第13話 この腕が燃え尽きても、君の家族になりたい
飯田橋の駅近くには、バベルを祀る大神宮がある。バベルと無関係な一般人には縁結びのご利益で有名だが、我々関係者には地上からバベルに入る唯一の入口として知られている。僕もバベルの役員から真実を聞くまでは、他の参拝者と同じ認識だった。
「ここからは徒歩で移動します。全員、車から降りてください」
JR飯田橋駅から歩いて街中に入ると、途中から道の両側に春日灯籠と石段が現れる。その石段は八十八段あり、昨夜から降った雪の白と、ライトアップされた赤い灯籠が鳥居への道に並んでいた。コンクリートのビル街と石段に積もった雪が境内を彩り、朱色と真っ白な雪との鮮やかなコントラストが調和している。
手錠に腰縄を打たれた僕は、夜明けの静寂に包まれた幻想的な風景に見惚れ、しばらく立ち止まった。この光景をステラに見せてやりたかった、と思ったが、背後から急かされて早足で歩き始めた。
「薬が効くまでは無理をしない方がいい」隣で一緒に歩いている香月が注意深く話した。「少しでも副作用があれば、約束通り近くの救急室に連れて行くから、我慢せずに私に言いなさい」
「そこ、罪人と距離を置いて歩いてください。また、余計な会話は禁止ですのでご遠慮ください」
僕は今、罪人の身として首輪と手錠をつけられたまま、人影のない街中を歩いている。たとえ通りすがりの人がいても、古式に則った藁製の編笠——顔を完全に隠す円錐形の帽子を被ったおかげで、身元が割れる心配はなかった。この時代錯誤な装束は、バベルの古い掟に従ったものだった。
「余計な会話ではありません。主治医として患者に注意事項を伝えました。大体この悪天候の中で患者を歩かせる君たちの方がナンセンスです」
香月が声を荒立てて言い返しても、相手は一貫して無視する。僕は深く息を吐き、雪が積もった階段を上がり続けた。皆、僕以外は同じ仮面を付けているから顔を判別することはできない。性別も判別できない服を着た人の群れが一列に移動し、やがてバベルの入口である神社に到着した。
神社内は、五十人を超える人々が集まるには多少狭い場所だった。
「なぜ、汚らわしい罪人どもが俺と同じ道を歩いているのだ?」
アイマスクを着けた何者かが、同じくアイマスクを着けた他の人に理由を問い詰めた。しかし誰もまともな理由を口にしなかった。むしろ、その人物から距離を置いて会話を避けようとしている。
「『バベルに入る道は一つであり、陽様の優しい花園から生まれた花であれば、差別されることなく、皆が同じ道を歩む兄弟姉妹である』。バベルが定めた規則に従って罪人と分類された花でも、バベルに入る時だけは、陽様の名の下に愛しい花なのです」
「無礼者め!この方が誰だと思って口答えをするのだ。この方は、自明党の中でも最も次期総理に近い杉田様だ。早く謝罪しなさい」
途端に周囲が慌ただしくなり、大声を出した二人を中心に人々が円を作った。僕と香月は一歩離れた所で状況を見守った。
「『バベルが定めた規則は絶対的』。『バベルは陽様が建てた聖なる場所』。『陽様の言葉に逆らう人は、陽様が作った花園に入れない』」皆が合唱するように声を揃えて言った。「感謝のできない人が陽様の楽園に入るよりも、らくだが針の穴を通る方が易しいのです。故にお二方はご自宅にお戻りください」
群衆の一人が代表として頭を下げ、二人を丁重に階段まで見送った。二人は最後まで何かを言おうとしたが、結局地面に放り投げられ、うめき声を上げた。しかし、誰も相手にしなかった。
僕は顔を伏せて後ろで目立たないよう気を配った。バベルのことを宗教レベルで信奉する集団の噂は、現場にいた時に小泉さんから『偶然でも関わらない方がいい』と注意された覚えがある。正式な名称ではないが、TGCではサンライズ団体を略してエス団と呼んでいる。
陽様という唯一無二の存在が、ある日突然人類の前に現れ、全くの虚無から真の創造が可能だという概念を人々に示した後、集まった追従者によって作られた団体がエス団だ。直接見聞きしたわけではないが、噂によれば、一見変わった集団に見えても、バベルにも所属する知的エリート層や芸術家が多くいるため、決して敵に回してはいけない集団らしい。
今、その噂が大袈裟ではなかったことをよく理解した。
「時間になりました。全員一列に並んで階段を上がりましょう」
雲の扉が開かれたように、空から千本の鳥居が神社に向けて降りてきた。多くの鳥居で形成された朱色のトンネルに足を踏み入れると、陽射しの下を歩むように、途中で吊り灯籠から柔らかい光が灯った。冬の背景から朱色の方形が遮られることなく、合わせ鏡の間に入ったかのような不思議な感覚に襲われ、宇宙まで伸びる光景に目を奪われた。
透明な階段に足を踏み出すと、足の裏に伝わる冷たい感触が現実を突きつけてくる。手錠の金属が皮膚に食い込み、じわりと痛みが這い上がってくる。この痛みが、僕がまだ生きていることを証明していた。未知への恐怖——それは死への恐怖ではなく、もっと原始的な、理解できないものへの畏怖だった。その恐怖を無理やり胸の奥に押し込めて、雲の中を歩いた。
雪風が吹く天気の中で、鳥居の中は揺れることなく洞窟の中のように静かだった。だが、その静寂が逆に不気味だった。風の音も、足音も、呼吸音さえも鳥居の朱色に吸い込まれていく。空気は薄くなり、肺が小さく痙攣を起こし始めた。高度が東京タワーを超えた頃、東京の街並みが遠い地平線の向こうに沈み、視界の端で雲の中から何かが近づいてくるのが見えた。
圧倒的な存在感で人類を威圧する石造建築物が、日本列島上空を覆う雲から徐々に姿を現した。あれは、塔だ。実物を近くで見るのは今日が初めてだが、直感でバベルの塔だと分かった。
塔の全貌が明らかになると、僕の脳は理解を拒否した。目の前にあるものは、建築物というより生き物に近い何かだった。石材一つ一つが脈動し、表面には血管のような亀裂が走っている。至高の存在が宿る塔は、途中で建設を止めたビルのようにいつ地上に落ちるか分からない不均衡を保ちつつ、空中で逆さまになって一階が天辺にあり、最上階が底にあった。
重力を嘲笑うように、下から上へと石材が積み上がっていく。まるで時間が逆流しているかのように、崩れ落ちるはずの石が空に向かって飛び立っていく。奇妙なパラドックスだ。普通はあり得ないことを、認識の歪みとして受け入れれば、正常な現象として見えてくる。
しかし、僕の身体は正直だった。胃の中身が逆流し、冷や汗が首筋を伝った。あれは人間が作るべきものではない。神が人間の傲慢を嘲笑うために作った、狂気の結晶だった。僕はそう思って、鳥居の隙間から見え始めたバベルに見入った。それは美しく、同時に絶望的だった。
「到着しました。各自、検問所で指定された席に案内してもらい、会場まで進んでください」
鳥居のトンネルから抜け出て逆さまの塔に着くと、東京ドームより広い荒野が人々の前に現れた。僕の足は思わず止まった。これは現実なのか?目の前に広がる光景は、まるで核戦争の後の世界のようだった。
その上には花も他の生物もなく、不自然な空虚が空間を支配していた。足元の地面は乾いた砂利で、一歩踏み出すたびにじゃりじゃりと音が響く。空気は異様に乾燥していて、喉の奥がひりひりと痛んだ。風は吹いているのに、それは死んだ風だった。生命の気配を一切運んでこない、ただ砂埃を舞い上がらせるだけの虚無の風。
周囲の人々も同じような困惑を見せていた。アイマスクをつけた何人かがざわめき始め、「これが陽様の楽園なのか」と小声で呟く者もいた。それでも、大部分の人々は沈黙を保っている。まるで何かに怯えているかのように。
ただ一つ例外として、古い建物一軒が壊れた大理石の柱などと一緒にぽつんと置かれていた。風が長年にわたって壁に歳月を刻んだように、円形の建物は半分以上が元の姿を失っている。
あの建物は何だろう?形状から判断すると、古代ギリシャの神殿のようにも見える。しかし、なぜここに?まさか、これがバベルの塔の原型なのか?それとも、人間の文明が到達した最高峰の証拠として、陽様が保存しているのか?建物の周りには朽ちた石の欠片が散らばり、かつてここに壮大な何かが存在していたことを物語っている。
だが、その廃墟から漂ってくるのは古さの匂いではなかった。それは新しい死の匂い、まるで昨日まで生きていた何かが突然消滅したかのような、生温かい絶望の匂いだった。
僕の背筋に冷たいものが走った。これは楽園ではない。これは墓場だ。人間の傲慢が最終的に辿り着く場所、それがここなのかもしれない。バベルの塔は、ただ空に向かって積み上がっているだけではない。それは同時に、過去のすべてを踏み潰して成り立っている。
検問所は簡素な木製のテーブルと椅子が置かれただけの場所だった。制服を着た係員が数人、参加者たちを振り分けている。香月は僕の手を軽く握り、係員の一人に近づいた。
「罪人の主治医として同席予定の香月モネと申します。私たちの席まで案内していただけますか?」
香月の声は普段より少し高く、緊張しているのが分かった。係員は書類に目を通しながら、機械的に答えた。
「恐れ入りますが、お受けいたしかねます。罪人が座る席と参加者の席は分かれていますので、ルールに則って着席をお願いします」
僕は香月の表情が強張るのを見た。彼女は深く息を吸い込み、もう一度試みる。
「事前に話は通してあります。これ、地上で使っている電話番号です。必要であれば確認していただいても構いません」
差し出された名刺を係員は一瞥もせずに突き返した。その無礼な態度に、香月の頬が紅潮した。
「地上からの話はバベルでは通用しません。お手数をおかけしますが、バベルのルールに従ってください」
周囲の参加者たちが振り返り始めた。アイマスクをつけた何人かが小さく舌打ちをする。香月は拳を握りしめ、声を低くした。
「言い争いをする気力はないので、上の責任者を呼んでください。または、龍崎家の人を呼んでください。中にいるでしょう?」
「龍崎家」という名前が出た瞬間、係員の表情が変わった。慌てたような、それでいて警戒するような複雑な表情。しかし、すぐに元の無表情に戻る。
「お下がりください。これ以上は公務執行妨害として拘束いたします」
係員の手が腰の警棒に伸びた。香月は一歩後退し、僕を見つめた。その眼差しには諦めと、申し訳なさと、それでも何かを諦めきれない意志が混在していた。
僕は首を横に振った。「もういい」と口の形だけで伝える。香月は唇を噛み、最後に一度だけ係員を睨みつけてから、僕から離れていった。
一人になった僕は、係員に向き直った。手錠の音がかちゃりと響く。
建物に向かって歩き始めてから体感的に十分ほど歩いて、ようやくアゴラが開催される建物の入口に着いた。中に入る前にいくつか身分証明書を提示し、ボディーチェックを受けた。問題は、その後席まで移動する際に起きた。
体調の優れない僕を気遣った香月は、入口で立ち止まり、スタッフと押し問答を続けた。その間、僕は一人で周囲を見回して、空の上に人類が建てた文明を眺めた。むっとする土の匂いが壁から顔に迫ってくる。一体誰がこれを建てたのか不思議に思った。
「ネネはあそこにいるの」
耳元でステラの声を聞いた。
僕は香月に声をかける前に、ステラの手に引かれてアゴラを支える柱の間の柱廊を歩いた。ステラは幻で、過去の記憶のように曖昧で儚い存在だった。
もうこの世にはいないはずなのに、僕の前を歩いている。振り返ることもなく、ただ姉のもとへ、姉のもとへと僕を導いている。彼女の手は確かに暖かく、その温もりだけが、この悪夢のような現実で僕を正気に保ってくれていた。
警備員たちにアゴラの内部に入ることを阻止されたとき、僕は手錠を振り払って強引に突き破った。
光も入らない闇の通路の中で、僕の両腕から赤い炎が毛筆のように一線を描き始めた。炎がうねる音が耳に響き、焦げた匂いが鼻を突く。木炭のような腕から立ち上る炎は、立ちはだかる人々を次々と薙ぎ倒していく。彼らの叫び声が石壁に反響した。
僕の感覚は研ぎ澄まされ、目には映らない音の波紋や湿度の変化までもが、まるで墨絵のように無の空間に浮かび上がって見えた。口の中に金属的な味が広がる。
立ちはだかる人々は木炭の灯りの輪の中で黒い灰の渦となって埃のように消えた。灰の粉っぽい匂いが漂い、舌に苦みが残る。彼らは本当に消えたのだろうか?それとも僕の意識がそう見せているだけなのか?もはや現実と幻覚の境界は曖昧だった。ただ一つ確かなのは、僕がアリマを見つけなければならないということだけだった。
やがて、そこから通り抜けた僕は、広場の真ん中に跪いているアリマを見つけた。彼女の姿を認めた瞬間、胸の奥で何かが締め付けられるような痛みが走った。やっと、やっと見つけた。
「アリマ!」枯れた声で人の名を叫ぶ。声は弱々しいのに、その必死さだけが物凄い勢いで彼女を人の前で呼び掛けた。広場の中央で跪く彼女の姿を見た瞬間、胸が締め付けられた。各務家に見捨てられ、父親の罪まで背負わされた少女が、たった一人でこの場に立たされている。
「君は、今日から、炭咲有馬だ——」
声が震えていた。本来なら段階を踏むべき手続きを、僕は感情に任せて飛び越えてしまった。慌てるアリマの顔が遠くからでも見分けられる。周囲がざわめき始めた。うまく物事を進めるには守るべき順番があり、それを通してから初めて周りを説得できる力を持つ。
その過程を全部省略するとだいたい失敗で終わる。僕も当然知っている理屈だが、深く考える前に追い詰められたアリマの顔が見えて、先に自分の娘だと宣言してしまった。
付け加えると、アリマを僕の戸籍に入れる書類上の手続きは、香月の人脈を最大限活用してなんとか処理している最中だ——と、香月から聞いた。確かに人事を尽くして天命を待つ譬えの通り、自分にできることは我武者羅にやった。アゴラが開始する前に間に合うかは、胸の奥に不安が渦巻いているが、手続きが無事に完了することを祈っている。
「静まれ」
石畳に響く足音が、僕の心臓の鼓動と重なって聞こえた。広場の手前に置かれた監獄の壁龕から、老人の声が響いた。その声は地の底から湧き上がるような深い響きを持ち、空気そのものを震わせていた。
周りの人々が不意を突かれ、その圧倒的な声量に場の空気が重くなった。僕は無意識に首をすくめる。湿った石の匂いと、何か燃えるような香の匂いが鼻を刺した。
ステージを扇形に取り囲むように湾曲した木材の長椅子が七十台ほど並んでいる。顔を隠した人々がそこに座っている。彼らの纏う灰色の布が夕暮れの光の中で幽霊のように揺れていた。時折、布の隙間から覗く目が僕を見詰めているのを感じる。その視線は好奇心というより、もっと重いものを含んでいた。
僕は老人に向かって挨拶代わりに会釈を返し、真ん中にあるステージに降りて行った。どうやら罪人を低い場所に置いてアゴラを行う仕組みらしい。
足を一歩踏み出すたびに、石段が軋んだ。老人の顔は壁龕の影に隠れて見えないが、その存在感だけで空間を支配している。古代の処刑場を思わせる構造だった。
ステージの中央に立つと、周囲の視線が一斉に僕に注がれた。扇形の観客席から見下ろされる感覚は、まるで井戸の底にいるようだった。夕日が西の空に傾き、長椅子の間から差し込む光が、顔を隠した人々の輪郭を浮かび上がらせている。
「地上から来た小さな花よ、何の騒ぎだ」
老人の声に、僕は思わず身を竦ませた。小さな花—まるで僕を蔑むような、それでいて慈しむような響きがあった。地上から来た、という言葉が暗示するのは、目の前にいる存在に常識が通用できないと言うことだった。
僕は深く頭を下げた。
「俺の娘が皆さんに大変ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ございません」
声を張り上げて言った。扇形の観客席からざわめきが起こった。灰色の布に包まれた人々が、驚きとも困惑ともつかない反応を示している。
「俺の娘?まずは名を名乗れ、小さな花よ」
老人の声に、僕は背筋を正した。
「炭咲の千春と申します。今日からこの子の父親になる者です」
僕の言葉が石の空間に響いた瞬間、静寂が訪れた。観客席の人々は身じろぎひとつしない。老人でさえ、壁龕の奥で言葉を失ったようだった。
その沈黙の中で、僕は自分が何か取り返しのつかないことを口にしたのだと理解した。
壁龕の奥で老人が一瞬眉を顰めたような気配があり、反論を述べた。
「事前に読み終えた報告書には別の親に関する内容は記載されていなかったと覚えている。今の話に嘘はないのか?」
老人の声に疑念が込められていた。扇形の観客席からも、より深刻なざわめきが起こった。灰色の布に包まれた人々が、僕を見詰める視線により鋭さを増している。
風が吹いて、灰色の布がざわめいた。誰かが小さく咳をする音が聞こえた。僕は深呼吸をして、この奇妙な法廷で自分に課せられた役割を演じる覚悟を決めた。
「はい、嘘ではありません。またもう一人、俺の娘になった子がいます」
「その花は誰だ」
「ステラと名付けた女の子です。世間では各務家の末井と呼ばれていた子供です」
話がここまで進むと場内はより一層騒がしくなった。僕の話は特定の人だけでなく、この場にいる皆に影響を与えた様子だ。
「ふ、ふざけるな。末井は俺の娘だ!」
発言の主は後席に座っていた各務家の当主である。やつれた顔をしているが、予想していたよりは声に張りがあった。顔には深い皺が刻まれている。僕は彼の発言を無視して、老いた顔が見え隠れする壁龕の奥の存在との話を続けた。
「ノバナだったステラを僕が拾い、名前をつけてあげました」
僕の声が石の空間に響いた。観客席からのざわめきが一瞬止まる。
「調べればすぐ分かりますが、TGCに通報された時、保護者の情報欄に俺の名前が書いてあるはずです。実際、ステラも俺を父親として認識し、しばらく一緒に暮らしました」
壁龕の奥で老人が長い沈黙を保った。その間、僕は自分の心臓の音が聞こえそうなほど緊張していた。
「炭咲の千春という名前は、確かにTGCの資料で見たことがある」
老人の声に、わずかな認識の色が混じった。しかし次の瞬間、その声は冷たく突き放すように響いた。
「しかし、小さな花よ、君の発言には中身が空っぽだ。根拠も証拠も足りない状況では、ここに集まった他の花を説得できない」
僕の胸に絶望が広がった。だが老人の言葉は続いた。
「何よりも君は発言権がない状態で話を持ち出した。急いでいる気持ちは分かるが、とりあえず自分の席に戻り、次のアゴラに参加するが良い。ルールは絶対的に守らねば混乱を招くからだ」
アゴラに入り込むことだけを考えた僕は、その場で次の作戦を一生懸命に絞り出した。説得するための手段が足りない現状をひっくり返す何かの手段が必要である。
「無謀すぎます。炭咲さんはここに来てはいけなかった。どうしてあなたまで来て状況を悪化させるのですか?まさか私をネネの身代わりにするつもりで来たのではないでしょうね」
アリマが僕に向かって厳しい口調で言った。
「まあ、何の準備もせずに来た僕が言うのも変ですが、一応助けに来ました」
僕は怒りのこもった言葉を聞きながら、僕を捕まえに来たスタッフの手から逃れた。
「正直なところ、アリマがどんな罪を犯して逮捕されたかは興味がありません。俺はただ、今更ながらステラが最後まで望んだように、アリマの父親になるために来ました」
「ありえない、ありえない、ありえないです!ネネは私ではなくあなたのことを心配しました。自分を責めるから守ってあげなさい、と私に遺言まで残した。それなのに、あなたはその気持ちを無視して、自らバベルに近づいて死のうとしている。一体何を考えているのですか?」
アリマの言葉が石の空間に響いた後、重い沈黙が降りた。観客席からの視線が針のように僕の背中に刺さる。僕はアリマの震える唇を、その瞳に浮かぶ絶望の色を見つめていた。
時間が止まったような静寂の中で、僕の中に奇妙な安堵感が芽生えた。ああ、これでようやく分かった。ステラが最後まで僕に伝えようとしていたもの。彼女が僕の手を握りしめながら、か細い声で囁いた言葉の本当の意味。
僕の唇の端がわずかに上がった。この場の重苦しい空気には似つかわしくない、どこか諦めにも似た微笑み。それは自分でも驚くほど自然に浮かんでいた。
「呆れた」
アリマの声が震えていた。灰色の布に包まれた観客たちがざわめく中、彼女の声だけが僕の耳に届いた。
「今までの努力が台無しになって絶望のどん底に落ちた私の前で、よくそんな顔ができますね」
彼女の手が拳を作り、小刻みに震えているのが見えた。
「それとも何ですか?悲しくて、惨めで、人生そのものに腹が立って仕方がなくて——だから笑うしかないとでも言うのですか?」
アリマの最後の言葉が、まるで自分自身に向けられたもののように聞こえた。僕は彼女の中にある、僕と同じ痛みを感じ取っていた。
その時、僕は自分の表情がどれほど彼女を傷つけているかに気づいた。微笑みが急速に消え、代わりに後悔の影が顔を覆った。
「ごめん、ごめん」
声は小さく、石の空間に吸い込まれるように響いた。アリマの怒りが静まるのを待つように、僕は深く息を吸い込んだ。観客席の人々も、この予期せぬ謝罪に戸惑っているようだった。
「これは僕が悪かった」
僕は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
「僕の知るステラは、アリマを誰よりも大切にしていた。小さな心遣いひとつひとつに気を配って、人と人との間を円滑にさせる優しい子だった」
ステラの面影が脳裏に浮かんだ。あの子がアリマの名前を呼ぶときの、特別な響き。
「さっきの笑みは——あの子から預かった願いの本当の意図を知って、純粋に嬉しくて笑ったんです。決してアリマの気持ちを踏みにじるつもりはなかった」
僕の声に、初めて本当の温かさが宿った。アリマの表情に、わずかな変化が見て取れた。
再び、アリマに近づこうとする人影があった。僕は今度も迷わず動き、その人物の首を掴んだ。またしても、灰色の粉が僕の指の間からこぼれ落ちた。
アリマの表情に恐怖が浮かんだ。観客席のざわめきが一層激しくなる中、僕は淡々と話し続けた。
「前に僕の家で壁に貼ってある写真を見ただろう」
先ほどの温かさを失った声は、どこか遠くを見つめるような響きを帯びていた。
「あれは、家族を見捨てた父親に復讐するために立てた人生計画だった。長い時間をかけて練り上げた計画だったが——」
僕は手のひらに残った灰を見つめた。
「今となっては、全て意味を失ってしまった」
アリマは言葉を失い、ただ僕の顔を見つめていた。
「アリマがネネの父親になってください、とお願いしたことを覚えている?あの時、なぜすぐ答えられなかったか自分なりに理由を考えてみた。表向きの理由で断ろうとしたが、やはり本音は、僕も父親——あいつみたいに駄目な父親になるのではないかと怖がっていたと思う」
見てきた父親の背中は頼りにならない世俗的な人で、亡くなった母親の優しさには複雑な事情が隠されていた。そんな二人の血を継いだ過去の記憶が、もしかしたらステラや他人の人生にまで悪影響を与えてしまうのではないかと——
僕の声が震えた。アリマの瞳が、僕の中にある恐怖を見透かしているような気がした。
ある夜、あの家族を燃やし尽くした炎は、僕の人生に決定的な影響を与えた。わずか七歳の少年が父親に復讐しようと決心し、幼年時代を送ってきた。それは復讐という名の死に向かう生き方であり、普通とはとても言えないほどの——
「壊れた人生だった」
最後の言葉を吐き出した瞬間、僕は自分が何十年も抱え続けてきた重荷を、初めて他人に明かしたのだと気づいた。
「だから、父親に似たような大人にならないよう常に意識して生きて来た」
近づく者を全て退けながら、僕はアリマの表情を見つめた。彼女の顔に浮かぶ困惑、そして——憐れみ?それとも理解?
「父親の蛮行に対して僕の手で償わない限り、先に行った二人に許されない限り、自分の人生を始めることすらできないと勝手に生きる目的を決めつけた」
アリマが小さく息を呑んだ。
「バイトから帰ったら部屋の暗闇が僕を迎え、冷めたコンビニの弁当が僕の空腹を満たしてくれる単調な日常に慣れる頃——」
僕は一度言葉を切った。その頃の自分を思い出すと、胸が締め付けられる。
「僕はステラと出会えた。本当に偶然だった」
アリマの表情が変わった。硬かった顔に、わずかな温かさが宿る。
「僕がステラに名付ける前は、あの子はただの野花に過ぎなかった。僕があの子をステラと呼んだ時、ステラは僕のところに来て意味を持った一輪の花になった」
僕の声に、初めて本当の愛情が込められた。観客席の人々も、まるで神聖な何かを目撃しているかのように静まり返っている。
「僕がステラに、ステラが僕に忘れられない存在になったように——」
僕はアリマの目を真っ直ぐに見つめた。
「互いが互いにとって大切な存在になった花園の中で、君にも花が咲く時が訪れる。それをアリマに伝えてあげたいのだ」
アリマの目に、涙が光った。
「あなたは——」彼女の声がかすれた。「あなたは本当に、ステラの父親になったのですね」
「これは僕がどうしてもやり遂げたい事なんだ。もちろん、無茶な話であることは自覚している。それでもアリマには僕を信じて欲しいと言いたい。君を大切に思ったステラの父親である僕が、大事な娘の願いを叶えるために頑張る姿を、まだ未熟で頼りにはならないけれど、最後まで見届けて欲しい」
告白めいた話をしてしまい、急に恥ずかしくなって、アリマからどんな顔をされるかが、やけに不安になった。
「本音を聞かせてくれてありがとうございます」とアリマが反応を見せた。「すみません。実は私、まだ炭咲さんに言ってない話があります」
何を、と言い返す前に何者かによって地面に引き倒された。相手は——案山子だと思っていたが、改めて見ると全く違う何かだった。先日から僕の人生に絡みついている、あの不気味な麦わらの化け物だった。
「待って待って待って。こんなに面白い話を陽を除いて語り合えるとは狡いぞ、アリスよ」
頭上から空間を裂くような声が響いて聞こえた。また、冷たい風に霙が混じって吹いてくる。気圧がぐっと下がり、周りの騒めきが静かに収まった。
「退け——」僕は体を押さえている案山子の体を左手で掴んだ。「僕の上から退けと言っているだろう」
赤い炎が麦わらの化け物の一部を燃やして灰にした。全身に火が広がる前に、それはどこからか大きなハサミを持ち出して自分の左足を切り取った。綺麗に切れた部分から急速に新しい麦わらが伸び始めた。
と同時に、麦わらの体に変化が起きた。まるで繭から蝶が羽化するように、首のない人型の影が麦わらの外殻から抜け出し、空中に浮かび上がった。
「炎…?ああ、なるほど。あの夜に燃やした種が芽を吹き出したのか。実に面白い」と僕の状況を見た謎の存在は、豪快に笑った。「小さい花よ、もう一度お名前を聞いても良いか?」
自分のことを陽と名乗った存在が、まるで羽根でも生えているかのように、ふわりと上から僕の手前まで降りてきた。首がない——僕ははっと息を呑んだ。だが、恐怖よりも先に奇妙な美しさに心を奪われた。首の断面が異様なほど綺麗に、まるで磨き上げられた黒曜石のようにツヤツヤと光っていたのだ。
衣服は——いや、これを衣服と呼んでいいのだろうか。紫色の絹のような布地に、金糸で縫い取られた八角形の紋様が散りばめられている。一枚の布を肩から斜めに掛け、古代ギリシャの哲学者が纏うヒマティオンのような優雅さを醸し出していた。日本の妖怪というよりは、遥か昔の地中海沿岸を彷徨う亡霊のような、そんな異国情緒を漂わせていた。
「私は炭咲千春と申します」
敬語で言わなければならない気配がして、相手に『私』を使った。
「娘がどのような過ちを犯したか分かりませんが、ここはどうか、寛大な心でお許しください」
「赤の他人から見捨てられた娘を、自ら義理の娘に迎え入れて、更にその代わりにお詫びを申し込んでいる」
首なしのヨウが、ひたすら感心感嘆した。
「アリスよ、人間の情というものが犬畜生の欲情と境界線が曖昧になった今のご時世にしては、彼の話は珍しく思わないか?そうであれば、娘が犯した罪も知らせる義務があるだろう」
「ヨウ様……」
壁龕の老人──その名をアリスと呼ばれた人物が困った声を出したが、ヨウは手のひらを前に出した。
「ただし条件がある。ヨウが造った案山子を倒してみせろ。それくらいの覚悟がないと話にならない」
ヨウが足元の地面に手をかざすと、土がもこもこと盛り上がり始めた。まるで見えない手が畑を耕すように、黒い土が人の形に整えられていく。胴体、腕、足——粘土細工のように滑らかに成形されていく様子は、どこか神聖ささえ感じさせた。
「ほら、千春。昔話にもあるだろう?土から人を作る話が」
ヨウの指先から金色の麦わらがひらりと舞い落ちて、土の人形に突き刺さった。すると、まるで種から芽が出るように、麦わらが土の中で根を張り、全身に広がっていく。
「お前の怒り、絶望、娘への愛——そういうものを全部練り込んでやった。なかなかの出来栄えだろう?」
最後に黒いボタンのような目が土の顔に埋め込まれると、それはゆっくりと立ち上がった。
案山子は意気揚々とした様子でハサミを振り回した。
「どうだ、難しそうであれば条件を変え——」
そう言うヨウに向かって、僕は答えた。
「娘を罪から救える方法も教えてくれるのか?」
「それは千春という父親の次第で、解決できる問題になるか、あるいは永久の償いになるかが決まると思う。もちろん、嘘はつかない」
確信を得た。僕はその言葉を聞いて迷わず、案山子がいるところに進んだ。
案山子の麦わらが風もないのにざわめいた。僕はその音を無視し、相手の動きだけを見つめた。案山子のハサミが宙を切る瞬間、僕は体を沈めて横に滑り込む。右手に熱が集まっていくのを感じながら、案山子の足元が一瞬ふらついた隙を突いた。
木炭が胸の麦わらを貫く手応え。指先が冷たい金属に触れた途端、僕は迷わずそれを掴み出した。錆びた懐中時計が手のひらに転がり落ちる。
前回の失敗は繰り返さない。時計の表面に亀裂が走る音が聞こえるまで、僕は力を込めて握り続けた。
「おや?一瞬で終わらせて良かったのか?案山子との間にまだ蟠る古い怨みがあったようだが」
「案山子にもう用はないので大丈夫です。それより私との約束はどうなりますか?まだ何か必要ですか?」
ヨウはしばらく考え込んだ後、落ち着いた声で命令を出した。
「良かろう。アリスよ、娘がやらかした犯罪行為の内容を手短に伝えてあげろ。あまり時間がかかりそうであれば、途中からヨウが割り込む」
「しかし、ヨウ様。バベルの掟を破るまで罪人に気を遣う必要はありません。他の花に反感を買う事態になります」
アリスが強い懸念を抱いた様子で反論した。
「一度、これに関して議論をした上で決めることはいかがでしょうか」
「君たちは、いつもそうやって都合がいい時にだけ民主主義を持ち出して、陽に逆らおうとする」
首がないヨウが不機嫌そうに言い、続けて語った。
「時の始まる前、何もないところから絶大な存在である陽が生まれた。そんな陽が、なぜ不完全な被造物の機嫌を取らねばならないのだ?アリスよ、古代から賢者の器を持った君なら、その理由を説明できるか?」
絶対者の質問に、アリスを含めて場内にいた日本の代表者たちは無言で通した。ヨウは、それが大人のやり方だと思っているとでも言うように、僕に向かって後ろから親指を上げた。僕に今の場面を見せつけるかのように。
「ちょっとした余興に過ぎない。深く考えなくてもいい。問題がありそうであれば、普段通り君アリスに処分を任せる」
アリスは降参したように、ヨウの言葉に従った。
「各務有馬はバベルにて禁忌とされた樹の一族について、その遺伝子情報を盗み、人体実験を行いました。更に樹の一族の遺伝子と各務家の卵子を組み合わせ、新しい花──青薔薇を生み出すことで、花園の主人である陽様の御名を汚す行為に及んだのです。その犯罪の動機は——」
「お見事だ」
ヨウの声が神殿の石柱に響いた。
「流石は元賢者、話術は円熟の域に達している。これで娘が何の罪を犯したかは、通りすがりの犬でも一目瞭然で分かるだろう」
「お褒めに預かり光栄です」
アリスは状況への照れ隠しか、苦い微笑みを浮かべた。やむを得ぬ演技であることを、その皺に刻まれた表情が物語っている。
「さて、炭咲の名を持つ花よ」
ヨウの視線が僕に向けられた。まるで大理石の神像が突然命を得たかのように、その瞳に意思の光が宿る。
「君は今の話をどう思うか聞きたいのだが……まだ考える余地が必要か?」
「根本的な質問をしてもいいですか?」
僕はアリスの話を聞いて思った疑問を口にした。
「一体、樹の一族とは何ですか?社会的犯罪を犯したというよりは、樹の一族に関わったから罪になったという風に聞こえます」
指摘された内容に、ヨウが答えた。
「大元の罪目は拉致と人体実験、および殺人未遂などの犯罪に類するものだが」
ヨウの声は、まるで古代の法典を読み上げるかのように響いた。
「小さい花が言った通り、処罰対象となった原罪は『樹の一族に関わらないこと』を守らなかったからだ。君の質問に答えよう。樹の一族とは、陽の玉座を脅かす一族であった。まして、各務家の娘は陽の意志に逆らったその一族と同じ道を歩んでしまった。どうだ、話の答えになったか?」
「ただそれだけの理由で、今まで人々を処分してきたのですか?」
呆気ない理由に反吐が出そうになった。
「結局、バベルがアリマを捕らえた理由は合理的ではなく、単なる陽様の仰せのままに書かれた規則に基づいているということですね」
実に馬鹿馬鹿しい話だ——と素直に怒りを感じた。
バベルは、基準にしてはならない基を持って人を判断している。僕は法律について詳しく知らないが、それはあくまで人を処罰するためではなく、事前に犯罪を防いで社会というシステムを保つために存在すると思っていた。
しかし今日、その信念が打ち砕かれた。
「口を慎め。陽様の御前で無礼な口を利かないよう注意しなさい」
かっとなった各務家の当主が話に割り込んだ。
「首を突っ込むな。これは陽様と僕の間の会話だ。お前が口を挟む場ではないから、黙って見届けていればいい」
僕は手のひらを叩いて、黒い木炭に赤い火を起こした。久しぶりに不合理な話を聞いて、冷静でいるはずの胸が熱くなった。
「話を戻しますが、アリマがここに引き摺られてきた理由は、結局のところ、陽様のお望みに応じなかったからでしょうか」
「ここは陽の花園、君たちは陽の花だ」
ヨウの声が、まるで天上から降り注ぐ光のように響いた。
「陽の役目として、道を迷った花には適切な指導を、道を外れた花には道に戻れるよう正しい躾を与えている。時には美しい花を咲かせるために試練を授けるが、今回の件はそれとは関係ない。単純に、花が間違った道を歩み出して、純潔さを失ったせいだ」
その言葉は、まるで自然法則を述べるかのように淡々と語られた。まるで花園の主人が、枯れた花を摘み取るのは当然の行為だと言わんばかりに。
「ああ、陽様の話はよく理解できました」
僕は歯を食いしばってお礼を言った。
「思ったより人間的な思考回路を持っていらして安心しました」
「ん?それは、どういう意味だ?」
首がないヨウの姿を見て、最初は無意識的に全知全能な神の顔を想像していた。ところが、あいにくなことに今の発言を聞いて、あいつの顔がふと頭の中を過ぎった。それで良い——と握り締めた拳から力を抜いた。
「いいえ、何でもありません。答えてくださってありがとうございます」
礼儀正しく挨拶の言葉を告げる。
「話が変わりますが、娘の罪が許される方法を教えてください」
ヨウは腕を組んで僕のところに歩み寄った。
「炭咲の名を持つ花よ、陽に聞きたいことはそれで終わりなのか?」
「はい、他は大丈夫です」
「……それで態度が急に変わったのか。なるほど、確かに一理はある」
首がないヨウが小さく呟きながら頷いた。
「一つ、陽からも質問して良いか?」
「どうぞ。俺が分かる範囲であれば何でも答えますよ」
「陽と対面してどう思う。何を感じたか正直に言ってほしい」
「それは初印象のことでしょうか」
「初印象?」
僕の問いに、ヨウの声調が高くなった気がした。
「良かろう。初印象だけではなく、その後の印象も、ぜひ聞かせてくれ」
僕は思うままに話した。
「最初は、天上天下唯我独尊的なナルシストで、人智を超えた存在に見えました。今は、傍若無人な印象で、首なしの状態でご飯はどこから食べるのか気になっています」
「小さな花は、陽が食事をする姿が見たいのか?」
「いや、別に見たくはないです。ただ興味があるだけです。良かったら地上に降りてくる際に、ファミマの『大きな鮭はらみおにぎり』と牛乳をぜひ試してください。美味しいです」
その瞬間、古代の石柱が軋むような音を立てて、ヨウの体から異様な威圧感が漏れ出した。
「……おもしろい。本当におもしろい」
声が低く、底知れぬ深さを帯びた。まるで地の底から響いてくるような、不気味な笑い声が続く。
「小さな花よ、陽にファミリーマートの鮭はらみおにぎりを勧めるのか。この神聖なアゴラで、添加物まみれの工業製品を」
アリスの皺が深く刻まれた。各務家の当主は完全に硬直している。
「でも、美味しいものは美味しいじゃないですか。神様だからって、美味しいものを食べちゃいけない理由はないでしょう」
僕は肩をすくめた。
「それに、陽様は全てを知っているなら、ファミマのおにぎりがどんな味かも知っているはずです。知識として知っているのと、実際に体験するのは違いますよね」
ヨウの体が一瞬、光を放った。
「……全知と体験は別物だと言うのか。興味深い論理だな」
今度は本当に楽しそうな声だった。
「アリスよ、この子は何者だ?まるで陽に哲学を語りかけているではないか」
「恐れ入ります、ヨウ様。この者は——」
「いや、良い。陽が直接聞こう」
ヨウが僕の方に向き直る。
「炭咲よ、陽を人間だと思っているのか?」
「思ってます。すごく人間らしい反応をする神様だなって」
「……なるほど。それで、陽がどう人間らしいのか、具体的に聞かせてくれ」
「承認欲求がありますよね。僕の印象を聞きたがったり、アリスに同意を求めたり。それって、とても人間的だと思います」
場内が水を打ったように静まり返った。
「それに、僕が態度を変えたことに気づいて、理由を推測しようとする。これも人間の行動パターンです」
ヨウは長い間、沈黙していた。
「……興味深い観察だ。では、陽が人間らしいとして、君はどう接するつもりなのか?」
「普通に接します。敬語は使いますけど、必要以上に萎縮することはありません。陽様も、そっちの方が面白いでしょう?」
ヨウの体が微かに震えた。笑っているのか、怒っているのか判然としない。
「面白い、確かに面白い。陽は最後に、君がどんな花を咲かせるか楽しみになってきた」
「誠に嬉しく存じます」
アリスが震え声で答えた。
「そこでだ。娘の判決を陽が下したいが、アリスを含めて皆の意見を聞きたい。どうだ。百年ぶりに罪悪感を感じない判決の結果を味わえる時間を、陽が再び授けてあげよう」
初めてのお呼びに、黙って状況を見届けていた皆が一斉に席から立ち上がった。たった一人を除いて、ヨウの提案に同意をする模様だった。
「いや、いや。子供の遊び場でもあるまいし、自分勝手に有馬の処分を決めても良いのですか?」
そう言いながら僕の方に指を差した。
「おい、小僧。邪魔だ。罪人ならば罪人らしく席に戻って判決を待ちなさい」
「各務の名を持つ花よ、邪魔をする者は君のことだ」
またたく間に、ヨウが各務家の当主に移動してその指を折った。悲鳴を上げる時間もなく口が封じられ、気を失った。非常に過激かつ適切と思われる対応に、息を殺して見守った。
「当主様の言う通り、無茶なことはここで辞めましょう。陽様は炭咲さんが思うように人間らしさを持った方ではないです」
ひたすら人を案じる娘の頭を、死人のように冷たい手で優しく撫でてやった。まだ大人のように大きくはない僕の手だったが、これからこの子の父親になろうとする者にとって、この会話は特別な意味を持っていた。
「大丈夫だ。僕が何とかする」
父親って、こういう時何て言うんだっけ?言葉を発しながら、心の奥では複雑な感情が渦巻いていた。年若い身で父親になろうとしているなんて、確かに無謀に聞こえるかもしれない。
「何とかって——」アリマの声が震えた。「はったりをかます相手を完全に見誤ったことに、未だお気づきにならないのですか?」
怒りと悲しみが入り混じった表情で、それでも涙を堪えようとしている。僕のせいで心配かけちゃったのかな。まるで叱るべき相手を前にした時のような、複雑な感情が彼女の瞳に宿っていた。
「炭咲さんは誰も望まなかったことを堂々と言い表してくれるから、実に私を困らせます」
「ステラの望みでもあるからね」
そう、これはステラの望みでもある。あの子が命を賭けて守りたかった家族。その言葉を詠むたび、僕の心は締め付けられる。家族として、人間として、そして一人のパパとして。
「ネネは最後にどうでしたか?」
慎ましやかな態度で、アリマはステラの最期について尋ねた。その声は震えていて、大切な人を失った悲しみが滲み出ていた。
「何か言い残したことはありませんでしたか?私のこととか……」
人によっては、冷たいベッドの上で孤独に死を迎えたと記憶するかもしれない。しかし死の寸前で僕と顔を合わせたステラは、とても安らかな顔を——いつものような、優しい笑顔を見せてくれた。最期の最期まで、自らの妹と慕うアリマの行く末を案じながら、静かに眠りについた。
「とても幸せそうな顔で、『アリマのことをよろしく頼む』って言った。まあ、夢の中で聞いたことかもしれないけれど」
僕は意図的に軽い口調で答えた。本当はもっと大切なことを託されていた気がする。でも、どう説明していいか分からない。大人だったら、もっと上手く伝えたかも知らない。年若い身で背負うには重すぎる約束だったが、それでも受け入れなければならなかった。
「そうですか。また私はお姉様を…最後まで迷惑ばかりかけてしまいました」
僕はもう一度、アリマの頭に手を置いた。木炭の腕で、触感はないが、それでも娘に温もりを伝えたかった。ずっと言えなかった言葉を、ちゃんと伝えるために。何て言えばいいのか迷ったけど、思ったことを正直に言うことにした。
「アリマ、君は迷惑なんかじゃない。ステラは君を誇りに思っていた。それが真実だ」
心の奥で、僕も一人暮らしが長いから、家族ってどんなものかよく分からない。でも、ステラとアリマを見てると、なんとなく分かる気がする。僕は静かに誓った。たとえ若くても、必ず良い父親になる。それが、ステラとの約束だから。
「アリマは充分頑張った。それでいいんじゃない?具体的に何を頑張ったのかは知らないけど、アリマのおかげで、僕はステラと家族になり、ここ最近で一番幸せな日々を過ごした。ステラもきっとそう思うよ」
僕は柔らかい笑顔で、なんか照れくさくて、最後はちょっと笑いながら言った。よく気を配ってくれてありがとう、とステラの代わりに感謝の言葉を伝えたかったけど、恥ずかしくて言えなかった。
「……余計なお世話です」
僕の褒め言葉を聞いて、アリマは俯いたまま、今まで我慢してきた涙をポロポロとこぼし始めた。僕は何気なくアリマの前に立って、自分の陰に隠した。
本人から家庭の事情は詳しく聞いていないし、あえて口にするつもりもない。ただ、アリマにこれ以上悲しい思いをさせたくなくて、僕なりに慰めようとした。
ある意味で僕は、ステラに感謝している。ステラがいなかったら、ほんの子供だった僕が、誰かの保護者になる機会は来なかったかもしれない。または、子供のために命を捨てる覚悟の意味すら分からないまま、先に寿命が尽きたかもしれない。
『お父さん、僕が書いた答えを見てください。この公式で問題を解けました』
各務家の姉妹と共に暮らすうちに、昔の自分を思い出した。わがままで、短気だった。何かを考えるより、思ったことをそのまま口に出してた。分からないことがあると、いつも質問ばかり。かまってほしい時は、いたずらして父親の気を引いたりもした。その度に怒られて、叩かれたけれど、嫌いにはならなかった。なぜだろうと、今でも不思議に思っている。
『私が、誰のためにそのプロジェクトに参加したか知らないのか?』
なぜこのタイミングで父親の言葉が蘇ったのか、僕は深いため息をついた。胸の奥に重く沈んだ真実を、僕はずっと見ないふりをしてきた。父親が僕のためにプロジェクトに参加したこと。それでも結局、僕を手放したこと。そして今、僕自身もステラをより良い環境に送ろうとして、同じ選択をしてしまったこと。
子供のためを思いながら、結局は別れを選ぶ。父親と僕は、同じ過ちを繰り返している。愛情の名の下に、大切な人を失う道を歩んでいる。
認めたくなかった。父親の気持ちが分かってしまうことが、何より辛かった。あの人を憎んでいる方が、まだ楽だった。理解してしまえば、許してしまいそうで、それが怖かった。
分かっている。頭では全て理解している。それでも、心がついていかない。まだ僕には、この複雑な感情を受け入れる時間が必要だった。
「アリスよ、判決のことだが、陽の考えには、古典的なやり方に戻ることを提案したい」
自分の席に戻ったヨウが、アリスに話題を取り上げた。
「と、おっしゃる通りであれば、いつの世代のことでしょうか」
「陽が太初に語った『追放』の時代における言葉と行いの話をしている」
ヨウが出した話題に対して、場内の人々に動揺する様子は特に見当たらなかった。考えられる可能性としては、東京あるいは日本という国からの追放があり得る。しかし追放について考える前に、太初を基準とするかを明確に知らなければ、当の僕を含めて、この場に集まった人々がその意味を理解できるはずがない。
「陽様の仰せのままに、降臨祭をご用意いたします」
申し付けられたアリスは、天地がひっくり返るような大きな息を吐き出した。
「塔バベルよ、此の世に降臨される太初の剣の炎を、眠りから起こして迎え入れなさい」
足元の地面が横に震え始め、揺れが激しくなると同時に石畳の地面が下に崩れ落ちた。わずか一分間で崩壊は終わり、穴は僕の足元の手前で止まった。大きく開いた穴は塔の中心を貫いて、小さな羊雲と筋雲が層をなす東京上空を肉眼で見ることができた。吹き抜ける風の音が、人の悲鳴のように耳に響いた。
更に全ての光が弱まり、辺りに黒い闇が広がり始めた。形なく、虚しく、闇が訪れ、何者かの息遣いが大気に響いていた。
ヨウは「炎があれ」と言った。すると一瞬の間に、猛烈に燃え上がる太陽の炎の塊がヨウの頭上に現れ、光と闇とを分けた。続いて右手を炎に入れ、左手を後ろに回した状態で、巨大なハサミを取り出した。案山子が使ったハサミよりも熱く、今でも火が付いて赤々としている。
「炭咲の名を持つ花よ、陽の真の姿を見届けた感想はどうだ」
強烈な光で目がくらみそうだと思うものの、目の前に現れた光に惑わされず、言うべきことを口に出した。
「俺たちを地上に追放するお考えでしょうか?」
ヨウは答えた。
「いいや、違う」
そして、言葉の代わりに真っ赤に熱せられた刃物を僕の首に当てて、追放の意味を告げた。
「陽の庭から追放されることは、死そのものを意味する」
熟した果物を眺めるように、炎が風に軽く揺らめいた。僕は、明確な答えに奇妙な安堵感を覚えた。素直に嬉しいと言いたいところだが、今の有様をアリマに見せたくないという気持ちが同時にあった。
「あの、父親である自分が身代わりになっても問題ないでしょうか」
「小花よ、どういう話だ?」
感情を隠した太陽の塊が、僕の返答に少し揺れ動いた。
「追放のことです。アリマの代わりに俺が追放されることで、娘が許されるかを聞きたいです」
「君は、死ぬことがもはや怖くなくなったのか?」
「まさか。七年前も今も、死ぬことは怖いです。もしできることなら、この死の杯を過ぎ去らせてください、と言いたいところです」
僕は固唾を呑んで話を続けた。
「しかし、俺の望みのままではアリマを罪から救えないから、ヨウの御心に任せたいと思っています」
返答を聞いたヨウは、瞬きほどの間、沈黙を保った。既に、他のことは頭に入らなくなった。ただただ、闇の中で輝く赤い炎だけが、視界いっぱいを占めていた。
「何ですか、その理屈は。なぜ炭咲さんが私の代わりに死ななければならないのですか?意味不明です」
アリマが裏返った声で叫び出した。
「各務家の問題をあなたが背負う必要はないですよ。特に私を救うために自ら命を犠牲にするなんて、私としてはもっとも望ましくない選択です」
「そんな顔をするな。全ては僕の計算通りだ」
そう言いつつ、振り返ってアリマと目を合わせた。
「多分僕は、もうじき死ぬだろう。だから、ちょっとくらいはパパとしてカッコつけさせてくれよ」
「病気のことであれば、ご心配無用ですわ。各務コーポレーションで積極的に支援してあげることを約束します」
すぐにでも泣きそうな顔で、僕にすがりつく。
「だから、だから代わりに死ぬなんて言わないでください」
僕は首を横に振った。
「ありがたい話だが、体のあちこちが壊れて、バベルに来る前から薬がないと両足で立つことすら難しい状態になった」
薬の効果が切れる時間が近づいたように、手足が震えた。口の中もだいぶ枯れている。終わりが、すぐそこに来た。最後にアリマの顔を眺めた。言葉で説明できない何かが心の中に生じて、不思議な気持ちが肌に伝わった。
「もっと早く君たちの父親になってあげられなくて、ごめんね」
アリマに笑顔で別れを告げた僕は、足を引きずりながら処刑場へと向かった。東京タワーの展望台に設けられた巨大な穴——それが僕の最期の場所だった。
跪いて穴から見下ろした巨樹は、小さな木の芽に見えた。僕の眼に映った世の中は悲劇で、舌先に塩っぱい味がしたのに、高いところから眺める東京は平和に酔って溺れている。一生をかけて住んだ町も、遠くからは無数のフィギュアが並べられているようで小さく感じる。木に目を取られ、森の全体を見極めなかった過去の自分へ、残念な言葉を流す間に、陽の光筋が一寸刻みに地面を這い進み、壁龕のアリスの上を通り過ぎて、僕がいるところまで寄りかかった。
背中からヨウの気配を感じる。僕は思わず吐息を漏らし、目を瞑った。ここまで来て、頭の一部では、アリマを一人だけ置き去りにすることが心配になり、自らの生への欠片を未練がましく感じた。
さぞかし、あの子は俺を引き留めようとするだろう。
「アリマ!君は、炭咲家の娘だ。これからは僕の言うとおりに、いい子じゃなくて自分らしく生きろよ」
脅迫めいた言葉を遺言として言い残して、僕は穴の奥に吸い込まれるように落ちた。地面に落下させる平和的な処刑方法で、意外と優しい判決だと思った。が、遠くなる塔を見上げた瞬間、会議場の床に倒れた自分の体を見つけた。そうか、今落ちているのは僕の首だけだ——と、呆気ないほど静かな死にひどく感服した。
アリマに笑顔で別れを告げた僕は、足を引きずりながら処刑場へと向かった。東京タワーの展望台に設けられた巨大な穴——それが僕の最期の場所だった。
膝をつき、穴の縁から見下ろすと、地上の巨樹が小さな木の芽のように見えた。僕の眼に映る世の中は悲劇に満ちていて、舌先には塩っぱい涙の味がした。それなのに、高いところから眺める東京の街は平和に酔いしれ、まるで何事もないかのように輝いている。
一生をかけて住んだ町も、遠くからは無数のフィギュアが並べられているかのように小さく感じる。木ばかりに目を取られ、森の全体を見極めなかった過去の自分へ、残念な思いを抱いている間に、西日の光筋が一寸刻みに展望台の床を這い進み、壁際のアリスの肖像画を照らして、僕がいるところまで届いた。
背後から陽の温もりを感じる。僕は思わず吐息を漏らし、目を瞑った。ここまで来て、頭の片隅では、アリマを一人だけ置き去りにすることが心配になり、自分でも生への執着を未練がましく感じていた。
きっと、あの子は俺を引き留めようとするだろう。
「アリマ!君は炭咲家の娘だ。これからは僕の言うとおりではなく、いい子を演じるのではなく、自分らしく生きろよ」
脅迫めいた言葉を遺言として言い残すと、僕は穴の奥に吸い込まれるように身を投げた。
落下しながら、これは地面へ落下させる平和的な処刑方法なのだと思った。意外と優しい判決だった。だが、遠ざかる東京タワーを見上げた瞬間、展望台の会議室の床に倒れた自分の体を俯瞰で見つけた。
そうか、今落ちているのは僕の首だけなのか——
呆気ないほど静かな死に、ひどく感服した。
世界がぐるぐる回る中、首の傷口から生まれた小さな火種が頭を包み込み、目の前が白く変わった。木炭化した筋肉が焼かれる音が耳元から遠ざかるまで、火傷の痛みが僕を酷く苦しめた。一秒でも早く一握りの灰になりたいという願望があるにしろ、時は跡形もなく淡々と流れてゆく。
呼吸が浅くなり、意識が半分ほど飛んだ頃、周りが静かになった。
「た、タンサキさん?」
青息吐息で聞こえるアリマの声に目が覚めた。変な話だけれど、地上に落ちたはずの僕が、謎の理由によって、穴に落ちる前の状態に戻った。意識が途切れる寸前、体中の細胞が逆流するような感覚があった。そして不思議なことに、切断されたはずの首は元通りに繋がり、血まみれの体で穴の縁に立っていた。
勘違いでも、逆行でも、転生でもない。僕は、生身の状態で、アリマの目の前で生き返ったのだ。
周りを振り向くと、さっきまで僕の体が倒れていた床には大量の血が散らばり、何かが穴に落ちた痕跡が確かに残っていた。着ている患者服の袖には、血と汚物の交じり合った赤黒い染みが、さっきと同じようについていた。
現状を把握するまでの約数十秒の間、場内に集まった人々の視線が僕に注がれているのを感じた。同じ人が同じ場所で生き返るという異常事態に、ヨウを除いて、全員が不安な表情で見守っている。
「本当におと——、炭咲さんですか?」
枯れたアリマの声が耳に届き、耐え切れぬ淋しさが胸に込み上げた。振り返ると、僕と向き合って号泣するアリマが、ひどく腫れた目で僕を見上げていた。
「——」
慌てる姿が子供らしくて可笑しい。そう思いながら自分の喉に触れると、言葉が出ない原因を探ろうとした。すると首の辺りに、形のない暖かい何かが指先に触れた。これは、炎だ。視野に入ったのは、確かに今まで見たこともない青い炎だった。
何気なく見つめ直した自分の右腕には、炎に触れた部分から青い光を噴き出す火の粉が自然と燃え上がっていた。気付けば木炭の殻を徐々に失って、乳児の肌のような新しい肉芽が盛り上がっている。
七年前も似たような炎を両手で触れた覚えがある。だが、今はそれよりもアリマとコミュニケーションを取れない問題が先決だ。とりあえず、必死に身振りや手まねで自分が炭咲の千春であることを伝えようとした。
「えっ、落ちて気がついたらここに?それで木炭化も治ってる。…理由は分からない?うーん、もしかして頭を失ったショックで、何か眠っていた力が目覚めたのかもしれませんね」
そこでアリマは少し意地悪く微笑んだ。
「でも、これで炭咲さんの大好きな鮭はらみおにぎりは食べられなくなっちゃいましたね」
「——」僕の炎が小さく萎むように揺れた。
「あははは、冗談ですよ。本当かどうかは実際試せないと分からないです。首がなくても陽様は人の言葉を喋れるみたいなんですが、お父さまはまだ鍛錬が必要そうですね」
『今、僕のことをお父さんって言った?』
僕の炎が急に大きく揺らめき、驚きを表すように左右に激しく揺れた。
「えッ?あッ、すみません。失言でした。今の話は忘れてください」
僕は炎を小刻みに上下に震わせ、もう一度言ってほしいと懇願した。
「な、何をですか?私が呼び間違えたことにしつこく付き纏わないで貰えませんか?」と言いつつ、僕の手を押し退ける。「い、嫌です。嫌ですってば!」
それでも僕は諦めず、炎を静かに、しかし熱く燃やして最後のお願いを示した。
「はあ、意外と意地悪い嫌がらせがお好きなんですね。分かりました。でも、一回だけですよ?」
僕は炎を穏やかに縦に揺らし、深く頷くような動きを見せた。いつにも増して真剣に、炎の色も一段と濃い青に変わった。
「お帰りなさい、お父さま」
大満足だ、と両手の親指を立てて前に出した。
その後もアリマの気が済むまで変な会話はしばらく続いた。炎に関する質問から記憶の話までとりとめもなく喋るアリマの姿は、間違いなく親に好かれたい子供の顔をしていた。話をする中で時々、僕は炎の中に指二本で笑顔の絵文字を描いた。するとアリマも微笑を浮かべて、慈愛に満ちた目で僕を見てくれた。
「罪人が謀反クーデターを起こして陽様から炎を盗んだ!やつを捕まえろ」
周囲の人々が騒然となった。クーデターなんて思いもしなかった、と言い訳しようとしたが、アリマがそれを遮った。
「いけません。陽様がいなくなりました。冷静に考えてタイミングが悪すぎます。ここは一旦、大人しくしていた方がいいと思います」
自分ではさほど危険ではないと信じているのに、他人の目には僕がヨウの炎を奪ったように映るらしいのだ。なるほど僕は、今、ヨウと同じ首なしのバケモノであった。皆の顔には強い懸念が浮かんでいる。アリマが返した表情は厳しかったが、落ち着いて見える。
この状態を打ち破るには、僕の首の上に浮いてるこの炎をまず何とかしないといけなかった。
『炎が問題であれば消せば済む話だ』
僕は半信半疑ながら、まだ木炭化が進んでいる左腕に火を付けた。左手の木炭から立ち上がる赤い炎を、首の代わりに燃えている青い炎へと近づける。人の手に戻った右手で、首の炎を掴むようにして支えながら、左手の炎と触れ合わせた。
お互い違う二種類の炎は化学反応を起こしつつ、やがて一つに重なり合って形が大きくなった。
重い。右手一本では取り落としてしまいそうな気がして、左手でそっと下から支えた。これ以上は限界だ、と思った僕は、この巨大な混炎をどこかに処理する方法を思案し始めた。が、人の手と木炭の手で支えながら考えることはかなりきつく感じた。場内に炎を保管できる場所も道具もない。穴の下に放り投げるのは言うまでもなく論外だ。
中と下が駄目であれば、残った方向は上しかない。僕は両手に力を込めて混炎を支え、天井へ打ち上げる想像を繰り返した。通常、事前練習が求められるけど、今回の件は一発勝負で全てが決まる。できるかできないかより、やるかやらないかの意思の問題だ。
『どうか、よろしく、お願いします!』
炎が完全に僕の手から離れ、天井に穴を開けて勢いよく空高く上がった。夜明けの空に一筋の花火が高く打ち上がり、東京上空から雪雲に吸い込まれ、雪の粉と一緒に混ざって地上に降り出した。薄い紫の炎を含んだ雪は積もることなく、アスファルトの隙間に根を下ろしているものに細やかな温もりを与えた。
僕は両手で混炎を押し上げるようにして放った。炎が完全に僕の手から離れ、天井に穴を開けて勢いよく空高く上がった。夜明けの空に一筋の花火が高く打ち上がり、東京上空の雪雲に吸い込まれていく。
やがて雪雲の中で炎が雪と混ざり合い、薄い紫の炎を含んだ雪となって地上に降り出した。この特別な雪は積もることなく、アスファルトの隙間に根を下ろしている小さな植物に細やかな温もりを与えた。
枯れ衰えた一枚の花は、別のトゲが同じ根からまた新しく芽生えた。とある小さな花は、深い眠りから起きて雪びらが舞い散る夜空を見上げた。そして殆どの炎を空へ噴き出せた僕は、首の部分が顎から段々元の形を取り戻していた。意識が地上から元の体に戻る寸前に、巨樹の枝に一片の雲を落として、いつか東京に訪れる春のために、先に季節の痕跡を咲かせておいた。
街の片隅で、枯れ衰えた茎から新しい芽が出し始めた。とある小さな花は、深い眠りから起きるように花びらを開いて、雪びらが舞い散る夜空に向けて咲いた。
そして殆どの炎を空へ噴き出せた僕は、首の部分が顎から段々元の形を取り戻していた。完全に意識が体に戻る寸前、遠くの巨大な桜の枝に一片の炎を落として、その炎で桜の花を咲かせた。いつか東京に訪れる春のために、先に季節の始まりを告げておいたのだ。
「ただいま、アリマちゃん」
僕は、いささか照れくさい面持ちで挨拶をして、アリマの頭に右手を乗せた。その瞬間、指先に残っていた種火がアリマの髪に移り、ぱっと白い炎となって燃え上がった。慌てて手を振り払うと、炎はすぐに消えたが、アリマの髪は僕と同じ白い色に変わっていた。
二人の間に気まずい沈黙が流れた。アリマは鏡で自分の髪を確かめ、複雑そうな表情で僕を見つめている。僕は何と言えばいいのか分からず、現実逃避のように天井を見上げた。
数十秒が過ぎた頃、アリマが小さくため息をついた。
「お父さま、『ちゃん』付けはお辞めください。もう子供ではありませんから」
優しい叱責の言葉だったが、僕には救いのようにも聞こえた。




