ね履きさせて僕のスリッパを履かせた、ステラのサイズに合わせてあげた。
「パパ、ありがとう。大好き」
全ての準備が終わり、僕たち三人は家の近くにあるコンビニに向かった。ステラが道中で雪玉を作って投げ始めると、自然に鬼ごっこが始まった。鬼は僕だった。家から五分足らずの距離を、三十分かけてようやく辿り着いた。
三人とも雪だらけになり、体は冷えたが、心は温かかった。
「ステラ、遊びはここまで。お買い物してから温かい家に帰ろうね」
店内に入り、まず弁当を選んで、ペットボトルの水を買った。他に明日の朝食用として食パンとイチゴジャム、子供用のヨーグルトも追加で買った。ステラが店内のガチャガチャに興味を示したので、百円玉を渡して好きにさせた。コンビニを出るまで約十五分、三人とも満足のいく買い物を終えた。
家に帰り、まず二人にお風呂に入ってもらった。その間に僕はコンビニで買った弁当やファミチキをテーブルに並べ、洗濯物を洗濯機に入れた。
「パパ、ステラはお腹空いたの」
ステラが後ろから駆け寄ってきた。
「ちょっと、まだ洗濯物を干しているから邪魔しないで。アリマさん、ステラをお願いできますか?」
「ステラもパパと一緒に洗濯物を干したいの、干したいの」
ステラがどうしても手伝いたいと言うので、洗濯物を干す作業を一緒にやった。終わるまで時間は倍かかったが、ステラは達成感に満ちた笑顔を浮かべた。
風呂上がりのアリマはまだ洗面台の前で何かしている。何をしているか気になって尋ねると、「スキンケアを行っています」と淡々とした返答が返ってきた。僕には馴染みのない習慣だった。
食事の準備を始めてからテーブルに着くまで、二時間弱が経ち、時計の針は午後六時を指していた。
「今日は、お疲れ様でした!」
というお礼の言葉に合わせて、三人で乾杯した。乾杯といっても、未成年なので酒の代わりにお茶とジュースを飲んでいる。
「ステラも乾杯!ネネも乾杯!」
ステラがまた騒ぎ出そうとした。前の住まいと違ってこの部屋は壁が薄く、隣に声が聞こえてしまう。そのため、僕はステラに気を配り、大声を出す前に急いでファミチキを食べさせた。
「アリマさんも何か食べますか?お口に合うかは分かりませんが」
「私は大丈夫です。それより、これを見てください」
アリマから受け取ったタブレットには、エクセルでスケジュール表が作成されていた。
「三日間のスケジュールを私なりに作成してみました。明日からはこれに従って姉さまと一緒に行動してください」
アリマが作成したスケジュール表は、三日分の予定がびっしりと詰まっていた。
日付ごとに、明日は上野動物園、明後日は新宿の映画館とイベントセンター、三日後は水族館が記入されていた。それぞれの項目には時間帯と最寄り駅が記載されており、一日の流れが一目で分かった。備考欄の参考リンクをクリックすると、家族連れにおすすめの観光地を紹介するサイトが開かれた。
「明日からの四日間は、姉さまと二人きりの思い出を作ることに集中してください。残りの予定は明日中に調べて追加しておきます」
「アリマさんは行かないんですか?」
僕は思ったことを口に出した。
「脇役である私が一緒に行っても、お二人に迷惑をかけるだけです。気にしないでください」
実の家族が抜けた家族旅行に、僕のような第三者が参加する。冷静に考えれば、確かにおかしな話だった。だが、このまま気まずい雰囲気を続けるわけにもいかない。僕は意識的に話題を変えることにした。
「ステラはアリマさんと一緒に動物園に行きたくない?」
「動物園?」
聞き慣れない言葉に、ステラの大きな瞳がきらきらと興味深そうに輝いた。
「パパ、動物園って何?楽しいところなの?」
僕は動物園をうまく説明できず、手元のタブレットで検索をかけた。
「これが動物園だ。中に入ると、こんなに大きな動物と可愛い動物が見られるよ」
タブレットの画面に映る象やライオンの写真を指差しながら説明した。
「へー、ステラ行きたい!」
ステラは持っていたおにぎりを丁寧に半分に割って、アリマに差し出した。
「これ、美味しいからネネにもあげる」
その無邪気な優しさに、僕は心が温かくなった。アリマも娘の気持ちを受け取るように、そっとおにぎりを手に取った。
一口食べたアリマの表情が、ほんの少し柔らかくなったような気がした。
「お姉様のお誘いですから、明日は特別に私も同行させていただきます。決して楽しみにしているわけではないので、誤解しないでください」
アリマは素っ気なくそう言ったが、その表情は隠しきれない期待で輝いていた。彼女なりの照れ隠しなのだろう。僕は彼女の本心を察しつつも、あえて何も言わずにタブレットに目を向けた。
明日の予定を確認する。正午から上野動物園に入場し、二時間のコースで園内を回ることになっている。上野駅は仕事で何度か利用したことがあるが、動物園は初めてだ。入口までの道のりを検索で調べながら、ステラが残したおにぎりを手に取った。
◇
「パパ、起きて!朝だよ」
久しぶりに夢のない夜を過ごして、ステラの声で朝を迎えた。しばらくぼんやりとしたまま何度か瞬きをし、「うーん」と寝ぼけた声を漏らしながら、声がした台所へ顔を向けた。
「炭咲さん、初日から寝坊ですか。お姉様への示しがつきませんよ、そういうだらしないところは」
アリマが母親のような口調で僕を叱る。その手元では、こんがりと焼き目のついた卵焼きが皿に乗せられていた。まさか、と思いながら枕元の携帯を探す。半分しか開かない目で捉えたデジタル表示は、無情にも午前八時を少し過ぎた時刻を告げていた。
「ネネ、パパが何も喋らないの。どうしよう」
心配そうなステラの声で、僕の意識はゆっくりと覚醒する。
窓の外から差し込む朝日が眩しい。僕はまだ少し重い瞼を瞬かせ、「おはよう、ステラ」と、自分でも寝ぼけているとわかる声で挨拶を返した。
「おはよう、パパ」
僕の声に気づいたステラが、少し離れた場所からぱっと顔を上げた。その表情は、見る者を安心させるような無邪気な笑顔だ。
「ネネが朝ごはんを作ってくれたの。ステラも手伝ったんだよ!ねえパパ、ステラは良い子?」
「ああ、すごく良い子だ」と褒めながら、ご褒美に彼女の頭をそっと撫でる。出会ってまだ数日だというのに、あれほど口下手で不器用だった面影はもう薄い。年相応の子供らしい表情を見せるようになり、気のせいか、背も少し伸びたように感じられた。
「お姉様、危ないから部屋の中で走らないでください。炭咲さんも、いつまで寝ているつもりですか? いい加減にしないと、本気で怒りますよ」
僕は憤るアリマを眺めながら、昨晩の出来事を思い出した。
玄関ドアのロックが外れる音がして目を覚ましたのは、深夜過ぎだった。横を振り向くと、ステラの隣で寝ていたアリマが見当たらなかった。外に何か用事があるのだろうと思いつつ、再び眠りに落ちる際に、外から誰かの話し声が聞こえた。怪しいと思った僕は、念のため静かに玄関に耳を押し当てて、外の様子に聞き耳を立てた。
「……には来週まで回収できると……ください。その……はボタンさんにお任せします」
声の主はアリマだった。アリマは小さい声で、名前も分からない相手と真剣な話し合いを、明け方近くまで続けた。足が痺れるまで聞き続けたが、はっきりと聞き取れたのは『回収』という一つの単語だけだった。
「ゆっくりしている時間はありません。予定の電車に乗るためには、三十分後には家を出なければなりません」
アリマが提案した五日間は、もしかすると本人に与えられた猶予期間かもしれない。具体的に何を回収するのかは分からないが、昨夜聞いた声の主は何かに追われているようだった。
「昨日は車で行くはずではなかったのですか?」
「元々そうでしたが、状況が変わって今日からは電車で行きます。お分かりになりましたら、さっさと起きてください。時間に間に合いますから」
昨夜の電話の件は、きっと夜中にかけた通話先の相手と関係があるのだろう。そんなことを考えながら、僕は散らかった寝床を片付けた。
洗面台で歯磨きをしようとしていると、ステラが廊下から声をかけてきた。
「朝ごはんの準備ができました」
「もう少し待って」と言いかけたが、彼女はすでに台所に戻っていた。
仕方なく軽く口をすすいでから、僕はテーブルの前に座った。アリマが作った卵焼きを一口食べると、ふんわりとした食感と優しい味が口の中に広がった。これほど美味しい卵焼きは久しぶりだった。
目的地の上野公園まで、アリマの指示に従って移動した。電車の中でもアリマは緊張した顔色で、手からタブレットを離さず、電車の乗り換えアプリを一分ごとに更新した。最悪の場合、時間内に着かない未来まで想定して、プランAからプランCまで対策を考えているようだった。
「電車が少し遅れてるみたいですけど、まだ時間に余裕がありますから大丈夫ですよ」
僕はステラを見守りながら言った。
「それに、平日の朝っぱらから動物園に行く人はいないと思いますし、混雑する心配もないでしょう」
九時過ぎても車内は出勤する人々で混雑していた。僕と各務家の二人姉妹という組み合わせは、周りの大人たちの目には珍しく映ったようだった。保護者らしき大人もいない中で、子供だけの三人連れが電車に乗っているのだから当然だろう。
しばらくすると、僕たちの前に座っていた中年の男性が立ち上がって声をかけてきた。
「お疲れさま。よろしければどうぞ」
「お気持ちだけで十分です」と丁寧に断ったが、「遠慮はいらないよ」と言われた。
結局、ステラを僕の膝の上に座らせて、隣の席にはアリマが座ることになった。男性は満足そうに頷いて、吊り革につかまって立っていた。
「炭咲さんは上野動物園に行ったことがありますか?」
「僕も今日が初めてです」
頼りにならない僕の返事に、アリマはうんざりしたため息をついた。それ以上話しかけてくることはなかった。
上野公園に着いた三人は、動物園の入り口に続く長い列を見て言葉を失った。十一時過ぎに到着したからといって、人が少ないと思った僕が甘かった。列に並んでいる人々の大半は家族連れで、何かのイベントでもあるかのような賑わいだった。この人数だと中に入っても全体を回るまで、かなりの時間がかかりそうだった。
「ありえないわ」
アリマは呆然とした声で言った。
運が悪かった、というには状況が悪すぎる。一時の気まずい沈黙の後、僕はステラに向かって明るい声で話しかけた。
「みんな、パンダさんのことが好きなんだね。ステラ、あれを見て。パンダさんだよ?可愛いでしょう」
ステラは僕を見上げて言った。
「パンダさん、怖い。パパ、だっこ欲しい」
「いや、いや。パンダさんは可愛いよ?ふわふわでぷよぷよだから、ステラも直接見てから好きになるよ」
「パンダさんを触れる?」
熊は人を襲うこともあるとは言えないから、曖昧に答えた。
「実はパンダさんって皆のアイドルだから、ファンも多いらしい。もし一対一でファンミーティングが開かれたら、大勢の人々が集まって、パンダさんが疲れてしまって、ステラまで順番が回らないと思うんだ」
会えないと聞いたステラが泣きそうな顔になり、初めてかすれた声でうめいた。
「その代わりにパンダさんの親衛隊が動物園を貸し切ってコンサートを開くから、今日は遠くでパンダさんを応援することで我慢しようね」
「そうなんだ。パンダさんは人気だね。ステラもパンダさんみたいになれる?」
「もちろん。ステラはパンダさんよりも可愛いから、有名なアイドルになれると思う」
「じゃあ、パパがステラの護衛になって、ステラを守ってね。約束だよ」
約束の小指を差し出したステラが明るく笑って見せた。いたいけな笑顔だと思った僕は、約束通りに小指を組んであげた。これで動物園の中に入るまでの時間が延びても、ステラは理解してくれる。問題は、さっきから爪を噛みながら、いてもたってもいられないアリマの方だった。
約束の小指を差し出したステラが明るく笑って見せた。いたいけな笑顔だと思った僕は、約束通りに小指を組んであげた。これで動物園の中に入るまでの時間が延びても、ステラは理解してくれるだろう。
問題は、さっきから爪を噛みながら、いてもたってもいられないアリマの方だった。
「まだ大丈夫。パンダを見るまで時間がある」
その声は低く、地面を掻き毟るような響きだった。顔に手をかざして表情を隠しながら、アリマは呟き続けた。その絶望した声色に、僕は慰めの言葉を失った
当日券を販売する列に並び、チケット三枚を購入して動物園の中に入るまで、およそ一時間がかかった。入園してからパンダ舎に向かうと、二十人ずつのグループに分けられた。前後をバーを持ったスタッフに囲まれたまま、屋外の放飼場に到着した。
各場所を三十秒ずつ見学し、一方通行で出口まで誘導された。僕はパンダの可愛い仕草よりも、浮かれてギャンギャン喋り立てる子供たちの声に疲れていた。このまま家に帰っても満足できそうだと思ったところで、ステラから要望が来た。
「パパ、ゾウさんも観に行きたい」
東園にいるゾウを観るためには、もう一度いそっぷ橋を渡って反対側に行く必要があった。僕はため息を吐いて、ステラの頭を撫でてあげた。
「ゾウさん以外にも観たい動物はいる?」
せっかく東園まで行って、西園にいる動物が観たいと言い出したら困るからだ。あの橋は二度も渡りたくない。
「ううん、白いパンダさんと猫さんも観たい!」
上野動物園のマップパンフレットを見ながらステラが喋った。
「パパは?」
「パパはもう大丈夫かな」
「ええ、何それ。つまらないの。パパも選んでよ」
しつこく付きまとうステラには敵わないから、適当に西園で子供が一番嫌がりそうな動物を指で指して見せた。
「カ・メ・レ・オ・ン?」
一文字ずつ発音したステラは眉根を寄せた。
「変な名前。可愛くない」
クマやパンダと違って、モフモフな毛もない爬虫類が好きな子供は相当少ない。僕の狙いは、カメレオンという嫌な存在がいる西園から離れて、東園に展示されている動物で今日の日程を終了させることだ。たとえ西園に未練があっても、カメレオンについて語りながら恐怖心を植え付け続ければ、事態は僕の思惑通りに進むはずである。
「でも、パパも好きな動物を観ていいよ」
ステラが決心を込めてベンチから身を起こした。
「行こうよ、パパ。カメレオンが待ってるよ」
親切なステラのおかげで、僕はカメレオンが展示されているビバリウムに行って、中にある全種類の爬虫類と対面し、東園でステラが観たかった動物たちを次々に訪れた。パンダに比べて人は多くなかった。
カメレオンまで観終わると正午になった。そろそろお腹が空いてきたステラの手を繋いで、池の近くにあるカフェに寄った。
ランチメニューとして、ジューシーなウインナーのホットドッグとオレンジジュースを注文して、僕たち二人はテーブルに座り、しばらく休憩をした。
「パパ、ここ行きたい」
動物園に入ってから今まで、ずっと歩き続けたせいで、ろくに食べられない僕と違って、ステラは食事を終えてから元気を取り戻して、午前に回れなかったエリアまで行こうとした。結局、エクセルに書いた予定より時間をオーバーして、午後の営業時間まで動物園の中で過ごした。
見上げた空が灰色の日暮れがかった頃、冷たい冬風が吹いて、頬をそっと撫でた。帰る時間になってようやくスマホを触る暇ができた僕は、何となくヘルスケアアプリを開いた。そして、今日歩いた歩数を確認すると、一万歩の数字が表示されていた。ふくらはぎが痛かった原因は、恐らくこれだろう。
「私が立てた計画は、どうしていつも上手くいかないんでしょう」
帰り道に眠ったステラを背負って電車に乗った。ぽかんと立って窓の外に映る夕焼けを眺めていると、アリマがしくしく泣き始めた。慌てて慰めようとしても手が空いていなくて、次の駅でとりあえず降りて、ベンチに座らせた。電車から降りたアリマは、周りの目を気にせずに本格的に泣き出した。僕が思っていたより、自分の計画通りにならなかった一日にストレスを感じている様子だった。
「私って、だめな人間です。全然、役に立たない」
自分を責める言葉を呟いて、垂れる鼻水をハンカチで拭いた。
「炭咲さんもそう思いますよね?」
僕はアリマのすぐ側に座って、立ち去る電車の後ろを見送った。
「今日は生まれて初度動物園に行きました。さすがに六時間歩いて身体は疲れましたが、絵本で読んだ動物を実物で観ることができて、楽しかったと思います」
大袈裟ではなく、本当のことを言った。僕は施設に入る前は、外に出られないくらい病弱な体を持っていた。その後も監視される毎日を過ごし、独立してからはバイトやらで忙しい毎日を過ごし、生活費を稼ぐ以外に何かを考える余裕が全くなかった。
「僕は自分の人生をたった一人にフォーカスして、昔からの復讐計画を実行に移す準備を、着々と進めていました。今年の春、ガーデンズ学園に入学しようとした理由も、その計画の一部です。ですが、三月の共通テストは延期になり、ステラに会えてからは、自分が思った日常とはまた別の人生を生きています」
僕は息を吸って話を続けた。
「正直なところ、今のままで悪くはないと思う自分と、どこから人生をやり直せばいいか呆然として、気が転倒している自分の間で混乱しています。あの人は僕が追いかける間にだんだん遠ざかって、僕は停滞しているようにも見えますからね。最初に戻って計画を立て直すには、今まで耐え切った過去の自分が可哀想で、また同じことを繰り返す勇気が出ないです」
アリマの顔色を探ったら、いつの間にか涙を止めて、僕の話に集中していた。
「でも、今日はそれを忘れるほど、楽しい一日を過ごしました。計画にならない人生でも大丈夫だと、初めて思いました。だからアリマ、今日は人生初の動物園に連れて行ってくれて、本当にありがとうございました。また今度、一緒に行ってもらってもいいですか?」
人を労い励ます言葉に慣れていない僕は、自分の口から出た話が恥ずかしくて死にそうだった。今まで僕自身が聞きたかった言葉を、そのままアリマに聞かせたからでもある。これを聞いて本当に気持ちが楽になるかは、保証ができなかった。
「あ」
だけ言って、アリマの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「それってデートの誘い?」
僕は後始末をつけるために、頭を先に下げた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
「ううん、違う」
アリマは泣きながら笑って見せた。
「気が楽になった。ありがとう」
地平線に沈んだ夕日が上空の雲を照らし上げ、赤く染め上げられた雲を背景にして、ありとあらゆる感情が彼女の笑顔と共に心の中に染み入った。言葉では説明が難しい瞬間と向き合った僕は、さりげなくアリマの頭を撫でてあげて、「よく頑張りました」と言葉を残した。
それを聞いた彼女は、僕の胸に抱かれて、次の電車が来るまでじっとしていた。血の繋がらない三人は、一緒に暮らし始めた二日目から、何となく家族らしい形を整えていくような気がした。