第6話 七日間の契約家族
ゲストルームは三階下のオフィスエリアに設けられていた。来客がくつろげる休憩室、飲み物コーナー、簡易クリーニングサービスまで揃っている。僕は足早に周囲の設備を確認しながら、ゲストルームBの前でノックをする父親の背後に無言で立っていた。
「はい、どうぞ」
遠い夢の底から浮かび上がってくるような少女の声が、ドアの向こうから聞こえた。
「失礼いたします」
部屋の中には、グレーのシャツドレスの女性がゲスト用の椅子に腰掛けていた。業務用タブレットを手に、何かの連絡を待っているらしい。整った眉と丁寧に施されたメイクが、洗練された印象を醸し出している。身に着けたアクセサリーも、一目で高級品だとわかった。
この人は降伏しに来たのではない、と一目見ただけでわかった。様々な武器で身を武装し、先手を打って攻めに来た女将軍——僕は目の前の女性を見ながら、なぜかジャンヌ・ダルクのことを思い出していた。
「息子さんを人の前に連れてくるなんて、緑埜さんらしくありませんね」
「はは、申し訳ございません。事前にご連絡できなかった点をお詫びいたします。特に問題は起こしませんので、ご容赦ください」
結果的に父親の顔を潰す形になってしまった。意図したわけではないが、これはこれで悪くない。だから僕の同行を嫌がったのかと、さっきの会話を思い返した。どうせ結果は同じだったとしても、正直に理由を説明してくれれば理解できたのに。
各務家の代理人は僕を見つめ、指を顎に当てて話しかけてきた。
「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「炭咲千春と申します」
僕は聞かれた名前だけを答えて口を閉じた。
「初めまして、炭咲さん。失礼でなければ、両手の傷についてお聞きしてもよろしいですか?拝見したところ、木炭化がかなり進んでいるようですが」
「ああ、これですか」僕は自分の手を見下ろした。「本来は包帯で隠しているのですが、今日は慌てていて巻き忘れてしまいました。感染の恐れはありませんので、ご安心ください。普通の火傷と同じレベルです」
「失礼な質問にも丁寧にお答えいただき、ありがとうございます。文献や論文を見ても、生きた人間に木炭化が起きた実例はなかったもので、つい興味を持ってしまいました」
彼女はそう言いながら、さらに奇妙な頼み事を切り出した。
「もしよろしければ、間近で直接確認させていただけませんか?もちろん、嫌でしたらお断りください」
相手から契約書の話を切り出さないのは少し奇妙だった。何を考えているか読めない女だ。父親の様子を見ると、特に止める気配もなかったので、僕は彼女に近づいて両腕を差し出した。ただし、まだ熱を持っているので触れないでもらうよう伝えた。
「おっしゃる通り、確かに木炭化していますね。ありがとうございます。これで確信が持てました」
それを言い終わると、彼女は突然僕の胸ぐらを掴んだ。
「不愉快な親子ですね。各務家を相手に嘘が通用するとでも思っていますか?最初から襲った犯人が緑埜家と関係していたのなら、交渉の余地はありません。あの子をどこに隠しているのですか?」
僕は各務の激しい口調に動揺しながらも、疑問をぶつけてみた。
「最初からって、何の話ですか?僕は子どもを襲っていません。むしろ僕もあの子を探しに来たんです」
「想像力の足りない言い訳ですね」
彼女はそう言い放った後、今度は壁際に立っていた父親に向き直った。
「緑埜さん、余計な真似をする前に、ご自分の立場をお考えください。緑埜家の副社長であるあなたの息子が、ガーデンズ学園でテロを起こした真犯人だとマスコミに流れたら、この場で一番困るのは緑埜さんご自身です」
圧倒的に不利な状況に追い込まれた父親は、携帯電話を下ろして通話を切った。ガーデンズ学園で発生した事件に僕が直接関わっていることを知らない顔をしている。各務家の娘がどうやって、父親でさえ把握できなかった事実を知っているのかは分からない。だが、これで状況が一変した。
「各務コーポレーションの資産を直ちに返していただければ、今の話は契約書の秘密条項に追記し、口外しないことを約束いたします。当然、マスコミにも緑埜家の当主にも口止めいたします」
彼女の目がキラキラと輝いた。
「今の提案について、いかがでしょうか」
状況の急展開についていけずにいる父親は、落ち込んだ声で答えた。
「承知いたしました。今から部下に連絡して、アレを連れてまいります」
そう言って熊捕に電話をかけた。
僕も二人の会話に少し戸惑ったが、結果的にステラを取り戻せる話になったので、黙って見守った。
五分後、ステラと熊捕が一緒に部屋に入ってきた。ステラは部屋の中を不安げに見回し、警戒心を高めていた。目元は泣いたせいで腫れ、涙の跡が頬に残ったままだった。
「ステラ、こっちにおいで」
僕の声を聞いたステラが目を大きく見開き、大粒の涙をポロポロと溢し始めた。心臓が針で刺されるような痛みを感じた。あの小さな子が泣く姿を見ていられなかった僕は、込み上げる感情を抑えながら、大きく手を広げてステラを抱き上げた。
「パパがいなくなって、ずっと探してた。会いたかった」
おそらく今この瞬間は、残り少ない人生の中で何度も何度も思い出される、忘れ得ぬ記憶として心の奥に刻まれるだろう。そう思いながら、ステラが落ち着くまで頭を撫でてあげた。
「お姉様から離れてください!」
横から僕とステラの間に割り込んできたのは、各務家の代理人だった。大人げない口調でステラを「お姉様」と呼んでいる。とにかく、僕はまずステラの安全のため、各務から距離を取り、ステラの耳元に囁いた。
「ステラ、あの人は知り合い?」
「ううん、ステラ知らない。初めて見る人」
ステラが怯えた様子で否定すると、知らない人扱いされた各務は慌てて自己紹介を始めた。
「お姉様、私です。お姉様が大好きなネネです。お忘れになりましたか?」
僕は慌てて腕を前に出し、ネネと名乗る代理人を制止した。
「これ以上近づかないでください。子供が怖がっています」
話を聞いた各務は冷静さを取り戻し、丁寧にステラと二人だけにしてくれるよう頼んだ。当然、僕はステラを危険にさらしたくないと断り、結局、僕も一緒に部屋に残って話を聞くことにした。
「少しお姉様と後ろを向いていていただけますか?二分で準備を終わらせます」
謎めいた言葉を残して、彼女は服を脱ぎ始めた。
全く予想のつかない人だと思いながら、ステラと共に後ろの壁を暫く見つめた。僕と会えてようやく心を休めたステラは、その短い間にすやすやと居眠りを始めた。眠っている子どもの体温が心臓に届いて、僕も少し眠気を感じた。ステラは人に安心感を与える不思議な子だ。
「お待たせしました。もう振り向いて大丈夫です」
あくびを押し殺そうとしたタイミングで、各務から許可が下りた。眠り込んでいるステラの頭を僕の手のひらで支えながら、ゆっくりと体を百八十度回転させた。
振り返った瞬間、僕は現実と夢の境界線がぼやけているような錯覚に陥った。
さっきまで僕と普通に会話を交わしていた各務家の代理人が、そこにいた。いや、正確に言えば、そこにいたのは代理人だったが、僕が知っている代理人ではなかった。別の人のようだった。
彼女は膝をつき、床に額がつくほど深く頭を下げている。しかも全裸で、背中も背筋も何も身に着けていない素肌の状態だった。これはまずい状況だった。このまま彼が顔を上げたら、きっと危険なことになる。そんな予感があった。
僕は静かに息を吸い込んだ。空気中には、何かが変わってしまったような、微かな緊張感が漂っていた。
「何ですか?服まで脱いでお願いするような筋合いではありません。服を着てください、お願いします」
僕は目をぎゅっと閉じたまま、できるだけ冷静に言った。
「こちらに来る際、余分な服を持参できませんでした。一時しのぎとして人形の服を身に着けていましたので、あまり驚かないでください」
声が微妙に若く聞こえた。気のせいだと思いながらも、なかなか目を開けて相手を確認することができなかった。
「あの、炭咲さん。会ったばかりの私を完全に信じてくださいとは申しませんが、一度だけ私の話に従ってもらえますか?ずっと目を閉じたまま会話するわけにはいかないでしょう」
その時、僕はあることを思い出した。新吉原のこひなが着用していたスーツも確か人形と呼ばれていた記憶がある。お風呂場で人形の体に記載されていた製造メーカーは、各務コーポレーションだった。
「もしかして新吉原のこひなと知り合いですか?」
確認のために各務に質問を投げかけた。
「えっ、こひなちゃんを炭咲さんがなぜ知っているんですか?まだ未成年なのに?どうして?」
意外な人脈に反応が崩れた。
「すみません、答えになりませんでしたね。はい、こひなとは長い付き合いです。毎週定期的に訪問して、人形の点検を行っています。今日は契約の件でリスケジュールしましたが、来週に予定を入れました」
話を聞いて、床に身を伏せた「人形」の背中を詳しく見た。首の辺りに花タンポポのタトゥーが彫られている。それが製造メーカー名の代わりであることを僕は知っていた。人と人形の境界線は、もはや人の目では区別がつかないほど差はない。人間より人間らしく作られた精巧な人形を、今日だけで二台——いや、二人と遭遇した。意外と人形は自分の日常と遠く離れていない場所にあるのかもしれない。それに、人形を着た人でも社会活動から排除されず、普通にみんなと一緒に生活できる可能性を確かめた。
「あの、炭咲さん。中身の私はここです」
黒い姫カットの少女が椅子に座って僕を見上げていた。艶やかな肌に浮かぶピンク色の唇が妙に印象的で、オレンジ色の瞳と視線が交わった瞬間、なんともいえない既視感のようなものが胸の奥で静かに波打った。この子はきっとステラと何らかの関係があるのだろう——僕はそう思った。根拠があるわけではない。ただ、そんな気がしただけだ。
「改めて、きちんと自己紹介をさせていただきます。私は各務家の次女で、各務有馬と申します。お姉様がいろいろとお世話になっているようで」
小さな体のどこかから、大人顔負けの静かな力強さのようなものが滲み出ていた。
「ちなみに炭咲さんはおいくつですか?」
十四歳だと答えると、アリマは矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきた。
「どちらのご出身ですか?」
「現在の収入をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「お姉様のお名前をなぜステラにしたのですか?」
「ご両親とは仲が良いですか?」
「ガーデンズ学園の共通テストが行われた当日にテロを起こした理由は何ですか?」
「お付き合いしている女性はいらっしゃいますか?」
まるで機関銃のように質問が飛んでくる。僕は少し圧倒されたけど、ステラの家族を前にして嘘はつけないと判断し、一つずつ答えを出していった。
「——最後に、ガーデンズ学園で起きたテロについては、僕が気を失ってから発生した出来事なので詳細は知りません。こひなが一緒にいたので、彼女なら何か知っているかもしれません。あと、お付き合いしている女性はいません。以上です」
僕の回答を黙って聞いていたアリマは、タブレットからその日の記事を検索して僕に見せた。
「犯人は首から上が炎になって周辺一帯を燃やして逃走し、今も容疑者は特定できていない状態。現場にいた証拠も燃やされて、バベルではカラスにも依頼して犯人探しを行っている」
記事の最後には、防犯カメラで薄っすらと映った首なしの写真が掲載され、犯人の正体を推測する内容が書かれていた。僕の記憶によると、カカシから首を斬られた直後にこの事件が発生したと思われる。だとすれば、学園の関係者たちは犯人が誰か分かる可能性が高い。僕はそう考えて、この仮説をアリマに伝えた。
「バベルの関係者から聞いた情報では、生憎防犯カメラが原因不明の理由でその時間帯のデータが全て使用不能になったそうです。復元できたデータもこの写真一枚だけ。防犯カメラを管理していた担当者も、真犯人のことは覚えていないと言いました」
アリマさは話を一度止めて息を吐いた。
「実は、炭咲さんの正体を事前に把握できた理由も、こひなちゃんの人形が記録した動画のおかげです。各務コーポレーションが製造した人形は、眼球で取得したデータを個人や本社のクラウドサーバーにアップロードするように設定されています。今回の事件も、人形が機能停止する前にサーバーに動画がアップロードされていました。犯人の姿は撮れていませんでしたが、お姉様と一緒にいた炭咲さんの方が重要だったので、そのデータを参考にして、バベルに通報する前に私の方から先に緑埜家の副社長に連絡し、所在を調べました」
話を聞いて、ますます真相が分からなくなった。
「記事には人的被害はゼロ人と記載されていますが、これは本当ですか?」
「事実です。こひなちゃんもお姉様も、現場にいた受験生三百十二名も、全員傷一つなく無事でした」
「こひなからは僕に関して話を聞いていなかったみたいですね」
「はい、ですから少し裏切られた気持ちもあります。しかし炭咲さんを隠したとはいえ、私には些細なことです。後でゆっくりと事情を聞けば済む話ですからね」
そう言い残して、アリマは次の話題に移った。
「ところで、この後のご予定はいかがですか?」
特にないと答えた僕に、アリマは話を続けた。
「実は、ちょうど私からお願いがありまして、このままお姉様と一緒に、しばらく炭咲さんのお宅で泊まらせていただけませんか?もちろん、生活費はお支払いします」
この子は一体何を言い出しているのか——突然の三人暮らしを提案され、僕は冷静な判断力を失い、戸惑った。真面目に親に育てられてもいない僕が子どもの面倒を見るなんて、道端の猫でも首をかしげるような話だ。
「五日間だけです。お姉様が炭咲さんから独立できるまで、五日間は今まで通りにお世話していただけますか?五日を待たなくても、お姉様が慣れ次第、家から出ます。約束します」
何かの家庭事情があるのだろうと思いながらも、頭の中では簡単に割り切れないものが残っていた。それはアリマにステラの話を聞かされたり、僕のことについて質問されたり、曖昧なお願いをされたりした時から、密かに芽を出していた感情だった。第三者の立場でこのことを考えると、その感情が胸の奥で重くのしかかってくるのだった。
自分以外の存在に責任を取れるほど、僕は器の大きい人間ではない。僕はただの子どもに近い存在で、自分のことで精一杯だった。それなのに、なぜか人には強がって見せてしまう。人形のように無邪気なステラに保護本能をかき立てられるのは正常な本能だろう。そしてその本能に従った今、僕はこの先もずっと保護者の立場に立たされ続けることになるのかもしれない。
「五日間一緒に生活しなくても、寝ている間に実家まで連れ戻したら、本人は気づかないと思いますが、だめですか?」
それを聞いたアリマは、人を軽蔑するような目で僕を睨んだ。
「今のは最低でした。お姉様の前では絶対におっしゃらないでください」
「最低」という言葉に口を封じられ、何も言い返せなかった。気がつくと、話は僕が望まない方向に流れ、五日間は各務家の姉妹と一緒に生活することになった。アリマがここまでステラを思ってくれるのは、やはり家族だからなのだろう。ステラに確認する間もなく、僕が住んでいるアパートに向かうことになった。
頻繁に留守にしている部屋の掃除ができていないことを思い出した時、アリマは人形を着て出かける準備を済ませていた。
「それでは、参りますか?引き続きよろしくお願いします」
出発を告げるアリマの元気そうな声に、僕は家に着くまでにコンビニに寄って掃除道具を買ってもいいか、あらかじめ了解を求めた。
「構いませんが、どれほど汚いのですか?必要なら私もお手伝いします」
そう言われて、僕は「まぁ、まぁ」とつい誤魔化した。