第5話 血を流した父子関係
東京の空から舞い散る雪が地面に薄く積もり、通りすがる人々の足音に踏み固められている。冷たい冬風に晒された鼻は赤く腫れ、マスクもせずに歩く僕の鼻水は止まらない。着込んだ服も東京の厳しい寒さには歯が立たない。
それでも、僕の胸の奥で燃え続ける炭火のような感情は、決して消えることがなかった。乾いた薪に宿る火のように、僕の体を内側から温め続けている。
改札を通り抜けてしばらく経つと、浅草行きの電車が滑り込んできた。車内には家族連れの乗客や、大きなキャリーバッグを持った観光客の姿があった。季節に合わない薄着の僕を見て、外国人観光客は不安そうに席を移動する。
気にすることはない。僕はスーツのポケットに手を入れ、中身を確認した。会社の社員証とハンカチ、そして社員証の裏に挟まれた一万円札。非常用として、別のポケットにそっと移しておく。
スマートフォンの電源ボタンを押すと、画面には韓国アイドルの写真が映し出された。時刻は午後二時を示している。そろそろ目的地の虎ノ門駅に到着する時間だ。
「この電車は浅草行きです。まもなく虎ノ門、虎ノ門です。電車とホームの間が広く空いているところがあります。足元にご注意ください。出口は左側です」
虎ノ門には二度と来ないと心に決めていた。それでも、ステラのためなら仕方がない。自分で立てた掟を破ってでも、ここに来る必要があった。
地下の不快な臭いと薄暗い照明に包まれたホームから、改札口を目指して歩き始める。虎ノ門駅の構内は迷路のように複雑で、工事中の仮設壁が本来の通路を塞いでいた。壁に貼られた案内図を見ても、どの方向に向かえばいいのか分からない。
結局、どの道も一つに繋がっていることに気づいた僕は、カラスに追跡されないよう駅員にスマートフォンを預けて、真っ直ぐ前方の通路を歩いてエスカレーターに乗った。地鳴りのような低い振動が、スリッパ越しにじわりと足の裏を侵食してきた。
地上に出ると、文部科学省の重厚な建物が右手に見えた。公園を挟んで向こう側には、東京ミドリエビルディングがそびえ立っている。昼過ぎのロビーには低い話し声が絶えず流れており、コーヒーを片手に持った営業マンたちが角側に立って、誰かを待っているようだった。
僕は手前にあるインフォメーションセンターで、セキュリティカードに記載された部署の所在階を確認し、エレベーターに乗って七階のボタンを押した。エレベーターは静かに上昇していく。その間、僕は壁に映る自分の姿を眺めていた。
七階に着くと、扉が開いて僕は一人でその階に降り立った。他に誰も降りる人はいなかった。廊下には微かに空調の音が響いている。壁に貼られたオフィスレイアウト図を見つけて、対外資産管理本部の位置を確認する。レイアウト図は親切で分かりやすいイラストで各エリアを案内しており、この階には二つの部署がそれぞれの縄張りを主張するように領域を分け合っていた。キッチンやラウンジ、仮眠室といった設備も、まるで小さな村のように部署ごとに配置されている。
フロア全体を見渡してみると、この階だけで優に百人は超える人々が、それぞれの小さな宇宙で働いているのだろうと思った。そのことが僕には少し不思議に感じられた。
「何のご用件でしょうか」
真面目そうな印象の女性が、落ち着いた声で話しかけてきた。僕より背が高い。スーツの着こなしがきちんとしていて、声には事務的な響きがあった。僕は素直にポケットからセキュリティカードを取り出し、拾った物を返しに来たのだと伝えた。
「それは高橋さんの物ですね。本人が戻り次第、私からお渡しします。申し遅れました、中村と申します。高橋さんと同じ部署の者です」
中村はセキュリティカードを受け取ると、表裏を丁寧に確認した。彼女の仕草には職業的な慎重さが感じられた。
「失礼ですが、これをどちらで拾われたか教えていただけますか?」
「花園大学医学部附属病院です」
「かなり遠いところからわざわざ…」
口調に微妙な変化が生じた。疑念というほどではないが、何かを測りかねているような響きがあった。
「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「あなた方には『緑埜家の坊ちゃん』と呼ばれているようですが、お分かりになりますか?」
中村の表情が一瞬で変わった。それは僕が正しい場所に来たことを物語っていた。
僕は迷いなく相手の膝裏を蹴り上げ、右手で首を掴んで押し倒した。重心を失った中村は抵抗する間もなく床に倒れた。それと同時に僕は彼女の喉を押さえ続けた。これで助けを呼ぶことは困難になるだろう。
「フクロウと呼ばれる老人が連れ去った女の子を探しています。白い髪で、小学一年生くらいの年齢。言葉遣いが幼い子です。知っていますよね?どこに隠していますか?」
彼女の瞳が動揺で揺れている。素直に答えそうな気配を感じて、僕は喉への圧力を緩めた。
「侵入者発生! アカバナの男性一人です!」
解放された中村が、すぐさま大声で仲間を呼んだ。僕は騙されたのだと思ったが、もうそれは問題ではなかった。事態は既に次の段階に移っていた。
僕は中村の声に反応して駆けつけてきた「カラス」たちと、一人ずつ目を合わせた。どこかで見覚えのある光景が、再びこの場に再現されている。全員で四十人ほどが、エレベーター前に集結している。年齢も性別も様々な人々が、僕一人を止めるために、それぞれ武器を手に攻撃の構えを取った。
見た限りでは、ステラはここにいない。だからといって、「退いてください」とお願いしても、素直に応じてくれる雰囲気ではなかった。
「これから行われる全ての暴力行為と施設の破損は、皆さんの副社長であり、かつて聖次郎と呼ばれた道田という男と僕との間のプライベートな問題を解決するために必要な手段です。
それゆえ、敵意を持って僕を止めようとする人は、緑埜さんに賛同しているものと判断し、灰にして差し上げます。恐怖を感じる方は逃げていただいて構いません。緑埜と違い、僕は弱者をいじめる趣味はありませんから」
僕のこの警告めいた忠告を聞いて、カラスたちは露骨に嘲笑した。それはちょうど子供が大人の真似事をしているのを見るような、そんな笑いだった。僕も一緒に笑いながら、中村から取り戻した高橋のセキュリティカードを、皆の前に投げつけた。カードは静かに床に落ちて、小さな音を立てた。
「先に灰になった高橋さんに、遅ればせながら心よりお悔やみ申し上げます」
挑発に釣られたカラスたちが、一斉に僕に向かって怒りを爆発させた。
まずは人数を減らす必要がある。最初に突進してきた二人のトゲを灰に変え、例の方法で拍手を打った。金属と金属がぶつかり合う音が響き渡り、窓側の強化ガラスに亀裂が入る。
一度目の拍手で同じ傷を負った体は、病院のロビーにいた時よりも速いスピードで再生を始めた。同時に、両腕の木炭化も加速していく。
命を削る能力トゲと呪いによって、僕は徐々に死に向かっている。どのみち死ぬ運命の体だ。予定された死に対して、特に悲しみや悔しさといった感情は湧かない。ただ一つの希望として、父親の緑埜が大切にしている社会的名誉と築き上げてきたキャリアに大打撃を与えることができれば、それで満足して死ねるだろう。
「同じことを繰り返すのも疲れますが、皆さんの仲間が拉致した女の子を探しています。白い髪で、小学一年生くらいの小さな子です。言葉遣いが幼く、よく泣きます。ご存知の方はいらっしゃいますか?」
考えないようにしていたが、実は最近、一つの重大な懸念があった。ステラの存在についてだ。
今まで街中で出会った数多くのノバナたちを、自分の手で施設に送り届けてきた。しかし、強い信頼関係を築けた子供は、ステラが初めてだった。
普通のノバナは、警戒心を解くことなく、別れるまで無言か無関心を貫く。ところが、ステラは違った。僕を「パパ」と呼んで家族として認識してくれた。
あの声を初めて聞いた時、僕は暗い微笑を浮かべた。僕のような人間には、人の親になる資格など所詮ない。俗念にまみれた、人格者からは程遠い存在だと思っていた。
けれど、ステラと出会ってからは何かが変わった。家族の死を迎えるにふさわしい人生を送ってきた僕が、本来存在しないはずの親心を感じるようになった。この感情は、一生懸命に守りたいという気持ちとして現れた。
説明は難しい。理解も不可能だった。ただ、僕の中で何かが静かに変化していることだけは確かだった。
「パパ」と呼ばれた時から、色を失った僕の世界は、たった一人の子供を守るための世界に作り替えられた。ステラから存在意義を授けられたのだ。
いずれ遅かれ早かれ別れる関係だと、僕も自覚している。あまり深く関わらない方が、別れた後の互いの生活への影響は少ないはずだった。
「もう一度お聞きします。女の子は、どこにいますか?」
僕は不機嫌な声で問いかけた。
頭の中では冷静に判断しようとしても、心はステラを求めている。どうやら僕は、情愛中毒に陥ってしまったようだ。理性と感情の間で、何かが静かに軋んでいた。
「少しお待ちください。秘書室の熊捕からお電話が入りました。出てもよろしいでしょうか」
四十人の中で五人だけが意識を保ち、状況を見守っている。秘書室は副社長の直下にある部署だ。もしかすると、緑埜からの連絡かも知らない。
「その電話、僕が出てもいいですか?」
手に持っていた誰かの肉片を放り投げて、内線電話に耳を傾けた。
「炭咲様」
中性的で穏やかな声がスピーカーの向こうから聞こえてきた。
「お久しぶりです。秘書室の熊捕でございます。先日は色々とお世話になりました。本日は本社にお越しいただき、ありがとうございます」
熊捕は、本題に入る前から礼儀正しい口調で会話の主導権を握った。初対面の時からそうだった。緑埜の代理人として、あらゆる書類を手際よく処理し、退院した僕を施設に送り込んだ張本人だ。とにかく僕には気の毒な人だった。
熊捕という名前も、古風でしかしどこか人工的な響きがある。僕にはいつも、誰かが慎重に選んだ偽名のような印象を与えていた。
「お手数をおかけして申し訳ございません。今からお迎えに参りますので、一緒に執務室までお越しいただけますでしょうか。緑埜副社長がお待ちしております」
「花園大学医学部附属病院から女の子が一人攫われました。福社長の緑埜さんの命令ですか? それとも単なるビジネス犯罪ですか?」
「ご用件については承知いたしました。恐れ入りますが、通話では共有できる部分が限られておりますので、直接お会いしてからお伝えします。五分後にそちらへ参ります。少々お待ちください」
それだけ言い残して、熊捕の方から一方的に電話を切った。
「この階に男子トイレはどこにありますか?」
僕は受話器を置いて、一人で男子トイレに向かった。
戦いで汚れた顔を冷たい水で洗い流し、トイレットペーパーで丁寧に拭き取る。洗面台の鏡に映った自分の姿は、髪の色が極限まで抜けて真っ白に変わり、長さもかなり伸びていた。なんとも無様な格好だった。
臨機応変に、水で前髪やサイドの髪を後ろに撫でつけてオールバックにする。それで少しはマシに見えた。
身なりを整えてトイレを出ようとした瞬間、僕は口から大量の血を噴き出すように吐いた。激しく咳き込み、痰が詰まる苦しさと共に、ひどいめまいがしてうずくまった。短時間にトゲを使い回した反動が始まったのだ。
内臓がついに限界を超えて悲鳴を上げているような気がする。とにかく、外にいる人々に気づかれないうちに、香月からもらった薬を喉に押し込んだ。
まだ耐えられる。僕は乱れた髪をもう一度後ろに撫でつけながら、血で汚れた口の周りを水できれいに洗い流した。鏡に映った自分の顔は、さっきとは様変わりしていた。顔色は青白く、目の下に黒い隈ができ、鼻や歯からは血が流れている。
自分の病弱な姿に呆れた。僕はできる限り血を拭き取り、深呼吸を繰り返した。唇は強く噛んで赤くし、頬は軽く叩いて血色を良くする。痛みも苦しさも、どこか他人事の他人事のように捉えながら冷静さを取り戻した。
「大丈夫だ。少し計画が早まっただけだ。しっかりしろ」
僕は声に出して、自分の決意を固めた。
トイレを出ると、カラスたちが三々五々、群れを作って人が出てくるのを待っていた。僕は待機していた女性のカラスにヘアゴムを二個借りて、後ろ髪をポニーテールに結んだ。
「お待ちしておりました。執務室までは私がご案内させていただきます」
熊捕がエレベーターから降りて、廊下から僕に挨拶をした。相変わらず背の高い人だと思う。熊捕は身長百八十センチの元日本代表クライミング選手だった。スーツの上からでも、引き締まった筋肉が見て取れた。
当時四十歳だった熊捕は、今年で五十歳になったというのに、体つきを見ると三十代に負けないほど鍛えられている。漢字の通り、本当に熊のようだ。
「前より背が伸びたような気がします。最近、筋トレでもされていますか?」
熊捕が何気なく気づいたことを口にした。
「失礼しました。この階に着いてから、逞しい気迫を感じ取って、つい思ったことを口に出してしまいました。どうぞ、気にせずお乗りください」
ノバナの僕が成長するはずはない。そう思って、エレベーターの鏡から自分の横顔を落ち着きなく眺めた。僕の目にはまだ何の変化も見当たらず、今も相変わらず小さな体に過ぎなかった。
「ドアを閉めさせていただきます。眩暈がする可能性がありますので、手すりにおつかまりください」
二人を乗せたエレベーターは、静かに三十階まで上がり続けた。途中から、東京市内が一望できるガラス張りの壁が現れ、気まずい雰囲気から逃れることができた。
まだ冬の季節に染まった街は、上空から見ても白一色だった。東の方角には、新吉原と思われる高層建築群も見える。東京タワーより低くても、東京に住む数万人の欲望を吸い取るその場所の存在感は、一度目に入れば、どこにいても見つけ出せる。
お礼とお詫びを言わなければならない人がいる時は、なおさらだった。
到着しました。足元にお気をつけください」
電子チャイム音とともにエレベーターの扉が開いた。地上から離れた高層階には、のどかで美しい風景と壮大な建築物が広がっていた。窓の向こうの庭園には、寒木瓜や椿をはじめとした冬の花が色鮮やかに咲き誇っている。
内部は天井が高く、白い大理石の柱が空間を支えている。窓からは地平線の彼方まで見渡すことができた。建築に興味がなくても、これほど重厚な素材で建てられたビルなら、耐震工事にかなりの費用がかかっただろうと思われる。
「炭咲様、執務室はこちらです」
熊捕に案内されて、僕は緑埜のいるところまで歩いていった。廊下の壁には骨董品やヨーロッパの古い絵画が並んでいたけれど、どれも僕の心を動かすものではなかった。
でも、ある絵の前で僕の足は自然に止まった。三人家族を描いた水彩画だった。父親と緑埜家の奥さん、それから小さな女の子。不思議なことに、その絵だけが照明の光を受けて、まるで内側から光を放っているように見えた。家族が寄り添って過ごす穏やかな時間を切り取った、静かで幸福な絵だった。
僕はしばらくその絵を見つめていた。なぜかはわからないけれど、その絵は僕の中の何かに触れたのだった。
「どうかなさいましたか?」
油絵の中に描いている父親は偽善者の面に笑みを浮かべ、正面の僕を見つめていた。あの顔と向き合うまでに七年もかかった。子を捨て、家族を犠牲にしてまで仕事に夢中だった男にとって、この絵は家族への欺瞞に満ちた行為にしか思えない。人付き合いの悪い僕が人を評価できる立場ではないが、父親に関しては断言できる。あれは家族を作ってはいけない男だ。
「行きます」
もう一度、幸せそうな絵画に視線を向けてから僕は答えた。
熊捕は執務室の前で二回ノックし、扉を開けた。室内は中央に長い応接テーブルがあり、壁際には本棚が並んでいる。曇り空のようなブルーグレーの床と洒落た家具は、どれも高級品に見えた。
「お前はそこに座れ。熊捕、お茶を用意しろ。お菓子も一緒に頼む」
「承知いたしました。京都のお土産をお持ちします」
「いや、それは既に各務家の娘に渡したから残っていない。この間の出張で買ってきた温泉饅頭がある。それを出せばいい」
この人は望み通りに出世したのだ、と僕は思った。昔から毎日を書斎に閉じこもり、家族に背を向けて研究だけに時間を費やした人だった。週末の家族旅行は時間の無駄だと言って、家で小さなケーキやケンタッキーを注文して食べた記憶しかない。家族写真は古いデジタルカメラで撮って家のプリンターで印刷し、小さなアルバムに保管していた。骨の髄まで自分のことしか考えない人間——それが僕の元父親だった。
「何をぼんやりしている。座らないのか?」
「単刀直入に聞きます。二時間前に病院から連れ去った女の子は、今どこにいますか?」
緑埜はテーブル前のソファに腰を下ろした。「座れと言っただろう。話はその後だ」
高圧的な口調に、反論も交渉の余地も許されなかった。僕はステラの話をする気持ちを抑えて、大人しく一番離れた席に座った。
「炭咲様にはウーロン茶をご用意しました。饅頭と一緒にどうぞ」
熊捕がテーブルにお茶とピンクと緑色の饅頭を置いた。
「お話が終わりましたら、呼んでください」
事務室の空気が急に重くなった。饅頭を味見するよりも早く、ステラを連れて家に帰りたいと思った。
そういえば、今住んでいる部屋にステラと二人で暮らすことについて考えを巡らせていた頃、向こうから六年ぶりに話しかけてきた。何かに背中を押されたように、口を開く。六年間の沈黙を破って。
「お前はいつまでそうやって逃げているつもりだ。そろそろ本家に帰って来い」
声は低く、抑制されている。その奥には長い間押し殺してきた何かがある。僕に対する苛立ちか、それとも諦めか。あるいは、もっと複雑な感情なのかもしれない。
父親はしばらく沈黙が続いて、今度は少し違う口調で言った。
「芙美にも会わせてやりたいんだ」
緑埜芙美。僕は一度もあの女を母親と思ったことはなかった。でも、そのことを口に出すつもりはない。そんなことを言っても、何も変わらないということを知っている。
僕は熱いウーロン茶を一口で飲み干して軽く息を吐いた。
「言いたいことはそれだけですか?何か勘違いをされているようですが、僕はステラの居場所を聞きに来ました。他に話すことはありません」
父親は眉間に皺を寄せて、無言で目を閉じたまま、別の角度から話を切り出した。
「質問を変えよう。これからあの子をどうするつもりだ」
その声には、最初の厳しさとは違う何かがあった。実用的な、現実的な響きだった。
「まさか君が一生面倒を見るつもりじゃないだろうな。まだ未成年なんだぞ」
どの口でそれを言うのか。僕はそう思うだけで、沈黙で言い返した。心の中では答えを知っていた。僕はステラを手放すつもりはない。それがどんなに馬鹿げたことだと思われようとも。
「やはりあなたが依頼主でしたか。なるほど、教えてくれてありがとうございます。あの子は今どこにいますか?」
「実の父親に向かって、その呼び方はなんだ。僕はお前をそんな風に育てた覚えはない」
「当然です。あなたのお金で育てられた息子は、七年前に起きた東京大火災で死にました。今この場いる人は、失った家族を取り戻しにきたただの他人です」
「貴様!」
僕は何も答えず、ただ机の上の空っぽのコップを眺めていた。その透明な底に、何か答えがあるかのように。
「ステラはどこにいますか?」
僕は事務的に尋ねたが、返ってきたのは怒鳴り声だけだった。七年経っても、この人は何も変わっていなかった。
「ステラの居場所を教えていただけないなら、ここで失礼します。お忙しい中、ありがとうございました」
「この恩知らずが!」
父親がテーブルを叩きながら声を吐き出した。
「お前だけが被害者だと思っているのか?あの夜に千春と華栄が亡くなったのは、君にも責任がある」
七年という長い時間をかけても消し去ることのできなかった罪悪感が、地面に垂れた影のように僕の肩に戻ってきた。
「いい加減、あの二人の死を他人のせいにするのはやめろ。過去に取り憑かれていても、亡くなった二人は蘇らない。生きている人間は前に進むのが、この世の道理だ」
道理という言葉が胸に深く刺さった。この人は一体何を理解しているというのだろう。優れた言葉に己の身を隠して、大人らしい振る舞いを見せても、それは過ちを美しく装飾しているようにしか思えない。緑埜家の娘は、この男の何を見て再婚を決めたのだろう。僕にはそれが解らなかった。
家族は死んでも家族だ。それは変えようのない事実だった。無視しようとしても、忘れようとしても、魂に刻まれた関係について他人からああだこうだと言われると、僕の中の何かが静かに怒りを燃やし始める。それは深い井戸の底で燃える炎のような、抑制された怒りだった。
「十分説明したから、お前も理解したと思うが——」
父親は携帯を取り出して誰かに電話をかけた。
「今日、お前の妹が本社を訪れる予定だ。この際、顔を合わせて挨拶しておけ」
なんて、おぞましい想像だろう。僕は歯を食いしばり、ソファに背中を預けて天井を見上げた。照明に照らされたコンクリートの壁が、色のついた泥のように見えた。
キリのない会話に疲れて、僕は軽い酔いのような眩暈を覚えた。一方、父親という男は革張りの椅子に座り直すと、机の上の内線電話を取り上げて熊捕に連絡を入れた。
「優香に連絡して、今どの辺りにいるか確認してくれ」
「お客様の方はいかがいたしますか?」
スピーカーモードで通話の内容が部屋の中に広がった。
「契約を果たすまでは帰らないとおっしゃっています」
「各務家に借りを作る良い機会だ。私が契約書を持って直接会いに行くまで、ゲストルームには誰も近づけるな。用事が終わってからそちらに向かう」
内線を切ると、席を立って机の引き出しを開け、何かを探し始めた。
「最近、お前が仕事を休んでいることは知っている。多い金額ではないが、しばらくこれで生活できるだろう。受け取れ」
また自分の分を越えたお節介で、人を見くびっている。歳を取っても変わらない作り物の表情が、心配するふりをして百パーセントの嘘を湛えている。一方で、相変わらず昔のままでいてくれて安心した。
僕は封筒を開けて中身を確認した。一万円札が五十枚と、交通系ICカードが二枚入っていた。今まで通り、お金で二人の関係を何とか誤魔化すつもりだろう。ますます人を失望させる思考回路を持った男だ。他の人なら多少のお世辞も言えるが、「こいつにだけは借りを作りたくない」と思う自分がいた。「大事な何かを得るために嫌な人とここまで会話を続けると、ストレスで病気になる」と呆れている自分もいた。
結局、お金の入った封筒はテーブルの上に置いて、最後にステラの所在を聞いた。
僕は封筒を開けて中身を確認した。一万円札が五十枚と、交通系ICカードが二枚入っていた。
いつものパターンだった。お金で何とかしようとする。この男はいつもそうだった。問題が起きると、まずお金を出す。それで解決したような気になる。まるでお金さえあれば、人の心も時間も買えると信じているかのように。
僕は封筒をテーブルの上に戻した。
「こんなもので何とかなると思っているんですか」
父親は何も答えなかった。でも、その顔には困惑の色が浮かんでいた。お金で解決できない問題があるということが、この人には理解できないだろう。本当に、気が合わない人間だ。
「大事な何かを得るために嫌な人とここまで会話を続けると、ストレスで病気になりそうです」
僕は率直に言った。もう隠すつもりはなかった。
「最後に聞きます。ステラはどこにいますか」
長い沈黙が流れた。時計の針の音だけが、静かに時を刻んでいた。
「またその話か?君は、たかが実験体の女の子が実の家族よりも大事だと言いたいのか?諦めろ。アレはもうお前の手を離れている」
「実験体って何ですか?初耳です。あの子は僕が街で救ったノバナです」
「これを読んでみろ。お前が救ったという女の子は、各務家の娘が作り出した禁断の子供だ。これが第三者にバベルに通報された場合、お前は一朝にして重罪犯になる」
父親の手には契約書があった。既に社内稟議も通っているようだった。
僕はその契約書を読んだ。
『花と巨樹の遺伝子情報を組み合わせて改良品種に成功した新しい花に関する全ての研究資料を、ミドリエ製薬会社に提供する』
新しい花の詳細には、性別の『女』だけが表記されていた。名前も特徴も記載されていない。まるでステラが物のように扱われている。
契約内容を見ると、一方的にミドリエ側が得をする条件ばかりだった。常識的に考えて、こんな契約が成立するはずがない。立派な会社を経営している代表が、自ら機密情報をライバル会社に渡すなど、現実的ではない。
契約相手の会社名には『株式会社各務コーポレーション』とあった。担当者の名前欄は空白になっている。
熊捕との内線での会話から推測すると、各務家の代理人は今、この建物のゲストルームにいる。自分で確かめるしかない。
僕はそう決めた。
「分かりました。僕もその場に同席させてください」
「却下する。一般人が契約に口を挟まれては困る。君は優香が着くまでここで待て」
「何か勘違いしていませんか?はっきり言わせてもらいますが、僕に新しい妹はいません。それと、これはお願いではなく提案です。最後に、緑埜の娘と僕を二人きりにしても本当に問題ないとお思いですか?もし僕が『実は君の義理の父親は昔、実の息子の体を利用してプロジェクトの実験体にしたことがある』と真実を伝えたら——」
「何か勘違いしていませんか?」
僕は穏やかに言った。まるで天気の話をするように。
「はっきり言わせてもらいますが、僕に新しい妹はいません。それと、これはお願いではなく提案です」
父親は黙っていた。僕は続けた。
「緑埜の娘と僕を二人きりにしても本当に問題ないとお思いですか?」
僕は微笑んだ。とても自然な微笑みだった。
「もし僕が彼女に話したらどうなるでしょうね。実は君の義理の父親は昔、実の息子の体を利用してプロジェクトの実験体にしたことがある、と」
父親の顔に影が落ちた。当たりだったようだ。
「そんな話を聞いたら、あなたの娘はどう思うでしょうか。きっと興味深く思うでしょうね」
僕は椅子に深く腰を下ろした。
「さて、どうしますか?」
最後の言葉でブチ切れた父親に、頬を殴られた。口の中から血の味がする。最後は荒い息を吸い込み、もう一度同じ頬を手のひらで叩いた。久しぶりの痛みだった。昔はたまに怒られるたびに、掃除道具で手のひらやふくらはぎを叩かれた。あの頃は痛みよりも恐怖が強く、父親から逃げ回った記憶がある。
最後の言葉で父親の中の何かが音を立てて壊れた。長い間抑えていた何かが、一気に噴き出した。僕の頬に平手打ちが飛んできた。口の中に血の味が広がる。鉄のような、懐かしい味だった。父親は荒い息を吸い込んでいる。そして、もう一度同じ頬を叩いた。久しぶりの痛みだった。しかし、不思議と痛くなかった。昔に比べれば、ずっと軽い。
昔はもっと酷かった時もあった。怒られるたびに、掃除道具で手のひらやふくらはぎを叩かれた。あの頃は痛みよりも恐怖の方が強くて、僕は父親から逃げ回っていた。
「終わりましたか?」
僕は頬を手で拭いながら言った。
「随分弱くなりましたね」
「黙れ。その生意気な口をきくのはやめろ。私の我慢も限界だ。何のために、誰のために、私があのプロジェクトに参加したと思ってるんだ?」
とうとう怒りが頂点に達し、父親の顔は怒りで歪み、全身に震えが走った。
「結局、家族みんなを道連れにして、残ったのは僕一人だけじゃないですか。誰のためなんて、もうその言葉は聞きたくない。卑怯ですよ、そういう言い方は。子供だった僕が親に逆らって拒否できたと本気で思ってるんですか?父さんに責任があるとは考えないんですか?正直に言ってくださいよ。俺は失敗して逃げた、俺は家族を犠牲にしてここまで来たって、妹の前ではっきり言ってみてください」
「黙れと言ったはずだ!」
もう一発殴られたところで、二人の関係がこれ以上悪化することも改善されることもなかった。根深いところで互いを憎悪し合い、いつしか腐敗した悪臭が立ち込めていることにも気づかず、今なお引きずっている関係——それが僕たちの現実だった。
傷だらけの二人の間で、冷酷な内線電話が鳴り止まない。しつこく響く音に、最後はケーブルを引きちぎって壁に投げつけた。飛び散った欠片が身体に突き刺さり、小さな切り傷を作った。
「気が済むまで殴ってもらっても構いません。ただし、その後は必ず僕も一緒に、各務家の代理人がいる部屋に連れて行ってください」
父親は血色を失った作り物のような表情で答えた。
「お前と口論するのにももう疲れた。勝手にしろ。だが、お前はあくまで熊捕の代理で参加することを忘れるな。独断で妨害するようなら、会社として個人のお前を相手に訴訟を起こす。返事は?」
僕は約束を交わして、ソファに身を沈め直し、頬の血を拭った。ステラを取り戻すまで、もう少しの辛抱だ。離ればなれになってからまだ一日も経っていないのに、三日間は過ぎたような感覚がする。次に顔を合わせる時にステラがお腹を空かせているだろうと思い、熊捕から譲り受けた土産をポケットに忍ばせた。小豆味と苺味だった。