第4話 罠と拉致
部屋に戻ると、すでに宴会の準備が整っていた。畳用のテーブルには、こひなが約束した通り、見たこともない豪華な料理が次々と並んでいる。サーモンの刺身、色とりどりの前菜の盛り合わせ、香ばしい鶏肉の炙り焼き——炊き立てのご飯に合う料理ばかりで、何から手をつけていいか迷うほどだった。
僕はテーブルの端に座り、オレンジジュースを一口すすりながら壁にもたれかかった。ステラは皆に囲まれて思う存分可愛がられている。あの様子なら、僕がいなくても周りが面倒を見てくれるだろう。
先に食事を始めることにした。まず、味噌焼きのステーキを皿に取る。表面に薄く焼き色がついて、中は美しいピンク色——見ただけで美味しさが伝わってくる。わさびだけを少し載せて口に運ぶと、柔らかな肉質が口の中でとろけた。
「美味しい」
それだけで十分だった。堪らない食欲に任せて、もう一切れ取り分ける。
「パパ、ステラのおくち、ひりひりする!」
次に食べる料理をサーモンと大トロの間で迷っている僕に、ステラが涙をぽろぽろ流しながら抱きついた。僕は何が起こったのか分からずに、ステラの鼻から垂れる鼻水を優しく拭いてあげた。
「この匂いは……ステラ、もしかしてわさび入りのお寿司食べちゃった?」
ツンとした辛いわさびの匂いが、ステラの口から漂っている。さすがにわさびはまだ早すぎるだろう。苦しそうなステラを楽にしてあげるため、オレンジジュースを飲ませた。
「もうやだ!ステラ、お寿司きらい」
僕が差し出したサーモンの刺身にも、ステラは顔を横に向けた。わさびが入っていない寿司さえ、『羹に懲りて膾を吹く』のように拒否して、僕の懐に顔を埋める。ステーキも舌で味わっただけで、すぐに口を閉じてしまった。
本当に、困ったものだ。
「姉さん、急用で今日の定期検査をずらしたいって、さっき先生から連絡があったのよ。どうしましょう」
何かの報告を聞きながら、こひなが一升瓶の日本酒を持って隣の席に座った。『千光』のラベルがある黒い瓶を開けて、檜の枡に立てられた枝垂桜のグラスに酒を注ぐ。馨しいアルコールの香りが部屋に広がり、嗅いだだけで酔いそうになった。落ち込んでいたステラも匂いに興味を示し、好奇心に満ちた瞳でテーブルに上がろうとする。
「無理を言って約束を取ったのは私たちですもの、来週でも構わないとお伝えしておきますわ」
こひなは枡を天井に向かって持ち上げた。
「みんな、席に着いて乾杯しましょう。今日は私たちの食事会に初めてお客様をお迎えしたのですから、もっと楽しくいただきましょう——乾杯!」
賑やかな雰囲気の中、僕は皿の上のサラダを一口食べた。元気になったステラは、謝りに来た姉さんたちに追われて部屋の中を逃げ回っている。他の人たちはカラオケ機器の前で仲良く歌を歌っている。とても楽しそうで混沌としたディナーパーティーだと、ジュースを飲みながら思った。
「首、まだ痛む?」
こひなが話しかけてくると、日本酒の香りがほのかに漂った。目は半分恍惚感に浸り、力の抜けた体をテーブルに寄せかけて、僕に向かって優しく微笑んでいる。色白の頬が紅潮するまで、かなり酔いが回っていた。この状態では、まともな会話は難しいだろう。氷を入れた水をこひなに渡す。
「あら、気にしてくれるの?優しいのね——」
こひなは冷たい水を一気に飲み干すと、そのままテーブルに突っ伏した。やってしまった。軽く肩を揺さぶったが、反応がない。耳を傾けると、すでに深い眠りに落ちて寝言を呟いている。
僕は視線を宙に泳がせながら、どうしたものかと考えた。隣で無防備に眠るこひなの姿に、なんだか胸がざわつく。部屋の隅に置いてある本のことを考えてみたり、ステラに教えてあげる文字の練習について頭を巡らせたりしながら、テーブルの向こう側に目を向けたり、天井を見上げたりして、なるべく自然に振る舞おうと努めた。
「お姉さまに馴れ馴れしく触らないで」
酔っ払っていても怒った顔は変わらない奈緒美が、いつの間にか同じテーブルの前に座っていた。
「今、居眠りしているお姉さまを狙っただろう。このド変態野郎」
酔っ払いに真面目に説明しても、まともな会話はできない。昔、バイト先の食事会で小泉さんが酒を飲み過ぎて酔っ払ったことがある。あの時の小泉さんは、悔しそうな顔で同じ愚痴を一時間も繰り返していた。未だに小泉さんから聞いた男の名前を忘れられない。
「奈緒美さん、これは誤解です。あくまで倒れたこひなの様子を見ただけです」
「はあ?そんじゃ、誤解だって言えば、あたしの胸を揉んだことがチャラになると思うの?」
「声が大きいです。それと胸の件は、奈緒美が別に謝らなくてもいいと言ったでしょう」
「いいえ、あたしは言ってないわ。嘘までつくなんて、本当に悪い子ね。そうよ、土下座よ。今すぐ、あたしに土下座しなさい。土下座で誠意を見せなさい」
「分かりました。土下座しますので、どうか落ち着いてください」
土下座を要求し続けた奈緒美の声が、だんだん曇ってきた。涙を見せまいとするかのように、切なく俯く。
「ナオミの胸は小さいから、揉んでも感触がしない?」
何も言っていない、と言い返そうとして止めた。そもそも、突き詰めて言えば、この部屋にいる皆が平気で酒を飲んでパーティーを楽しんでいる。見た目は子供でも、精神年齢はその年齢に相応しく熟した、普通の大人として目に映った。ただ、瓶ごと飲む姿は、何度見ても慣れない光景だ。
「全部、君のせいだよ」
今度は奈緒美から突然責められた。
「あなたが私たちの平凡な日々を壊したのよ。なぜ来たの?なぜ私たちにあなたの世界を見せたの?永遠に知らない方がよかったのに」
僕の世界が奈緒美の大切な日常を壊した——そう言われても、素直に納得がいかなかった。壊した理由も方法も覚えていない。テーブルの上のおにぎりを一つ手に取る。中には鮭の腹身が入っていた。
「奈緒美ちゃん、嫉妬は程々になさい」
こひなの声に驚いて、ご飯が喉に詰まった。寝落ちたと思ったこひなが、テーブルに伏せたまま、ぼんやりした横顔で奈緒美を睨んでいる。酔っていた目は元通りに生き生きとして、脳裏に深い印象を残した。
「うええええ、お姉ちゃんに嫌われちゃった。悲しい、悲しくて死んじゃいそう——」
奈緒美が堰を切ったように両手で顔を覆い隠し、抑えきれない感情に号泣した。
今の言葉は、僕が聞いても空しく、冷たく響いた。
「泣かないの、泣かないでね」
ついでに眠りから起きたステラも啜り泣きを始める。それに狼狽えて、僕はステラの背中を撫でて落ち着かせた。
「うちもそれ欲しい」
奈緒美は僕の左手を自分の頭に乗せて、自ら撫でる真似をした。どうしようもない状況で、隣にいたこひなは無愛想に口を結んでいたが、眼差しに微かな笑みを交えていた。「女たらしめ」という目だった。
結局、他の女の子たちが来て奈緒美をトイレまで連れて行き、ステラは二度寝に落ちた。これで、ようやく僕のテーブルに平和が訪れた。
「悪くは思わないでちょうだい?」
こひなが話を切り出した。
「みんなは今まで、四角い部屋にある四角い布団で寝起きして、目を覚ましたら四角い鏡に映る自分の顔を見ながら、慣れた手つきで昨日と同じ化粧を施して毎日を生きてきたの。ところがある日、四角ではなく三角や丸の人生を持った炭咲とステラちゃんが、私たちの世界を訪れた」
彼女はジュースの入ったグラスの縁を人差し指でそっと撫でた。
「その日、華奢なみんなの世界は否定され、壊れてしまったのよ」
微弱な振動がグラスに伝わり、細い笛の音が鳴りつつ、罅が入った。単純に指先で撫でただけで、グラスが元の形を忘れてしまった。
「女の子は認めたくない時、主体となる存在に憧れて、そのうち嫉妬してしまうものよ。奈緒美ちゃんを除いて、他の姉妹たちが炭咲を歓迎しても名前は教えない理由も、きっとそれが原因だと思うわ」
話が終わった後も、相変わらずこひなは黙然とテーブルの向こうを眺めていたし、僕も何となくそんな彼女を眺めていた。目が合うと照れ隠しに笑い合ったりしたが、どこか寂しさを感じる気がした。
「複雑ですね、女の子は」
僕は食べ終わったおにぎりを皿に置いた。
「そうね。でも、それが女の子よ」
気だるそうな口調で話を終わらせたこひなの頬に、苦笑いがかすめた。
「こひなは強い女性だと思います」
「あたしが?」
こひなは疑問を呈した。
「カカシと戦った時のことを話している?」
僕はしばらく沈黙して、それから取って付けたように咳払いをした。
「こひなの話の通りなら、僕は皆さんにとって気まずい相手です。同じノバナである他人のステラがパパと呼ぶ僕の存在は、相対的に『剥奪』された感情を呼び起こすトリガーになると思います。それを、こひなは気にせずに僕と会話を続けている。もちろん、隠している本音は違うかもしれませんが、少なくとも僕にはそう見えます」
手に入らない憧れの対象は『夢』とは呼べない。眺めるだけで辛い思いをさせる『悪夢』である。奈緒美が抱いた苦情は、感染しやすい風邪のウイルスに似ている。症状は同じでも、治るタイミングは皆それぞれ違う。その中で、こひなは比較的よく耐える姿を見せている。今までの人生は知らないが、同じノバナとして尊敬できる心構えを持った人だ。
「あたし、今、炭咲からすごく褒められたのね?な、なんか照れちゃう……ありがとう」
照れるこひなは珍しかったが、小さくぼそぼそと次の話題に移った。
「そうだ、炭咲もあたしたちと一緒に共通テストの準備をしない?週明けの月曜日か火曜日に予定が空いていればの話だけど。場所は新宿にある知り合いのカフェに連絡してお願いする。どう?来られる?」
そう言えば、こひなは昨日、ガーデンズ学園の受験生として参加していた。ガーデンズ学園の入学条件に年齢と身分の制限はないとはいえ、新吉原の娘が共通テストを受けることは、社会的にぎりぎり論外中の論外として扱われる。当時、花魁の登場がSNS上で盛り上がった理由も、今まで裏社会の住民がガーデンズ学園に現れた実例がなかったからだ。
「一人で勉強しました?」
「常連さんの秘書にお願いして、色々手伝ってもらったの。共通テストの対策用の参考書も買ってもらったり、白花を第一志望に決めて面接の練習もしたのよ。案外、テストの成績は他の受験生に比べて高い点数をもらえたと思うわ」
久しぶりに話し相手を見つけたように、こひなはペラペラと僕の志望した花道を聞き出した。
「赤花です。実技試験がメインで行われる花道で、白花よりハードルが低いです」
「赤花だったんだ。トゲの種類を聞いたら、失礼?」
僕は自分の両腕を前に出して見せた。
「特別なトゲではありません。ただの再生力がチートレベルの体を持っています。ただ、ここには事情が——」
「ある」と言う直前に、大量の鼻血が畳に流れ落ちて、話が途中で止まった。昨日、無理して体を動かしたせいで副反応が出始めたのだ。テーブルにある紙ナプキンで応急処置をして、携帯の連絡先から香月の名前を検索したが、突然電波の受信状態が圏外と表示された。
「よくあることですので、心配しないでください。血はすぐ止まります」
相手を安心させて、小鼻をつまんで圧迫した。
出血は中々収まらなかった。鼻に詰めた紙ナプキンが血で赤く染まり、その先からは小さな血の雫が畳の上に滴り落ちた。
「ここ、電話が使える場所はありませんか?」
僕は慌てるこひなに向けて聞いた。
「外部と繋がる通信機器が必要です。ネットに繋がったパソコンでも大丈夫です」
「内線はあるけど、新吉原の半径百メートル以内は通信妨害がかけられているから、外との通信は繋がっていない」
こひなはすぐに理性を取り戻して、対案を出した。
「裏の通路があるわ。でも急がなきゃ。ほら、ついてきて!」
眠りに落ちたステラを部屋に残し、僕はこひなと一緒に廊下を駆け抜けた。止まらない鼻血が廊下に点々と滴り落ちても、もはや気を遣っている余裕はない。壁に囲まれた迷路のような通路の先には、ブロンズ製の時計針式フロアインジケーターとエレベーターの扉があった。
ガラス張りの外扉と蛇腹式の内扉で二重になった扉を手で押し開けて乗り込むと、こひなが何も書かれていないボタンを素早く押してレバーハンドルを操作した。
二人を乗せた古いエレベーターは孤高な節操を守り、錆びた機械音とともに下降した。扉の外は木造の壁になって、下の階にあるものは見えなかった。ついにこひながレバーハンドルを下ろして、黒い廊下がある階でエレベーターを停止させた。ここも上で見た廊下と構造的な違いはなかった。
「さっき連絡しようとした人は、東京都内にいる?それとも関西の方?」
僕は鼻を押さえて答えた。
「花園大学医学部附属病院にいます」
「名前は?」
「小児科の香月モネと言います」
名前の情報を聞いたこひなは、今度は後ろにある東京地図から病院がある文京区を指で押して、再びレバーハンドルを上に上げた。
「多少は揺れるから、しっかり掴まって」
鉄がぶつかる音が、耳を塞いでも奥まで差し込まれるように聞こえてくる。不安定な状態の中で、僕は片手で安全バーを握り、なるべく壁側に体を密着させた。体感的に五分ほど移動した後、完全にエレベーターが停止してから、外扉の向こうにもう一つの扉が現れた。
どこかで見覚えのあるドアだった。僕は恐る恐るドアを軽くノックした。
「午後は休診だ」
ドアを開け放つと、下着姿の香月がいる診察室が現れた。新吉原から病院までの所要時間は分からないが、五分で来られる距離ではないことだけはよく知っている。なお、午後の休診日は火曜日だ。新吉原に泊まる間、外では三日が経っている。
「突然お邪魔してしまって、ほんまに申し訳ありません。私、新吉原で働いておりますこひなと申します。こちらの炭咲様のお体に異変が起きて、急いで参りました」
こひなが丁寧な仕草で頭を下げて謝罪を申し込んだ。
「お手数をおかけしますが、休診やのに申し訳ないんですけど、一度だけ診てもらえませんでしょうか」
「おい、ちょっと待て。鍵をかけたはずなんだが、どうやって入った?」
気まずい挨拶を交わして、鼻の状態を遠くから見せてあげた。さすがに状態の深刻さを見極めた香月は、ハンガーラックから白衣を取り出して机の前に座り、刺々しい顔つきで僕を叱る仕草を構えて待った。
「えらい怒られそうやね。昔からの知り合いなの?」
「僕の叔母さんです。本来なら自分で何とかしたいところですが、今は仕方がありませんね」
「家族やのに、なんでそんなこと言うの?」
静かな口調で、ほとんど関心もないかのように淡々と言葉を告げた。
「借りを作りたくないからです」
こひなは一時間後に迎えに来ると言い残して、ドアを閉じた。人の気配が消え、ドアの小さなガラス窓から人々の影が見え始めた。今更、自分が乗ってきたアレの正体が気になる。
「何突っ立ってるんだ。さっさとこっちに座れ」
厳しい言い方に恐れをなし、文句を言うまでもなく香月の言葉に従って、患者用の丸い椅子に座った。香月はさっそく引き出しの中から鼻血ストッパーを取り出し、赤く腫れた鼻の穴に差し込み、小型の冷蔵庫から氷嚢を出して首の後ろに乗せてくれた。続いて鼻血をサンプル容器に入れて、机の上にある顕微鏡で観察をした。
「あの火災、お前がやったのか?」
顕微鏡から目を離して、ペンライトで僕の眼球を右と左の順で確認した。
「それとも偶然が重なった事故?」
僕は鼻が詰まった声で言い返した。
「信じないと思いますが、当日の朝、園内に怪しい者が侵入しました。これはあの時の戦いで無理をして出来た傷です」
「つまりお前は無関係ってことか?」
「……よく分からないです。最後に首を斬られて死んだので、記憶がないです」
「嘘じゃなさそうだな。首の周りの新しい木炭の傷は、七年前のと似てる。俺はてっきりお前がやらかしたと思ったんだが。ああ、薬は左の引き出しの二段目だ。水と一緒に飲め」
「ありがとうございます」
お礼を言って、引き出しの中からお薬を探した。まだ販売されていない試作品をピルパックから二個だけ取り出し、お水と一緒に飲み込んだ。お薬の効果は、胃袋の中で消化液に溶けるまでの五分後に現れる。
「成子、お疲れ」彼女は受話器を取りながら言った。「第七研究室に連絡して、共有ラボのシート確認してくれ。今から一時間後だ」
電話の向こうからの返事を聞きながら、香月は疲れた様子で頷いた。
「空いてるか?そうか、ありがとう。じゃあ予約を頼む。駅前のパン屋、新作出るらしいから今度奢る。ああ、じゃあな」
受話器を置くと、香月は深いため息をついた。そして僕の方を振り返る
「それを大人しく着てついて来なさい。まだ、さっきのお姉ちゃんが来るまで時間があるでしょう?今日こそ精密検査をさせる」
そう言いながら、ハンガーから私服のコートを僕の方に投げてきた。
逃げ場はない。僕は受け取ったコートを着て、顔はポケットの中にあったマスクで隠した。女性服で個人的には違和感を感じても、人の目には身長の小さい子供が姉のコートを着ているように見える。これで正体がばれる恐れはなくなった。
僕と香月は病院の廊下に出て、人目につかない道を選んで反対側にある研究棟に向かった。エスカレーターは避けて、階段から二階にあるビルの連絡橋まで上がって行った。前回ここに来た時はまだ工事中で利用できなかった連絡橋が、今日はセキュリティカードを所持した関係者なら自由に出入りできるように変わっていた。僕は同行者として訪問シートに名前を書いて、一時的に使える出入りカードを発行してもらった。
「どこに向かってますか?ドクター香月」
迫力ある声の持ち主が、独特な呼び方で香月を呼び止めた。密かに後ろから、二人がいるところまで歩いて来る人々の存在を把握した。
「おはようございます、虎徹先生。後にいる龍崎もお疲れ」
「ハロー、今日の午後は休診じゃないんだっけ。研究棟には何か用件でもある?」
子供のような雰囲気で挨拶をする男は、龍崎の名前で呼ばれた。
「ああ、分かった。樹の一族に関した研究会が今日だったよね?」
香月は揺れない声で、僕を後ろに隠した。
「いいえ、研究会は先週行いました。今日は別件で訪れる予定です」
それを聞いた虎徹という名前を持った男は、強く香月を壁に押し付けた。
「誰ですか、この子は。またお金のない患者さんを診た場合は首になると警告したはずです。念のためにお聞きしますが、そのことを忘れましたか?」
威圧的な雰囲気にひるまず、堂々と相手の顔に向かって顎を上げた。
「研究目的であれば、たとえ身元不明の患者でも特殊患者診療録に登録して診療する方針は、今年の経営会議で審査まで終わった方針ですが、虎徹先生はそれをご存知ないようですね。それとも知った上で、俺の邪魔をするおつもりでしょうか。文句があればご自分で病院長に言ってください。許可は得ております」
「そう来ると思いました。SCCはまだ小児科に限った方針であり、他の部署には許可が降りていない状態です。これについてはどう説明してくれますか?」
「私の部署は、診察した患者のデータを研究目的で使用する条件で、先ほどの話と同じく病院長に合意を取っています。それとも他に何か別の理由で、また邪魔をするつもりですか」
香月は自分より背の高い虎徹を、萎んだように眼球周囲に皺を寄せて睨み付けた。
「前にも同じ理由でお断りしましたが、虎徹先生。そんなに俺が好きなら、正式に付き合ってあげますよ」
「調子に乗るな、外道め。お前の家系はいつも出過ぎた真似をして人を困らせる。上の香月は結局のところ、犬死に同然の死に方で亡くなった。お前も近いうちに後を追うだろう。だが、この病院に恥をかかせる真似は許せない。数年前にお前の姉が犯した犯罪で、どれほどの同僚が同じ犯罪者扱いされたか、もう一度思い出させてやろうか?」
香月が言った。
「虎徹先生、それ以上は口にしない方がいいですよ」
「はは、私に命令でもするつもりか?」
「まさか。俺も虎徹さんには若死にしてもらって構わない主義だが、病院には迷惑をかけたくないだけです」
香月は疲れた表情を浮かべながら、僕の頭に手を置いた。そして虎徹の方へ数歩近づき、声のトーンを落とす。
「あなたがどれだけ俺を嫌ってるかは分かりますが──」
香月の声は低く、普段の投げやりな口調に冷たい嘲笑が混じっていた。虎徹を見上げる目は、疲労の奥に軽蔑の光を宿している。
「でも、俺は別に構わない。ただ、大人の都合で子供を巻き込むって、医者としてどうなんだろうね、虎徹」
彼女の言葉は途中から敬語を捨て、相手を見下すような調子に変わっていた。まるで相手が自分より格下の存在であることを、わざわざ言葉遣いで示しているかのようだった。
「落ち着け、春くん。お前がここで騒いでも、俺が面倒なだけだ」
香月は疲れた表情で僕を見下ろした。
血が頭に上る感覚で身体が熱くなる。拳が砕けるほど勝手に力が入った。僕はマスクを外して、母親の元同僚の顔を目に刻んだ。
ここは、かつて両親が働いた病院であり、今回で二度目の訪問だった。先日は、他の病院から赴任されたばかりの母親と一緒に病院内を散歩した覚えがある。目の前の男は、その時にすれ違った爺さんと顔が似ている。鋭い目つきと油断を見せない鉄のような性格を、メガネの裏側に隠した人物だ。
「何だ、その目は。親から礼儀というものを教わっていないのか?」
世間では母親が起こした事件だと知らされているが、事実上は別の人だと僕は推測している。証拠はない。あくまで被害者である僕の視点でそう思っているだけで、それだけで犯人と決めつけるのは良くないと思うが、心証的には黒に傾く。
「待てよ。この子の顔、どこかで見た覚えがある」
じっと二人を後ろで見守っていた龍崎と呼ばれる医者が口を挟んできた。
「そうそう!思い出したよ!君は緑埜家の坊やだね!以前、緑埜さんとお話しした時に息子さんのことを聞いたことがあるんだ。えーっと、名前は確か――」
龍崎の声は明るく弾んでいて、まるで久しぶりに会った友達を見つけたかのような喜びが込められていた。
「初めまして、炭咲千春と申します。父親からどんな話を聞いたか知りませんが、六年前に家族としての縁を切った状態で、最近まで顔を合わせたこともありません」
「なるほど、教えてくれてありがとう。話は分かった。緑埜さんのところも色々と事情があるみたいですね。それにしても、苗字だけでなく名前も、元々は千春ではなかったですよね?僕の記憶では、亡くなった香月の名前が『千春』だったような気がします」
黙って話を聞いていた虎徹が舌打ちをし、軽蔑を込めて呟いた。
未だに母親への異常な執着に囚われているのか。相変わらず哀れな家族だ」
「てめえ、今何て言った」
頭に血が上った。気がついたときには、自分より背の高い虎徹に向かって突進していた。低い姿勢から踏み込んで、渾身の蹴りを腹部に叩き込む。虎徹がよろめいたところを、素早く足を払った。
倒れた虎徹の胸ぐらを掴み、拳を振り上げる。
「歯を数えるのが好きか?」
僕は冷たく微笑んで言った。殴りかかる寸前のことだった。
「そこまでにしろ」
隣にいた香月が疲れ切った声で割り込んだ。白衣のポケットに手を突っ込んだまま、面倒臭そうに溜息をついている。いつものことだった。
「俺の患者にするつもりか?」
僕は握りしめた拳をそっと緩めた。風船から空気が抜けるみたいに、怒りが静かに消えていく。周りを見渡すと、いつの間にか多くの人たちが集まっている。奇妙な静寂があった。我に返った僕は、地面に倒れた虎徹に手を差し伸べた。
「大怪我はしていないようで何よりです。弁償はいくらでもしますので、俺宛てに請求してください」
その声は平坦で、感情が読み取れない。天気予報を読み上げるアナウンサーのようだった。そして、視線を周囲に向けて唖然とした龍崎に一口を溢した。
「龍崎、悪いが、後のことは頼む」
龍崎はただ口をぽかんと開けて立っていた。突然現れた宇宙人と遭遇した人のようだった。
「じゃあ、よろしく」
龍崎は軽やかに手を振った。コンビニでお釣りを受け取るときのような、あまりにも日常的な仕草だった。何事もなかったかのように僕たちは人の目が集まった場所から離れ、隣のビルに向かう連絡橋のゲートを通った。
特に警備に通報された様子はなかった。共有ラボに着くまで、僕と香月の間には気まずい空気が流れていたが、足音は引き続き廊下に響いた。何かを言いかけたようでもあったが、結局はすべての検査が終わるまで口を閉ざしたまま、互いの沈黙を見守った。
「最近、何かいいことでもあったか?」
カルテの内容を確認した香月からの質問だった。
「特に何もないと思います」
ふとステラの顔が浮かんだ。
「三日前から、僕をパパだと慕っているノバナの面倒を見ています」
香月はカルテを机の上に置いて、かけていたメガネを布で拭いた。
「どうかしました?」
「カルテの結果、春くんはどう思う?」
「……去年よりは平均値に近い数値でしょうか?」
「ああ、見た通りだ。木炭化が進行した割合に対して、体の成長もある程度進んでいる。血液中の樹の一族を攻撃していた白血球の数値も下がって、去年より健康な状態だ」
再びメガネをかけた香月がカルテをめくって話を続けた。
「話が変わるけど、まだ聖次郎のことを恨んでいる?」
香月が遠慮がちに訊いてきた。診察室の白い壁に囲まれた空間で、その名前を口にするのは、古い傷口を再び開くような行為だった。
聖次郎は、父親が緑埜家の女と結婚し婿養子となる前の旧姓だ。僕の昔の苗字でもある。炭咲は、僕が施設に入って一年が経った時に院長が勝手に付けてくれた苗字だ。火事から生き残った意味として付けてくれたらしい。名前だけは自分で決めたいと言って、母の名前を戸籍に載せた。
「はあ、あいつはママと華栄を殺した真犯人です。しかも実の息子を実験体として扱って、最後は見捨てた人間以下の奴です。まだ恨んでいるかと聞きましたよね。答えは、はい、まだ恨んでいます。一生恨み続けると思います」
しばらく視線を天井に向けて小さく息を漏らした。もう一度あいつのことを想像すると血が沸いてきた。
「あいつが何を企んでいるか知りませんが、最近は僕の携帯に電話をかけてきます。また、しょぼい研究の実績のために僕が必要なのでしょう」
「なるほど、分かった」
香月はそれだけ言い残して口を閉じた。何かほろ苦い気持ちで僕の顔をなにげなく眺めて、頬を手で慰めてくれた。しかし僕はその優しさを受け取ることができず、ただ棚の研究備品がガラス越しに放つ冷たい光を見つめ続けていた。
「俺の診察室に戻るまでの間、一緒に暮らしているノバナという人について話してくれないか」
「ステラのことですか?特に研究のネタにはならないと思いますが」
香月が僕の鼻を軽く掴んだ。
「医療報告書という名の退屈な書類に囲まれた生活を送っていると、時折まったく違う種類の話を聞きたくなる。俺は今まさにそんな気分だ」
僕は、ラボから出て同じ建物の一階にあるカフェで、香月が奢ってくれたカフェラテをテイクアウトしてベンチに座った。久しぶりに香月と仕事以外の話ができて、少しテンションが上がった。
ステラを最初に遭遇した時から、カカシとの戦いで新吉原の花魁と出会えたことまで、すべて話した。香月は話の中でもカカシに関して特に興味を持った。具体的にどのような動きをして、心臓の代わりに懐中時計を原動力にした生物なのか機械なのかなどについても説明を求められた。論理的に説明できない部分は、適当に話を誤魔化した。
会話を交わしてからだいぶ時間が経った頃、院内にアナウンスが流れた。
「コード名、ブルー。繰り返します。コード名、ブルー。コード名、ブルー」
「炭咲!」
二階の連絡橋から僕の名前を叫ぶ声が一階まで響く。顔を仰いでみると、二階で顔だけ出したこひながいた。人形も着ていない生身の姿で、何か急用があって訪ねてきたのかも知らない。
「ステラが黒いスーツの男たちに連れ去られたわ。今一階に向かってるから、絶対に逃がしちゃダメよ!」
話を聞いてから、注意深く一階にいる一人一人に目を配った。車椅子に乗った患者と後ろで押してくれる保護者や看護師、または休憩に入ったスタッフがそれぞれの位置に立っている。怪しそうな人物はまだ見当たらないと思った頃、黒いスーツを着た大人たちが人群れに身を隠して僕がいるフロアに姿を現した。
僕はまだ半分くらい残っているカフェラテを持ちながら、先方に歩いている男性に声をかけた。
「こんにちは、カラスが昼間から病院に何の要件ですか?」
僕の挨拶にカラスたちは動揺した。やはり僕の顔を知っている。となると、誰かに指図されて僕がいる病院まで来たか、あるいは偶然すれ違った可能性もゼロではない。何よりもステラを拉致した根拠がない状況で、下手に手を出せなかった。もう少し時間稼ぎをしつつ、情報を得る必要があった。
「パパ!ステラ、ここにいる」
呼びかけるステラの声と同時に、とある老人が尋常ではない動きで影から大きな袋を取り出した。
「炭咲、その叔父さんが犯人よ!捕まえなさい」
確信を得た時点では、影がステラの体を完全に呑み込んだ後だった。
目的を達成したカラスは地面に手をついて、徐々に影の中へ沈んだ。僕は邪魔をするカラスたちを倒して、犯人の首筋を掴めた。
「大人しくステラを影から吐き出せ。そうすれば灰にならずに済ませてあげる」
微動だにも許せない口調で相手を見下ろした。首やその露わとなった肌が、焼けて赤く染まってゆく。しかし、カラスがいかに震えようとも、両腕、両脚とも微動だにもさせなかった。
「ぐはっ...」血を吐きながらも、老人は苦笑いを浮かべた。「なるほど、噂に違わぬな。敵と見なした者には容赦せぬ坊ちゃんじゃ」
言い終わった老人は、体を砂のように変えて影の中に溶け込んだ。
カラスは僕のことを認知していて、それでもステラを優先した。つまり、僕の存在を知った依頼主が、あえてステラを攫ったということになる。誰の指示で来たのか、およそ見当がついた僕は、入口の回転ドアに向かって木製のベンチを投げつけた。
普通は物が割れる音に恐怖を感じ、怖がって体をすくめるものだ。だが現在、その場に立ったまま僕の動きを警戒している人々が八人いる。混乱の中で冷静さを保った一人が、残り七人を指揮して僕を取り囲もうとした。あの人がこのグループのリーダーだ。
「相手は一人だ。油断せずに一気に取り囲めろ」
リーダーの指示に従い、七人のカラスが各自のトゲを構えて僕に向かってきた。
最初の一人が右側から刃を振り上げた。僕は半歩後ろに下がり、二人目の左からの攻撃を腰を捻って避けた。しかし三人目の足払いを完全には避けきれず、バランスを崩した瞬間、四人目のトゲが左の二の腕を浅く切り裂いた。
血が滴り落ち、木炭化した腕の表面で小さな火花が散った。五人目と六人目が同時に正面から襲いかかる。僕は右に転がって回避したが、七人目が既に回り込んでいた。その刃が右肩を掠め、新たな傷口が開いた。
傷から流れる血は木炭の表面で蒸発し、薄い煙を立ち上らせた。体の組織が破壊され、同時に修復される奇妙な感覚が繰り返された。やがて両腕全体に炎が宿り、オレンジ色の光が周囲を照らし始めた。
七人のカラスは一瞬動きを止め、炎の明るさに目を細めた。
「一人だけ本拠地を吐け。そいつだけは灰にしないでやる」
僕の言葉は静かに空気の中に放たれ、淡々と空気そのものを焼いて消した。カラスたちの瞳には、暖炉の奥で燃える人影が写っている。両手を包んで踊る炎を見て、僕の話が比喩ではないことを理解した様子だった。この少年の前では、沈黙は焼死を意味するのだと。
接近系のトゲは僕の手のひらに触れてから、一分も経たない間に焼かれて灰になった。遠距離の相手は、腕から爆発を起こして距離を詰め、武器となるトゲを焼き尽くした。トゲは灰になり、トゲに触れた体の一部は焦げた傷跡を負った。一人ずつトゲが壊れる場面を後ろで見守るカラスは、灰になる仲間たちの悲鳴に怯えながらも、自ら前に出て参戦はしなかった。
「時間だ」
警告はした。僕は地面に散らばった、まだ温もりを残す灰を一握り掌に掬った。ほんの数分前まで呼吸をしていた人の灰は、風に連れ去られそうになったが、結局は僕の指の隙間に留まった。僕はその奇妙な質感を確かめるように掌を見つめてから、リーダーらしい男に向かって、静かに手を打ち合わせた。
火の種と可燃性の灰が外部の衝撃でスパークを起こして、重い轟音が巻き上がり、点火した途端に爆発を起こした。爆発の衝撃で、僕は病院の外まで放り出され、アスファルトの地面に落ちてから二回ほど転んだ。
耳元から金属音の耳鳴りが段々と車のクラクションに変わって聞こえた。ぼろぼろになった口の中は、血まみれの歯が何本か転がっている。
生きていれば問題ない。病院の入口までの階段を徐に上がった。階段に一歩を踏み出す際に、胸から腹まで見えた肋骨に赤い肉が一筋ずつ付いた。最後に顎の骨が元の場所に戻って、自由に口を閉じられるようになった。
僕は壊れた回転ドアを通って病院のロビーに入った。そして、真っ先にカラスのリーダーを探した。気絶した人々の中で、一人の男性が目に入った。男性は下半身を地面に引きずって、背中いっぱいに肘を足代わりにして動いていた。
下に落ちた灰を素足で踏みにじりながら、ゆっくりとその男に近づいた。一歩、また一歩と歩くたび、灰は足の下で細かく砕け、風に舞い上がった。男は僕の足音を聞きつけて振り返り、その瞬間、動きを完全に止めた。
胸の奥で何かが疼いた。怒りとも憐れみともつかない、鈍い感情だった。早く終わらせたい。男の震える背中を見ていると、苦いものが喉の奥に残る。
圧力をかけるでもなく、ただ静かに。僕は、無言のまま男の左脚をつま先で押さえつけた。
「本拠地を言いなさい」
淡々と一言告げる。声に感情は込めなかった。
「分かった。お、おれが全部話すから命は――」
男の顔は青ざめ、額に汗の粒が浮かんだ。その震え声が途中で途切れ、男の体が煙のように姿を消した。背後から殺気を感じた。反射的に身を横に逸らして背中への刃を避けようとしたが、一歩先で倒れている看護師の姿を見て、咄嗟に攻撃を受け入れた。激痛は一瞬で消え、大量の血が背中を伝って流れ落ち、青い刀身を濡らした血は赤黒く凝固していった。
「大量虐殺を起こした素町人の分際で、一抹の良心を残して何が変わる」
爆発を生き延びたカラスは荒い息を吐き、血走った目を見開いている。額の深い傷が痛むのか、刀の柄を握る手がわずかに震えていた。相手がどのような能力者なのか完全には把握できていないが、それでも僕の方が優位に立っていることに変わりはない。
一瞬の躊躇も、攫われたステラの命取りになりかねない。この戦いを早く片付けて、ステラの居場所を一刻も早く突き止めなければならない。体力も限界が近い。決着をつけるためには、ここでカラスを完全に無力化する必要があった。
「カラスにだけは、人聞きの悪いことを言ってもらいたくないな。それを言うならお互い様じゃないか?僕だって、仕事でカラスのせいで散々な目に遭った」
「たとえ同じ目的で動いているとしても、人殺しのバケモノと私たちを同様に扱われることは論外だ」
「論外?僕が体で刀を防ごうとしなかったら、看護師さんが代わりにやられたと思うけど、これはどう説明しますか?」
「君に詳細まで教える義理も義務もない」
言い切ったカラスが呼吸を整え、身を低く構えて突撃の姿勢に移った。相手は刃物を持ったプロだ。距離を置いても、長いリーチとトゲの活用範囲が僕には不利に働く。
一か八かの賭けに出るしかない。僕はカラスの懐に飛び込み、襲いかかる攻撃を左肩で受け止めた。その一瞬の隙を突いて武器を奪い取り、襟首を掴んで全身で相手に密着した。肌に焼けるような痛みを感じたカラスは、必死に僕から逃れようともがき始めた。まるで狂ったように身を捩らせながら、絶叫を上げ続けた。
「子供をどこに連れて行ったか教えてください」
「……分かった、分かったから放してくれ」
「本拠地はどこにありますか?」
「と、虎ノ門だ。とらの――」
微かな声で駅名だけを言い残して、カラスは気を完全に失った。虎ノ門にはバベル直下の機関があり、あいつが勤めている緑埜家の本社も位置している。疑いを明確にする目的で、倒れたカラスの上着から業務用で使われている携帯を探した。
画面ロックを解除し、連絡用のアプリを開いてメッセージの全文をざっと読み下した。マネージャー以上のグループチャットから現状の報告を求める連絡が届いていた。僕は倒れたカラスの『高橋』に代わって、「始末しました。本社に戻ります」と返答した。
電源を切ってスマホを握ったまま息を長く吐いた。突然の本社からの出向に複雑な気分に惑わされた。僕が立てた計画に、今日このタイミングで父親と対面することは描いていなかった。まして、その人が僕の計画を見通した可能性は低くない。が、ステラと僕の関係を疑うほど、人との関係より目に見える結果を重視するタイプだった。
僕は目を瞑って、頭の中で今までの出来事をまとめた。メッセージの内容を見る限り、虎ノ門の本社からカラスを病院に派遣するまでは約一時間かかった。ステラは病院に来るまで新吉原にいて、僕が病院にいることを知った後に追いかけて来た。冷静に考えれば考えるほど、ステラが発見されて、また攫われるまでの間が短すぎる。
何もかもが辻褄の合わない状況に、妙な感心を覚えてしまう。僕は七年前にあいつに見捨てられた時と同じような、心細さと冷たい無力感に襲われた。しかし、いくら理屈を並べ立てても、答えは見つからないままだ。
院内では、意識を取り戻した人々が金切り声で助けを求める一方で、通報を受けて現場に駆けつけた関係者たちが一階のロビーに押し寄せ、大変な混雑となっていた。
僕は誰にも気づかれないうちに、倒れたカラスからスーツを脱がせて肩にかけた。サイズの大きい部分は折り込んで内側に入れて着る。靴も必要だったので、床に転がっているスリッパを拾って履いた。
「炭咲?」
こひなが人込みの中で僕の名前を呼んでいた。新吉原にはあとで忘れ物を取りに戻る予定だ。その時にこひなに今までの経緯を話して謝罪しようと心に決めて、聞こえてくる声に耳を塞ぎ、病院から立ち去った。
垂れ落ちる鼻血を汚れたスーツの袖で拭いながら、僕は最寄りの駅に着くまで、決して振り返ることはなかった。