第14話 そして家族になる
鳥居のトンネルを潜り抜けて地上に着く頃、長いようで短い夜明けが終わり、もう訪れることがないと思った朝が来た。雪雲が晴れた空には朝日が昇っている。未だに積もっていた灰色に染まった雪は溶けて地面に染み込み、最初から何もなかったように、街は綺麗になった。
香月は神社を出て駅前の近くにある喫茶店に入って俺たち二人に温かいココアを奢ってくれた。一晩中立ちっぱなしだった僕は、足がだるくなって、カフェの席に腰を下ろそうとした。が、ココアに口をつけるか否かのうちに香月が捕まえたタクシーに乗り、そのまま家に送られた。
車窓から見える街は、あの夜のことなど知らぬ顔をしていた。
「お疲れさん。今日はゆっくり休んで話はまた明日にしよう」
香月から今後の計画について質問されて、別れる前に秋入学を準備すると言い返した。嘘ではない。今まで準備した努力のためにも共通テストは再度受けるつもりだった。ただ、木炭が使えなくなった以上、新しい能力を自ら調べる時間が必要だった。更に今までとは違う入試の種類と仕組みを一通り把握し、受験の準備にまた手間がかかる。
しかし一旦花言葉診断テストを通じて、新しく生じたトゲの確認を行えば、受験はもっと加速されるはずだ。それに何によらず、いちばん難しくて厄介なのは、冒頭の部分なのだ。
「お父さま、帰り道にコンビニに寄っても宜しいでしょうか。急用を思い出しました」
到頭、アリマからお父さまと呼ばれた。僕はアリマの願望で、家の近くでタクシー代を支払い、あの坂道にあるコンビニの中に入った
「いらっしゃいませ——」
ちょうど入荷時間が近づいたから、大好物の大きな鮭はらみお結びがおにぎりコーナーに並んでいた。今日は絶対食べると思った僕は、お結びを二つ選んでミニバスケットに入れた。念の為にアリマが食べないことも想定してサンドイッチも持って行った。途中からいなくなったアリマを探しに店内を見回ると、ドリンクコーナーの前で陳列された飲み物を眺めていた。
「アリマ、食べたい物はない?」と生々しい過去と交差する現在を記憶の彼方に葬って、アリマの横顔を見守った。「もし良かったら僕のお結びを一緒に食べてもいいぞ」
「あ、すみません。ぼっとしていました。私も、同じ物で大丈夫です」
と、ほろ苦そうな表情で視線を微笑みで受け止めた。ひどく辛そうな、切ない感じの笑みだ。結局アリマの買い物は、コンビニの中を回るだけで、何も買わずに済ませた。
「まだ時間が早いが、ここで朝飯を食べてから帰ろっか」
なるべく外から見えないように店内のイートインスペースの隅っこの方に腰をかけた。そしてすぐ、買った物をテーブルの上に出して先にお結びをアリマにあげた。下手に慰めるよりはこの方が無難でいいと思ったからだ。
疲れた様子でも美味しそうにお結びをパクパクと食べるアリマの姿は、例えようもない安心感を与えてくれる。僕も余分で買ったサンドイッチのフィルムを剥がして口に入れた。ハムとチーズが入ったベーシックな味であった。
「お父さまがこれを好む理由を、少しわかる気がします」
アリマの方から先に味見の感想を聞かせてくれた。なんとも微妙な表情で、僕があげたお結びを食べ終わらせて、自ら二個目を食べ始めた。食欲は、僕より強く見える。
「あの、お父さま。少しお時間よろしいでしょうか。話があります」
そろそろ食事が終わる頃に、アリマが丁寧な言葉使いで二人の間に軽い緊張感を呼び起こした。僕は食べ飽きたサンドイッチをテーブルの上に置いて、顔を横に振り向いた。そこにはアリマが椅子の上で膝を折り、体を蹲って僕に向かって頭を下げていた。
「この度、醜い私のために死にかけてまで命を救っていただきありがとうございます。本日をもって一意専心、お父さまに相応しい娘になるまで邁進いたします」
堅苦しい言い方に鳥肌が立った。
「仮に『お父さま』よりは『お父さん』とか『父ちゃん』はどうかな」
「私にお父さまは、お父さまです。そのようなお呼びは許されません」
頑固な娘だ、と思った。しかし、素直に自分の心を父に示すようになったから、悪いことではなかった。しばらく僕は頭を抱えて、他に使える言い換えがないかを考えた。
「…父はどうかな」
「却下します。親しげに振る舞うのはお父さまの威厳がなくなります」
流石に「様」つけで呼ばれるとまだ恥ずかしい、と言いつつ、本当のことを言った。
「前からステラにパパと呼ばれているけど、あくまで相互理解を深める呼び方として聞き慣れている『パパ』よりは、アリマが呼びやすそうな『父』がいいような気がしたんだ。それに、アリマには悪い話かもしれないが、僕は特に厳しい父親になりたいとは思わない」
アリマは僕の言葉を聞くと、首をかしげた。
「厳格でない父親像…」小さく呟いた。「理解できません。保護者としての権威性を放棄すると、指導効果が低下するのではないでしょうか」
「指導効果って」僕は苦笑いした。「アリマは僕のことを上司か何かだと思ってるのか?」
「違います。炭咲さんは私の…」アリマは言葉を探すように間を置いた。「存在意義です」
その真剣な表情に、僕は何と返していいかわからなくなった。
「でも、威厳がなくても構わないということでしたら」アリマは続けた。「私にとって呼びやすい呼び方を選択する合理性は理解できます。ただし」
「ただし?」
「父が厳格でないなら、私が規律を維持する必要があります。父の生活習慣の改善、栄養バランスの管理、そして学習効率の向上。これらは私の責任です」
どうやら、僕が優しい父親でいたいと言ったことで、アリマは逆に自分が厳格になろうとしているらしい。これは予想外の展開だった。
「アリマ」僕は彼女の肩に手を置いた。「君はもう少し、普通の子供みたいに振る舞ってもいいんだぞ」
「普通の子供…」アリマは首を傾げた。「例えば?」
「えーっと、駄々をこねるとか、わがままを言うとか」
「駄々、わがまま」アリマは単語を反芻するように呟いた。「それは非効率的な行動パターンです」
「効率だけが全てじゃないよ」
「では、何が重要なのですか?」
アリマの純粋すぎる疑問に、僕は言葉に詰まった。この子は一体どんな環境で育ったのだろう。
「君の気持ちは嬉しいけど、それは僕が背負うべき荷物だ」僕は彼女の肩に触れかけて、途中で手を止めた。この子にとって、身体接触はまだ未知の領域なのかもしれない。「アリマには、もっと自分らしい時間を過ごしてほしいんだ。例えば…夕焼けを見ながらアイスを食べるとか、雨音を聞きながら本を読むとか。そういう、何の意味もない贅沢があるだろう?」
「意味のない贅沢…」アリマは言葉を反芻した。その表情は、まるで異国の言語を解読しようとしているかのようだった。「私には理解できません。私の存在意義は、父のお役に立つことです。それ以外に私の価値はありません」
まるで壊れたレコードのように、同じ場所に針が戻ってしまう。
「分かった。でも一つだけ条件がある」僕は彼女の瞳を見つめた。その奥に、まだ名前のついていない感情が揺らめいているのを感じた。「僕が間違ったことを言ったら、遠慮なく反論してくれ。アリマの方が僕より多くを知っているんだから」
「反論…」彼女の眉がわずかに寄った。「でも、父に逆らったら、私は不要になりませんか?」
「逆だよ。君が僕に意見できるようになったら、それこそ本当の家族になれる」
僕は小指を立てて差し出した。アリマはそれを見つめ、まるで古代の遺物を前にした考古学者のような顔をした。
「これは…契約書の代替手段ですか?」
「約束の儀式。指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」
彼女の小指は陶器のように冷たく、そして脆そうだった。でも、繋いだ瞬間、僕の心に温かい何かが宿った。
「父」アリマが突然、事務的な声音に切り替わった。「現実的な問題について相談があります。ガーデンズ学園の秋入学についてですが、木炭化の治癒は医学的に奇跡的ですが、異能を失った状態での共通テスト合格率は統計的に絶望的数値を示しています」
僕は思わず笑ってしまった。娘に現実を突きつけられる父親って、どんな気分だろう。少なくとも、普通の親子関係ではないことは確かだった。
僕の言葉が、アリマの瞳の奥で小さな炎を点火させたようだった。彼女の表情が一瞬で切り替わり、まるで高性能コンピューターが複雑な計算を始めたかのように、眉間に縦じわが寄った。今回の事件が秋入学にどんな影響を与えるのか、彼女なりの戦略を練り始めているのが手に取るように分かった。
「香月さんには強がって見せたけど」僕は自分の両腕を見下ろした。木炭化していた頃の記憶が蘇る。あの時の力強さは、もう二度と戻ってこない。「正直なところ、トゲを失った状態での一般入試は茨の道だ。いっそのこと、体が健康になったことだし、学園の用務員にでも応募してみようかな」
自嘲気味に呟いた僕に、アリマが振り返った。その瞳には、僕が見たことのない光が宿っていた。
「父」彼女の声に、今までとは違う何かが混じっていた。「実は、お話したいことがあります」
「私の説明に不備がありました」アリマは椅子の上で膝を抱えたまま、まるで王座に座った小さな審判官のような威厳を放った。「元々歩もうとしていた花道を捨てるなら、トゲの痛みなど些細な問題です。秋には一般生徒向けの特別入学制度があります。父がTGCに復帰して準備を始めても、時間的には十分間に合います」
彼女の声には、今まで聞いたことのない確信が宿っていた。
「確かに入学の壁は高い。花言葉診断から個人面談まで、準備すべき項目は山積みです」アリマは一瞬、僕の顔を見上げた。「でも、父なら問題ありません。断言します。父は必ずガーデンズ学園に秋入学できます。私が保証します」
その言葉の重さに、僕は思わず身を乗り出した。「そこまで自信満々に言う根拠は何だい?」
アリマは人形のように無表情な顔を僕に向けた。でも、その瞳の奥には、まるで氷の下を流れる川のような静かな熱が潜んでいた。
「バベルのアゴラに参加した罪人の中で、生還を果たした者は史上初です」
彼女の声は淡々としていたが、その言葉は僕の心臓を鈍器で殴ったような衝撃を与えた。
「それだけで十分すぎる履歴書になります」
反論の余地など、どこにもなかった。
「まぁ、船は出港してしまったからね」僕は運命の波に身を委ねるような気持ちで、残りのサンドイッチを頬張った。「これから、よろしく頼むよ」
「はい。全力でサポートします」アリマの声には、今までにない温かさが宿っていた。「ガーデンズ学園の入試対策なら、私にお任せください」
その時、彼女のお腹から小さな抗議の声が聞こえた。おにぎり二つと牛乳では、やはり足りなかったらしい。僕は気づかないふりをして、さりげなく残りのサンドイッチに手を伸ばした。
「父」アリマが恥ずかしそうに俯いた。「もしお時間があるようでしたら、おにぎりをもう一つ買ってきてもよろしいでしょうか?昨日から何も食べていなくて、まだお腹が空いているんです」
ついに素直に欲求を口にするようになったか。僕は内心で微笑みながら、千円札を彼女に手渡した。安定した二人暮らしを築くためにも、早めに引越しを考えなければならない。四月は引越しシーズンの真っ只中で動きにくい。梅雨入り前までは静かに同居生活を続けて、もし大家にバレたら家賃を上げての再契約も覚悟しておこう。
「父、ピザまんが出来上がったようです。一緒に食べませんか?」アリマの声がレジの方から聞こえてきた。「あ、すみません。見間違いでした。チーズカレーまんです。えっと…ピザまんはないんですか?」
不器用な娘の困惑した声に、僕は思わず席から立ち上がった。一人でコンビニの商品に翻弄されているアリマを見ていると、放っておけない気持ちになった。
「はいはい、落ち着いて」僕は苦笑いしながらアリマの元へ向かった。「一緒に選んでみようか」
きっと、これから僕たちは多くの選択を一緒に迷いながら歩んでいくのだろう。コンビニの暖かい光が、僕たちの小さな物語の始まりを優しく照らしていた。
この物語を書き終えて、改めて「家族とは何か」という根本的な問いに向き合うことになりました。
炭咲という主人公を通じて描きたかったのは、復讐という感情に囚われた人間が、他者との関係を通じてどのように変化していくかということでした。彼の両腕が木炭になったという設定は、単なる超能力の描写ではなく、彼の内面的な状態を外面に表現したものです。炭は燃えることで光と熱を生み出しますが、同時に自らも消耗していきます。これは炭咲の生き方そのものを象徴しています。
ステラという少女の存在は、炭咲にとって初めて出会った「守るべき存在」でした。彼女が「パパ」と呼びかけたあの瞬間から、炭咲の人生は復讐から愛へと軸足を移していきます。彼が彼女に「ステラ」(捨てられた子という意味)と名付けたのは、自分と同じ境遇の彼女への共感からでした。しかし、その過程は決して平坦ではありませんでした。
各務アリマとの七日間の契約という設定を通じて、私は「演じられた家族」と「本当の家族」の違いについて考えました。最初は取引として始まった関係が、次第に本物の感情へと変化していく過程を描くことで、家族の絆というものが血縁を超えたところにあることを表現したかったのです。
動物園でのシーンは、この物語の中で最も幸福な瞬間として描きました。三人が本当の家族のように笑い合う場面は、読者にとってもほっと一息つける場面になったのではないでしょうか。しかし、その幸せが長く続かないことを知っているからこそ、その瞬間がより愛おしく感じられるのかもしれません。
炭咲が風邪で倒れ、契約を続行できなくなる場面では、現実の厳しさを描きました。どれだけ強い意志を持っていても、人間は完璧ではありません。その不完全さこそが人間らしさであり、同時に他者との関係を必要とする理由でもあります。
ステラの家出と死というクライマックスは、書いていて最も辛い部分でした。しかし、物語として必要な通過点でもありました。彼女の死は単なる悲劇ではなく、炭咲の最終的な成長のためのきっかけとなります。
神である陽との対峙という超自然的な場面は、炭咲の内面的な変化を外的な出来事として表現したものです。自らの命を差し出すという行為は、復讐から愛へと完全に転換した彼の心境を象徴しています。
復活のシーンで青い炎を地上に落とすという描写は、炭咲の新たな始まりを意味しています。赤い炎が怒りや復讐を表すとすれば、青い炎は浄化と再生を意味します。
最後のコンビニでのシーンは、物語の始まりと呼応しています。同じ場所で、しかし全く違う心境で語り合う二人の姿を通じて、人間の成長と変化を描きました。
この物語を通じて、読者の皆様に伝えたかったのは、どれだけ深い傷を負っても、人は他者との関係を通じて再生できるということです。炭咲とアリマが共に歩む道を選んだように、私たちも孤独に苦しむのではなく、誰かと共に歩むことを選択できるのです。
星空文庫という、競争や評価から離れた純粋な読書の場で、この物語が読者の心に静かに響くことを願っています。
最後に、この物語を最後まで読んでくださった皆様に、心からの感謝を申し上げます。




