第2話 首の皮一枚
「ガーデンズ学園に訪問してくれた受験生の皆さんは、各自の受験番号を確認し、先生の案内に従って入場をお願いいたします」
電車の遅れで、僕は骨抜きにされたような状態でガーデンズ学園の最寄り駅に到着した。狭い車内で缶詰のように圧迫され、時間ぎりぎりまで満員電車に揺られたせいで、駅に降りてから歩く気力すらなくなっていた。
しかし、地獄はまだ先にあった。
駅の改札口からガーデンズ学園までの広場は、蟻の行列のような人波で混雑していて、前へ進むのもひと苦労だった。
僕が判断に迷っている間、後ろに並んだ三人家族の会話が耳に入った。
「すごいな、相変わらずここは人が多いね。先にここで記念写真でも撮ろうか?」
「正気なの?嫌よ、絶対撮りたくない。撮りたければ、お父さん一人で撮ってよ」
「冷たいな。どうせここから校門まで、途中で止まれないぞ」
「それでも嫌です。もういい、お母さんと先に行くね」
母娘は父親を残して改札口を通った。仲の良い家族だ、と思いながら、僕も何気なく三人家族の後について駅を出た。
外は予想以上に混雑していた。足を踏み入れる隙がないほど受験生とその家族で混んでいる。意思を持って歩こうとしても、ただ流れに身を任せて前に向かうしかない。気がつけば、僕もガーデンズ学園の校門に向かってのろのろと進んでいた。
「ガーデンズ学園は毎年行方不明になる受験生をリスト化して公開しろ!進学を悪用して罪のない学生たちを誘拐する行為はやめろ!」
息を抜いている僕に、見知らぬ中年女性が紙のチラシを手渡しした。紙には過去に共通テストを受けた学生の顔写真と名前が載っている。裏には連絡先と謎のマークが印刷されていた。
「君も気をつけてね。ガーデンズ学園は一人で来た受験生を狙っているから」
深刻な表情で僕を見つめる女性からは、子供を失った悲しみが滲み出ていた。みんなが受験生を応援するこの場で、この人たちは警告の言葉を囁いている。その気持ちを理解できる僕は、渡されたチラシを捨てずに、鞄の中にしまった。
ガーデンズ学園が失踪事件に関わっているという話は、最近ネット上で炎上している有名な都市伝説の一つだ。ほとんどの人は古い噂話だと笑い飛ばすが、実際にここ二年の間、かなりの人数がガーデンズ学園に関連して行方不明になっている。
TGCの問い合わせ窓口にも、毎年この時期になると似たような捜索願が届く。普通の能力を持った一般生徒から、将来を嘱望されていた特殊能力を持つ受験生まで、様々な子供たちが同じ日に姿を消している。
依頼はいつも失敗で終わる。そして、失踪者の両親に頭を下げて謝罪する。まるで犯人の代わりに謝るように、何度も繰り返して謝り、すべての恨みを全く無関係な僕たちが受け継いだ。
当時を振り返ると、あれは犯人を捜すレベルではなかった。本当に神の手が子供たちを隠したように、受験生の遺留品も犯人の痕跡も、どこにも残っていなかった。
ある日、僕は仕事帰りの道で奇妙な錯覚に襲われた。最初からこの世に存在しなかった相手を探しているのではないか、という忌まわしい現実を想像した。その影響で、三月は憂鬱になる日が多い。
バベルはこの件について、未だに公式なコメントを出していない。結局、責任を負う人のいない世界で、被害者だけがあの日に縛られて、心から苦しんでいる。
「あれ?なんで赤ちゃん一人でここに来たの?パパとママはどこ?」
鼻に馴染んだ匂いを感じると同時に、スマホが鳴り始めた。父親からの電話だった。僕は着信名を確認して、そのまま終了ボタンを押した。電話が切れて数秒後、メッセージが届いた。
『試験が終わったら電話すること。近いうちに本社まで来ること。断る場合は来月から実家に戻ること』
僕は目的がはっきりとした短いメッセージを無関心に見つめた。まだ施設にいた頃、月に一回の研究目的での採血が嫌で、父親の言いなりにならず、反抗的な態度を取った時期があった。反抗といっても、注射針が火傷の跡に刺される痛みが嫌だからやめてほしいと頼んだだけだった。
父親は僕の願いにこう答えた。
「お前にしかできないことを他人に押し付けるな」
それを聞いた僕は自分を責めた。「馬鹿、お父さんはみんなを助ける仕事をしている大人だ。きっと、何か大きな計画があるんだ」
言うまでもなく、父親に大義名分に基づいた計画なんて初めからなかった。七年前の火事でママと華栄が亡くなったのも、元をただせば、あいつの野望が引き起こした事件だった。結局、骨の髄まで自分のことしか考えない勝手な人間である。
最近の連絡も今まで通り同じ理由があると思われる。既に他の女性と再婚して苗字も緑埜に変えた人だ。何の目的もなく、過去の汚点を人前に晒すほど、あいつは自分の損になる行動を取らない。きっと今回も僕の能力が目当てで間違いないだろう。
「パッ、ハ!」
僕を呼ぶような幼い女の子の声が聞こえてくる。振り返ると、コンビニで顔を合わせたノバナが、もみじのような小さな手で僕のズボンを引っ張っていた。瞳の色、見覚えのある傷跡、僕があげたマフラーまで、すべてついさっきコンビニで会ったノバナだった。
小泉さんに連絡を取ろうとしても、彼女が来るまで待つには時間がなく、間もなく共通テストが始まってしまう。さらに困ったことに、ノバナのみすぼらしい格好を見て、人々がざわめいている。下手をすれば通報されて、今年の共通テストを諦める事態になりかねない。僕は急いでノバナに自分の上着を着せ、れた髪は余った包帯で軽く拭いてあげた。
「あの、すみません。もしかして炭咲千春君ですか?」
ノバナの影を慕って、顔の小さな女の子が声をかけてきた。僕の名前を知っている人は職場の人以外に少ない。しかも、僕よりも身長の高い女の子だ。どこかですれ違ったとしても忘れないような印象がある。
「やっぱりさっちゃんだよね!久しぶり、元気だった?背は昔から伸びてないね。牛乳は相変わらず嫌い?」
彼女は馴れ馴れしく、人の弱みをさりげなく突いてきた。
「好き嫌いはダメだよ。ちゃんと飲まないと背は永遠に百五十センチのまま大人になるよ?」
あの呼び方を聞いて思い出した。昔、同じ施設にいた同期が、確かに僕を「さっちゃん」と呼んでいた。名前は小麦だったような気がする。
「あのね、一人だけ喋らせておいて反応くらいしてよ。ほら、見て。すごいでしょう。この一年間、頑張ってバストアップしたのよ?すごいでしょ。身長も百六十センチを超えて、最近はバレー部にも入ったからね」
彼女は自分の体を誇らしげに見せながら、深々と頭を下げる。ここまで親しい関係だったかと、違和感を覚えた。一応、周りの視線を意識して軽く後頭部に手のひらを乗せてあげた。小麦はそれでも嬉しそうに笑顔を見せる。それを隣で見上げていたノバナが、小麦の笑顔を真似して同じような表情を作った。
「ええ、この子ってなんでこんなに可愛いの?ねえ、さっちゃんのお知り合い?名前を教えて」
無邪気にはしゃぐ小麦を無視して、僕は小泉さんにノバナの所在について連絡を入れた。また同じ状況に置かれた自分が情けないと思うが。また同じ状況に置かれた自分が情けないとは思うが、今の状況では子供と一緒に試験場まで入る方法しか頭に浮かばなかった。
「パッ、パッ!」
ノバナが両手を広げて抱っこを求めた。冷静に考えれば、学園の中には大人の先生たちが常駐している。せめて共通テストの間だけでも子供を預けることができるかもしれない。
「お前も運がいいな」
僕は冗談半分で言った。
「お願いだから、連れて行くから大人しくしてくれよ」
実際、子連れの受験生は僕以外にも何人かいるようで安心した。これで受験は問題なさそうだ。
「あと、お前もそろそろ急いだ方がいいんじゃないか?もう校門が閉まるぞ」
それだけ言い残して、僕はノバナと共に試験場に向かう行列に足を踏み出した。
「ちょっと、ちょっと。久しぶりに会った幼馴染に『お前』呼ばわりは冷たくない?」
とぼやきつつも、朝九時を知らせるチャイムが園内に響いた時。折よく校門が重い音を立てて閉ざされるところで、睨むように見つめている小麦の顔を後にして、急ぎ足で園内へ歩いた。
校門を通ってからは、皆が平凡で目立たない様子で誰一人文句を言わず、じりじりと前方に向かって歩いている。無意識的に秩序を守ろうとする姿は、同じ道の上にいる人として絶景だった。ただ、遅れた人々の絶叫が容赦なく皆の足元で踏みにじられる光景は、多少歪んだ一面を人前に見せつける。運に見放された外側の人は、また来年の春か、もしくは秋入学を目指すしかない。
「でも、会えてよかったと思う」
小麦は歩く速度を僕に合わせて肩を並べた。
「おはよう。さっきは私がいきなり声をかけて驚かせてしまってごめんね。改めて自己紹介させて。私は久城家の娘、久城美縁です。みんなにはムギと呼ばれているから、好きに呼んでもいいよ」
「おい、やめとけ」
僕はノバナに自己紹介をしようとする美縁を止めた。
「偶然知り合ったノバナに無責任なことはするな」
「その割にはノバナちゃんが随分さっちゃんに懐いているね。マフラーも当然ながらさっちゃんの私物だし、今時のツンデレキャラ?」
美縁に頭を撫でられる前に、スムーズに横に避けた。それを見ていたノバナも僕と同じ方向に頭を動かす。さっきから僕と美縁の行動をそのまま真似するような様子に不安を感じ始めた。気のせいかもしれない。
「パッパ、パッパ!」
ノバナが片手で僕の服の襟を掴み、どこかを強い意志を持って指さした。先頭に立った人の背中に遮られ、視野が確保できない状況にも関わらず、ノバナは前へ進みたいと駄々をこねる。
何度も子供を落ち着かせようとしても言うことを聞かなかった。だからといって、子供が泣き出すまで我慢するには、自分の体力が持たないような気がした。僕は深くため息をついて、ノバナを下に降ろした。親代わりになりたいわけではない。最低限の人間関係で求められる礼儀を教えるだけだ。
「子供だからといって、自分勝手な行動は許されない。分かったか?欲しいものがあるときは、まずお願いをすること。また、周りに迷惑をかけてはいけないから、わがままはほどほどにすること」
僕は一文字ずつ丁寧に自分の名前をノバナに教えることにした。
「あと、僕の名前は炭咲千春だ。た・ん・さ・き、ち・は・る。しばらくお前の面倒を見る人だ。名前くらいは覚えなさい」
ノバナは真面目に僕の話を聞いているふりをして、自由に動ける状態になった途端、注意された内容を完全に忘れて、猫のような動きで人込みの間を走り回り始めた。出会って僅か一時間で、子育ての壁を感じる僕である。案外、子供という生き物は自分に素直なのかもしれない。
「元気いっぱいな身のこなしだね。追いかけなくても大丈夫?」
美縁がスマホでSNSの記事を見せてくれた。
「そういえば、今年の受験生の中で花魁も紛れ込んだみたい。ほら、これを見て。今もファンの人が写真をアップしているよ」
どうでもいい、と思った。僕は風になびく赤いマフラーを目で追いかけていて、彼女の声は意識の端を素通りしていった。
「すまん、今なんて言った?」
「君って本当に自己中心的な男だね。昔と少しも変わっていない。せめて人が話すときはちゃんと聞いてよ」
美縁が拗ねた声で言った。
「でも、久しぶりに会えて楽しかった。次は一緒に入学式で会えるといいね、チハル君」
初めて下の名前で呼ばれたとき、頭の片隅から小さな違和感が膨らんできた。その正体を探ろうとして顔を横に振り向くと、美縁の声の余韻も消えて、元からそこには誰もいなかったような静寂だけが残り、背の低い見知らぬ女の人が僕を見下ろしていた。僕は息を呑んだ。
「皆さん、ご覧ください。新吉原の花魁が受験生として試験場を通っています」
誰かが叫び、人々がざわめき始めた。噂の人物――世間で最も話題となっている花魁の突然の登場である。興奮した群衆が一斉に彼女を見ようと一カ所に押し寄せた。このままでは人の流れに押し流され、群衆に押し潰される恐れがある。足元が不安定になり、前後左右から受ける圧迫で身動きが取れなくなった。押し込まれる時間が長くなるにつれ、息苦しさが増していく。それでも倒れないよう、必死に体勢を保とうとした。
「パッ?」
ノバナが空いた隙間からモグラのように姿を現した。手には何故か初めて見る高級な生地を持ちつつ、僕を呆然と見上げている。
「えへへ、パッパ」
僕と目が合った瞬間、満面の笑みを浮かべた。
へらへらと笑っている場合ではない。僕は一刻も早くここから抜け出さないと、呼吸ができなくて気を失いそうだった。まさに阿鼻叫喚といえる現場の状況で、わずかな時間差で生と死に分かれる。
気がつくと、ノバナは僕の冷ややかな態度が気に入らなかった様子だった。大いに不満そうな表情で、赤いマフラーを僕の手首に結び付け、思いきり下へ引き寄せた。
僕はその弱い外力で、体のバランスを崩して地面に倒れ込んだ。自分の体がかなり危険な位置に挟まれていることは分かっていたが、無防備なところへいきなり加えられた子供が引っ張る力によって、体勢が崩れるとは思わなかった。
「いい加減にしろ。今はお前の遊びに付き合う暇がない」
ノバナに怒鳴る前に、体の変化に気づいた。
呼吸が、だいぶ楽になった。まだ人波の中にいる状況だが、上の方に比べれば足元の方はまだ背の小さい僕でも動けるほど隙間がある。この子はそれを知った上で僕を下に引っ張り出したのだ。
勘のいい子だ、と僕はノバナの頭を撫でた。
「あり——」
大丈夫だと思ったのも束の間、圧迫に苦しむ人々が生きるために前の人を蹴ったり激しく押し合ったりし始めた。ここも安全ではないと判断し、うつ伏せの状態でノバナの後について移動した。ノバナはまた楽しそうに地面を這いつくばって、ゆっくり前方に進んだ。
移動しながら、何度も人々の足元に背中と手の甲を踏まれた。痛みはなかった。着ている制服が擦り切れることも気にしない。脚の森の中から通り抜ける、ただそれだけを考えて両手足を激しく動かした。
「申し訳ありませんが、安全のために距離を取って歩いてください」
人々が自然と作った人垣に囲まれて、花魁道中が行われていた。中央を歩く花魁が外八文字の歩きを披露し、その豪華絢爛な姿に周りの視線が釘付けになっている。周囲の人々と同じように、僕も彼女の醸し出す洗練された雰囲気に魅了されていた。
椿柄の入った豪華な着物、地面に引きずるほど長い裾、黒塗りの高下駄に映える白い素足――伝統的な花魁の装いが、この場に幻想的な美しさを作り出していた。
「誰か、この子の保護者をご存じでしょうか?」
その美しい光景に見入っていると、突然係員の声が響いた。慌てて振り返ると、ノバナが花魁の歩く道を遮るように走り回っていた。花魁も困ったような表情を浮かべ、周りの観客たちもざわめき始めた。僕は恥ずかしさで顔が燃えるように熱くなった。
「おい!」
叫んでもノバナは気づかず、代わりに周りの人から嫌な顔で睨まれた。それに対して言い訳もできないから、思わず大きく舌打ちをした。
一方、ノバナは僕の立場など全く考えていない様子だった。花魁の着物の裾に隠れてみたり、慌てて追いかけてくる係員たちから逃げ回ったりと、まるで遊園地にでもいるかのような無邪気さだった。
あれほど楽しそうに遊んでいる様子を見ると、無理に止めるのは可哀想に思えてしまう。だが、このまま放っておくわけにもいかない。保護者として何とかしなければと思いながら、暴走したノバナをしばらく見守った。そして、考えを巡らせた末、一つの方法を思いついた。
「迷惑ばかりかけないで、いい加減こっちに来い。ステラ」
周りのざわめきが一瞬で静まった。とはいえ、肝心のノバナは、まだ花魁の側で遊んでいる。まだ自分の名前だと自覚していない様子で、もう一度子供に向かって名前を呼んだ。
「ス——テ——ラ」
僕が名前で子供を呼ぶ間際に、ただの野花に過ぎなかった子供は特に反応を示さなかった。
「ステラ!今、お前のことを呼んでいる」
その名を三度目で呼ぶ瞬間、僕の懐に駆け込み、捨てられた花は僕の花になった。
「パパ、ステラ?」
ステラがずっと口癖にしていた単語は、本当は父親のことだったようだ。ステラという名前を授けられたノバナは、嬉しい顔をして大人しく僕を待ってくれた。
「愛らしいお名前でございますこと。お名前の由来をお聞かせいただいてもよろしゅうございますか?」
絵日傘の影から、花園にも稀な若い美人が一息届く距離まで歩み寄った。髪も黒くふさふさとし、白い肌と琥珀色の瞳が調和する顔立ちは、言葉を失うほど美の完成形に近かった。僕は一瞬前のことは忘れたかのように、名前の由来を目の前の女性に教えた。
「捨てられた野花だから『ステラ』です。特に意味はありません」
「あら?ご自身でお名前をお付けになったのですか?それも野のお花に?もしやこのままお屋敷にお連れして育てるおつもりでしたら、それはお止めになった方がよろしいかと存じます」
意外な返答を聞いた花魁は、ステラの顔色を窺った。僕は体を起こしながら服についた埃を軽く払った。
「TGC所属の炭咲千春と申します。子供は共通テストが終わり次第、施設の方に送る予定です」
ポケットから身分証明書を出して花魁に見せる。
「今朝、家の近くで知り合ったノバナです。訳があってノバナの方から僕を追いかけてきた状況です」
「にわかには信じがたいお話でございますが、とりあえず承知いたしました」
花魁は手に持っていた小さな草履バッグからハンカチを取り出して唾をつけた。
「もともと、ノバナという子どもたちは親御さんの香りがお体に染み付いている花童なのでございます。いつ、どちらにおいでになっても必ずお会いしに参りますので、もしかすると、炭咲さんを実の親御さんとしてお慕いしているのかもしれませんね」
花魁は、汚れたステラの顔をハンカチで拭き、持っていたヘアバンドを使って髪も整えてくれた。たったの五分で、見すぼらしかったステラが別人のように美しく変身した。
「女は愛らしさが武器でございますからね。常にお美しさを磨いておかないと、大切なときにご自分のお身をお守りできませんわよ」
ステラにアドバイスを残す花魁だった。
周りの目に気づくまで、僕は呆然とした表情で二人を眺めていた。
「共通テスト管理局から、ガーデンズ学園の共通テストを受験する皆さんへお願いと、ご案内を申し上げます。館内での喫煙、客席内でのご飲食、及び同じ受験生への録音、録画、写真撮影はご遠慮くださいますよう、お願い申し上げます。また、試験場の出入りをする際に、携帯電話など音の出る電子機器は、必ず電源をお切りください」
構内に若い女性の声でアナウンスが流された。それに気づいた人は、僕を含めて、アナウンスを聞きつつ、ポケットからスマホを出した。圏外、と画面の右上に表示されている。いよいよ共通テストが始まるのかと思い、周りの反応を見回した。ほとんどの人が慌てて困ったような表情をして、壊れてもいない携帯を叩き始めた。
「ただいまより選別テストを十分間、実行させていただきます」
再びチャイムが鳴り、選別テストという謎のテストが始まった。
「周りの人や構内の施設に害を与えないよう、ご注意ください」
一瞬の静寂の後、アナウンスが校内に響き渡った。
「間もなく選別テストが終了されます。構内にいる受験生の皆様は、その場で次の案内まで少々お待ちください」
その瞬間、僕とステラ以外の全員が一斉に地面に倒れた。まるで見えない力に操られたかのようだった。
この異常な状況に戸惑いながらも、僕は横たわった人たちの様子を確認した。呼吸は安定している。死んではいない。ただ深い眠りについているだけのようだった。安堵と同時に、なぜ僕とステラだけが無事なのかという疑問が頭をもたげた。
僕は身の危険を感じてステラを抱き上げた。見渡す限り、半径二百メートル以内に意識のある人はいない。誰も起きない静寂の中で、次のアナウンスを待つしかなかった。
やがて深い霧が白いベールのように地上を覆い始めた。視界が確保できない状況は、さらに不安を煽った。考えてみれば、テストが始まった時点から監視官の先生やスタッフが現場にいないことも不自然だった。
ますます怪しい状況の中、僕は警戒しながら校門の方に向かった。もうテストの合否は重要ではない。僕とステラだけが残されたこの状況は、どう考えても異常だった。
「パパ、あれ」
ステラが指差した霧の向こうから、人の形をした何かの影が薄く姿を現した。人影を確認した僕は、他にも生存者がいたのだ——そう思った僕たちは、前方に向かって足を運んだ。
だが一歩踏み出したその時、視界の先に一点の紅い光が尾を引いて街角を駆け抜け、煌めいて消えていった。急に気温が下がったかのように、全身に鳥肌が立った。一点だった光は二点に増え、同時に錆びた刃物がぎしぎしと軋む嫌な音が響いた。
僕の心臓は、これまで経験したことのないスピードで鼓動しはじめた。幻覚でも夢の中でもない。現実の恐怖を目の当たりにした僕は、その場に凍りついて動けなくなった。
突然、霧の中から奇妙な鳴き声が聞こえた。それとともに、視野を妨げていた厚い霧が薄くなり、その向こうに人ではない何かの輪郭が浮かび上がった。
「パパ、あれ、何?」
ステラの質問に、僕はなにも答えられなかった。麦わらで造られた普通の案山子が、肉眼で視認できるほどの距離にじっと立ったまま、ぽかんと僕の方を見つめていた。ボロボロになった紳士服を着ている。背中には大きな刃物を担いでいる。その姿 を見た瞬間、『庭師』という言葉が頭に浮かんだ。
庭師?——なぜそんな言葉が浮かんだのだろう。薄れた記憶の奥から、過去の一場面を必死に掴み取ろうとした。
断片的に、誰かの声が聞こえる。
『未だに陽の炎を抑える力は庭師には…』
そうだ。誰かが崩れた棚の下から僕を引き出して命を救ってくれた時の記憶だった。
だが、かちんかちんと時計の針が動く音が記憶にノイズを入れた。案山子の内部からの音だった。その耳障りな音は、心臓の音よりも繰り返し頭の中に響いた。
霧が消えた園内は暖かかったが、もはや軽やかな空気はなかった。すべてが静止し、辺りは死のような静寂に包まれている。
僕は深呼吸をして、再び目の前の案山子を見据えた。うつろな両目は渇きで周辺の光を吸い込み、しばし視線を交わしただけで、体が金縛りにあったように動けなくなった。
立ち尽くしていると、ステラが頬をつねった。僕は何とも言い難い思いを抱えて目を瞑った。重い緊張に満ちた雰囲気に疲れと悪寒が体を走る。
案山子を刺激するような大きな動きは避けた方がいい。僕はそう判断した。飾り物に近い無生物に対して、人間の常識が通用するとは思えない。
しかし、相手が動かない限り、僕から先に仕掛けるのは危険すぎる。
「パパ?」
しまった。慌ててステラの口を押さえたが、既に案山子はハサミを背負ったまま姿を消していた。
案山子の次の動きを警戒していた時、一瞬の隙を突いて刃物が僕の首筋に迫った。僕は半ば反射的に左腕で刃を受け流した。首を斬られる寸前で、腕に深い裂傷を負う程度で済んだ。
僕はステラの目をマフラーで隠し、次の攻撃に備えた。案山子の振り下ろしたハサミを腕で受け止めた時、手応えは感じられなかった。麦わらの体で自由自在に振り回すには、ハサミの重さは軽くない。つまり、相手の動きには物理的な常識が通用しないということだ。
正面から案山子の攻撃に立ち向かえば、生身の体が無残に切り刻まれるだろう。僕は両腕を前に構えた。
後方から風を切る音が聞こえ、右側に身を避けた。足音はしないが、鉄の鈍い音で案山子の動きを察知できた。僕は体のバランスを崩した隙を狙い、案山子を蹴り倒した。そのままハサミを両手で掴む。
一番邪魔になる武器を奪い取る考えだった。しかし、貧弱な麦わらの手に持たれているハサミを奪うことは困難だった。持ち運ぶ力が足りないわけではなく、最初から僕の手には負えない物のように動かなかった。
僕が動揺している間に、案山子が隙に乗じてハサミの片方で攻め込んだ。重傷は避けたものの、出血を伴う切り傷を負った。今の状態で長期戦になれば、生身の僕に勝ち目はない。
その時、腹部の奥に錆びたハサミが深く突き刺さった。何を考える間もなく、内臓を貫く激痛と共に、口から血が溢れ出た。痛みが脳を支配し、意識が遠のいていく。
「おい、くそバケモノ。ようやく捕まえたぞ」
両腕の包帯から黒い煙が静かに這い出し、人の肉が焼ける臭いが霧の中を取り囲んだ。
血管を駆け巡る熱が、溶けた鉛のように体の奥深くまで染み渡る。やがて、既に負っている傷口が一斉に疼き始めた。火傷の痛みが、神経を通じて脳に鋭い信号を送り続ける。
やがて奇跡が起こった。炭化してしまった腕の奥深くから、生命の赤い炎が宿る。その炎は希望の光のように見えた。新しい細胞が次々と生まれ、破壊された組織を修復しようと懸命に働いた。
だが、その希望は束の間だった。同じ赤い炎が、今度は破壊の牙を剥く。生まれたばかりの細胞を、容赦なく燃やし尽くしていく。まるで左手が右手を食らうように、回復した端から破壊されていく。
これは救済ではない。永遠の拷問だった。
外部からの傷に反応して、この地獄のような破壊と再生が僕の意思とは無関係に体内で繰り返される。止めることも、逃れることもできない。これが、一人で生き残った僕のトゲであり、呪いだった。
一時的に体を動かせるようになっても、それは死刑囚に与えられた最後の散歩のようなものだ。炭化した腕の周りにある正常な細胞は、絶え間ない炎症に晒され、やがて焼かれた跡を残して壊死していく運命から逃れられない。
結局、回復の速度は破壊の速度に追いつかない。この能力は僕を生かし続けるが、決して救ってはくれない。永遠に死の淵で苦しみ続けることを強いられた、生ける屍として。
もう後がない。これが最後のチャンスだった。僕は案山子の顔面を片手で掴み、麦わらが破れるまで力を込めた。
「死ねえええ!」
炭化した手のひらから爆発を起こし、麦わらに火の粉を放った。焼かれた顔は灰になった。有効なダメージを与えたと思うものの、案山子が僕の腹に刺さったハサミを抜き取った。
大量の血が臓器の一部と共に腹から噴き出した。炭化した腕の燃焼も加速された。もはや痛みを感じる傷のレベルではなくなっている。しかし、これでバケモノを倒すための条件は満たされた。
案山子は不気味な剣舞を踊るような動きで、ハサミを僕の首に向けて振り回した。首を狙って来るハサミを炭化した腕で弾いた後、神速で相手の下に潜り込み、燃え上がる拳で腹を突き抜いた。
火は抑えようもなく麦わらの体に広がった。僕は息を切らしながら、一つ一つの藁が黒い灰となって風に消えて行く場面を見届けた。
僕は息を切らしながら、一つ一つの藁が黒い灰となって風に消えて行く場面を見届けた。地面に落ちた僕の肉片は黒い燃えかすになっている。
「もう大丈夫だ。驚かせてごめんね」
周りに散らばった案山子の残骸を片付けた後、身を隠していたステラに優しく声をかけた。
だが、まだ炭化した腕の奥から火の息が噴き出る状態では、ステラに危険が及ぶ恐れがある。僕は遠く離れた場所から、彼女の様子を見守った。
「パパ?」
「違う。まだ人を間違えてどうする。僕は一時的に君の保護役に徹するだけで父親ではない」
「うう、パパ——!」
ぐずつき、泣き出したステラは僕の懐に飛び込んだ。小さな体でも、父親を頼りにしてくれているようだ。僕は両腕を上げ、ステラが落ち着くまでしばらく待った。そして、早く自分の血で汚れた服を着替えたいと思った。
「危険です!後ろに気をつけてください!」
オペレーターの切迫した声が響いた。何かの勘違いだろうと思うものの、僕は不安な胸騒ぎを覚えた。突然、止まっていた時計の針がまた動き出す音が耳元に聞こえてくるような気がした。
「アブナ…い、キヲツケ…て」
振り向くまでもなく、後ろにある不吉な声の正体について薄々勘づいた。
「パパ、あれ、ある」
アンティークな懐中時計を中心に、一本一本の麦わらが絡み合い、少しずつ人の形を作り上げた。蛇が地を這う音が人の精神を悶々とさせる。
僕はステラから離れて懐中時計に手を伸ばした。壊すつもりだった。しかし、予想外のところで邪魔が入り、動きを封じられた。相手は、気を失った受験生の一人、いや二人以上が、上半身だけ動かして僕の炭化した腕を掴んだ。
悲鳴も唸りも出さない人々は、火傷の痛みも我慢してまで麦わらの本体には行かせなかった。腕だけでなく、足と腰も動きが取れない状態になった。
この状況に違和感を覚えた。僕は目を凝らして人々の体にくっ付いた「何か」を掴み取った。蜘蛛の糸に似ている細長い麦わらの織糸が、人の身体を糸操り人形として操作している。案山子の能力か、それとも自然の成り行きか。一体僕は何者と戦っているのか、混乱を感じる。
「キヲツケ…て——おニイチャン」
「てめぇの口で言うセリフではないだろう」
程なくして、もやもやとする記憶の隅から、あの夜の記憶が蘇ってきた。僕が命乞いで掴んだ足首は、七歳の子供の力では手に余るほど大きな存在だった。切ない嘆きは笑い事として扱われ、小さな手の甲に炎で熱した杖先で焦がされる。その記憶が僕の血を再び沸かしている。
「まさか、てめぇも七年前に、あの場にいたのか?」
父親が見捨てた僕の家族が火災で亡くなって以来、僕は今日に至るまで真犯人を探す毎日を過ごした。孤軍奮闘の覚悟でTGCでバイトしながら、七年前の放火事件の情報を集めた。そして今、その手掛かりを手に入れたことで感情が高ぶり、絶句してしまった。
喜びとも恐れともつかぬ感情に腕が震え、脳内ではエンドルフィンが滝のごとく量に分泌されている。
僕は思い切り舌を噛んだ。思ったより口の中から大量の血が出た。出血に続いて、傷口から勝手に再生と回復が始まった。炭化した腕の火力は段々高まり、腕を掴んだ人々が次々と目を覚まして、焼け爛れた肉体の苦痛で悲鳴を上げた。これで邪魔者は消えた。
「バケモノだ。た、助けて」
僕は我慢できないほど嬉しくて、満面の笑みを浮かべた。それを隣で目撃したある一人の受験生が僕を恐れ嫌がり、案山子がいるところまで這いずった。
「私を、助けてください」
そう言った後、生まれ変わる途中の案山子に体を丸ごと飲み込まれた。
一人が飲み込まれてから、何人かの受験生が麦わらの中に吸い込まれた。案山子が人を飲み込むたびに、麦わらの形はより一層人間らしい姿になった。顔は男性のもの、身体は女性のものを借りている。そして残った最後の男の子を口の中に放り込み、太い舌で唇を舐め回した。
「おはようございます。自分、あの方の花園を守護する案山子と申します。樹の一族であるあなた様にご挨拶を申し上げます」
知能を持った案山子が人のように自己紹介の言葉を述べる。中途半端な人間の声で自分を語る格好が不自然で不愉快だった。
「早速ご提案したいことがありますが、お二人様をあの方の花園から排除、いいえ、収穫してもよろしいでしょうか。できれば今すぐお願いしたいです」
「図々しい顔で人を排除すると言い放つバケモノの話を聞く人はいないぞ。それより、てめぇは何者だ。なぜ、あの夜の華栄が話した言葉を知っている」
「自分が、でございますか?とんでもございません」
案山子が顔を横に傾けてこう言った。
「まず一つ、案山子である自分は一人が全てであり、全てが一人であります。二つ、あれは庭師様があの方から授けられた聖火で、あなた様のような樹の一族をあの方の花園から浄化した聖なる行為です。三つ、あの方から盗まれた樹の一族は、あなた様が二人目です。よって、順次に収穫させていただきます」
僕は黙って話を聞いた後、口を開いた。
「てめぇは、バベルの所属なのか?それともどこかの研究所で作られた実験体なのか?」
「自分は汚れないあの方の庭に属する存在でありながら、忠実な僕であります。どうか今後の収穫祭にご協力をお願いします」
「ああ、やはりバベルだったのか。それで十分だ」
僕は最後に大きく拍手を叩いて火の粉を起こした。
「とりあえず、てめぇもあの夜僕が感じたように、藁にもすがる気持ちを味わわせてあげる」
炭化した腕から響く清い鉄の音が校内に響き渡り、拍手を打った手のひらから火花が散った。身体中の細胞が焼かれる痛覚が神経に伝わり、血流が一瞬で脳まで駆け巡る。
僕は手で前髪を持ち上げて、軽く後ろに流した。前方から案山子が駆け込んでいる。僕から相当離れていない場所に錆びたハサミが落とされている。僕はすかさずハサミを拾い上げて、近寄る案山子を斬るつもりで大きく横に振り回した。
案山子は地面を軽く蹴り、華麗な足さばきでハサミの攻撃範囲外に避けた。
「失礼、これは取り返していただきます」
空中から慣れた手付きでハサミのハンドルに指を入れ、僕からハサミを抜き取って反対側に着地した。相手の動きに体が反応したけど、捕まえることはできなかった。
体勢を立て直した案山子は、ハサミの刃を開いて二刀流として構えた。そして、案山子が僕から目を離して集中していないことに気づき、また違和感を覚えた。ハサミの刃は僕の方に向いているが、もう片方の刃の向きは定まっていない。
注意喚起の目的とは言え、獣に近い案山子が人間の観点で動くはずがなかった。何か大事なことを忘れたような嫌な予感がする。
「樹の一族を二人も同時に収穫できる日は珍しいです」
ハサミが案山子の手を離れ、素早くステラの方へ向かった。高ぶった胸が一瞬でぎくっとした。今までずっと一人だった人生の中で、大切な人が敵の標的になるとは思わなかった。
「ステラ、逃げろ!」
僕の叫びにステラは笑顔で返事した。もう手遅れだった。間もなくあの小さい心臓に錆びた刃物が刺され、僕は絶望に落ちてしまう。あの夜と同じ恐怖を感じるだろうと思いながら、息を切らしてステラの方に走った。
「パパ、逃げる?」
片方の刃物が何者かによって弾かれ、空中で大きく回転した後、先の部分から地面に突き刺さった。皆が眠りに落ちている中で、他にも意識を取り戻した人がいた。僕は感謝を込めて手を振った。
それを見たステラは元気そうにこちらに向かって手を振り返してくれた。
「愛らしいお嬢さんに物騒なものをちらつかせるあなた様は、父親としていかがなものでしょうか」
ステラの命を助けてくれた人は、同じ受験生の花魁だった。着物の裾が太ももまで大きく裂けていること以外は、それまでと変わらず元気そうに立っている。
「すみません、おかげさまで助かりました。ありがとうございます」
「まともにお勝ちになれるお相手でもないのに、なぜ喧嘩をお売りになっていらっしゃいますの?まずはお嬢さんのご安全をお考えくださいませ」
「いや、まさか先に子供が狙われるとは思いませんでした。しかも、この子は僕とは無関係な他人です」
「この愚か者が!お言葉の意図をお考えになってお話しなさいませ。敵からすれば、一番弱いお方から狙うのが道理でございましょう」
言われてみれば筋が通る理屈だった。
「何をぼんやりしていらっしゃいますの?さっさとお嬢さんのご安全を最優先になさいませ!」
花魁に叱られる際も、僕の目は案山子を追っていた。これで相手の動きを予測できないことはよく理解した。遠距離でステラを狙おうとしても、花魁がそばにいる限り安全だ。
地面に刺さったハサミの片方は、案山子より僕の方が近い距離にあった。案山子の心臓部にある懐中時計を潰すまでは時間が必要だった。案山子が油断するタイミングで火力を最大に上げた状態で案山子の体を燃やし尽くす。
頭の中で案山子の動きをシミュレーションしてみた。目で見てから反応していては遅い。相手の動きを予想して一撃を与えないと、一生案山子にやられっぱなしになることは確かだ。
僕は案山子が地面に刺さったハサミに目を向けた時を狙って、一歩目の踏み込みから全速で駆け出した。倒れた人々を飛び越え、案山子との距離を一息に詰める。そして、炎を込めた炭化した腕を相手の腹部に叩き込む。ここまでが僕が考えた作戦だった。
「あなた様であれば、そう来ると思いました」
電光石火の速さで、いつの間にか案山子の手元には二つの刃物が一つになり、僕の首を締め付ける寸前まで近寄っていた。さっきみたいに、ハサミの刃が合わさる部分に腕を入れようとしても、先に首が刃に触れてしまう。一方、速度がつき始めた足を止めても、加速した体はそのまま前へ進むだろう。
「悪くなかった」
僕の首はあっさりと錆びついたハサミの刃を受け入れ、綺麗に斬られて体から分離された。
『君は生きろ。陽の計画に君の死はまだ先のことである』
七年前の記憶が小さい点になるまで切り刻まれ、意識の底まで深く沈んだ亡霊の呪いを呼び寄せる。天地が逆転する間にモザイクの欠片が集まった走馬灯が僕の脳裏で駆け巡る。
いよいよ幕が降りる時間だ。
ステラには本当に悪いことをした。生への未練なのか、あるいは虚しい死に対する後悔なのかは知らない。いずれにしても、僕には最後の祈りすら許されていないだろう。
万が一の奇跡が起きて、もう一度やり直せるチャンスが与えられる場合は、一生懸命ステラの親を探してあげよう。
そんな情けない後悔を呟きつつ、僕は闇に落ちた。